三之巻、花の吉藁いくさ傳(でん)、尋常に勝負せよ!(前篇)
吉藁は、その名が江戸時代の「吉原」に由来していることからも分かるように、都から少し離れた田んぼの中につくられた一大歓楽街だ。四方を堀に囲まれたこの町には妓楼、商家、芸人など一万人近くの人間が住み、夢と快楽を求めてやってくる男たちを日々楽しませている。
田んぼの中を大回りして、平粛、陶円明らがかついだ駕籠は、高い塀の前で止まった。禿姿の来夜が這い出ると、二人は、吉藁へのたったひとつの出入り口、大門めざして、再び田んぼの中に消えた。禿とは姉女郎についている遊女の卵のことだ。来夜は、堀の傍を回って、とある妓楼の下で足を止める。昼間っから遊んでいる呑気な客もあるものか、二階からにぎやかな笑い声が聞こえる。
(ここだな、金の瞳を持つ花魁、宴小町がいるという店は)
来夜は紀金兵衛が記した地図を片手に梅乃屋を見上げる。この店が塀の際に建っていたのは幸運なようだが、塀の上には、先を鋭く削った竹を並べた忍び返し、塀の手前には堀の水が横たわっている。
だが天下一の盗み屋槻来夜に、これしきの障害は朝飯前。出掛けに付け替えた左手はただの少女の手ではない、「忍び込み用」なのだ。裏ではこういったお上の禁止する武器が数多く売り買いされている。来夜たち盗み屋の売る部品をもとに、怪しい修理屋が作るのだ。勿論、ほとんどの修理屋は裏社会とは関係なく、真面目に仕事をしている。
「それっ」
掛け声ひとつ、左手薬指の先が飛んだと思うと、塀の中、妓楼の軒先に引っかかる。よく見れば、手元から紐のようなものでつながっている。紐の長さは、来夜の意志で自由に変わる。
助走をつけて飛び跳ねた来夜の影は、次の瞬間塀に垂直に立っている。思い切り塀を蹴れば、小さな体は空に舞い上がり、ぐんぐん短くなる紐に吸い寄せられて、あっという間に妓楼の屋根に着地した。
ぺん、と薬指を軒下からはずして、にんまりする。
「大成功★」
だが急に心配顔で、ふところから手鏡を取り出し、上目遣いに、かんざしの向きをちょいとただす。紅をぬった唇でにっこりほほ笑んでみれば、我ながらふるいつきたくなるようなあでやかさ。こんなこと思ってるのは自分だけとも気付かず、来夜くんは大満足だった。
お次は店の中にしのびこむぞ、とまたもや薬指を伸ばそうとしたとき、すぐ下から女の悲鳴が聞こえてきた。
「おやめ下さい、旦那様!」
悲鳴に混じって、必死になだめすかす女たちの声も聞こえる。
こんな外見だけど、来夜の持ち前の義侠心に火がついた。女子供が困っていたら助けなければならぬ。
来夜の理論では、自分は子供ではない。なぜなら強いからだ。
何はともあれ、泥棒だけど、弱きを助け強きをくじく来夜の姿勢は、盗み屋マルニンを一気に都の人気者にした。近頃じゃあ、歌舞伎役者も町火消しも、マルニンを追っている二枚目警部・原亮も、マルニンの人気には及ばないほどだ。
だがマルニンの前頭目金巴宇は、残酷で狡猾な男だった。だから彼を都から追い出した来夜は、一躍都の人気者になったのだ。その金巴宇、近頃都に戻り来夜の命と天下一の座を狙っているという噂もある。
窓から素早く忍び込み、来夜は走りにくい着物の裾をからげて悲鳴の聞こえる方へ急いだ。
「禿や、どこへ――」
問う声に見向きもせず、まだ閑散としている廊下を走り抜け騒ぎの座敷にたどりつく。からりと襖を開け、来夜は硬直した。
「このあとどうなるんだろう」
「続きが気になるな」
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