b.b.
思考回路が破壊された。
その夜に、僕のすべてが変った。
----ボクガイナクナッタ----
>>act01. C&R Co.
頭の機能は完全に壊れていた。
パソコンの前に、一体何時間座っているのだろう。
数日はたっているような気がする。時間の流れが僕の中で遮断されていた。ネットに接続したまま、ずっと、何を見るでもなく、クリックできるところをひたすらクリックし続けていた。
カチカチ、カチカチ、カチカチ、
目が熱くなってくる。頭が痛い。
カチカチ、カチカチ、カチカチ、
何かに取り憑かれているかのように、ずっとパソコンの画面を見ていた。ゆらゆらと目が泳ぎ、画面がちらついているのか、僕自身が揺れているのか、浮遊状態に達しようとした時、僕はクリックをする手を止めた。
とても奇妙なサイトに到着していたからだ。その違和感は『異様』という表現がとても似合っていて、不気味さが際立った。
『生まれ変わりましょう、きっと、なりたい自分になれるはず…』
そのサイトの内容を読んでみると、体の一部をいろんなものに交換してくれるらしいことが分かった。頭が変になったのだろうか。そんなことありえるはずがない。そう思ってはいながらも、僕は、そのサイトを真剣に閲覧していた。
『脳ミソも交換可能です。ちょっとお高くつくけど、いい気分。ザ・リフレッシュ』
ありえない、そんなこと。
僕は口に出して呟いていた。
どうやって、交換するんだ。リフレッシュだなんて、悪ふざけもいいところだ。
しかし、だ。
その会社の名前は、C&R Co.で、住所、問い合わせ電話番号、メールアドレスなどが、きちんと記載されていた。ちなみに電話での問い合わせ時間は0:00am~3:00amとある。
夜中ではないか…。なんだそれは。
僕は時計を見た。1時をまわっている。ビンゴ。問い合わせできるぞ、と僕は思った。これが現実なのか、どうなのか、少し試したくなった。恐ろしい金額の請求書が来たりして?と思ったが、冷静に物事を考えることはできなくなっていたのは言うまでもない。ただ好奇心だけが僕を支配していた。
僕はスマートフォンを手に取ると、そこに表示されている番号を押した。
呼び出し音がやけに大きく聞こえる。少しだけドキドキした。とても奇妙な緊張感。3回ほど鳴らすと、女の声がした。
「こんばんは。C&R Co.です。受付担当のバニーです。どうぞよろしく。」
僕は一瞬、声が出なかった。
バニーってなんだよ。やはり、あれか?テレフォンセックスとか?その手のやつか?
まあ、それでもいいけれど。気が抜けて現実に戻った気がした。
「お客様の名前は?登録済みですか?」
「君は僕をどれくらい満足させてくれるの?自信はある?」
「は?お客様、電話番号をお間違えでは?」
「え?アレじゃないわけ?」
女は黙っている。とても嫌な沈黙だった。その沈黙は僕をとても辱めた。C&R Co.…一体なんだ…僕は、もう一度、先ほどのサイトを見返した。
『生まれ変わりましょう、きっと、なりたい自分になれるはず…』
『脳ミソも交換可能です。ちょっとお高くつくけど、いい気分。ザ・リフレッシュ』
「こちらの電話番号は、C&R Co.です。お客様、そういうのは、他をお頼り下さい。用がないのでしたら、これで失礼します。」
バニーと言う女は少し怒ったようにそう言った。僕は慌てた。
「ちょ、ちょっと、待って。ゴメン。だって、夜中でさ、それもさ、こんな変な会社がさ、存在するなんて思わないだろ。本当に存在するのかなって思ってかけたらさ、バニーとか言うからさ、あ、やっぱり、エッチな電話なんだ、とか思うだろ?違うの?」
「違います。人体部品交換、変換会社です。」
だから、本当。なんだ、それ。きっと異次元の世界にいる。現実ではない何処かに、僕は今存在している。
「お客様のご希望は何でしょう?」
僕はしばらく考えた。ここ最近、ずっと家にこもったままだった。女と別れたことがその大きい原因かもしれない。それでどうでもよくなって、ずっと家にいる気がする。情けない。どうして、こんなに情けないのだ、僕は。
どうして、追いかけなかったのだろう。あの時。
「お客様?」
バニーの声に反応し、僕が言った次の言葉こうだった。
「脳ミソ交換して下さい。」
「脳ミソですか?了解いたしました。」
バニーは対応した。ごく普通に。
ありえるのだろうか。そんなことが。現実に。やはり現実ではない世界にいるのか?夢を見ているのかもしれない。
「では、お客様。私の言うとおりにして下さい。まず、お客様が一体どう言う方なのか、こちらも知っておかなければなりません。お手数ですが、本社まで、履歴書をお持ち下さい。郵送でも構いませんが、お客様の家からなら、きっと、本社に直接来られる方が早いと思います。」
疑問の数々。
履歴書?なんだ、それは。そこに勤めるわけではないのに。普通なら、身分証明書じゃないんだろうか…しかも、どうして、僕の家がそこに近いと分かるんだろうか。
