第4話
二時間後。安久人と美琴は、笑美の自宅、つまりは法下院家の屋敷にいた。
屋敷は極めて広く、美琴の暮らすアパートの自室よりも広い部屋が、数十個はありそうだった。
屋敷内には、法下院家の人間専用の医療設備があり、専属の医者や看護師もいた。法下院家所有の車に乗ってやってきた笑美は、今現在彼らによって、高度な治療を受けている。
ちなみに、付き添った美琴と安久人は、笑美が治療に入ると、応接室に通された。
豪華な調度品の並ぶ部屋で、安久人と向かい合う形で、柔らかいソファに座っている美琴。目の前の机には、一流職人の作品と一目でわかる、高級そうなティーカップが置かれていた。
正直、庶民である美琴には、少し居心地が悪かった。
「法下院さんね、喉に病気があるらしいんだ」
安久人が、ティーカップに口を付けながら言ってきた。
「普通に生活する分には大して困らないらしい。でも、例えばカラオケに行くとかして、長時間喉を酷使すると、発作が起きる」
「発作?」
「声が出なくなるらしい」
「マジか!?」
驚きを隠せない美琴に、安久人はこくりと頷いた。
「一時的に声帯が麻痺して、発熱だとかの体調不良も併発するそうだよ。適切な処置をして、しばらく安静にしていれば回復するらしいけど──」
「……らしいけど、なんだよ」
美琴は、身を乗り出すようにして安久人に尋ねる。
一方の安久人は、やや言いづらそうに、言葉を紡いだ。
「本当に最悪の場合だけど……もし処置を行わず、無理をし続ければ、一生声が出せなくなることもあり得るって」
「──!」
美琴は驚きのあまり、一瞬、言葉を失った。
(じゃあ、漫才なんてやっていいわけねぇだろ!)
笑美自身も言っていたことだが、お笑いとは基本的に、声を張り上げる活動だ。
当然、喉にも強い負担をかける。そんな爆弾を抱えているのならやっていい活動ではない。
だと言うのに、笑美は今日まで、放課後は毎日練習を続けていたというのか!
「……遠藤はなんでそんなことを知ってるんだ?」
「クラス委員長だからね。教師が不在の時に発作が起こらないとも限らないから、本人に了承を取った上で、担任が教えてくれたんだ。
というか、ごめん。事情を知ってたんだから、止めておけって話だよね」
「……いや、遠藤のせいじゃねぇよ」
笑美のお笑いにかける情熱は、美琴が一番よく知っている。仮に安久人が止めていたとしても、それで止まる女ではない。
(攻められるべきは、むしろアタシだろ)
事情を知らなかったとはいえ、美琴は毎日何時間も笑美の練習に付き合った。見ようによっては、美琴自身が、笑美の喉に負担をかけさせたとも言える。
美琴の胸中に、後悔の念が、次から次へと沸き上がってきた。
その時だった。
「遠藤君、ミコちゃん……」
「笑美!」
応接室内に、笑美が入ってきた。
「もう大丈夫なの?」
「うん。処置が早かったから、比較的軽傷で済んだんだって。ありがとうね、遠藤君」
「いや、僕は何もしてないよ。あ、その……悪いと思ったんだけど、津崎さんにも事情を話しちゃったんだ」
「そうなんだ……」
遠藤の説明を聞いた笑美は、美琴に申し訳なさそうな顔を向けてくる。
「ミコちゃんにも心配かけちゃったよね。でも大丈夫、明日はばっちりやるから!」
「……何が大丈夫なんだよ」
「……え?」
顔を俯かせ、体を震わせる美琴。そんな美琴を見て、笑美も動揺を隠せない。
「ミコ、ちゃん?」
「ふざけんな! そんなんで、ステージになんか出られるわけねぇだろ!」
「ミコちゃん!?」
叫びながら、応接室の入り口へと駆け出す美琴。笑美はそんな美琴を追おうとするも、途中で足が絡まってしまう。
「きゃっ!」
「だ、大丈夫?」
転んだ笑美に安久人が駆け寄る。美琴は、目だけを後ろにやり、それを見た。
そして、浮かんだ不安や心配をかき消すように、歯を食いしばる。
「明日のステージ、アタシは出ない。……出れねぇよ」
「え? ──ミコちゃん!?」
笑美の叫び声を尻目に、美琴は法下院家の屋敷を飛び出すのだった。
***
それから美琴は、走り続けた。
どのくらいの時間が経ったのかわからない。自分がどこに向かっているのかもわからない。
けれど、美琴は足を止めたくなかった。
(なんでだよ……なんでだよ、畜生!)
頭の中で叫び続ける美琴。彼女自身、何に対してどう憤っているのか、よくわからなかった。
病気のことを自分に教えなかった笑美が許せないのか?
ステージを放棄しようとしている自分にムカついているのか?
笑美の病気に対し、何もできないでいる自分に対し、無力感を覚えているのか?
あるいは──その全てなのか?
「畜生……!」
走り続け、汗だくになった美琴は、たまたま近くにあった壁に、拳の側面を叩きつける。ドガンと、小さく鈍い音が鳴った。
怒りや無力感、罪悪感。様々な感情がごちゃまぜとなり、美琴を無機物への暴力に導いたのだ。
「……ここは……」
美琴は、走りつかれたためか、何となく周囲を見渡した。
夜のとばりが下り切っている上、分厚い雲が空を覆っているため、自然の光は欠片も存在していない。しかし、街全体に伸びているかのような、大量のネオンによる怪しげな光が、辺りを怪しく照らしてた。
そう。ここは、美琴と笑美が、初めて会話をした場所だった。
(何やってんだよ、アタシ)
ひょっとしたら、心の底で、最初に笑美と会話した時間に戻り、やり直そうとでも考えたのかもしれない。
そう思うと、自分で自分がバカバカしくなってきた。
「……あっはっは、何なんだよ。ホント、何やってんだよ、アタシは」
自虐するような乾いた笑い声が、美琴の口から漏れてきた、その時だった。
「っ!?」
バギィ!
