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24.7/26(金)

24.7/26(金)


数日前の日記にも書いたと思うが、別に僕は長生きに頓着は無い。かといって、どうしても明日までに死んでしまいたいという願望もない。


これ以上に生きる難易度があと何段階か上がったらもしかすると直ぐにでも、と思うかもしれないけど、法治国家で暮らしていては多分それもない。


これは日本が恵まれすぎているという意味では無い。

自分の生い立ちが恵まれ無さすぎている。だから恵まれていないこと、失われる事、不自由である事についてさほど絶望を感じられない。

絶望とのギャップがない。落差がない。未だ高みに到達できてない故に、落ちぶれようにも知れている。


だから例えば明日買い物に出かけたとして、そこで銃かなんかで四肢の内の一つを撃ち抜かれ、欠損なんかしてみたらきっとそれは生きる難易度が何段階か上がったことになるが、日本でそれは滅多に起こりえない。


人1人を徹底的に追い込む、追い詰める。それをする事は容易くできてしまうが、引き金のひとつで出来てしまっては堪らないので法律というものでそのトリガーを引きにくくしている。

つまり法治国家というのは、そういうことだと思う。

法律は何も禁止していないし、指図もしていない。

僕が思うのは、法律というのは我々に“提案”をしている。たったそれだけしかしていない。


宗教改革の時代が分かりやすくそうだと思う。

日本は優しく、まだちょっとだけ豊かだと思う。

その時代では、自殺の為の他殺が横行していた。自殺をするのは禁忌とされているが、他殺においては自分の死刑を持って償う事としている。

厳しく貧困であったその時代では、死刑に至るまでの拷問を如何様に厳しく惨いものにしようとも、それがかえって『これほどの罰を受けたのだから、自分の罪は償われ、そして地獄に行くことは無い』と錯覚させ、むしろ他殺は増加の一途を辿ったらしい。これが他殺による自殺であり、自殺の為の他殺であった。


ある宗教においての自殺は罪であり、罰が下る。

これは絶対であり、命令であり、禁止にも思える。

殺人と決定的に違うのは償うことすら許されないというところ。償う方法がない。それがどれだけの事なのか僕には想像ができない。


一方で法律は“人を殺めると死刑になる”という具合だが、これは“人を殺めるとあなたは死刑によって命を奪われることになるが、それを理解せよ、後のことは各々の判断に任せる”とも受け取れる。意地悪だが。


だからつまりこうだ。

人を撃ってしまったらそれ相応の罰を了承し、納得したものと判断され、刑や罰が執行される。だから簡単に人は人を攻撃したりは出来ない。

それと同じ様に、人は人を徹底的に追い込む、追い詰める事は同じように出来ない。


それはつまり自死に追いやってはいけないということ。当たり前のように聞こえるが言いたいことはそうでは無い。


自死を決意させるということは、“死刑”が“罰”として機能しなくなると言うことを念頭に置かねばならない。自死を選ぶものが他者を巻き込まずに独りでに死んでいくことは当たり前の事では無い。

電車のダイヤが乱れる事に文句を言える人間がまだこれだけ沢山いる事こそが日本がまだ少しだけ豊かな証拠だと思う。人を殺すという手段であっても、死ぬという目的を果たすことは可能なのだから。死を選ぶほど追い詰められていても、その殆どは自殺の為の他殺は選ばずに死んでいく。罪を犯さず罰だけを受け入れる。死刑に至るほどの罪を犯した訳ではないが、それでも死刑だけを受け入れる。それがどれだけ異常で不条理な事か。

そして自殺というのは人を巻き込まずに1人で完遂するものが当たり前とされているのがどれだけ歪な事か。


きっと普通に育った人には分からない。分かりようがない。どれだけの想像力があろうとも、理解出来ようにも、わかった気になることしか出来ない。


ましてや、これが異常であると言うことを人づてに聞くまで気が付かない人にはもっと分かるまい。


閑話休題。

僕は長生きに頓着が無いことを整理して纏めたかったのだ。そうだ。自分は長生きなぞしたくはない。

出来るだけ早く死にたい。だが死ぬのにも切欠が必要であって、そんな切欠があればきっと直ぐにでも死ぬがそれも無い。


昨日の日記に書いたが僕には好きな人が居て、その人を唆して殺されるというのも悪くは無い。好きな人の強い感情を一身に受けて死ぬ。悪くない。寧ろ良い。

だがそうじゃない。

それなら何故それを決行するのが今なのかと言う切欠が欲しい。やはり切欠、決定打に欠ける。


何が惜しいと言うのか皆目見当もつかない。未練も後悔も果たすべき目的もあるものか。いや、本当に無いのか?あったりするかもしれない。しれないが分からない。何かあったか?人はこうして自分探しの旅に出るのか?馬鹿馬鹿しい。あまりにも能天気だと思う。どれだけ探しても生きる理由が見つからなかったらどうするんだろうか。やはり行き着く先は皆同じだったりするんだろうか。そう考えているのが馬鹿馬鹿しい。自分には関係ないし、どう考えても自分探しに行くようなタイプの人間では無いし。


でも生まれたからには皆いつかは死ぬ。先生も自分も友達も家族もみんな死ぬ。

おとずれていないだけで皆死ぬし、確定していないだけで死因もある。命日もある。

例えば明日自殺するつもりであっても、今晩のうちに震災で死ぬかもしれない。

じゃあ僕の死因は何で、いつ、どんな風に、何処で死ぬのか。


分からない。どれだけ考えても分からない。未来の事だから考えるだけ無駄な気さえする。そうだ、無駄だ、無駄なんだ。未来のことは分からないから。


例えば、僕が生きてるうちにとんでもなく幸せになる可能性があるのかも、それがどれだけあるのかも分からない。待て、いや、これだ。これで良い。とりあえずはこの理由でいい。そう、だから生きてるって事にしよう。そして明日は必ず洗濯物を回そう。

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