やはり、これは何かの遊び?からかわれている?少し気味が悪くなった。
「以上です。では、お客様の履歴書をお待ちしております。それでは。」
バニーは、電話を切ろうとした。
「待って。本社って、何処なの?」
「ネット上に、地図を記載していますが…お客様なら、それを見ずとも来られると思います。」
女は淡々と喋る。すべてが当然のことのように。
僕はパソコンの画面を見た。そこには、先ほどとは違う映像が映っていた。見覚えのある景色だった。薄暗い部屋…画面に映っているのは、僕の部屋だった。
「お客様の部屋から、本社は繋がっているのですよ。本当、素晴らしいお客様。感激です。それでは…。」
プツリと回線は切れた。僕は何も言えなくなった。
ただただ、その画面を見ていた。ずっと見ていた。
そして、気がついた時には、空が明るくなっていた。
新しい日の始まり。僕の思考回路が壊れた日。
>>act02. bunny girl
いつからだ。その迷宮にはまってしまったのは。
彼女が出て行った日から、僕の中の何かが壊れた。愛しているとか愛していないとか、そう言うのは面倒だった。だけど、そう思っていたのは彼女で、僕ではなかった。気がつけば、僕は何かしら飢えていて、彼女を求めた。僕は卑怯なのだ。とても。そして、それに嫌気がさしたのか、彼女は他に男を作り(よりによって、僕の仲のいい友人だった)逃げて行った。
大したことはない。
そう思っていたのに、日がたつにつれ、僕は家に閉じこもるようになってしまった。
情けなかった。
僕はいつも変りたいと望んだ。
この情けない自分を変えられるものなら、変えたいと思った。
大人になるにつれ、そう強く願った。
そして…その道は、今、僕の部屋から伸びている。
脳を交換するとは、どう言うことだろう?
そもそも、自分と言うものの形成は、どのようにしてできる?
環境?それとも…。心理学や医学、生物学などを読めば解明できるのだろうか。
しかし、僕は単純に考え方の根本が変わってしまえば、きっと性格も変わるのではないか、と思った。
それで、僕は、脳ミソを交換してくれ、とバニーと言う女に答えたのだ。
僕はカーテンを開けた。眩しい日差しが僕を照らした。
一日が始まるのだ。
そして、僕はきっと生まれ変わるのだ。
僕は、履歴書を買うために、外に出た。
違和感がある。なんだか、とても自分がいるべきではないようなそんな外の世界。
僕は走った。このまま、純粋な太陽に体を照らされると、僕のような汚れた体は溶けてしまうのではないか…と。僕は近所のコンビニに駆け込むようにして入り、履歴書を手に取ると、すぐさまレジに向かった。店員はきっと、今日は何かの面接があり、履歴書がないことに気付いて慌てているのだ、と思ったかもしれない。
面接?面接があるのだろうか…僕が脳ミソを交換するに値する者かどうかの重大な面接だったりするのかもしれない。
しかし、僕は部屋に帰り、変な汗をかいた。僕は思わず、開いた扉をまた閉めてしまうほどだった。
なんだ、ここ。
扉の向うに、さらに白い扉があったのが見えたのだ。僕は部屋を間違えたのかと思い、見上げた。203号室。僕の部屋だ。それに自分の持っている鍵で、扉が開いたのだから、間違いはないはずなのに。もしかして…。
僕は、もう一度扉をそっと開けた。白い扉には、やはり、C&R Co.と書いてある。
僕はまだ履歴書を書いていないのに、それを提出すべき場所に先に着いてしまった。それにもう少し、綺麗な格好をしていたかった。風呂にも何日か入ってない気がする。髭も伸びてしまっている。ヨレヨレのパーカーにジャージ姿。こんなのでいいのだろうか。悩んでも仕方ないと、諦めがついた僕は、とりあえず、その白い扉を開いた。
小さなカウンターが目の前にひとつあり、その奥にひとつ扉があるだけだった。部屋自体があまりにも白すぎて、判別できなかっただけかもしれないが、そこはとにかく目が痛くなるほど白い場所だった。
『イラッシャイマセ。』
突然声が聞こえたかと思うと、カウンターの上に兎がいた。な、なんだ。
「う、兎が喋った?」
兎と目が合った瞬間、カウンターに女性が現れた。
彼女には兎の耳がついていた。まさに、バニーガールのように。
「もしかして、バニー?」
女は頷いた。
「よく分かりましたね。」
「だって、耳。」
女は笑って、兎の耳を動かした。
黒い髪に真っ白な肌、真っ白な兎の耳、そして、真っ赤な眼、真っ赤な唇。極めつけは、桃色のナース服。
やはりここは、エロ館じゃないのか?僕は妙な興奮をしてしまう。
「さっき、履歴書買ってきたんだけど、部屋開けたら、ここの扉で、ここに繋がっていて、何も書いてないんだけど。」
「構いませんよ。ここで書いて下さい。はい、どうぞ。」
バニーは、僕にペンを差し出した。爪は黒く塗られている。本当、なに、このコスプレ感。
