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地獄のカウンセリング

作者: 雉白書屋

 ある日の夕方、精神科医の男はパソコンの画面から顔を上げ、椅子からそっと腰を浮かせた。

 音が聞こえたような気がしたのだ。不審に思い、耳を澄ます。おかしい、診療時間はとっくに終わっているし、最後に戸締りも確認したはずだが……。

 男がドアに目を向けた瞬間――ゆっくりと開き始めた。

 驚き、体が硬直する。そのまま目を凝らし見つめていると、そこから現れたのは――


「え、鬼……?」


 凝り固まった血のように暗く濃い赤の肌。小便を思わせる濁った黄色い目。汚泥のような茶色い腰布をまとい、身の丈四メートルはあろうかという巨体。そしてその頂点には、鋭くそびえ立つ二本の角。まぎれもなく、鬼である。

 しかし、もちろんそんな存在を認められるはずがなく、男は絶望した。とうとう、自分がいかれてしまったのだ、と。

 鬼は静かに腰を落とし、その巨体をぐっと屈めて男と目線を合わせると、意外にも穏やかな声で言った。


「どうも、突然の訪問失礼します。私、地獄から参りました」


「あ、あ、あ、ど、どうも……」


 思いがけず丁寧な態度に、精神科医は慌てて応じた。


「診療時間中にお伺いするとご迷惑かと思いまして、終了後に参りました。お疲れのところ申し訳ありません」


「や、や、お気遣いどうも……意外だ。あ、いや、あの、どのようなご用件で……?」


「はい。実は、先生に地獄の住人たちのカウンセリングをしていただきたいのです」


「カ、カウンセリング……?」


 鬼の話によると、最近、地獄に落ちてくる罪人たちはどうにも無気力で、どんな責め苦を与えても反応が薄いのだという。それでは鬼たちも仕事にならないらしい。

 そこで、精神科医の男に彼らを診てもらい、気力を取り戻させようと考えたのだ。


「え、ええ……。それで……地獄に行ったあと、ちゃんと現世に戻していただけるんですよね? まさか、殺されたり……とか……」


「もちろんです。丁重に扱うことをお約束します。なにせ、先生が頼りなのですから」


「しかし、なぜ私を……」


「先生は名医として名高いと聞いております。それに正直なところ……他にも数名のお医者様とお会いしたのですが、皆さん気絶したり、発狂したりして、お話にならなくて」


 鬼は深々とため息をついた。血と焦げた硫黄のような匂いがした。


「なるほど……」


 どうやら、これは夢でも幻覚でもないらしい。地獄へ迎えに来たわけじゃなくて、ひとまずよかった。いや迎えには来たわけだが……。しかし、本当に信用していいものだろうか。鬼とはいえ地獄の役人だ。嘘をつけば示しがつかず、むしろ誠実である可能性が高いか……?

 迷った末、逆らうのも怖いと判断し、男は鬼の依頼を受けることにした。


「ありがとうございます。では、参りましょう……」 


 鬼の巨大な腕に肩を抱かれた瞬間、黒い煙がもうもうと立ち込めた。視界が歪み、意識がぐらつく。

 そして次の瞬間、男は地獄の大地に立っていた。

 地面は赤黒くひび割れ、空は果てしない暗黒に包まれている。

 目の前には椅子が二脚。そして、その先には地獄の住人たちが長蛇の列を成していた。

 鬼たちが見守る中、さっそくカウンセリングが始まった。人数が多いため、一度に複数名に話を聞くことにし、彼らの無気力の理由を探る。やがて、住人たちがぼそぼそと漏らす言葉の端々に、共通する傾向が見えてきた。


「先生、どうですか?」


 鬼がそばに近づき、訊ねた。


「……どうやら、ここにいるのは『かすみ世代』の皆さんのようですね」


「かすみ世代……?」


「ええ、ぼんやりと人生を過ごしてきた人たちです。何事にも無気力で、自分から行動を起こさず、かといって他人の指示にも従わない。上昇志向もなければ、挑戦する気概もなく、ただネットやゲームができれば満足。食事は空腹さえ満たされればいい。味にも興味はなく、食べることすら面倒。 我慢が伴うのなら結婚なんてしなくていいし、子供も作らない。一生懸命生きるくらいなら、ちょうどいいところで死のう。そんな価値観を持った人々のことです。彼らは不景気で先行きの見えない時代に生まれ、国にも自分にも期待を抱けずに育った、かわいそうな世代ですよ。その傾向は一つ前の『さとり世代』にも見られていましたが、彼らは特に顕著です」


