第6話
体育館倉庫にて。
「らぁあああ!」
投げ飛ばし、地面に倒れさせた男子の顎に、美琴が蹴りを入れた。蹴られた男子は気を失ったようだ。
ちなみに周囲には、同様に気絶している少年が、何人も倒れている。
「ぜぇ、ぜぇ……おら、どうした! かかってこいよ!」
体のあちこちに青あざを作り、息を激しく切らせ、大量の汗を噴き出しつつも、美琴の覇気は衰えない。
むしろ、彼女と戦っている少年たちの方が、士気を落とし始めていた。
「やるね。まさかたった一人で、ここまで粘るとは思わなかった」
「はっ! 土下座して謝るなら、半殺しで許してやらないでもねぇぞ?」
安久人の向かって、不敵な笑みを浮かべる美琴。しかし安久人は、なおも余裕を崩さない。
「……土下座? なんで僕がそんなことをしなくちゃいけないんだい?」
「ほぉ、ぶっ殺される方がいいってか」
「そうじゃなくてね。ちょっと耳を澄ませてみなよ」
美琴が眉をひそめた瞬間、複数の足音が聞こえてきた。
かなり激しく走っているような音だった。人数は、おそらく十人以上だろう。
「おい遠藤! どこだ!」
「返事をしろー!」
続けて、成人男性のものらしき野太い声も聞こえてきた。いずれも美琴以上に口汚い口調だった。
その声を聞いて、美琴は察する。
「まさか……」
「言ったでしょ、鬼瓦組に女優を紹介する手はずだって。ここで引き渡す予定だったんだけど、ようやく来てくれたみたいだね」
美琴の頬に、運動によってかいたものとは異なる、冷たい汗が流れた。
「君が強いのは認めるよ。でもさ、成人男性、それも本職である極道を相手に、勝てるかな?」
口が裂けそうなほどに大きく笑う安久人。
一方の美琴は、喧嘩によって昂っていた気迫が、一気に沈んでいった。
***
「引っ込めへたくそー!」
体育館ステージでは、ステージ上の笑美に向かって、観客がヤジを飛ばし始めていた。物を投げようとしている者さえいる。
笑美のネタが意味不明過ぎることで、いい加減苛立ってきたのだ。
(こ、こうなったらもう、私が脱ぐしか……!)
ステージ上の笑美は、混乱のあまり、持ち前の天然を加速させていた。
言うまでもなく、ステージに出た演者が、それも女子生徒が突然脱ぎ出すなど、言語道断である。
しかし、観客を楽しませようと必死になっている笑美の中では、もはや常識というストッパーが機能していなかった。
「ふんぬらばーっ!」
「「「!?」」」
謎の掛け声とともに、自らの制服の裾を掴み、脱ぎ捨てようとする笑美。当然観客たちは混乱の渦に飲み込まれる。
「ちょ、何してるのよ!」
司会者として控えていた女子、および会場スタッフとして動いていた実行委員たちが、急いで笑美のもとに駆け寄り、彼女の脱衣を止めようとした。
しかし、最大レベルでテンパっている笑美は、止まらない。
「離して! もうこれしか、盛り上げる手段がないのよ!」
脱衣を続けようとする笑美が、実行委員たちと格闘し始めた、その瞬間であった。
「脱ぐなー!」
体育館内に、大きな声が響き渡る。
「……え?」
聞き慣れたその声に、笑美が一瞬動きを止めてしまう。
否、笑美だけではない。突飛な出来事で驚いた実行委員も、そして観客も、口を閉ざしていた。
水を打ったように静まり返る体育館の入り口に、笑美が視線を向ける。
すると、そこには──
「脱ぐな! お前が脱いでも、誰も得しねぇから!」
体のあちこちに青あざを作り、息を激しく切らせ、大量の汗を流す女子生徒の姿があった。
「ミコちゃん……!」
「とーう!」
美琴は、明らかに全力とわかる勢いでステージへと駆け寄ると、檀上に飛び上がる。
「脱ぐな! お前が脱いでも、誰も得しねぇから!」
そして、檀上のマイクに向かって、先ほどのセリフを繰り返しつつ、笑美にウィンクを決めてきた。
それを見た笑美は、一瞬でピンとくる。