「ねえ、本当に、ここは、エッチなところじゃないの?あの扉の向こうに、ベッドがあって、やったりしないの?」
兎がこっちを見ている。
「違います。電話でもそう話したでしょう?」
バニーの声が鋭くなった。
「じゃあ、なんで、何かのコスプレみたいな格好をしているの。そう言うのが趣味な男が来たら、すぐに勃っちまうぜ?」
「これはここの制服です。これは私の耳です。眼もコンタクトではありません。本物です。先生に変換してもらったのです。」
バニーは、長い黒髪を持ち上げた。
ゾクリ。
人間の耳じゃなかった。
普通耳がある部分から、兎の耳が生えている。白い柔らかそうな毛が顎より少し上部からフサリと生えている。作り物、ではなく、本物、だと直感した。
「分かりましたか?バカなことを今後言わないで下さい。それから、あの扉の向うには、ベッドはベッドでも、手術台があります。」
バニーはまた耳を動かした。だから、動くんだ、耳が…。僕は少しでも冷静になろうと、努めてはいたが、手が震えてペンがうまく持てず字が書けない。
本当に『脳ミソを交換する』会社なのかもしれない。
震えて履歴書を書けないでいると、兎と目が合った。嘲笑われているような気がした。
情けない。
「ねえ、その手術は、痛くなかったの?そんな格好で、外に出られないだろう?どうしてそんな格好になったの?」
僕は妙に歪んだ字で学歴を書きながら、少し上ずった声で、バニーに質問した。質問の順序はぐちゃぐちゃだった。
バニーは、少し間をおいてから喋った。
「手術後、少し痛かったのを覚えています。外…とは、あなたがいる世界のことでしょうか?私は地下の世界の住人に住民登録を移したので、もう何年も外、の世界には出ていません。太陽の光や雨、雪なども、どんなものか、具体的に説明できません。この格好は…兎への憧れが強くて。それに先生も兎が好きでしたし、ちょうどよかったのかもしれません。ちなみに、この服装は、先生の趣味ではないでしょうか?そのへんは分かりません。私は完了体2号です。」
バニーは僕の質問通り順番に答えてくれた。でも、答えの中に、訳の分からない言葉が存在した。
地下の世界の住人?完了体2号?
「地下の世界って何?」
「ここですよ。あなたが今存在している所が地下の世界です。」
何事もないように、普通に答えるバニーの姿が怖かった。しかし、その彼女自身も、普通ではないので、僕にとって違和感のある言葉をすらすら話すことができるのだろうか?僕も手術を受ければ、地下の世界の住人になってしまうのだろうか?それは少し、嫌な感じがする。
「地下の世界は今拡大工事の最中です。あなたの部屋も工事プランの中にあったのです。それから、いろいろなものを外の世界から、取り入れています。ネット環境は実は最近やっと繋がりました。」
僕は、履歴書を書き終え、それをバニーに差し出した。
兎が先ほどから、じっと僕を見ている。何だろうか、とても気持ちが悪かった。その兎の目は赤くなかった。
「君のもとの目はこれなの?」
大きくて黒い目。なんとなくそう思ってしまった。再利用…みたいな(僕も狂っているのかも)。
バニーは首を振った。
「いいえ、違います。彼女は兎になってしまった完了体243号です。」
なんと…兎になってしまった人間もいるのか。この手術はどう行われたのだろう。そして、それを行う医師はどんな奴だ?
「ではこれを先生にお渡しします。また数時間後、連絡するのでその時にいらして下さい。」
バニーはカウンター奥の扉へ消えて行った。僕は完了体243号を見た。
「君は言葉が分かるの?話せる?最初来た時、喋ったのは君だろ?」
兎に話しかけるなど、小学生の時でさえしたことはない。ここの世界はすべてが狂っているのだ。正常に起動すべきためのスイッチが壊れているのだ。兎は何も言わずに、後足で、耳の後ろ側を掻いた。
バカらしい…。僕は、入ってきた白い扉を開いた。
『マタ会イマショウ』
僕は僕の部屋に戻っていた。地下への入り口がある僕の部屋。
これも運命かもしれない。
でも、今までのことが、夢だったのかもしれない。
急に眠気が襲ってきた。
このまま眠ると何もなかったように、僕はまたくだらない毎日を送るのかもしれない。
あの冷たい口調のバニーに会えないかもしれない。
僕はそう思うと、何故か、少し切なくなった。
その意味を追求するだけの気力は何処にもなく、僕は、散らかった部屋に倒れ込んで眠った。
>>act03. white doctor
とても長い時間眠っていたような、しかし、眠り自体は浅かったような、そんな気がする。目を覚ますと、真っ白な天井が広がっていた。そして、僕は何故か、真っ白の服装をしていて、髪は綺麗に整えられていた。髭も剃られている。
これは夢?僕は今、夢の中にいるのだろうか。
起きあがると、そこは、手術台の上であることに気付く。
なんだ?もしかして、もう手術は終わってしまったのか?
