第1話
雲一つない青空の下に、ある学校の校舎がそびえたっている。
学校の名前は私立真財高校。地方の私立ながら、長い歴史があり、進学校として有名な学校だ。
しかし現在、屋上の塔屋の上で、授業をさぼっている女子生徒が一人、寝転んでいた。
風になびく長い髪は染められた金色、制服は派手に着崩しており、スカートも短い。耳にはピアスがいくつも並んでいて、派手な化粧で覆われたその顔は、口に咥えた煙草から伸びる煙でよく見えない。
令和四年の世には珍しいギャルファッションにして、ぱっと見でわかるような不良である。
進学校である真財高校は、優等生か普通の生徒ばかりなので、一際目立つ外見でもあった。
彼女の名前は津崎美琴。真財高校の一年生である。
現在の若者らしく、先ほどからずっとスマホを弄っているが、その画面に表示されているのは、文豪・太宰治の執筆した『斜陽』、その電子書籍版であった。
彼女は見た目とは裏腹に、大変な読書家だった。年間の読書量はなんと三百冊を越え、しかも好むのは文学作品。
その趣味のため、ろくに授業に出ないにも関わらず、国語の成績だけは、学年でもトップクラスを誇っていた。
不良である彼女が進学校で退学にならない理由はいくつかあるのだが、そのうちの一つである。
ちなみに、彼女の服装がやや古いのも、昭和以前の名作文学を読み漁り、その影響を受けた結果なのだった。
美琴が、太宰の圧倒的な文章力で紡がれる、荘厳な風景を想起させる美麗な文章に目を細めていると──
「ミコちゃん!」
頭のネジが一本抜けたような、妙に甲高い声が、美琴の耳に届いた。
「げほ、ごほ!」
途端、美琴は動揺し、うまく煙を処理しきれず、せき込んでしまう。
同時にその表情が、咳による苦しさとは無関係に、うんざりしたものに変化する。
「今日はここにいたんだね。また読書? 何読んでるの?」
美琴が、塔屋の端に設置されているはしごに目を向けると、ある女生徒が顔をのぞかせていた。
目には縁の太い眼鏡、着用している美琴と同じ制服は、一切の着崩しなし。大人しい優等生という体の彼女は、法下院笑美といった。
今現在、美琴の中で好感度が下がり続けている女である。
「ねぇねぇ、何読んでるのってば!」
「……太宰治」
「知ってる! 『吾輩はにゃんこである』の人だよね!」
「色々間違い過ぎだ」
微妙に可愛いのが腹立たしい。
「あ、『蟹光線』の人だっけ?」
「新しい必殺技か?」
蟹光線。特撮に出てくる蟹怪人が使いそうだ。
「わかった! 『人間失敗』の人だ!」
「人間を失敗してるのはお前だ!」
つい声を張り上げてしまう美琴。しかし、叫ばれた笑美は、微塵も動揺することなく、ひたすらに目を輝かせていた。
「流石ミコちゃん。ツッコミのキレは、初めて話した時から変わらないね!」
「初めて話したの、ほんの数日前だろ……」
美琴はややうんざりしながら、笑美と最初に話した時のことを思い出していった。
***
その日、美琴は夜の街をうろついていた。
別段目的があったわけではない。読みたいと思っていた本を一通り読み終え、生じた暇をつぶすべく、ぶらついていただけだ。
令和の世には珍しい、ガチな不良である美琴には、友達らしい友達がいない。
両親は離婚しており、美琴を引き取った母親も水商売をしているため、家に帰っても誰もいない。
要するにボッチなため、このくらいしか暇つぶしの手段がないのだった。
怪しげに光るネオン、キャバクラの客引き、建物の間から覗く小さな夜空を塞ぐ大量の紫煙。そうした夜の街特有の暗い空気が、孤独である美琴には、どこか心地よく感じられた。
(そろそろ帰ろうかな……)
とはいえ、手持ちの小遣いも底をついた上、いい加減歩き疲れもした。
帰路につこうと、美琴が踵を返しかけた、その時だった。
「いいじゃん、お茶だけお茶だけ!」
「帰りも送ってあげるからさ、ね?」
「あ、あの私、テイクアウトは承っていないので……」
複数人の男と、わけのわからないことを言う女の会話が聞こえてきた。