「そんなの、脱いでみないとわからないじゃない。これでも私、スタイルには結構自信があるんだよ?」
「へぇ。もしかして、今日に備えてダイエットでもしてたのか?」
「うん! 大好きなジュースを我慢して、ラーメンを飲んでたの!」
「脳みそまでダイエットしなくてもよかったんじゃねぇか?」
「「「……ぷっ、あははは!」」」
会場の至るところから、小さな笑いが起こった。
どうやら、先ほど野次を飛ばしていた観客すらも、笑顔になっている。
それを見て、笑美を押さえつけようとしていた実行委員も、動きを止めた。
「ミコちゃん、どうして……」
笑美は、マイクに声が入らないように注意しつつ、美琴に尋ねた。
一方、美琴は小さく首を横に振る。
「詳しい話はあとだ。更衣室のくだりから行くぞ!」
「……うん!」
笑美は小さく頷いた。
確かに、今はステージの真っ最中だ。演者の細かい事情などどうでもいい。
今はただ、目の前のお客に向かって、全力で演技を披露するのみだ。
控室に戻っていく実行委員を尻目に、笑美と美琴の心は、一つになったのだった。
***
体育倉庫では、安久人を含めた少年たちが、地面に座らされていた。
「す、すみませんでした。組長さんの血縁者とは知らなくて……」
彼らはいずれも顔に青あざを作っており、恐怖で体を震わせている。
その惨状を作り出したのは、彼らの前に立つ成人男性たち──特に、その中でもっとも背の高い、サングラスの男であった。
「まぁそうだろうねぇ。何しろ、おいちゃんが嫁と離婚してから、一度も会ってないんだから」
自分の顔にかけたサングラスを、わずかにずらしながら言う男。黒いレンズの端から覗く目は、わずかに視線が合っただけでも、子供が泣き出してしまいそうなほど、怒気に溢れていた。
彼の名は鬼瓦正蔵。近辺最大の暴力団・鬼瓦組の組長である。
「ど、どうか、命だけは助けてもらえないでしょうか……?」
恐怖のあまり、今にも失禁しそうな安久人が尋ねる。それを聞いた正蔵は、ため息を一つもらした。
「おいちゃんね、昔っから、腕っぷししか取り柄がなくってさ。それだけを頼りにしてきたのよ」
「は?」
唐突に始まった自分語りに、安久人は恐怖すら忘れ、目を丸くしてしまう。
「喧嘩の強さから『鬼の正蔵』なんてあだ名をつけられてさ。おいちゃんも昔は若かったから、そんな自分に酔って、色んな奴に喧嘩売っちゃあ勝ちまくってたのよね。
まぁ当時はひたすら楽しかったんだけど、ある時すごい後悔した。いつだかわかる?」
「い、いえ……?」
正蔵の言いたいことがわからない安久人は、思わず正直に答えてしまった。
それを聞いた正蔵は、再びため息を吐く。
「おいちゃんの喧嘩を嫌がった嫁が、おいちゃんと離婚して、娘を連れてっちゃった時だよ。
裁判で親権取られて、会うことも禁止されてさ。おいちゃん、それまで泣いたことがなかったんだけど、その時だけは号泣した」
鬼の目にも涙って奴さ──と、遠い目で語る正蔵。
安久人の顔色が、さらに悪くなった。
「さっきも言った通り、娘とはそれ以来、一度も会ってないんだ。だもんだから、組の若い衆から、娘を女優にしたビデオを撮るって聞いた時は、心臓が口から飛び出るかと思ったよ。で、居ても立ってもいられなくなって、飛んできたってわけ」
正蔵の睨みがさらに険しいものになる。
白目の部分が激しく充血したその目は、殺意すら感じ取れそうで、まさに「鬼」を想起させるものであった。
「ひぃいいい!?」
安久人はもちろん、他の少年たちも悲鳴をあげる。そんな少年たちに、正蔵は一転して優しい声をかけた。
「そんなに怖がらなくていいよ。ほんの一瞬だったけど、君たちのおかげで、娘ともう一度会えたんだ。感謝してるくらいさ」
「か、感謝……? 許してくれるんですか?」
「許す、許す。うちの組に、結構な利益ももたらしてくれるわけだしね」