「ははあ、なるほど……自殺にすら抵抗がないのか。だから、刑罰にも動じない。ある意味、図太い精神というわけだ」


 鬼は腕を組み、低く唸った。


「それで、どうすれば彼らの気力を取り戻せるんですか?」


「それは……」


 男は言い淀んだ。

 彼らのような人間に気力を取り戻させるのは不可能だろう。ほとんど無気力な親のもとで、彼らは希望を知らずに育ってきた。何かに熱中した経験など、人生で一度たりともないのだから。

 だが、それを正直に鬼たちに告げたところで納得するはずがない。

 男は辛抱強く、住人たちとの対話を重ねた。しかし、解決の糸口は一向に見えない。彼らは皆、まるで型に嵌められたかのように、同じような言葉ばかり繰り返すのだった。


「ああ、駄目だ……誰も彼も、同じような人間ばかり……」


 男は額に手を当て呻いた。

 いったい、どうすればいいんだ。解決できるまで、ずっと地獄に囚われることになるだろう。いや、それどころか、鬼たちがそのうち『役に立たないなら、腹いせにお前を拷問してやる』などと言い出すかもしれない……。

 嫌だ、嫌だ、絶対嫌だ……。それなら、いっそ私も彼らのようになりたいくらいだ。無気力で、苦痛にも無反応な人間になれたら、地獄でさえ苦しまなくて済むのでは……いや、待て。


「そうか!」


 男は閃いた。跳ねるように立ち上がり、鬼たちに新たな刑罰を提案した。

 住人たちに、生前と似たような生活をさせることにしたのである。SNSとガチャゲームを再現した、スマートフォン型の機械を与えたのだ。

 すると、住人たちはすぐにその世界にのめり込んだ。虚構のランキングに一喜一憂し、互いを煽り合う。レアキャラを求めて何度もガチャを回すが、地獄のゲームゆえに決してレアは出ない。

 やがて、彼らは苦悶の表情を浮かべ、こう呟くようになった。


「地獄だ……」と。




「いやあ、ありがとうございます、先生。おかげで助かりました」


「いえいえ。あとはうまく運営していけば、問題ないでしょう」


 鬼たちに褒め称えられ、男はほっと胸を撫で下ろした。これでようやく、現世へ帰れる。そう思った。

 しかし――


「ええ、それで、ぜひ先生にはこのまま地獄に残ってもらい、運営に携わっていただきたく……」


「えええ!? いや、それは、む、無理です……」


「そこをなんとか……」


「い、いや、や、約束が違うじゃないですか!」


「……そうですね。地獄の規則もありますし、先生が死ぬまで待つとしましょう」


「え、それはつまり、死後、私は地獄行き……? そんな、誠心誠意尽くしたのに……」


 男はついに泣き崩れた。繰り返し「嫌だ、嫌だ、嫌だ」と呻き、自分の髪の毛を毟った。

 それを見た鬼は、哀れむような顔をして深く頷いた。


「……確かに、先生はよく尽くしてくださいました。仕方ない。天国へ行けるよう、話を通しておきましょう。ただし、定期的に地獄にも来てくださいね」


「ああ、それならぜひ!」


 男は泣き笑いながら返事をし、無事、現世へと帰っていった。

 その後、彼は大きな過ちを犯すことなく、穏やかに年を重ね、最期を迎えた。そして死後、約束通り無事に天国へ辿り着いた。そこは、まばゆい光と花の香りに包まれた、穏やかな世界だった。

 しかし、彼は驚いた。前方に、浮かない顔をした天国の住人たちが長い列を作っていたのだ。

 呆然と立ち尽くす彼に、天使がそっと近づき、囁いた。


「先生のお噂はかねがね伺っております。どうか、彼らのカウンセリングをお願いします。天国の住人は皆、幸せでなくてはなりませんからね」


 彼はぽつりと呟いた。


「地獄だ……」

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