第1話:ゴブリンと魔導書とヒューマン太郎
新作です。
毎朝7時30分頃に更新します。
今日は5話までの投稿を予定。
俺はゴブリンだ。
名前はまだない…と言うか、ゴブリンに名前なんてものは普通はない。
まあ、それはそこらのアタマの悪い同族の話に過ぎないのだが。
奴らは個体を識別するのに「デカいやつ」だの「片目の」だので満足している連中だからな。
だが俺は違う。
人間を目指す俺が、名無しでいるわけがないだろう。
だから、俺は自分で名前を付けた。
ゴミ捨て場から拾った本を読み漁り、人間文化を研究し尽くした俺が考え出した、最高の名前を。
その名も――『ヒューマン太郎』!
『人間』という最高の響きと、人間の代表的な名前『太郎』の組み合わせ。
我ながら、これ以上なく知的で素晴らしいネーミングセンスだと自負している。
さて、そんな俺、ヒューマン太郎の住処は、奴らの縄張りから少し離れた森の洞窟にある。
ジメジメした土と獣の骨が転がる不潔な巣穴とはワケが違うのだ。入り口には蔦のカーテン、床は掃き清めてあり、間違いなく快適空間と言えるだろう。
洞窟の奥。平らな岩を机に見立て、俺は今日も『師匠』と向き合っていた。
師匠の正体は――一冊の魔導書、『初等魔導緒論』。
こいつは喋りはしないが、ことあるごとに俺を小馬鹿にしてくる気がする。
「この程度も理解できぬのか?」と突きつけるような難解な文章。
「諦めるがいい」と言わんばかりの細かい文字。
……そう、俺の師匠は無言の圧で弟子を追い詰めるタイプだ。
『人間は、なんと素晴らしい……』
ページに記された世界の法則、論理的な文章、そして万物に宿る力――マナを操る『魔法』の体系。
本能のままに生きる同族とは、何もかもが違っていた。
そもそも、俺がこうして人間という存在に焦がれるようになったのには、忘れられないきっかけがあった。
あれはまだ、俺が今よりずっと小さかった頃の話になる。
食料を盗むために、他のゴブリンたちと人間の村へ忍び込んだ、そんな夜のこと。
他の奴らが残飯や家畜を狙う中、俺は一軒の家から漏れる明かりに、なぜか心を奪われてしまった。
そっと窓に近づき、中を覗き込むと、そこには母親らしき人間がベッドの子供に、一冊の『絵本』を読み聞かせている光景が広がっていた。
ページには、色鮮やかな絵が描かれている。
三角の帽子をかぶった老人が杖を振ると、空から星が降り注ぐ絵。
銀色の鎧をまとった若者が、巨大な竜から村人を守っている絵。
……それが『魔法使い』と『騎士』の物語だと知ったのは、ずっと後のことになる。
当時の俺には、それが何なのか分かりはしなかった。
だが、一つだけ理解できたことがある。
絵の中の英雄たちは、自分のためだけに力を使うゴブリンとは、全く違う理屈で動いている。
誰かを守るために魔法や剣を使い、人々から感謝されている様子だった。
そして何より、母親がその物語を語る声の、なんと優しかったことか。
物語を聞く子供の目の、なんと輝いていたことか。
ゴブリンの社会にあるのは、恐怖と暴力だけしかない。
だが、あの窓の向こうには、俺たちの世界には決して存在しないものがあったのだ。
『物語』が、『愛情』が、『感謝』があった。
『――あの光の中に、入りたい』
奪うだけの存在じゃない。
物語の騎士や魔法使いのように、誰かを守れる存在に。
人間になりたい、と。
心の底からそう願った、忘れられない瞬間。
あの絵本が『憧れ』への扉だったとすれば、今、俺の手の中にあるこの『初等魔導緒論』は、『人間』になるための扉そのものと言える。
今日の学習範囲は『初級治癒魔法』。
蔓で修理した丸眼鏡の位置を直し、理論を音読する。そうして集中していた、まさにその時だった。
「「「グギャアアアアアッ!!」」」
洞窟の外から、品性の欠片もない雄叫びが聞こえてきた。同族の狩りの一団らしい。
『ちっ、うるさい奴らめ』
俺は慌てて本を閉じ、松明の火を最小限に絞った。
蔦のカーテンの隙間から外を窺うと、十数匹のゴブリンが猪に群がっている。
その中心で、一際ガタイのいい個体――この群れの『族長』が、仕留めた猪の内臓を生のまま貪っていた。
『……なんと醜悪なことか』
あの窓の光景とは、何もかもが真逆の存在。
俺は、絶対に奴らのようにはなるまい。
その『族長』が、ふとこちらを向いた気がして、背筋が凍る。
奴の鼻が、くんくんと何かを探るように動いていた。
(やばい、気づかれたか!?)
冷や汗が背中を伝う。
『落ち着け俺……お前の名前はヒューマン太郎! 人間様だ! ゴブリンなんかじゃない!』
幸い、奴の興味はすぐに逸れたようで、一団はけたたましい雄叫びを上げながら森の奥へと消えていった。
「……ふぅ」
安堵のため息を一つこぼし、再び岩の机へと戻った。
俺は、あの絵本で見た魔法使いになるんだ。
手のひらを前に突き出し、覚えたての呪文を紡ぐ。
「《ヒー……ル》」
『おおっ!? 今、光ったよな!? よし、今日は師匠に勝ったぞ!』
小さな成功に、思わずガッツポーズ。
ヒューマン太郎の人間修行は、まだ始まったばかりなのだ。
洞窟の中に、俺の拙い練習の声だけが響き渡った。
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