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第15話:はじめての街、はじめての偏見

 

 塔での修行が始まってから、季節がまた一つ変わろうとしていた。


 エリアス先生の理屈っぽい授業と、終わりのない雑用のおかげで、俺の魔法の腕は飛躍的に上達していた。


 マナをただ光らせるだけでなく、明確な意志を持って形作ること。その本当の意味を、俺は理解し始めていた。


 そんなある日、先生が唐突に言った。


「おい、出来損ない。街へ行くぞ。準備しろ」


「えっ、街……ですか?」


「ワシの安眠薬の材料が切れた。貴重な『夢見草の根』は、この時期、腐海森の奥深くまで行かねば手に入らんが……麓の商業都市の市場なら、たまに出回ることがある。後者の方が、圧倒的に楽じゃろうが」

 先生は、心底面倒くさそうに言った。


 人間の街。

 その響きに、俺の心臓は期待と恐怖で大きく跳ねた。


 アンナのいた村とは違う、もっと大きな人間の世界。俺がずっと憧れていた場所。しかし、ゴブリンである俺にとっては、竜の巣に足を踏み入れるような、危険極まりない場所でもある。


「……ですが、俺は……」


「案ずるな」

 先生は、分厚く、フードの深い旅人用のローブを俺に放り投げた。


「それを着て、決して脱ぐな。話しかけられても、決して喋るな。いいな、出来損ない」

 俺は、ずっしりと重いローブを握りしめ、覚悟を決めて頷いた。


 半日ほど歩き、森を抜けると、それは姿を現した。

 石造りの頑丈な壁に囲まれ、多くの家々の屋根がひしめき合い、煙突からは無数の煙が立ち上っている。

 生まれて初めて見る、人間の「街」。


 衛兵が立つ大きな門を、先生は何食わぬ顔で通り過ぎる。俺は心臓が口から飛び出しそうになるのをこらえながら、必死でフードを目深にかぶり、師の後に続いた。


 街の中は、喧騒と活気に満ち溢れていた。


 石畳の道を行き交う、大勢の人間たち。肉を焼く香ばしい匂い、パンの焼ける甘い匂い。鍛冶屋が鉄を打つ甲高い音、広場で歌う吟遊詩人の陽気な歌声、走り回る子供たちのはしゃぎ声。


 その全てが、俺がこれまで生きてきた静かな森の世界とは、あまりにも違っていた。


 『すごい……』

 これが、人間が作り上げた文化。


 俺が、ずっと焦がれてきた光景。

 俺は俯きながらも、フードの隙間から、夢中でその光景を目に焼き付けた。


 中央市場は、さらに人でごった返していた。

 先生が目当ての薬草を扱う店を探し、商人と理屈っぽい値引き交渉を始める。俺は言いつけ通り、少し離れた場所で、壁際に寄りかかって気配を殺していた。


 その時だった。


「うわっ!」

「きゃっ!」


 広場を駆け回っていた人間の子供が、俺の足に気づかず、勢いよくぶつかってきた。


 俺は不意を突かれて体勢を崩し、大きくよろめく。

 そして、最悪なことに――深く被っていたフードが、その勢いで滑り落ちたのだ。


 緑色の肌。尖った耳と鼻。

 ゴブリンの特徴的な容姿が、白日の下に晒される。

 一瞬だった。

 だが、その一瞬で、全てが変わった。


「い、いやあああああっ! ゴブリンよ!!」

 子供の母親の悲鳴が、引き金だった。


 さっきまでの陽気な喧騒が、嘘のように静まり返る。

 俺の周囲だけ、ぽっかりと空白ができた。

 好奇心、侮蔑、恐怖、そして、剥き出しの憎悪。

 数十の瞳が、一斉に俺へと突き刺さる。


「殺せ!」「街にゴブリンだぞ!」

 誰かが叫び、市場の警備をしていた屈強な男たちが、剣の柄に手をかける。


 俺は、恐怖で体が凍りつき、声も出せずに立ち尽くすしかなかった。

 絶望が、俺の心を覆い尽くそうとした、その時。


「――やかましい」

 先生の、低く、しかし不思議とよく通る声が響き渡った。


 先生は、一度天を仰ぎ、こめかみを押さえながら振り返ると、俺の肩にポンと手を置いた。


「騒ぐな、下衆ども。これはワシの使役魔ファミリアだ。ワシの管理下にある」

 その堂々とした宣言に、剣に手をかけていた男たちの動きが、ぴたりと止まった。

 広場が、今度は困惑のさざめきに包まれる。


「し、使役魔だと……?」


「ゴブリンを使役……? そんな魔法、聞いたことがあるか?」


「一体どこの魔法使いだ……狂っているのか?」

 人々の感情が、「殺意」から「理解不能なものへの戸惑い」へと変わっていく。


 先生は、ローブの胸元に付けた、高名な魔術師ギルドの紋章をこれ見よがしに見せつけ、追い打ちをかける。


「ワシの研究の邪魔をするというのなら、相応の覚悟はできておるのだろうな?」

 その凄みに、誰もがたじろいだ。


 警備の男たちも、これ以上は関わるまいと、ばつが悪そうに剣から手を離す。


「行くぞ、出来損ない! 貴様のせいで、余計な手間が増えたわ!」

 先生は俺のローブの襟首を鷲掴みにすると、まだ呆然としている俺を引きずるようにして、足早にその場を立ち去った。


 街の門を出て、森へ続く道を歩く。

 夕日が、俺たちの影を長く、長く伸ばしていた。


 重い沈黙を破ったのは、先生だった。

 その声には、いつものような揶揄の色はなく、ただ、ひどく疲れたような響きがあった。


「……そしてあれが、人間というものじゃ、出来損-ない。奴らは、己の知らんものを恐れ、恐れたものを、破壊する」

 先生は、ちらりと俺を見て、続けた。


「だがな、奴らは同時に、己より強い『権威』や『常識』には、いとも容易く屈する。ゴブリンは殺す対象だが、『高名な魔法使いの使役魔』という、奴らの理解の範疇にある、より大きな『常識』の前では、思考を停止する。……哀れで、そして利用しやすい習性よな」

 俺は、自分の緑色の手を見つめた。


 屈辱と、そして、命を救われたという奇妙な安堵が、胸の中で渦巻いていた。

 俺は今日、人間社会で生きる術を、一つ学んだ。


 それは、ありのままの「ゴブスケ」として受け入れられることではない。

 誰かの「弟子」や「使役魔」という役割ラベルを与えられて、初めて存在を許されるという、あまりにも歪んだ現実だった。


 人間とゴブリンの架け橋になる。

 その道が、俺が想像していたよりも、遥かに、遥かに険しいものであることを、俺は初めて、本当の意味で理解した。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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