第2話
結局美琴は、その日は無事逃げおおせたものの、次の日から、学校で熱烈な勧誘を受けることとなった。
「ミコちゃん、私の相方になって!」
「授業中に言ってくるなよ……」
国語の授業中、笑美が突然立ち上がり、美琴に言ってきた。
突然美琴に頭を下げた笑美に、担当教師を含め、その場にいた誰もがぽかんとなってしまう。
美琴としては、頭が痛かった。
しかし、こんなのはまだ序の口だった。
「ミコちゃ~ん♪ 私の相方になって~♪」
「歌ってる時に言ってくるなよ」
音楽の授業中、合唱をしている時、隣に立っていた笑美が、歌いながら美琴に言ってきた。
笑美の歌は、当然ながら歌詞こそまったく異なったものの、音程とリズムは完璧で、他の面子と完璧なハーモニーを奏でられていた。
美琴としては、完璧具合が逆に気持ちが悪かった。
「ゴポゴポ……ミコちゃん、私の相方になって……ゴポ……!」
「泳いでる時に言うなよ──っていうか、どうやって言ってんだ!?」
体育の授業中、プールで水泳をやっている時、美琴の隣のレーンで泳いでいた笑美が、潜水をしながら言ってきた。
美琴としては、物理を超越している彼女が、もはやホラーの産物に思えた。
「ゴフ、ゲボ……ミコ、ちゃ……私の、あいがだに……なって……ガクッ……」
「死にかけてる時に言うんじゃねぇええ!」
泳ぎながらしゃべったため、溺れて意識を失った笑美が、うわごとのように言ってきた。
やむなく救助し、必死に心臓マッサージを行いながら彼女の言葉を聞いた美琴としては、恐怖を通り越して、ある種の敬意すら覚えてしまった。
(もうこれ、イジメの域だろ……)
美琴は笑美ノイローゼにかかりそうになっていた。
そして場面は戻って、真財高校の屋上。
美琴は、もはや何十回めになっているかもわからない勧誘を、笑美から受けているのだった。
「ミコちゃん、私の相方になって!」
「はぁ……なぁ笑美。お前、なんでそこまでお笑いにこだわるんだ?」
美琴は、笑美の異常な熱意を受け続けたことで浮かんだ疑問を口にした。
すると笑美は、これまでに見たこともない真剣な顔となった。
「恩返しがしたいの」
「? 恩返し?」
そして笑美は語り始めた。
自分が、お笑いというものに、人生を救われたことを。
***
笑美は大企業・法下院グループ会長の一人娘として、この世に生を受けた。
グループ会長である父親は、何よりも仕事を優先する人間で、笑美にも自分の娘としてふさわしい振る舞いを求めた。つまり、厳しい英才教育を施したのだ。
笑美は、学問はもちろん、ありとあらゆる礼儀作法や技能を身に付けるため、物心が付く前から、過酷な鍛錬を強要された。
人前でミスをすれば激しくしかられ、時には暴力を振るわれることもあった。
まだ幼かったにも関わらず、笑美は心身ともに限界だった。
そんな笑美の心の支えとなっていたのは、母親の存在だった。
笑美の母は政略結婚で父といっしょになったため、父を激しく恐れていた。そのため教育方針にこそ口を出さなかったが、笑美にはとても優しかった。時折食べさせてくれる母の手作りお菓子が、幼い笑美には何よりも楽しみだった。
しかし、笑美が小学校三年の時、母は癌で死んだ。症状が発覚した時には既に末期で、半年後にはあっさりと亡くなったのだ。
そして、母の死に顔を見た瞬間から、笑美は笑わなくなった。
感情を失くしてしまったかのように、一切表情を変化させることなく、ただ求められたことを最低限こなすだけになったのだ。
小学校でも異端児とされ、虐めの標的になった。結果、笑美は自室に引きこもるようになった。
父親は笑美を失敗作と断じ、世話を使用人たちに任せ、笑美と関わらなくなった。
笑美が生まれた時から世話をしている使用人たちは、引きこもった笑美を助けようと四苦八苦したが、何の成果も出なかった。
ただ、笑美が小学六年生の時、たまたま使用人がスマホで見ていたお笑いの動画が、笑美の目に入った。
すると──
「……ふふっ」
