第2話:森の出会い
俺の朝は、発声練習から始まる。
「あー……うー……こ、こん……にちは」
洞窟の壁に向かい、俺は魔導書の余白に書き留めた人間の挨拶を繰り返す。
ゴブリンの言語は、短い唸り声や雄叫びが全てだ。
複雑な音を出すための舌や喉の筋肉が、全くと言っていいほど鍛えられていない。人間の言葉は、まるで馴染みのない楽器を演奏するようなもので、最初は音を出すことすら困難だった。
『これではダメだ。人間社会では第一印象が肝心だと、本にも書いてあったのに』
だが、毎日こうして口を動かしていれば、少しずつ筋肉が慣れてきて、昨日よりは今日、今日よりは明日と、わずかずつだが上達しているのが分かる。
完璧な人間になるためには、完璧な発音が必要不可欠。それに、これは魔法の詠唱練習も兼ねているのだ。正確な発音は、魔法の精度に直結する。
「わ、わたし、は……ヒューマン、たろ……う」
自分の名前すら、まだ流暢には言えない。特に『ろ』の音が舌先で上手く震わせられず、どうにも締まらない。
それでも、この地道な練習のおかげで、簡単な単語や短い文章なら、なんとか相手に意味が通じるレベルにはなってきた……はずだ。
発声練習の後は、魔導書を読み解き、魔法の実践練習に励む。
もちろん、初級治癒魔法が成功したためしはない。手のひらがぼんやりと温かくなるのが関の山で、この間はマナの制御を誤り、持っていたキノコをうっかり炙りキノコにしてしまった。
食事の前には、本で読んだ「祈り」の真似事も欠かさない。
『偉大なる魔導師様、本日も知識という糧をありがとうございます。ヒューマン太郎より』
これもまた、人間らしい高尚な習慣に違いない。
今日は、数日分の食料を確保するため、いつもより少し森の奥へ足を延ばしていた。
最近、森の入り口付近で人間の猟師の気配が濃くなっている。安全のためには、奴らのテリトリーから距離を置くに越したことはない。
人間どもの縄張りとは逆方向。ゴブリンの同族さえ、めったに寄り付かない静かな森。
鳥の声と風の音だけが聞こえる中、俺は慎重にキノコを探していた。
その時だった。
「……うぅ……くっ……」
不意に、か細い声が耳に届いた。
獣の鳴き声じゃない。人間の……それも、子供の声?
『なぜ、こんな場所に人間が?』
全身の毛が逆立つ。
ゴブリンとしての本能が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
『逃げろ』『隠れろ』『見つかるな』と。
俺は即座に近くの茂みへ身を滑り込ませ、息を殺して声がした方角を睨む。
心臓が、嫌な音を立てて脈打っていた。
声は、小さな崖の下から聞こえてくるようだった。
しばらく様子を窺ったが、他に人間の気配はない。どうやら一人らしい。
俺は茂みから茂みへと、音を立てないように移動し、崖の上からそっと下を覗き込んだ。
そこには、一人の少女が倒れていた。
年の頃は、十歳くらいだろうか。村娘らしい素朴なワンピースを着て、栗色の髪が土に汚れている。
近くには編みカゴが転がり、色とりどりの薬草が散らばっていた。
どうやら、足を滑らせて崖から落ちたらしい。少女は片方の足首を押さえ、苦痛に顔を歪めている。
『に、人間だ……』
本物だ。生身の、人間。
それも、助けを必要としている、無力な子供。
俺の中で、二つの感情が激しくぶつかり合い、思考が渦を巻く。
一つは、ゴブリンとしての本能的な恐怖。
人間は敵だ。関わってはいけない。今すぐこの場を立ち去るべきだ。
だが、もう一つの感情が、それを許さなかった。
『……絵本の中の、騎士や魔法使いなら、どうする?』
そうだ。俺が憧れた物語の英雄たちは、困っている人を決して見捨てなかった。
ここで見捨てたら、俺はただの卑鄙なゴブリンだ。絵本に出てきた、英雄に退治される側のモンスターと、何が違うというんだ。
『俺は、人間になりたいんだろう? ヒューマン太郎なんだろう!?』
だったら、どうすべきか。
声をかけるか? なんて言う? 下手なカタコトで、余計に怖がらせたらどうする?
『大丈夫』。その一言が、果たしてこの喉で正しく伝わるだろうか。
いや、そもそも助けたところで、どうなる?
ゴブリンだと分かれば、少女が回復した途端、村の連中を呼びに来るに決まってる。リスクが高すぎる。
だが、このまま放置すれば、いずれ日が暮れて、夜の森は獣たちの狩場になるだろう。
そうなれば、この少女に助かる道はない。
俺のせいで、この少女が死ぬ。見殺しにした、という事実が、これから先ずっと俺を苛むだろう。
それは、俺がなりたい『人間』の姿か?
『違う……! 俺が名乗る『ヒューマン太郎』とは、ただの記号じゃない。人間のように気高く在りたいという、俺の魂の誓いだ。この誓いを、今ここで破るのか!?』
少女のうめき声が、さらに弱々しくなる。
その顔は青白く、額には脂汗が滲んでいた。もう、あまり時間はないかもしれない。
俺は、固く拳を握りしめた。
怖い。正直、足がすくんで動かない。
だけど――。
『ここで逃げたら、俺は一生、ただのゴブリンのままだ』
憧れを、夢を、自分の存在意義を、自分で裏切ることになる。
それだけは、絶対に嫌だった。
俺は深く、深く息を吸い込む。ゴブリンとしての本能が「行くな」と叫ぶのを、人間への意志でねじ伏せた。
意を決して、茂みから姿を現した。
小石を蹴立てないよう、枯れ葉を踏まないよう、慎重に、一歩ずつ、崖下の少女へと近づいていく。一歩進むごとに、心臓が張り裂けそうだった。
あと、数メートル。
俺が近づく気配に気づいたのか、少女がゆっくりと顔を上げた。
そして、栗色の大きな瞳が、俺の姿をはっきりと捉える。
時が、止まった。
少女の瞳が、信じられないものを見るかのように、そして次の瞬間には、絶望的な恐怖に染まって大きく、大きく見開かれていく。
息を呑む音が聞こえた。小さな悲鳴が喉の奥で詰まり、声にならない叫びの形に唇が震えるのを、俺はただ、立ち尽くして見ていることしかできなかった。
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