「利益……?」
疑問符を頭の上に浮かべる安久人。そんな安久人の疑問に答える前に、正蔵は手を二回たたいた。
「それじゃあみんな、撮影場所まで彼らを運ぼうか!」
「「「うぃーす」」」
正蔵の周囲に立っていた組員たちは、彼の言葉を合図とするように、安久人たちを担ぎ上げた。
「あ、あの! 撮影ってなんですか?」
「だから、君たちが主演のビデオを撮るんだよ。現役高校生ってだけでも需要はあるし、その上、君──遠藤君だっけ? わりとイケメンだから、きっと人気者になれるよ♪」
朗らかに笑いながら言う正蔵。それを聞いた安久人は、一瞬で自分たちのたどる末路を悟り、顔を青を通り越して土気色にした。
「い、いや、ちょっと待って!」
「大丈夫大丈夫、ちゃあんと相応の報酬は渡すから。ほら、今年の四月から、高校生も大人ってことになったじゃん? ルール的にもオッケーだよ、きっと!」
「それは十八歳からって話で──いやそんなことより、お願いです! 他のことならなんでもしますから、それだけはご勘弁を!」
「そう? まぁ君たちが望むなら、非正規のお医者さんを紹介するのでもいいけど。若いんだし、内臓の一つや二つ、なくっても生きていけるよね♪」
「いぎゃあああああ!」
泣き叫ぶ安久人と少年たちを、組員たちは担ぎ上げ、どこかへと連れ去っていった。
あとに残された正蔵は、懐から煙草を取り出し、火を点ける。
(さぁて、美琴は間に合ったかねぇ)
正蔵は職業柄、町の情報に敏い。さらに安久人の宣伝もあったっため、美琴が文化祭のステージで漫才をするという話は、何となく耳に入っていた。
正蔵に助け出された美琴は、「行くところがある」とだけ言って走っていったのだが、目的地はまず間違いなくそこだろう。
(なんで漫才なのかはわかんないけど、頑張れ、美琴)
妻との約束があるため、そして娘自身にも恨まれているため、正蔵は観客になることもできない。
だが、それでも心の中でだけ、娘のことを応援するのだった。
***
場面は再び体育館ステージへと移る。
「私ね、自分で言うのもなんだけど、結構なお嬢様なんだ」
「へぇ、そうなのか。何かお嬢様っぽいエピソードとかあるのか?」
「そうだなぁ……あ、そうだ! この間、カップラーメンを食べたの!」
「庶民以外の何物でもねぇな」
「違うの、生まれて初めて食べたの! そしたらあまりに美味しくって、もっとたくさん食べたくなってね。つい製造メーカーごと買い占めちゃった!」
「どおりで最近カップ麺が売ってなかったわけだ!」
「次は惣菜パンを攻めようかな?」
「しまいにゃ庶民の食い物がなくなりそうだな」
「パンがなければ、製造メーカーごと買い占めればいいじゃない」
「いつぞやのフランス王妃でも、そこまでの無茶ぶりはしねぇよ」
「「「あははははは!」」」
会場から、ステージを揺るがすかのような、大きな笑い声が響いてくる。
その声を聞いた美琴は、手ごたえを感じていた。
(よし、いけるぞ……!)
笑美一人で場をつないでいた時間が長かったから、客がしらけてしまったのではと危惧していたのだが、そこは高校の文化祭。
若い人間が多いため、場は盛り上がりを取り戻していた。
(このままラストまで突っ走る!)
と、美琴が気合を入れ直した時だった。
「そうそう、王妃といえば──ぐっ!?」
先ほどまで笑顔を保っていた笑美が、突如として顔色を変えた。
(笑美? ……まさかっ!?)
喉を抑え、苦しそうにする笑美を見て、美琴は瞬時に察する。
発作が起きたのだ。
恐れていたことが起きた。本来なら、今すぐにでも病院に連れていくべきだろう。
だが、今はステージの真っただ中。
ここで急に演者が離れれば、観客からのアンケートで票を取れないのはもちろんのこと、会場の空気が悪くなり、このあとの演者に迷惑をかけてしまうだろう。
(どうする、どうすればいい!?)
