24.7/25(木)
24.7/25(木)
僕にとって大好きな人がいて、優先順位は1番にしなきゃいけないと思っている。
怒られるからとか、愛想をつかされるからとかではなくて、逆で、怒られても文句を言われても、それでも1番だという主張を曲げたくない。そんな人がいる。
小さい頃から親の顔をうかがって育ってきたので、僕は人の意見に反発したり、何かをお断りしたり、そういう事が動悸がするくらい恐ろしいと感じてしまう。
人の意見に反発する事に許しを求めてしまう。
どうか、僕の意見を押し通すことに罰がくだりませんように。どうか、どうか、何事もなく、そして誰にも怒られませんように。
子供の頃の僕はおもちゃ1つ、食べたい食べ物1つとっても、欲しいと我儘を言うことが難しかった。
そんな事をいえる身分では無いから、欲しいものをねだって買い与えて頂くなんてとんでもない事だった。
馬鹿馬鹿しいけど、実際にそう思っていて、今の自分にも少しは根付いてしまっている。勿論子供が独りでに【私は身分がこんなんだから】と思うはずがなくて、それは親に散々【これが食べられるほどの何をしたの?いいご身分ね】と言われ続けたからで、実際にそういって棚に戻したのはいつも大体100円もしないお菓子だった。それさえ本当にたまにだった。
幼稚園を卒業する頃には、買い物について行くが欲しいと強請ることは無くなった。たまの外食の日、自分は絶対にみんなの最後にメニューを決める様にした。
当時小学生ながらにこれは今でもいいアイデアだと思う。
親が1000円の物をたのんだら、自分は700円のものを頼む。もし親が1500円のものを頼んだら、今度は1000円のものをたのむ。高すぎても低すぎても駄目。あまりに安すぎるとメンツが潰れる場合もある。
今でもそんな癖が抜けない。
従わないという行為が今でも怖い。
だけどそれより怖いのが、その大好きな人と離れてしまうことであって今生の別れになってしまうことがあったら、僕は後を追って死んでもいいくらい。
付き合っている訳では無い。
別に愛し合っている訳でもない。
手に届く訳でもないけど、失っているという訳でもない。ただただ本当に好きな人で、大好きな人という関係性以上の関係性は無い。
愛と言うにはちょっとだけ烏滸がましい。
その人の幸せや不幸せ、人生の全てに自分が関わって、関わり続けていないといけない。そんな融通の利かなさがあるから、愛とは言いづらい。
だけど、好きの方が愛よりも強い感情であってもいいと思う。崇拝とか依存とか、そういう強い感情には、どうしても愛が結びついてこない。
僕はその人を失う事が何よりの不服で、恐怖だと思う。
もしもその人が、人を殺したって僕にとってはどうでもいい。人を手にかけるような猟奇性があったとしても別に離れる理由にはならない。
だけどその人が人を殺したり犯罪を犯すことはあってはならない事だとは思う。
引き離される事が我慢ならないから。
本当にそれだけの理由で、その人には人を殺したりはして欲しくない。現に僕は、自分の一生の最後はその人に手をかけてもらうことを何よりの理想としていて、至上の喜びだと思ってる。
叶わないが、もしそうなれば全部が報われる。
そこまで陶酔できたのは、やっぱり生い立ちが関係している。もしもその人の人格がまるまる別人みたいになったとしても僕はやっぱりその人が大好きで、もしもその人が僕に手をかける時、慈しみの心が微塵もなくて憎悪で殺すのだとしても、僕はやっぱり至上の喜びを感じながら、理想的な死に方が出来て満足だと思って死ぬんだと思う。
他の誰にも分からないだろうな。
人並みの幸せを踏みしめて生きてきた奴らには到底感じる事の出来ないような幸せなんじゃないかな。
僕にとっての死は幸福で、救済よりも強い悦びで、死ぬ為に生きていると言っても過言では無い。
僕はいつまでもその人のそばに居たい。
そばに居て、いつかその人が自殺を決意した時、
僕は世界で1番幸せな花嫁に成りたい。