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第10話:ゴブリンが歩む道

 

「……やめろ」

 俺の、カタコトで、震える声。


「……!?」

「なっ……今の声は……」

「ゴブリンが……喋った……のか?」

 猟師たちの間に、さざ波のような動揺が走る。


 バルトは、弓を構えたまま、信じられないものを見る目で俺を凝視した。獣の唸り声ではない。意味のある、人間の言葉。その事実が、彼の憎悪に満ちた思考に、無視できない混乱の楔を打ち込んだのだ。


 一方、ゴブリンたちは言葉の意味を理解できず、「グァ?(何だ?)」と戸惑いの声を上げるだけだった。

 だが、人間の集団が明らかに動揺している様子を見て、何かが起きたことは察知していた。


 俺は、まず族長に向き合った。そして、ゴブリンの古い作法に則り、胸を拳で二度叩いた。「話がしたい」という意思表示だ。

 族長の動きが一瞬止まる。その隙に、俺は彼らの言葉で語りかけた。彼ら、そして俺の母語。奴らに通じる唯一の言葉。


 ゴブリンの言語は、複雑な感情や思想を伝えるのには向いていない。だが、必死に説得を試みた。


「(族長、聞け! 人間どもの罠じゃない、ただの勘違いだ! ここで戦えば、無傷では済まない! 森にはもっと楽な獲物がいるだろう! 無駄な血を流すな!)」

 俺の説得に、族長は一瞬、明らかに動揺した。


 その瞳に、ほんのわずかに理性の光が宿ったように見え。

 だが、それも束の間。裏切り者への怒りと、群れの前で体面を汚された支配者のプライドが、すぐにその理性を塗りつぶした。


「(小賢しい口を利くなァッ、裏切り者がァッ!)」

 族長は巨大な棍棒を振り上げ、俺に襲いかかってきた。それと同時に、バルトが矢を番える気配を肌で感じる。


 もう、選択の余地はない。


「――シールド!」

 今まで一度も成功したことのないシールド。俺の前にまばゆい光の壁が展開された。

 族長の棍棒が、甲高い音を立てて光の壁に弾かれる。


「「「なっ……!?」」」

 その光景に、ゴブリンも、人間も、誰もが驚愕に目を見開いた。

 特にバルトの衝撃は大きかった。


「ま、魔法だと……!?」

 バルトは、信じられないものを見る目で呟いた。


「ばかな、ゴブリンが魔法を使うなど、聞いたことがないぞ……!」

 彼の常識が、目の前で音を立てて崩れていく。


 混乱が、一瞬、憎しみを上回った。

 だが、彼はすぐに我に返る。


「……だが、それがどうした! どんな手を使おうと、化け物は化け物だ!」

 バルトは自らを奮い立たせるように叫び、再び弓を引き絞り、矢を放とうとした、その時だった。


「お父さん、やめてぇっ!」

 森の茂みから、アンナが飛び出してきた。


 彼女は一直線にバルトの元へ駆け寄ると、その腕に必死にすがりついた。


「アンナ! なぜここに! 危ない、離れろ!」

 娘の突然の登場に、バルトの動揺が走る。


「ゴブスケは悪くない!」

 アンナは泣きながら、必死に訴えた。


「私が崖から落ちて動けなかった時、助けてくれたのはゴブスケなの! さっきだって、別の悪いゴブリンから、私を守ってくれたんだよ!」

 アンナの必死の訴え。


 それは、憎しみで凝り固まっていたバルトの心に、わずかな疑念の波紋を広げた。


「……どういう、ことだ……?」

 俺は、アンナが作ってくれた、その一瞬の好機を逃さなかった。

 彼女の勇気に、応えなければ。


 俺はシールドを解くと、武器になるようなものは何も持っていないことを示すように両手を広げた。

 そして、ゆっくりと、その場に膝をついた。


 頭を垂れ、完全に無抵抗の意思を示す。命を、バルトの判断に委ねたのだ。

 バルトは、弓を構えたまま葛藤していた。


 目の前で、完全に命を預ける形で膝をつくゴブリン。

 腕の中で、そのゴブリンを庇って泣きじゃくる娘。

 脳裏に蘇るのは、森で見た、娘とこのゴブリンが和やかに過ごしていた、信じがたい光景。


 こいつは本当に、ただの邪悪な魔物なのか……?

