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第17話:師の沈黙

 

 森は、何も変わらない静寂を保っているように見えた。


 俺の日常も、塔の掃除と薬草の整理、そして先生による容赦のない魔法修行の繰り返し。平穏、そのものだった。

 だが、俺の心の奥底では、ゴブリンとしての本能が、かすかな違和感を訴え続けていた。


 その違和感が確信に変わったのは、先生に言いつけられて、塔の裏手にある沢へ水を汲みに行った時のことだ。


 いつもなら、鳥のさえずりや、小動物が木々の間を駆け抜ける音で満ちているはずの森が、しんと静まり返っている。まるで、森全体が息を殺し、何かに怯えているかのように。


 俺は警戒しながら、慎重に足を進めた。

 そして、それを見つけた。


 沢へ続く獣道の途中に、一本の細い蔓が、地面すれすれの高さに張られている。

 素人が見れば、ただの植物にしか見えないだろう。だが、俺には分かった。


 これは、罠だ。ゴブリンが仕掛ける、残忍で、狡猾な罠。

 蔓の先は、巧みにしならされた若い木に繋がっている。そして、その木の先端には、黒曜石を砕いて作った、鋭い鏃が何本も固く結びつけられていた。


 『……ゴブリン? この賢者の森に……?』

 まず頭に浮かんだのは、疑問だった。


 エリアス先生は、この森に知性ある生き物は自分以外いないと言っていた。こんな場所に、一体どこから……?


 俺は冷や汗をかきながら、さらに周囲を調べた。

 あった。近くの木の枝に、逆さに吊るされた兎の死骸。


 腹を裂かれ、内臓を引きずり出されている。

 それは、見せしめだ。縄張りを主張するための、野蛮なゴブリンのやり方。


 俺は、自分の中にあったはずの同族という意識ではなく、ただ純粋な恐怖と嫌悪を感じていた。

 危険だ。この森に、俺が憎んで捨ててきたはずの「野蛮」が入り込んできた。


 俺と、そして先生の平穏が、脅かされている。

 俺は水汲み桶もそのままに、塔へと駆け戻った。

 書斎の扉を叩き、許可も待たずに中へ飛び込む。


「先生! 大変です!」

 俺は息を切らしながら、必死に報告した。


「森に……! 森に、ゴブリンがいます! 残忍な罠を仕掛けるような、野蛮なやつです! 危険です!」

 俺は、自分をその「ゴブリン」というカテゴリーから完全に切り離して、そう訴えた。


 エリアス先生は、分厚い魔導書から顔も上げない。

 ページをめくる、乾いた音だけが、やけに大きく部屋に響いた。

 やがて、彼は心底どうでもよさそうに、言った。


「……ほう。ゴブリン、とな」

 先生は、ついに本から顔を上げた。


 だが、その瞳にあるのは、冷たい、値踏みするような光だけだった。

 彼は、俺の頭のてっぺんから爪先までをじろりと見ると、心底不思議そうに、こう言ったのだ。


「それで、お前もゴブリンだろうが。何を言っておるのだ、この役立たずが」


「え……?」

 俺は、先生の言葉が理解できなかった。


「ワシの塔には、すでにゴブリンが一匹おる。それが二匹になったところで、ワシにとって何の違いもない。同族の揉め事に、いちいちワシを巻き込むな」


「ち、違います! 俺は、あんな奴らとは……!」


「違わん。お前も奴も、ゴブリンだ」

 エリアスの言葉は、無慈悲な刃となって、俺の胸に突き刺さった。


 俺がどれだけ人間の言葉を学んでも、魔法を修行しても、この男の前では、俺は森で残虐な罠を仕掛ける同族と、何ら変わらない「ゴブリン」という一つのカテゴリーでしかないのだ。


「……黙ってないで、さっさと夜見草の根を整理しろ。湿気る前にやらねば、貴重な薬効が落ちるわ」

 先生はそれだけ言うと、再び本の世界へと戻ってしまった。


 会話は、終わりだった。

 俺は、書斎の扉の前で、呆然と立ち尽くした。


 見捨てられたという絶望よりも、もっと深く、冷たい感情が、俺の心を支配していた。

 屈辱だ。


 『……ああ、そうか』

 全て分かった。


 先生は、試しているんじゃない。ただ、興味がないだけだ。

 ゴブリン同士がどうなろうと、彼の研究の邪魔にさえならなければ、知ったことではない。


 そして、この問題を解決できるのは、俺しかいない。

 俺が、あの森のゴブリンを排除しなければ。

 俺が、「ただのゴブリンではない」ことを、証明しなければ。


 俺は書斎を後にすると、自分の部屋には戻らず、塔の武器庫(という名の、ガラクタ置き場)へと向かった。


 足音一つ立てないように、石の床を歩く。

 遠くの書斎から、先生が魔導書のページをめくる、乾いた音だけが聞こえてきた。


 壁に立てかけてあった、古い樫の木の杖を、指が白くなるほど強く、しかし物音一つ立てずに握りしめる。


 もう、ただの雑用係でも、ただの生徒でもない。

 俺は、この塔の、たった一人の守護者になるのだ。

 自分の心臓の音だけがやけに大きく響く静寂の中、俺は独りの戦いの準備を始めた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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