脳は交換されたのか?とても嫌な汗をかいた。なんとも言えない不安が僕を襲う。
待て、まだだ。僕は変った?何処が?どのへんが?どんな風に?いや、僕はまだ変っていない。何も変っていない。
「驚かせてしまったかな?」
背後から、音符を刻むような軽やかだけど優しい声がした。振り返った僕は思わず自分の目を疑った。
猫だ…
どう見ても、顔は白い猫だ。違うのは、人間みたいにでかいところ、2本足で歩くところ、猫のくせに、白衣を着ているところ。
僕は口を開けたまま動けなかった。バニーと言う女、兎になった完了体243号、次は、猫か…。ここは、動物に変換するところじゃないのか?脳の交換と言って、もしかして、猫や兎の脳に交換されたら、一体どうなるんだ。それでも僕は僕だと、人間だと、分かるのか?そもそも、そんなこと自体わからないのでは?僕が黙ったままでいると、猫はニヤリと笑うと
「いやーね、君の部屋に勝手に入り込んで悪かったのだが、行くと、君は死んだように寝ていてね。起こすのもなんだし、そのまま、ここに連れてきたんだよ。綺麗にしている最中に起きたらどうしようかと思ったんだけど、見事に起きなかったね。驚きだよ。」
起きると思ったなら、そう言うことをするんじゃない、化け猫め、と心の中で言った。
しかし、起きなかった僕も相当だ、と思ったら、口に出して、文句は言えなかったし、綺麗になっているなら、そんな悪態は不必要だ。裸にされて変なことをされていたとしても。
なんだ、素直にものを考えることもできるじゃないか…。僕はもしかして、この世界に少し対応できているのか知れない。
「あんたは何者?」
僕は声がかすれているのに気付いた。
「私?この会社を経営しているサエジマです。そして、手術を行っています。あなたの担当医にもあたりますよ。」
何?頭の何処かで爆発が起こった気がした。
猫に頭をいじられるのか?あまりにも衝撃的で、僕は失神するかと思った。また冷静さを失った。
「あんた、猫だろ?冗談はやめてくれよ。」
「冗談?私は猫の顔をした人間ですよ。ほらご覧なさい。指は人間ですよ?あ、ここからは、毛が生えちゃって、猫みたいですね、ははは。でもほら、言葉もちゃんと話している猫みたいな人間です。バニーさんに聞いていませんか?私は完了体1号です。」
手首からは白い毛で覆われていたが、本当に、手だけは人間だった。気持ちが悪いなんてもんじゃない。それに完了体1号だって?自分で自分を手術したのだろうか。吐き気がする。
「狂っている。自分で自分の体にメスを入れたり、注射したり、したのか?それにどうやったら、そんな手術ができるんだ。」
「脳を交換すると申し出た方にそんなことを言われるとは心外です。どんな方かと少し期待をしていたのにとても残念ですよ。」
サエジマ猫は、耳を垂れ、哀しそうに目を閉じた。猫の顔だとは思えぬ、表情があるところが、さらに不気味だった。人間みたいだ。猫の顔をした人間らしいけど。
「信じられない。ここは、動物に変換するところなのか?バニーと言い、カウンターにいた兎といい、何で、皆動物になるんだ。」
僕の声は少し大きくなったが、喉はカラカラだった。
「そんなもの、本人に聞いてくださいよ。私は言われた通り手術を行っただけです。それに、人体部品、例えば、眼球とか、心臓とか、そう言う交換をした人達は、この世界には住んでいませんよ。外の世界、つまり、あなたが住んでいる世界で、楽しくやっていますよ。地下の世界にいる人達は、とりあえず普通の人間ではない格好をしていると思いますよ。まあ、動物の姿になって、出ていった人もいますけどね。243号さんは外の世界で暮らしていますよ。たまに、うちにやってきますけどね。会ったのでしょう?」
サエジマ猫は淡々と話す。
僕はまた何も言えなくなった。彼(もしくは彼女)の言っていることは分かるようで、分からない。でも、分かる。その繰り返しの渦の中で僕は、悶々とし始めた。サエジマ猫は手術台下から、何かを取り出した。
「さて、手術するかどうかは別として、あなたの希望を聞いておきましょう。あなたの交換箇所は脳ですね。ここで手術できる交換脳の種類は6つあります。それを選んで下さい。手術日、手術費等の連絡は、それが決まってからです。まあ、あなたが怖くなったのなら、私やこの世界が信用できないなら、この話はなかったことにしますけどね。」