 引き絞られていた弓の弦が、バルトの震える指から、ミリ単位で緩んでいく。キリキリと弦が軋む音が、森の静寂に響いた。やがて、その動きは止まり、弓は力なく下ろされた。


 族長は、目の前の奇妙な状況に完全に混乱し、これ以上の戦闘は不利だと本能で悟ったのだろう。


「……グルァ!(退くぞ!)」と忌々しげに俺を睨みつけると、部下たちを率いて森の闇へと消えていった。


 そして。


「バルトさん!?」

「いいんですかい!?」

 猟師たちがざわめくが、バルトは「俺の判断だ」と短く言って彼らを制した。


 そして、重い沈黙の後、膝をついたままの俺に告げた。

「……今日は、見逃してやる。だが、二度と娘の前に姿を現すな。村に近づけば、次はないと思え」

 それは、和解ではなかった。だが、その声から、もう殺意は消えていた。


 俺は、静かに頷き、立ち上がった。

 その言葉を聞いて、アンナが父親の腕から離れ、俺の元へと駆け寄ってきた。


「ゴブスケ……行っちゃうの?」

 アンナが、涙を浮かべて俺の服の裾を掴む。


 俺は、彼女の頭をそっと撫でた。そして、俺が知っている限りの言葉で、精一杯の想いを伝える。


「……アンナ。ありがとう」

 その言葉に、猟師たちが再び「やはり喋っている…」と息を呑む。


 俺は、彼らの驚きを背中に感じながら、続けた。


「俺、行く。もっと、勉強する。つよく、なる」


「待って!」

 アンナは涙を拭うと、首にかけていた小さな革袋から、何かを取り出した。

 それは、彼女の母親の形見だと以前話してくれた、手のひらサイズの、淡く青白い光を放つ石だった。


「これ、ゴブスケにあげる」

 彼女は、その石を、俺の緑色の手のひらに、ぎゅっと握らせた。


「お守りなの。これがあれば、きっと大丈夫だから。だから……」

 彼女の声が、再び涙で震える。


「……だから、必ず、帰ってきて。約束だよ」

 手のひらの石が、俺の心臓の鼓動と呼応するように、温かい光を宿す。


 俺は、その光と、アンナの涙で濡れた顔を、交互に見つめた。

 そして、力強く、何度も頷いた。


「……いつか、また……会える」

 バルトは、娘とゴブリンが、カタコトながらも確かに言葉を交わし、形見の石まで手渡すという信じがたい光景を、固唾を飲んで見つめていた。


 彼の眉間の皺は深いままだが、その瞳には純粋な驚きと、理解を超えたものへの戸惑いが浮かんでいる。


『こいつは、本当に……ただの魔物ではないのかもしれん』

 その事実が、彼の頑なな心を、静かに溶かしていくのを、バルト自身が感じていた。


 俺はバルトと猟師たちに、人間式に深く一礼した。

 そして、最後にアンナに手を振ると、一人、夜の森へと歩き出した。


 人間になる、という夢は、もう追いかけない。

 俺は、ゴブリンの俺を「ゴブスケ」と呼んでくれた、たった一人の少女のために。


 俺は、俺だけの道を、歩き始めたのだ。


 『アンナ、ごめん。今は、まだ君のそばにはいられない』

 俺がこの森に留まれば、アンナに更なる迷惑をかけるだけだ。


 俺の存在が、彼女と父親の心に、消えないわだかまりを残してしまう。そして、憎しみを募らせた族長が、再び村を狙う口実にもなりかねない。


『君を守るためには、今は、ここを去るしかないんだ』

 それに、このままではダメなのだ。


 もっと強く、もっと賢くならなければ。

 本物の魔法を学び、世界を知り、いつか胸を張ってアンナの前に帰ってこられるような、そんな立派な「ゴブスケ」になるために。


『だから、行くよ。この旅は、決して逃げるためじゃない。君にもう一度会うための、始まりなんだ』

 誰も、俺を追ってはこなかった。


 アンナは、父の隣で、俺の背中が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けていた。


 彼女が強く握りしめた手の中で、俺があげた光る石が、未来を照らす道しるべのように、温かく輝いていた。

 物語は、まだ始まったばかりだった。



第一部 完


 

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