第18話:意志の形
翌朝、塔の中の空気は、張り詰めた弦のように固かった。
俺は昨夜、ほとんど眠ることができなかった。森に潜む、あの残忍なゴブリンの気配が、俺の神経を逆撫でし続けていたからだ。
『俺が、なんとかしなければ』
先生に「役立ず」と突き放された今、この塔の平穏を守れるのは、俺しかいない。
朝食の席で、エリアス先生はいつもと変わらぬ様子で、硬いパンをスープに浸していた。
だが、食事が終わると、彼は珍しく旅支度のようなものを始めた。
「おい、出来損ない。急用を思い出した」
「急用、ですか?」
「うむ。『月光茸』を採取しにいく。今宵の、しかも月が雲に隠れる、ほんのわずかな時間しか笠を開かん、極めて気難しいキノコでの。半日もあれば戻る」
その言い草は、あまりにもわざとらしかった。
俺がゴブリンの脅威を報告した、まさにこのタイミングで。
これは、先生が俺に課した試練なのだ。
「……お前は留守番じゃ。ワシの蔵書に指一本でも触れてみろ、黒焦げにするぞ」
先生はそう言うと、俺の返事も待たずに、転移魔法のまばゆい光と共に、その場から姿を消した。
広大な塔に、俺、一人。
しん、と静まり返ったホールに、自分の心臓の音だけが響く。
恐怖はあった。だが、それ以上に、俺の胸には「自分がやるしかない」という、悲壮な決意があった。
俺は、待つのではなく、すぐに行動を開始した。
塔の全ての窓と扉の閂を、一つ一つ確認して回る。警報装置として、いくつかの魔法陣を羊皮紙に描き、入り口となりそうな場所に設置した。
そして、武器庫から、一本の古い樫の木の杖を手に取った。気休めにしかならないかもしれないが、それでも、丸腰よりはましだった。
準備を終え、俺が杖を握りしめて塔の中央ホールで待ち構えていると、その時は、思ったよりも早くやってきた。
ガシャン!
塔の上階。俺の寝室にしている、小さな部屋の窓ガラスが割れる音がした!
結界の死角になっている、あの小さな窓。
(なぜわかった!!)
俺は螺旋階段を駆け上がった。
部屋に飛び込むと、そこには月明かりを背にして、一人のゴブリンが立っていた。
引き締まった体に、無数の傷跡。その目に、獲物を見つけた捕食者の、残忍な光が宿っている。
そして、奴は、俺の顔を見るなり、愉しげに、そして忌々しげに、こう言ったのだ。
「(見つけたぞ、裏切り者め)」
その一言で、俺の頭の中で、全てのピースが繋がった。
こいつは、俺を殺すためだけに、あの森から追いかけてきた追手――!
「(あのジジイはいないようだな。好都合だ。貴様のその小賢しい頭を、胴体から切り離して、族長への土産にしてやる)」
スライサーが、ナイフを構えて襲いかかってきた。
俺は、恐怖と罪悪感に震える体を、必死で動かす。
杖を構え、真正面から迎え撃った。
だが、それはあまりにも無謀な選択だった。
スライサーは、俺が振り下ろした杖を、ナイフの柄で軽々と受け止めると、そのまま俺の手首を蹴り上げた。杖が宙を舞い、俺は無防備な体勢を晒してしまう。
「(終わりだ、ペットが!)」
スライサーのナイフが、俺の喉元めがけて閃く。
『シールド!』
咄嗟に叫んだ防御魔法が、光の壁となってナイフを寸前で受け止めた。
火花が散り、俺は衝撃で後方へ吹き飛ばされる。本棚に体を叩きつけられ、咳き込んだ。
戦いは、混沌とした書庫での、絶望的なかくれんぼへと変わっていった。
奴は本棚の上を獣のように飛び移り、俺は床を転げ回りながら、必死で防御魔法を展開する。
本が散乱し、薬瓶が割れ、先生の大事な研究室が、めちゃくちゃになっていく。
『先生の、大切な場所が……! 俺のせいで……!』
罪悪感が、俺の集中力を削いでいく。
「(どうした、裏切り者! 人間の真似事だけでは、本物のゴブリンには勝てんぞ!)」
嘲笑う声と共に、本棚の陰から毒塗りの吹き矢が飛んできた。
俺はそれをなんとか避けたが、体勢を崩し、床に倒れ込んでしまう。
まずい。マナが、もうほとんど残っていない。
スライサーが、ゆっくりと、勝利を確信した足取りで、俺に近づいてくる。
絶体絶命。
朦朧とする意識の中、俺の脳裏に、エリアス先生の言葉が、雷鳴のように響き渡った。
『――貴様の魔法が未熟なのは、意志が足りんからじゃ!』
そうだ。先生は言っていた。
『魔法とは、術者の明確な『意志』と『イメージ』が、マナという粘土をこねて形作る、緻密な芸術だ!』と。
そして、俺に見せてくれた。ただの光の玉が、鋭い針へと変わる、あの光景を。
『意志と、イメージ……』
俺は、最後の力を振り絞り、胸元の『マナの結晶』を強く握りしめた。
アンナを、先生を、この場所を、守りたい。
その想いを、ただの防御じゃない、もっと鋭く、もっと明確な『意志』へと収束させる。
俺のイメージは、一つ。
――無数の、鋭い、光の針。
「(死ね!)」
スライサーが、とどめを刺そうとナイフを振りかぶる。
俺は、手のひらを奴に向け、叫んだ。
『――貫けッ!』
俺の手のひらの上に、いつものような、丸い光の玉が生まれた。
だが、次の瞬間、それは内側から弾けるように、数十、数百の、眩い光の針へと変貌を遂げた!
「なっ……!?」
スライサーが、驚愕に目を見開く。
変幻した光の針は、一つの群れとなって、スライサーへと殺到した。
それは、洗練された魔法ではない。荒々しく、しかし、明確な殺意と意志を宿した、力の奔流。
「ぐっ……ぎゃあああっ!?」
光の針が、スライサーの皮の鎧を貫き、その体を無数に切り刻む。
致命傷ではない。だが、その痛みと、理解不能な魔法への恐怖が、彼の戦意を完全に打ち砕いた。
彼は、傷を押さえ、信じられないという目で俺を見ていた。
そして、忌々しげに舌打ちをすると、「(……覚えていろ、裏切り者め)」と吐き捨て、割れた窓から森の闇へと姿を消した。
後に残されたのは、めちゃくちゃに破壊された部屋と、魔力も体力も使い果たし、床にへたり込む俺だけだった。
荒い息を繰り返しながら、俺は、震える自分の手のひらを見つめる。
勝ったんだ。
俺は、独りで。
先生の教えを、自分の力にすることが、できた。
その実感が、遅れてやってきた。
疲労の底で、俺は、生まれて初めて、自分自身の力で何かを成し遂げたという、確かな手応えを感じていた。
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