猫は脳の模型の入ったガラスケースを僕に差し出した。黒、白、桃色、緑色、青色のカラフルな脳。ん?種類は6つあると言ったはずなのに、5つしか模型がない。いい間違いをしたのだろうか…。
「脳の説明は、バニーさんに聞いてください。私はこれから、オペがあるので失礼しますよ。よい返事を待っています。」
サエジマ猫は、2つある扉の左の扉を開けた。
「あなた、こっちから出てね。私について来ないでよ。」
猫は、右側の扉を指差した。人間の手。綺麗な手をしている。扉が閉まるまで、僕は彼(もしくは彼女)の手を見ていた。
なんなんだ…ここは。
僕は言われた通り、右側の扉を開けた。すると、足元に、あの兎がいた。
『脳ヲ交換スルノ?』
やはり、彼女は喋れるのだ…
>>act04. no.243 rabbit
「やっぱり喋れるんだな。」
僕は兎を見下ろして言った。
変な感じだ。兎と話をしている。
『フフフ、アマリ上手クハ喋レナイノヨ。聞キ取リニクイデショウ?』
兎は、僕の足元に顔をすりよせた。
扉を開けたそこは最初僕がたどり着いた入口カウンターのある場所だった。あれ?こんな扉あったかな?僕は首を傾げたが、考えても意味のないことだった。だって。この世界だもの。僕はカウンターのすぐ側にあるソファに座った(これもあったかな?)。兎は、初めて会った時のように、カウンターテーブルの上に乗った。兎はこんなに運動能力があったのだろうか…とふと思ったが、もとは人間だし、常識なんて通用しないのだ、と改めて思い直すとテーブルの上に軽やかに飛び移った彼女は何の不思議も感じられないのかもしれない。
「なんで、兎になったの?」
小さな脳の模型をいじりながら、僕は彼女に話しかけた。
『知リタイノ?』
兎は、後足で、耳の後ろを掻く。
「興味はある。」
243号は目を細めた。笑っているかのようだ。
『彼ニ愛サレタクテ。』
彼女は、そう言った。
「彼は、人間のあんたじゃなくて、兎のあんたが好きなのか?」
『イイエ。彼ノ彼女ガ兎ヲ好キナノヨ。』
意味が分からなかった。
「どう言う意味?」
『言葉ノママ。ソノママ。』
やはり、意味が分からない。
『分カラナイナラ、分カラナイデ、イイワ。デモ、彼ニ愛サレタイ。』
兎は、カウンターテーブルから飛び降りると、僕の横に座った。そして、僕を見上げる。
『アナタハドウシテ、脳ヲ交換スルノ?』
黒くて大きな瞳。人間だった時、彼女はどんな女だったのだろう。
痩せているのか、太っているのか。髪は長いか、短いか。妄想は膨らむばかりだった。厭らしいことさえ考えそうになった。
「自分を変えたくて。物の考え方とかが変わりそうじゃない?脳ミソ変われば。」
『ソウカシラ?人間ッテソンナ簡単ナ動物ジャナイト思ウケド。』
なんだ、結構、しっかりした兎じゃないか。そして、自分の中にある不安をグサリと突き刺す言葉だった。僕はキッカケが欲しいのだ。何かが変わるキッカケが。それが脳交換と言うのは、かなり大胆だが、かなり単純だ。脳に関する専門書を読むべきだったのかな。脳を交換すれば、どのような障害が起こるか、とか書いてある訳ないだろうけれど。
「僕はとにかく、今の自分がとても嫌いなんだ。今のままでは嫌だ。」
『我侭ナノネ。』
「そうかもね。」
そうかもしれないね。
243号はソファから飛び降りた。そして、振り返り、こう言った。
『変ワレルトイイネ。ガラリト。思イ通リノアナタニ。』
「そうだね。それを願いたいね。ありがとう。」
僕は、兎を見下ろして、そう言った。彼女は、また目を細める。やはり笑っているかのようだ。
『オ話デキテヨカッタワ。向コウノ世界ジャ話デキナイカラ。マタ会エルトイイネ。』
兎はここの入り口の扉に跳ねて行った。
「ちょ、ちょっと、待って。名前、名前を教えてくれないか。記念に。」
僕は、慌てて、立ちあがり、兎を呼び止めた。何故だろう。何故、名前を知りたいと思ったのだろう。兎は、首を傾げた。なんで?と言う風に。しばらく沈黙があったが、兎は囁いた。
『コウムラハナ』
コウムラハナ。その名を幾度か反芻した。知らない名でよかった、と本気で思った。もしも、知っている名が彼女の口から飛び出してきたら、僕はどうしているだろう。もしかすると、僕は、ここから逃げ出しているかもしれない。自分の知っている人間が、変わり果てた姿になっている。それはとても恐ろしいことのように思えた。
僕がしようとしていることも恐怖?間違い?