笑美が、ほんのわずかにではあったが、笑ったのだ。
本当に小さな笑いで、彼女はすぐにまた無表情に戻った。けれど、使用人たちは、この自分たちにとって驚天動地のごとき出来事を、決して見逃さなかった。
使用人たちは次の日から、動画でもテレビでも、とにかく笑える物を笑美に見せるようになった。すると、ほんの少しづつではあるが、笑美が笑顔を見せてくれるようになった。
使用人たちは、誰もが胸をなでおろした。
その後、笑美は徐々にではあるが感情を取り戻していき、中学生の半ばに差し掛かるころには、どうにか普通の学生生活になじめるまでには回復していた。
***
「今、私が普通に生活できてるのは、使用人のみんなのおかげでもあるけど、お笑いのおかげでもあるの。だから、私自身もお笑いをやって、『お笑い』ってもの自体に恩返しがしたいのよ」
「……で、お笑い部か」
「そう! 部活をやろうって思えるくらいになったのは、もう中学校生活が終わりかけてたからね。なら高校でやろうって思ったわけ!」
朗らかに笑いながら言う笑美。その笑顔からは、とてもそんな凄惨な過去があったとは思えない。
だが、ここ数日続いた熱烈な勧誘が、笑美が本気であることを証明していた。
「ステージでの漫才な、やってやってもいいぞ」
「え!? 本当!?」
美琴が唐突に意見を翻したためか、笑美は目を丸くして驚いた。
「ま、これ一回きりだけどな」
「十分だよ! ありがとう、ミコちゃん! さっそくオーブンを温めなくちゃだね!」
「パンネタ、まだ続くのか……?」
喜びのあまり、美琴に抱き着いてくる笑美。美琴としては、なんだか気恥しくてしょうがなかった。
(ま、アタシも似たようなもんだったしな……)
あえて口には出さなかったが、美琴は笑美の過去に共感を覚えたのだ。
美琴の父親は、暴力を振るう人間だった。
美琴自身には(護身術を教える以外)決して手をあげなかったものの、それ以外なら誰でも殴るため、警察の厄介になることも頻繁にあった。そのため、本人はおろか、美琴や母までが、周囲から避けられることとなったのだ。
自分は何も悪いことはしていないのに、周りから恐れられ、時には石を投げられる。そうした劣悪な環境は、美琴の心に傷を生み、やがて素行を悪化させていった。
美琴が小学校高学年の時に両親が離婚して以来、父とは一度も会っていない。
しかし、一度出来た評判はなかなか消えず、美琴は中学まで、ほとんどの時間を一人で過ごすこととなった。
その結果たどり着いた趣味が、圧倒的な量の読書だったのである。
美琴は、細部こそ異なるものの、自分と同じく、親のせいで苦痛を被った笑美が、他人とは思えなかったのである。
「これからよろしくね、ミコちゃん!」
「おう」
話がひと段落ついたところで、美琴は、煙草の火が消えていることに気が付いた。
どうやら話に夢中で、吸いきったことに気づかなかったらしい。
美琴は吸い殻を携帯灰皿に入れ、ポケットから箱を取り出し、新たな一本を口に咥えようとした。
が、次の瞬間、唇の間にあった感触が消失した。
「おい、何すんだよ。返せよ」
煙草を奪い取った笑美に、美琴がにらみを利かせる。
しかし笑美は、微塵も動揺することなく言ってきた。
「お笑いはね、声を張り上げる活動なの。煙草なんか吸ったらできなくなるわ。一度私の相方になった以上、お笑い道から外れるか死ぬまで、煙草なんてダメ」
頼んだ立場で言うのはなんだけどね──と、微笑んでくる笑美。
その顔を見た瞬間、美琴は生唾を飲み込んでしまった。
先ほどまでの天然な空気はどこに行ったのやら。その微笑みからは恐るべき量の怒りが感じられ、後ろに般若さえ見えそうだったからだ。
「イ、イエスマム……」
美琴は、思わず突っ込むことさえ忘れ、敬礼していた。
(やべぇ……こいつ、お笑いに関してはガチ中のガチだ)
元々、一度引き受けた以上、仕事を全うするつもりだったが、それでも背筋が冷たくなってしまう美琴であった。
「それじゃ、早速練習していこー!」