何となく目を向けると、女一人に男たちが群がっていた。男女ともに美琴と同年代、つまり十代後半のようだ。
そして双方とも、見かけは普通の少年少女だった。
髪を脱色しているわけでもなければ、美琴のように耳にピアス穴を開けているわけでもない。オラつくような服装をしているわけでもなく、威圧感もまったくなかった。
一見すると、夜の街の住人には見えないが──
「いいから来いっていってんだろ!」
「イヤぁ!」
男の一人が、少女の手を取り、無理やり引っ張っていこうとする。少女は本気で嫌がっているようだ。
令和の世に、美琴のような不良は珍しい。しかしそれは、悪事を働く少年が絶滅しかけている、ということではない。
悪者が悪者とわかる格好をしなくなっただけなのだ。
つまり、今、少女を拉致しようとしている少年たちも、相当悪質な可能性がある。
(っていうか、あいつ……)
美琴は絡まれている少女の方を見た。
顔には縁の太い眼鏡をかけ、着ている制服には着崩しがない。よく見れば、真財高校の制服だった。
さらによく観察してみると、美琴は少女の顔に見覚えがあった。入学以来話したことはないが、同じクラスの女子だ。
(たしか、法下院って言ったっけ)
クラスメイトだと気付いた美琴は、小さくため息をつきながら、男たちに近づいていった。
「やめてあげなよ」
「あ? なんだてめ──え!?」
少年の一人が美琴の方を向いた途端、その体が宙を浮いた。
そして、たっぷり一秒は経過した後、少年は派手な音を立てながら地面に落ち、空を仰ぎ見た。
「ほいっと」
「ぎゃふっ!?」
少年の手首を掴み、大して力も入れずに投げ飛ばした美琴は、トドメとして、少年の喉元に足を叩き込む。
蹴られた少年は、一度大きく胸を跳ね上げ、短い悲鳴を上げたのち、意識を失った。
「何すんだてめぇ!」
この手の輩は、時代・地域を問わず、仲間がやられると敵に殺到する習性を持つ。
この少年たちも御多分に漏れることなく、美琴へと詰めかけてきた。
だが。
「ほい、ほい、ほいっと」
「ひぎっ!?」
「んがっ!」
美琴は次から次へと少年を投げ飛ばし、そして的確に無力化させていった。
美琴は幼いころ、母親と離婚した父親から、護身術を叩き込まれていた。ゆえに、武道の心得もない男数人程度なら、楽にあしらえるのだ。
現に今も、ものの一分もかかることなく、群がってきた少年全員を、息も絶え絶えといった体にしていた。
「ま、こんなもんかな。お前も早いとこ帰れよ」
一通り少年たちを倒し終えた美琴は、目を丸くしている笑美に背を向け、再び夜の街に向けて歩き出そうとした。
しかし、そんな美琴に声がかかる。
「あ、あの!」
「ん?」
振り返ってみると、笑美が追いかけてきていた。
(もしかして、お礼言いたいとか? 面倒くさいなぁ……)
別に美琴は、謝礼を求めてやったわけではない。むしろ、警察沙汰などになる可能性を考えると、少年たちはもちろん、笑美にだって関わりたくないと思ってしまう。
(よし。適当にあしらって、すぐに逃げよう)
と思っていた美琴だったが、笑美の口から出た言葉は、予想の斜め上を行くものだった。
「今のって、必殺技!?」
「……は?」
ぽかんとなってしまう美琴。しかし笑美の顔は真剣そのものだ。
(そういえばこいつ、結構なお嬢様だとか聞いたような……)
世間知らずのお嬢様が、生まれて初めて生で喧嘩を見たため、興奮しているのかもしれない。
そう思うと、美琴はどこかおかしくなった。
「あはは、そうだよ。美琴ローリング・クレイドルっていうんだ」
「なんですって!? まさか、エヴァンゲ〇オンの奥義を体得したというの!?」
「お前、エヴァ見てないだろ」
美琴の知る限り、汎用人型決戦兵器はローリング・クレイドルを使わない。
あと、今しがた美琴の使った技は、ローリング・クレイドルでもない。
美琴が反射的にツッコミを入れると、笑美は俯いたまま、全身をふるふると震えさせた。その一方で、妙に目が輝いているようにも見える。
(なんだこいつ?)