カウンターにバニーがいた。彼女はまた突然現れた。でも、それはとてもタイミングよく、自然だった。
「脳の説明を致します。」
>>act05. brain select
バニーはカウンターから出て、僕の側にやってきた。彼女は桃色のファイルを持っている。僕の履歴書が一枚閉じてあるだけのようだ。これを書いた時も不思議に思ったのだが、その紙切れが何の役に立つのだろう。脳交換と言う大手術を行うのに、それでいいのだろうか。
そんな心配はここでは要らないのかもしれないが、なんとなく、そう思ってしまう。だめだ、やはりこの世界まだ慣れない。
「先生から、脳の模型を受け取りましたか?それを順番に説明せよ、と言われています。」
「これでしょう?グロイけど可愛いね。小さくてカラフルな脳。」
バニーは頷くだけで表情はあまり変えなかった。
「まず、黒の脳。black brainは悪の脳です。物事を悪い方にばかり考えています。何事をするにも、慎重になるかもしれません。が、悩み過ぎる場合もありますね。
次に、白の脳。white brainは善の脳です。物事を善い方にばかり考えます。落ち込んだりすることはないでしょう。悪い事が起こったとしても、そこから、また善を考えるのですから。black brainと正反対なものと考えてくれれば結構です。
桃色の脳。pink brainは恋の脳です。物事をロマンチスト的に考えます。ありえることも、ありえないことに、置き換えてしまうような、ちょっとやっかいな考え方をします。緑の脳。green brainは自然の脳です。物事を論理的、物理的に考えます。自然の法則に乗り、的確な判断を下すでしょう。青の脳。blue brainは驚きの脳です。物事をクールに考えます。人をあっと驚かすような画期的な考えを生み出すのが得意です。以上です。ちなみに、どの脳も基本的な知識は備えており、天才、秀才のレベルを持つ優秀な脳です。質問はありますか?」
バニーの説明を聞き終え、それぞれの脳の説明を頭の中で整理する。特に質問はないな、と思った。が、僕は、ある事に気付いた。足りない。脳の数が合わない。
「脳は5種類なの?サエジマさんは、6種類と言っていたような気がするんだけど。」
そう、サエジマ猫は6種類と言った、のだ。
僕は模型を見た時、不思議に思った。
「6種類と言いましたか?では、先生は、もしかしたら、あの脳も加えるつもりなのかしら?」
バニーは、眉間にシワをよせ、左胸ポケットに差してあったボールペンを取り出した。
「あるの?どんな脳?何故、この模型にはないんだ?」
「先生は、5種類の脳しか開発していないのです。しかし、つい最近、6種類目の脳ができあがった、と言うか、まあ、最初からあったのですが…」
「分かるように説明してくれよ。」
今度は、僕が眉間にシワをよせた。意味が分からない。
「6種類目の脳はblank brainです。つまり、記憶のない脳です。今まで説明した脳はあなたの脳に色をつけるような感じです。あなた自身はそのままです。あなたがあなただと分かります。例えば、あなたがwhite brainを選択するとします。手術では、あなたの脳から、あなた、と言う記憶を抽出します。それから、white brainにそれを挿入し、white brainとあなたの今まで脳を交換して、完了です。言っていること分かりますか?」
僕はとりあえず頷いたが、実際、そんな脳交換なんてこと簡単に理解できるわけがない。バニーは続けた。
「しかし、blank brainは記憶がありません。あなた、と言う記憶がないのです。今までのことも、何もかもその脳には存在しません。白紙のままの状態から、またスタートするのです。言わば、生まれたばかりの赤ん坊の脳です。最初はblank brainばかりだったのです。でも、お客様が、記憶がない脳を怖がりましてね。それで、先生が記憶抽出装置・挿入システムを開発し、カラー脳が創られたのです。」
僕は驚いた。僕と言う僕が消える脳があるのだと言う事に驚いた。それがいいのではないか?と思った。僕は今の自分があまり好きではない。だからこそ、生まれ変わるために、ここにいるのだ。
「blank brainに交換した人は今まで何人いるの?」
「一人もいません。」
「一人もいないの?どうして?脳を交換するって言うのは、すべてが消えるようなものだから、記憶がないのは当たり前じゃないの?」
「そうかもしれませんが、この場合、一部の記憶がないというようなものではありません。先ほども申しましたように、赤ん坊の脳です。字も読めない、書けない、そんな状態から始まるのです。何もない空っぽの脳。blankです。それで先生は、お考えになって、カラー脳を開発したのです。いわば、物事の考え方の交換ができ、そして、記憶力、知識も天才的に備えたcolor brainsの開発をしたのです。」
物事の考え方が例え変わっても、それは自分であることには変わりない、と思った。何も変らないのだ、と分かってしまうかもしれない。あの女はもう、僕のもとに戻らないのだ。そんな記憶はいらない。例えば、これをwhite brainに交換したならば、次の女に手を出せばいいや、と考えるのだろうか。例えば、これをpink brainに交換したならば、次の恋を求めて、走り出すのか、それとも彼女を追いかけるのか。すべてに関して、あの女が存在するならば、言葉を失っても、僕が僕だと分からない方がいいじゃないか。彼女が特別な人だった、と言うわけではないが、あの最後では、僕だって納得がいかないのだ。逃げられたなんて、言う過去は要らない。僕の陳腐なプライドが許してくれないのだ。どこまでもタチが悪い。
物事の考え方によって、少し、自分は変化するだろう。いや、相当変わるだろう。
きっと性格だって変わる。けれど、記憶はあるのだ。僕と言う記憶はあるのだ。
ソレデハダメダ。
「僕は、blank brainを選択する。」
バニーの顔が歪んで見えたのは気のせいだろうか。僕はいきなり眠ってしまった。
>>act06. past memories
date...
