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第16話:狩人の流儀

 

 街での一件から、数週間が過ぎた。


 俺の生活は、塔での修行と雑用という、単調だが密度の濃いものになっている。

 あの日の出来事は、俺の心に深い傷と、そして、より強固な決意を刻みつけた。


 エリアス先生の指導は、以前にも増して厳しい。まるで、俺の甘い理想を叩き直すかのように、彼は魔法の本質――すなわち、世界の残酷なことわりそのものを、俺に叩き込んでくる。


「いいか、出来損ない。魔法とは、意志の力じゃ。お前の意志が弱ければ、どれほど強い魔力を持とうと、現象を捻じ曲げることはできん。そして、意志の弱い者は、食われる。この世界の、単純な法則じゃ」

 俺は、食い入るように先生の言葉を聞き、来る日も来る日もマナを練り、魔法理論を頭に詰め込んだ。


 アンナに会うために。そして、二度と誰にも、ただ「ゴブリン」であるというだけで、屈しないために。


 先生は相変わらず俺を「出来損ない」と呼ぶが、その言葉の裏に、ほんのわずかな期待が滲んでいるのを、俺は感じ始めていた。

 

***


 その頃、故郷の森から遥か離れた荒野を、一人のゴブリンが疾駆していた。

 彼の名は、ゴブリン・スライサー。


 族長が、裏切り者を抹殺するために差し向けた、最も狡猾で、最も残忍な追跡者だった。

 彼が信じるのは、己の五感と、大地に残されたかすかな痕跡だけだ。 


 出発点となった俺の洞窟で、スライサーは獲物の特異性を正確に分析していた。

 残された石鹸のかすかな匂い。丁寧に掃き清められた床。そして、石板に残された、意味不明な模様の羅列。


『……ただのゴブリンではない。人間の真似事をする、小賢しい獲物だ』

 彼は、俺が森を去った日に残した、かすかな足跡を見つけ出した。


 そこから、何ヶ月にも及ぶ、執拗な追跡が始まったのだ。

 彼は、俺が越えたであろう山々を越え、俺が渡ったであろう川を渡った。


 雪に閉ざされた山中で、俺が寒さをしのぐために使った、古い獣の巣穴を見つけ出す。

 春先のぬかるみで、ほとんど消えかかった俺の足跡の、わずかな窪みを発見する。


 俺が魚を捕って食べた川辺で、小さな骨と、焚き火の冷たい灰を見つけ、獲物がまだ生き延びていることを確信する。


 スライサーの追跡は、もはや執念の域に達していた。

 彼は、獲物の「思考」を読んでいた。


『奴は人間を恐れている。街道は使わん。森から森へ、獣道を縫うように移動しているはずだ』


『奴は知恵がある。罠を警戒し、水場を頻繁に変えるだろう』

 そしてついに、追跡は賢者の森へとたどり着いた。


 普通のゴブリンなら、その濃密な魔力と不気味な雰囲気に恐れをなして引き返すだろう。

 だが、スライサーの愉悦は、むしろ増していた。


 獲物が、これほどまでに面白い場所に逃げ込んでくれたのだ。狩りの舞台として、これ以上の場所はない。

 

***


 その夜。

 俺は、塔の最上階にある展望室の窓から、遠くの空を眺めていた。

 雑用も、今日の修行も、全て終わった後。この時間だけが、俺が唯一、『ゴブスケ』に戻れる時間だった。


 南東の方角。

 故郷の森と、アンナの村があるはずの方角。

 もちろん、ここから見えるはずもない。だが、そうせずにはいられなかった。


 俺は胸元から、『マナの結晶』を取り出す。

 石は、俺の想いに応えるように、手のひらの上で、蛍のように柔らかく光った。


 『アンナ……元気にしてるかな』

 街での出来事を思い出す。


 あの剥き出しの憎悪。俺がゴブリンであるという、ただそれだけの事実が、全てを塗りつぶしていく。

 今の俺が村に戻っても、アンナを幸せにするどころか、きっとまた、不幸に巻き込んでしまうだけだろう。


 だから、強くならなければ。

 誰にも文句を言わせないくらい、圧倒的な力と知恵を身につけなければ。

 そしていつか、胸を張って、君の名前を呼べるように。


 俺が、アンナとの約束を胸に刻み、決意を新たにすると、静かに部屋に戻っていった。

 明日も、厳しい修行が待っている。


 俺が立ち去った後の展望室。

 その隣の書斎で、エリアスは分厚い魔導書を読んでいたが、ふと顔を上げた。 


 彼の机の上に置かれた、小さな水晶玉。それが、ほんの一瞬だけ、微かに赤く明滅したのだ。

 それは、塔の周囲に張られた結界に、魔力を持たない侵入者が触れたことを示す警告だった。


 エリアスは、水晶玉を一瞥すると、何も言わずに、再び本に目を落とした。

 だが、その口元には、かすかな、そしてどこか愉しげな笑みが浮かんでいた。


 『……ふん、小物が紛れ込んだか。さて、ワシの出来損ないは、どこまでやれるかのう』


 その頃。

 賢者の森の入り口で、ゴブリン・スライサーは、天を突く塔のシルエットを、月明かりの下で睨みつけていた。


 空気が、魔力で満ちている。不愉快な場所だ。

 だが、それ以上に、彼の鼻腔をくすぐる、懐かしい匂い。


 獲物の匂い。


 裏切り者の匂い。


 スライサーは、狩りの始まりを告げるように、舌なめずりを一つすると、音もなく、森の闇へとその身を溶け込ませていった。

 平和な時間は、もう、終わりを告げようとしていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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