頭の後ろの方から、大きな破砕音が聞こえてきた。同時に、脳に直接響くかのような、強烈な痛みが走る。
(何、が……?)
後ろを振り返ろうとするも、その前に美琴の意識は、痛みによって刈り取られてしまった。
ドサリと音を立てて、地面に倒れこむ美琴。そんな彼女の後ろには、複数人の男子──いずれも普通の恰好をしている──が立っていた。
「この間は世話になったな。お礼に来たぜ」
彼らの持つ鈍器の一つ──美琴の後頭部を殴打した金属バットには、血液が付着している。
倒れた美琴を睨む彼らの目は、その装いとは裏腹に、憎しみと怒りでドス黒く染まっていた。
***
文化祭当日の朝。
既に校内は一般客に解放されており、真財高校の生徒のみならず、他校の生徒や保護者などが、大勢校舎を歩いていた。
そして、その校舎の一角。本来は体育の授業や運動部の部活で使う体育館が、普段とは異なる様相となっていた。
床にはビニールシートが設えられ、その上に所せましとパイプ椅子が並べられている。前方にあるステージの上には、音響関連の電線が数えきれないほど伸びていた。
真財高校文化祭の目玉企画、有志グループによるステージ発表会の会場である。
しかし、今現在はまだ開場前なため、観客は一人もいない。それどころか、演者たちですら見える位置にはいなかった。
演者たちが、まだ会場に来ていないわけではない。彼らは全員、ステージ脇にある控室に集合していたのだ。
「はい、それではリハーサルを始めます。本番の順番通りに、ステージに上っていってください」
演者たちに指示を出すのは、ステージイベントのマネージャーを務めている、文化祭実行委員の生徒であった。
開場は午前十一時。それまでに、演者たちは各々リハーサルを行う手はずになっているのだ。
「ではまず、トップバッターの人」
「は、はい!」
緊張していると一瞬でわかる声が、控室内に響き渡る。
声の主は、笑美であった。
「あれ、一人ですか? トップバッターは漫才のはずじゃ……」
「す、すみません! 相方は、その……自分探しをするとかで、ちょっと遅れてて!」
「は? 自分探し?」
笑美の説明を聞いた実行委員の生徒は、彼女に対し、ジト目を向けた。
笑美としては、必死に良い言い訳を考えたつもりだったのだが、天然な彼女がそれをやると、かえって胡散臭くなってしまうのであった。
「よくわかりませんが……とりあえず、ステージに出てもらえますか? 立ち位置の確認だけでもしたいので」
「ひゃ、ひゃい!」
実行委員の指示に従い、笑美は一人でステージへの階段を上っていく。
その間──というか昨夜からずっと──彼女の頭にあったのは、たった一つのことだった。
(ミコちゃん……ホントに来てくれないの?)
美琴が法下院家の屋敷を飛び出してから、笑美は思いつく限りの手段を全て使い、美琴に連絡を試みた。
電話もした。ラインも送った。SNSのたぐいも利用した。無論、自分の足で探しもした。
しかし、美琴に連絡はつかなかった。
美琴のいないステージなど、当然ながらまったく想定していない。練習はおろか、脚本すら用意できていない。
このままでは、笑美のステージは間違いなく失敗する。お笑い部の設立も遠のくだろう。
今日になれば美琴が考えを改めてくれているかもと思い、とりあえず一人で集合時間にやってはきたが、やはり彼女の姿はなかった。
「はい、立ち位置はOKですね。じゃあ次のグループと交代する練習を……」
事情を知らない実行委員が、淡々と指示を出してくる。笑美はとりあえずその指示に従い、ステージから控室に戻っていった。
(ミコちゃん、せめて返事をして……!)
控室へと戻った笑美は、ダメで元々という気持ちで、再度美琴に連絡をしようと、スマホを取り出した。
そして、ラインを起動し、美琴とのやり取りを表示しようとした──その時だった。
「ミコちゃん!?」
おそらく、ステージに上がっていた時に送られたのだろう。笑美のスマホに、美琴からラインが入っていた。
笑美ははやる気持ちを抑えつつ、冷静にスマホを操作し、美琴からのラインを表示させる。
すると次の瞬間、笑美の顔に、驚愕の色が深く刻まれた。
「……何これ?」
笑美のスマホには、一通のメッセージと、一枚の写真が送られてきていた。
写真には、椅子に座りつけられている美琴が映っていた。顔にいくつか殴られたような傷もあり、明らかに尋常な様子ではない。
一方、メッセージにはこう書かれていた。
『津崎美琴の身柄は預かった。解放してほしければ、今すぐ体育館倉庫に来い』
「ミコちゃん……!」
事態はさっぱり飲み込めない。しかし、この数週間、相方としてともに切磋琢磨してきた友達が、窮地に追いやられていることだけはわかった。
「じゃあ次のグループは──」
笑美は、演者たちに指示を出す実行委員の視界に入らないよう、
こっそりと体育館を抜け出すのだった。