美琴からすると、笑美の反応は不可解この上ない。
どうしたものかと美琴が思案していると、笑美はぱっと顔を上げ、こう言ってきた。
「お願い! 私の相方になって!」
「……は?」
場面が移って、繁華街の一角にある喫茶店。
既に夜も遅かったが、場所柄からか、その店はまだ営業していた。
そして、その店の奥にある席に、美琴と笑美が向かい合って座っていた。
美琴が詳しい話を聞くべく、場所を移すことを提案したのだ。
「つまり話をまとめると、こういうことか。お前はお笑いの大ファンで、高校ではお笑いをやる部活に入ろうと思っていた。けど、真財高校にそんな部活はなかった、と」
「その通りよ!」
両手の拳を握り、鼻をフンスと鳴らしながら、元気いっぱい肯定する笑美。
一方の美琴は、心の中で嘆息してしまう。
(んなもん、入学する前に調べておけよ)
真財高校は、中学生向けにオープンスクールもしていれば、存在する全部活の載ったパンフレットを配布してもいる。しかし笑美は、それらの情報を仕入れることなく入学したらしい。
お笑い部を待望しておきながら、それが存在しないことを調べもせずに入るとは、アホと言わざるを得ない。
(まぁこいつ、かなりの天然っぽいしなぁ……)
ほんの数分会話しただが、既に笑美の本質を見抜いてしまっている美琴であった。
「そこで思ったの。入りたい部活がないのなら、生地から手作りすればいいって!」
「その部活、パンか何かで出来てるのか……?」
なんだか精神的に疲れてくる美琴であった。
「勝手に作ればいいだろ。なんでアタシが相方だのなんだのって話になる?」
「ミコちゃんは存在が笑えるからよ!」
「ぶっ殺すぞ」
美琴の握ったコーヒーカップの取っ手から、ピシリと音が鳴った。
いきなりのミコちゃん呼びはともかくとして、なぜいきなり、それも相方になってくれと頼まれたそばから罵倒されにゃならんのか。
美琴の不機嫌顔を見た笑美は、慌てて訂正をした。
「ご、ごめんなさい、言葉を間違えたわ。ミコちゃんのツッコミの腕なら、お客さんを笑わせられる。ひいては、部設立の条件クリアにつながるって思ったからよ」
「条件? なんだそりゃ」
「えっとね、私、入学してすぐに、先生にかけあったの。お笑い系の部を作りたいんですけどって。ダメって言われたけど……」
「まぁそうなるだろうな」
私立真財高校は歴史ある進学校。お笑い系の部活が作りたいなどと言えば、ふざけるなと一蹴されるのがオチだ。
「それでもあきらめきれなくって、何度も何度も粘ったの。そうしたら、条件をクリアできたら考えてやるって言われて……」
「その条件ってのは?」
美琴が尋ねると、笑美は真剣な顔となった。
「今月末にある文化祭のステージに出て、お客さんのアンケートで一位を取れって」
「なるほど。少し話がつながってきたぞ」
真財高校は九月の末に、学校を上げて文化祭を行う。
そして、文化祭の目玉企画として、体育館のステージを利用した、有志グループの発表会を行うのだ。
終演後には、どのグループの出し物がよかったか、お客にアンケートをお願いすることになっている。
そのアンケートで一位を取れば、部設立が認められるというわけだ。
しかし、これは決して簡単なことではない。
有志グループの数は多い。そして、現在の高校生はスマホを持っているため、ネットの情報を駆使し、あっと驚くような芸を用意することもあるのだ。
(これ、こいつがしつこいから、諦めさせるために、無理な条件を出されたんじゃねーか?)
話を聞いた美琴は、コーヒーをすすりつつ、そう推察した。
「ステージでは漫才をしようと思ったの。私がお笑いの中でも特に好きだから。で、相方を探したんだけど、友達全員から断られて……」
「なるほどなぁ」
美琴は納得した。
笑美がどれだけの人脈を持っているかは知らないが、教室で笑いを取るのとはわけが違うのだ。
素人の高校生の中に、そんな難題をいっしょにこなしてくれる人間が、そうそういるとは思えない。
「で、アタシを見つけたと」
「そう! あの男の子たちをやっつけてくれた時に確信したわ。ツッコミに関しては、百年に一人の逸材だって!」
「男どもを倒したのと、ツッコミの才能。どう関係するんだ?」
「あはは、そんなの関係あるわけないじゃない!」
「論理って言葉を辞書で引いて調べてこい」
論理破綻を地で行く笑美に、美琴はまたも自然と突っ込んでしまう。
美琴の常人離れした読書量は、ツッコミに必要な語彙と思考速度を与えてくれてもいた。つまるところ、女の勘以下の当てずっぽうでありながら、美琴に漫才の才能があるという指摘は、正鵠を射ていたのだ。
「というわけで、お願い! 相方になって、私とステージに立って!」
「やなこった。なんでアタシが漫才なんぞ」
「そこを何とか! 助けると思って!」
「いやだっつーの」
「宅建と思って!」
美琴は、笑美の台詞を聞いて、顔をしかめつつも察した。
(ははぁ、なるほど。「助ける」と「宅建」をかけて、つっこませようとしているわけだ)
美琴にはツッコミの才能があると、美琴自身に認めさせるための罠というわけだ。
(天然のわりにはよく考えてやがる。だが、その手には乗らねぇぞ)
美琴としては、自分にはツッコミの才能などないと思ってほしいのだ。
数舜の思考の後、美琴は普通に返事をすることにした。
「宅建ってなんだ?」
「宅建っていうのは、宅地建物取引士の略で、宅地建物取引業者(一般に不動産会社)が行う、宅地又は建物の売買、交換又は貸借の取引に対して、購入者等の利益の保護及び円滑な宅地又は建物の流通に資するよう、公正かつ誠実に法に定める事務(重要事項の説明等)を行う、不動産取引法務の専門家のことよ」
「アタシの助け、いるか?」
唐突に完璧な説明を始めた笑美にドン引きつつも、うっかり突っ込んでしまった美琴であった。
「その機転が欲しいのよ!」
美琴の手をガッシリと握りつつ、熱く語ってくる笑美。美琴は、うんざりを通り越して怖くなっていた。
「とにかくお断りだ。他を当たってくれ」
「あ、待ってよミコちゃん!」
無理やり会話を切り上げ、喫茶店を出た美琴を、笑美が追っていく。
これが、数日前の出来事である。