せめて、〆のネタだけでもやればマシなのだろうが、今の笑美にそれを要求するのは無茶である。
持ち前の回転の速い頭を以てしても、打開策が浮かばず、美琴が困窮していると──
「え、笑美?」
唐突に、笑美がジェスチャーを始めた。
何かの皮を剥き、中身を食べるような仕草。おいしそうに咀嚼をしている彼女を見て、美琴はピンと来る。
「もしかして、バナナか?」
美琴を指さし、正解だと言うようにサムズアップをする笑美。その動作はかなり大きいため、会場からも見えている。
「なるほど、お前、自分はバナナが好きだって言いたいんだな?」
何度もうなずく笑美。
「で、それが?」
ニコニコ笑うだけの笑美。
「それで終わりかい!」
会場から笑いが起こった。しかし、即興で作ったネタなためか、そう大きなものではない。
しかし、それでも笑美は、美琴に向かって、小さくガッツポーズを見せた。
(こいつ……続ける気か!?)
声を出すこともできず、その上症状が悪化すれば、声自体を失うかもしれないという状況で。それでも笑美は、漫才を続けようとしているのだ。
(いや、しかし……!)
美琴の口から、小さく歯ぎしりの音が鳴った。
笑美自身を想う気持ちと、彼女の覚悟への敬意が、彼女の中で激しく争っているのだ。
そんな美琴に、真剣この上ない笑美の目が、訴えかけた。
──お願い、続けて。終わったら、いくら怒ってくれてもいいから!!
「おいおい笑美。漫才なんだから、もっとわかりやすいネタやろうぜ! お客さんがひいちゃうだろ?」
おどけたように言う美琴。無論、このおどけは演技だ。
美琴は、最後までステージをやり抜くと決意した。腹をくくったのだ。
決め手はただ一つ──美琴自身も、笑美の人生を懸けた漫才を、見てみたくなったのだ。
(付き合うぜ、笑美。地獄の底まででもな!)
笑美へ向けてウィンクをする美琴。それを見た笑美は、お客に気づかれない程度の、小さな笑顔を見せてくれた。
そして笑美は、懐からスケッチブック──美琴は知らなかったが、こうした事態のため、笑美が用意していたものである──を取り出し、何かを描き始めた。
「んん? 何か絵を描くのか?」
観客にもわかるよう、美琴がそれとなく解説を入れる。その間に、笑美は恐るべきスピードで絵を完成させていった。
最初はボーリング玉らしき絵の右に「―リング」、その下に禿げた頭から伸びる波線、最後に手のひら。
それを見た美琴は、再び合いの手を入れる。
「最初は『ボ』? 次は……髪の毛? あ、『ケ』か!」
笑美はこくこくとうなずきながら、やはり観客にも見えるよう、両腕で大きな輪を作る。〇と言いたいようだ。
「おっしゃあ、当たったんだな! じゃあ最後は、手のひらだから……『て』! 並べると『ボケて』! 何かボケろ、ネタを出せってことか!」
美琴の台詞を聞いた笑美は、スケッチブックにハイスピードで筆を走らせ、こう書いた。
『大正解! 流石はミコちゃんだね!』
「最初から素直に「ボケて」って書けや!」
キレのよいツッコミを入れる美琴。会場から再び笑い声が聞こえてきた。
(よし、いいぞ! このまま〆のネタに入れば、形にはなる!)
美琴と笑美は目と目で合図を交わした。
「よーし笑美、スケッチブックネタは面白くていいが、そろそろ時間だ。最後に、お客さんに挨拶して終わろうぜ」
こくりとうなずき、再びスケッチブックに何かを描いていく笑美。
そして絵が出来上がると、彼女は観客に向けて掲げてみせた。
『後半に続く!』
「続かねぇよ! 終わりだって言ってんだろー!」
「「「あははははは!!!」」」
会場は、最後の大盛り上がりを見せた。
観客に頭を下げながら、ステージを降りていく笑美と美琴。その間も、彼女たちは歓声と拍手に包まれていた。
アンケートの結果はわからない。しかし、美琴の心は、ステージをやり切った充実感であふれていた。
「やったな、笑美!」
控室に戻ったところで、美琴は先を歩いていた笑美の肩を叩く。
しかし、笑美が美琴を振り返ることはなかった。
なぜなら、彼女はそのまま、ドサリと音を立てて、横向きに倒れてしまったからだ。
「笑美!? しっかりしろ、笑美―!」
美琴は倒れた笑美を抱きかかえた。しかし、彼女は既に意識を失っており、どれだけ呼びかけても反応がない。
「誰か、医者を……法下院家に連絡してくれー!」
美琴の悲痛な叫びが、控室に木霊していく。
しかしその声は、ステージで始まっていたロックバンドの音声によって、かき消されてしまうのだった──。