鷹崎 圭
1993年7月10日生まれ
22歳
男
東京都***区****203号
080-****-****
僕はそれなりに普通の人生を歩んできた、と思う。成績も良くも悪くもなく、運動神経も人並みだった。友達にも家族にも不満はそれほどなく、幸せと言えば、幸せだった。女にももてる方だった。初めて、彼女、と言うものができたのは、中学3年生の冬。僕が曖昧だったので、愛想をつかされ、1ヶ月ももたなかった。それから、何度か、ガールフレンドは変わったが、長く続かなかった。
原因は、分からない。ただ、愛だの何だの、はとても面倒で嫌いだった。だけれど、ガールフレンドが変るたび、僕は心の何処かで、本当は、愛に飢えていた。ただ単に、セックスをしたかったわけではない。そう言うわけではない。僕は恋愛が下手だった。常に受け身だった。嫌、とは言えず、何となく、付き合って、終わる。それが繰り返されるうち、僕は恋愛ができなくなった。恋愛ってなんだ、愛ってなんだ。僕は情けなくなる。好きとか嫌いとか、そう言う感情が分からなくなる。だけれど、僕は、ずっと何かを求めている。ずっとずっと求めている。
すべてが中途半端で飢える心だけが成長する。
『あなたは私と寝たかっただけなの?』
葛山姫乃はそう言った。
『呆れる。そんなんだから、誰にも愛されないのよ。』
僕は思考がストップした。そんなことを言われたのは、彼女が初めてだった。
『私への愛を全然感じないのに、あなたが愛されるわけないでしょう?私は、愛だの、恋だの、そう言うドロドロしたのは嫌いだけれど、安売りはしたくないのよ。分かる?終わりね。あなたの友達の方が、よほど魅力的だわ』
葛山姫乃は初めて出会うタイプの女だった。性格がまるで男みたいだった。よく笑い、よく食べ、よく動いた。いつも一緒にいた。気がつけば、姫乃はいつもそばにいた。そして、僕はそれが普通だと思っていた。
『鷹崎はモテるよね?よく聞かれるよ、あの男は私のなんだって。友達だけど、って言っておいたけど、なんか事実作ってみる?』
笑いながらそう言った姫乃にドキドキした。僕はその時、ふと思った。これが恋なのか?でもそう思った瞬間、少しの恐怖に駆られた。その日を境に、僕は変に姫乃を意識した。その度、彼女はものすごく不機嫌になった。何度か殴られた。酷い女だった。それでも、何故か、いつも一緒にいた。僕は訳が分からなくなった。目に見えない魔物が僕を支配する、そんな感じだ。
僕は彼女へのその不安定な気持ちをうまく表現できずに、イライラしていた。それが爆発した時、僕達は一線を超えてしまった。そして、そのことに、ひどく後悔した。
『なんだか、最悪だね。嫌な感じだよ。全然よくないね。』
事を終えた後、タバコを吹かしながら、そう言った姫乃の横顔は切なくて、今でも鮮明に思い出せる。僕らの関係がおかしくなったのは、その日からだ。何度も戯れを繰り返し、その度に、僕は空っぽになった。僕はこれが愛なのだろうか、と思った。今まで感じた事のない喪失感。姫乃の体に触れても、心に触れる事はなかった。
そう思うと、とても辛くて、僕はひたすら、彼女を求めていた。それが無意味だと分かっていても…。
「blank brain決定でよろしいですね。」
気がついた時、僕はソファに横たわり、バニーの膝の上に頭があった。僕は驚いて体を起こした。
「なんだよ。これ。」
「サービスです。泣いていましたから。」
体が急に熱くなる。僕は立ちあがり、バニーを見つめた。バニーもまた、僕を見上げて、黙っている。僕達の間に、静かな空気が流れる。そして、次に、僕の話はあまりにも不細工で、滑稽で、でも真剣だった。
「ねえ、僕の脳が変ったら、僕を愛してよ。僕は愛が分からないんだ。僕は愛が分からない。どんな形でもいいから、愛して。」
バニーは、表情を変えずに、首を左に傾けた。
「過剰なサービスは受け付けておりませんが。」
「お願いだ。真っ白な僕がこれから、今のように、捻くれてしまわないように、助けて欲しい。」
「私には意味がよく分かりません。私は、愛する、と言うことの意味があまり分かりません。そのような要求は受け付けたことがございません。対処の仕方が分かりません。」
バニーは相変わらず、淡々と事務的に言葉を並べる。首を傾げたまま…
「あの猫から許可が得られれば、そのサービスは可能なのか?」
「猫?サエジマ先生のことですか?まあ、彼がここのトップではあるので、相談しますが、私の意志はどうなるのでしょう?」
