第12話:賢者の塔と気難しい魔法使い
「賢者の森」。
その言葉だけを道しるべに、俺の新たな旅が始まった。
だが、広大な世界の中で、一つの森を見つけ出すのは容易なことではなかった。
俺はまず、人間たちが利用する街道の近くに潜み、情報を集めることにした。
街道を見下ろせる崖の茂みに身を隠し、眼下を通り過ぎる商人たちの会話に、全神経を集中させる。ゴブリンの優れた聴力が、今は唯一の武器だ。
『――おい、この先は道が悪いぞ。日が暮れる前に次の町に着きたいもんだ』
『ああ。特に三ツ首山に近づくにつれて、物騒になるからな』
『三ツ首山の向こうは、あの気味の悪い「賢者の森」だ。まともな人間は誰も近寄りゃしねえよ』
三ツ首山の向こう。大きな手がかりだ。
俺は数日かけて、別の街道筋にある人間の村に近づいた。夜、酒場の裏手にあるゴミ捨て場に身を潜める。食料の残りカスを探すためでもあったが、本当の狙いは窓から漏れ聞こえる酔っ払いたちの噂話だ。
『――で、聞いたかよ? 隣村の猟師が、ゴブリンに娘を誑かされたって話』
『ああ、聞いた聞いた! 魔法を使うゴブリンだったとか! とんだお伽噺だな!』
俺のことだ。
噂は、俺が思っているよりもずっと遠くまで届いているらしい。背筋に冷たい汗が流れた。
『そんな化け物がうろついてるなら、なおさら賢者の森なんかに近づけねえな』
『三ツ首山を越えた先にある、あの呪われた森か。全くだ。ゴブリンよりタチの悪い、ひねくれ者の魔法使いが住んでるって話じゃねえか』
間違いない。
俺は必要な情報を手に入れると、すぐにその場を離れた。
そこからの旅は、まさしく死線を超えるようなものだった。
三ツ首山は、その名の通り、三つの険しい頂を持つ岩山だ。道なき道を、鋭い岩肌に手足を切り裂かれながら登っていく。食料はとうに尽き、雪解け水をすすり、かろうじて生えていた苔を口にして飢えをしのいだ。夜は凍えるような寒さが容赦なく体力を奪っていく。
何度も心が折れそうになった。
だがそのたびに、俺は胸元で温かい光を放つ『マナの結晶』を握りしめた。
『アンナ……』
彼女の笑顔を思い出す。
ここで諦めたら、もう二度とあの笑顔には会えない。俺は歯を食いしばり、一歩、また一歩と、足を前に進めた。
そして、旅立ちから一月以上が過ぎた頃。
ボロボロに擦り切れたローブをまとい、痩せこけた俺は、ついに目的地の入り口へとたどり着いた。
賢者の森は、その名の通り、異質だった。
一歩足を踏み入れた瞬間から、空気が違う。濃密なマナが霧のように立ち込め、肌をピリピリと刺激する。木々はどれも巨人のように天を突き、見たこともない形の花が、淡い光を放っていた。
ここは、世界から忘れられた、魔法そのものが生きている場所。
『すごい……』
俺は、畏怖と興奮が入り混じった気持ちで、森の奥へと進んでいった。
ここは、ゴブリンを害獣と罵る猟師も、俺を裏切り者と呼ぶ同族もいない。ただ、純粋な魔力だけが満ちている。
どれくらい歩いただろうか。
鬱蒼と茂る木々の向こうに、俺はそれを見つけた。
空に向かって、一本の槍のように突き立つ、古びた石造りの塔。
蔦が絡まり、所々が崩れているが、その姿は圧倒的な存在感を放っていた。
『ここだ……!』
ここに、俺が求める何かがある。俺を強くしてくれる何かがあるに違いない。
俺は逸る心を抑え、慎重に塔へと近づいた。
塔には、扉らしきものが見当たらない。ただ、滑らかな石の壁が続いているだけだ。
「……どうやって入るんだ?」
俺は壁にそっと手を触れてみた。石の表面は、不思議と温かい。
そう感じた、瞬間だった。
「!」
足元の地面に、突如として青白い魔法陣が浮かび上がった!
しまった、罠か!
そう思った時にはもう遅い。魔法陣から放たれた光のロープが、俺の体中に絡みつき、身動き一つ取れないように固く締め上げた。
「ぐっ……! なんだ、これは……!」
俺はもがいたが、光のロープはびくともしない。それどころか、俺が力を入れるたびに、さらに強く体を締め付けてくる。
その時だった。
俺の目の前の、何もない空間が、陽炎のように揺らめいた。
そして、一人の老人が、まるで最初からそこにいたかのように、すっと姿を現した。
長く白い髭をたくわえ、夜空のように深い色のローブを纏っている。その瞳は、年の割には鋭く、まるで俺の全てを見透かすかのようだった。
「……何だ、これは」
老人は、光のロープに捕らえられた俺を一瞥した。深い溜息を一つ吐き、眉間の皺をさらに深くして、かすれた声で呟いた。
「ただの、汚いゴブリンではないか。結界に触れたのが、こんな小物とは。手間をかけさせおって」
間違いない。この老人が、この塔の主。
本物の、魔法使い……!
俺は恐怖と、それ以上にわずかな希望を込めて、必死に声を張り上げた。
「ま、待ってくれ! 俺は、敵じゃない!」
「……ほう?」
ゴブリンである俺が言葉を話したことに、老人は初めて少しだけ興味を示したように、眉を上げた。
「俺は……勉強、したい! ま、魔法を!」
俺のカタコトの訴えを聞き、老人は「ふん」と鼻を鳴らした。
「魔法だと? ゴブリンふぜいが、魔法を学ぶだと? 笑わせるな。身の程を知れ、出来損ないが」
その侮蔑に満ちた言葉に、俺の心は冷水を浴びせられたように冷たくなった。
やはり、ダメなのか。人間は、ゴブリンというだけで、こうも……。
諦めかけた俺の胸元で、アンナにもらった石が、温かい光を放った。
『……いや、まだだ!』
俺は諦めない。諦めるために、ここまで来たんじゃない。
「ほんとだ! 俺、マナ、感じる! 使える!」
「……ほう。威勢だけはいいようじゃな」
老人は、杖の先を俺に向けた。
「ならば、その言葉が真実か、このワシが見てやろう」
杖の先から放たれた柔らかな光が、俺の体を包み込む。それは、俺の魔力の流れや、質を調べているようだった。
老人は、しばらく無言で俺を調べていたが、やがてその鋭い目が、俺の胸元で光る石に気づき、ぴたりと止まった。
そして次の瞬間、彼の目が、信じられないものを見るように、カッと見開かれた。
「なっ……!? その石は……『マナの結晶』!? なぜゴブリンごときが、ワシが若い頃に無くしたはずの、最高純度の結晶を……!」
彼の表情から、面倒くさそうな侮蔑の色が、完全に消え失せていた。
そこにあるのは、希少な研究対象を前にした、学者の獰猛なまでの探究心。
老人は、光のロープに捕らえられたままの俺を、頭のてっぺんから爪先まで、舐めるように見た。
その目はもう、俺を汚い小物としては見ていない。
未知の現象、解明すべき謎、そして、利用価値のある極上のサンプルとして、見ていた。
「……面白い」
老人の口元に、三日月のような、不気味な笑みが浮かんだ。
「実に、面白い。確かに面白いぞ。言葉を話すゴブリン。そして、ワシの『マナの結晶』を持つ」
俺の運命が、俺の意思とは全く関係のない場所で、大きく動き出そうとしている。
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