第11話:旅立ちと世界の壁
あの夜、アンナと別れてから、季節は一度巡った。
俺は、故郷の森を遠く離れ、見知らぬ土地を一人で歩き続けている。
『もっと強く、もっと賢くなる。そして、いつか胸を張って彼女の元へ帰るために』
その一心で、俺は旅を続けていた。
道中は、過酷の一言に尽きる。
俺は擦り切れたローブで全身を覆い、顔がばれないように、常に深くフードを目深に被っていた。
腰には水袋と、なけなしの食料を入れた革袋。そして胸元には、二つの宝物を大切にしまい込んでいる。アンナがくれた『マナの結晶』と、俺の師である『初等魔導緒論』だ。
この石が温かく光るたび、俺はアンナの笑顔を思い出し、何度心を奮い立たせたか分からない。
だが、現実は厳しかった。
旅に出て一月も経つと、蓄えていた食料は底をついた。
ゴブリンとしての本能が、近くの村から食料を「盗め」「奪え」と、甘く、そして力強く囁きかけてくる。空腹は、いとも簡単に理性を麻痺させようとするのだ。
『……ダメだ』
俺はその誘惑を、何度も首を振って振り払った。
『俺はもう、奪うだけのゴブリンじゃない。アンナに顔向けできなくなる』
俺は川で魚を手づかみで捕まえ、食べられる草の根をかじって、必死に飢えをしのいだ。
一人、冷たい焚き火の前で泥のついた根をかじりながら、アンナが分けてくれたパンの、あの優しい甘さを思い出して、胸が締め付けられるように切なくなった。
孤独と飢えだけではない。この世界が、いかにゴブリンという種族に厳しいかを、俺は身をもって知ることになった。
ある日の昼下がり、川辺で水を飲んでいた時のことだ。うつむいた拍子にフードがずれ、俺の緑色の肌と尖った耳が露わになってしまった。
運悪く、そこに通りかかったのは、二人組の人間の猟師だった。
「!」
目が合った瞬間、猟師たちの顔が驚愕から憎悪へと一瞬で変わるのを、俺は見た。
「ゴブリンだ!」
「こんな場所まで出てきやがったか、害獣め!」
俺は慌てて、練習してきた言葉で弁解しようとした。
「ま、待て! おれは、なにも……!」
だが、俺のカタコトの言葉など、彼らの耳には届いていなかった。
彼らは問答無用で弓を構え、俺に向かって矢を放ってきたのだ。
風を切る鋭い音。俺は咄嗟に地面を転がり、矢を避ける。
二本目、三本目が、すぐ側の大地に突き刺さった。
《シールド》を唱える余裕すらない。
「話を聞いてくれ!」
その心の叫びは、彼らの「死ね!」「汚らわしい!」という罵声にかき消された。
俺はただ、生きるために、森の中を転がるように逃げ惑うしかなかった。
あの夜、バルトが見せてくれた、ほんのわずかな理解の兆し。
それが、この世界ではどれほどの奇跡だったのかを、俺は今更ながらに痛感していた。
この世界では、俺は「ゴブスケ」ではない。ただの、駆除されるべき「ゴブリン」なのだ。
どれだけ走っただろうか。
追っ手をなんとか振り切り、俺は古い岩屋に転がり込んでいた。
身体は泥と擦り傷だらけ。心は、それ以上に傷ついていた。
『今の俺では、何もできない……』
自分の無力さが、骨身に染みる。
強くならなければ。賢くならなければ。
このままでは、アンナの元へ帰ることすら、夢のまた夢だ。
俺は胸元から、アンナにもらった『マナの結晶』を取り出した。
石は、俺の絶望に呼応するように、これまでで一番強く、温かい光を放った。
その光を見つめていると、アンナの「また、会える?」という声が、耳の奥で蘇る。
『……まだ、終われない。終わらせるものか』
俺は涙を拭うと、もう一つの宝物、『初等魔導緒論』を取り出した。
これまで何度も読み返したページを、もう一度、必死に読み解いていく。
今の俺に必要なのは、力だ。誰にも屈しない、本物の魔法の力が。
そして、巻末の注釈の中に、これまで見過ごしていた記述を見つけた。
『――真理を探究する者は、賢者の森を目指すが良い。そこには、古の魔力が今なお息づいている』
「賢者の森……」
俺は、その地名を小さく呟いた。
傷ついた体を引きずりながらも、俺は岩屋を出る。
彼の目には、もう絶望の色はなかった。明確な目標を見据えた、強い光が宿っている。
「賢者の森へ、行こう」
新たな目的地へ向かって、俺は再び歩き始めた。
アンナ、見ていてくれ。
俺は、もっと強くなる。必ず。
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