僕は、力が抜けそうだった。そうだ、何を言っているのだ、僕は一体、なんて我侭を言っているのだろうか。
愛が欲しい、愛が欲しい、愛が欲しい。
僕は今にも狂いそうだった。過去の記憶が僕を締めつける。だから、選んだblank brain。なのに、何故、愛が欲しいと、今、叫ぶのだ。結局、不安なのだ。そして、結局、自分自身を捨てたくないのだ。僕は、そこから、離れることにした。
結局何も変らないのかもしれない。
無力と絶望。
僕はそれを背負って、また生きていくのだろうか。
「待ってください。」
バニーが僕の腕を掴んだ。
「こんなケースは初めてだけど、愛してみます。ただ、どんな愛でも構いませんよね?恋人以外なら、なんだって、なります。恋人にはなれません。」
僕は苦笑した。
「ゴメン、いいんだ。僕の我侭だ。何を言ってるんだろうね。怖くなったんだ、少し。記憶がなくなれば、なくなったで、また違う苦労を味わうのだろうと思ってさ。僕は今まで、幸せと言えば、幸せで、上手い具合に、世の中を渡ってきたつもりなんだ。恋愛と言う項目を除けばね。僕は、いつも、何処かで、愛を求めていて、だけど、それだけではダメなんだって、分かっているくせに、同じ過ちを繰り返すんだ。その度に、無力感が増幅する。やっぱり、過去の記憶は残したまま、鷹崎圭のままで、脳のカラーだけ変えてもらおうかな。少しは浮上するかな?」
バニーは、何も言わずに、僕を抱きしめた。
「分かりません。あなたの恋愛の記憶だけをすべて除去すると言うことはできません。もし、それができるのなら、やはり、blank brainしかありません。blank brainは、ひとつだけ、メモリーを残しておくこともできます。それが例えば、あなたの名前、とか、あなたの年齢とか。それをきっかけに、また人生を始めるのです。どうしますか?blank brainの選択を白紙に戻しますか?他の脳を選択しますか?それとも手術自体を取りやめますか?」
バニーは、そう言った。ひとつだけ、残しておくことのできる記憶…。
「君とデートできる、と言う約束の記憶、とか言うのは、ダメなの?」
バニーが笑った。初めて、そう言う表情を見せた。僕はドキドキした。
「私がそんなに好きなのですか?」
僕は頷いた。すると、またバニーは笑った。
「あなたが好きです。」
僕は小さく呟いた。
「分かりました。先生に相談しましょう。」
僕はまだドキドキしていた。
初めてだった。あんなことを言ったのは。自然にそう言葉が出たのは。
『アナタガ好キデス。』
>>act07. love game
case of Dr.White Cat
「それにしても変った人だね、君は」
サエジマ猫は白いデスクの前に立てかけてあるたくさんのファイルの中から黄色のそれを取り出しながら言った。そのファイルには、履歴書がつまっているようだ。僕のもいずれそこに収まるのだろう。僕の履歴書は今、サエジマ猫が持っている。
志望動機のところに、blank brain selectedと赤い文字で並んでいる。そして、その下の行に同じ字体で、the selected memory is bunny's loveと表記されており、
猫は注意深くその欄を見た後、僕に向かって言った。
「例えば、普通、文字の読み書きの記憶、とか言わないかなあ?どうするの?君、えっと、22歳でしょう?勉強しなおすんだー。すごいよねー。私なら、嫌だねー、一苦労もいいところだよ。」
猫は目を閉じ、左右に首を振る。何だ、こいつ。と心の中で呟く。最初、この猫と話をした時も、胡散臭くて信用ができなかった。この猫と話をしているとどうも調子が狂ってしまう。blank brainを勧めておきながら、なんて言いぐさだろうか。
「まあね、手術をすると言う点においては、とても興味深いからblank brainの選択は非常に嬉しいのです。失礼ながら、ワクワクしていますよ。すいませんね。なんせ、初めてのクランケですよ?分かりますか?この気持ち。だけれどね、b.b.、ああ、b.b.って言うのは、blank brainのことで、僕は特別に言ってるんだけどね。black brainもblue brainもb.b.じゃないか、なんていう質問はやめてね。はは。でも、b.b.は怖いですよねー、何もないから。私はやっぱり嫌だねー」
何が言いたいのだ。僕は、不機嫌な顔のまま、言葉を吐いた。
「結局のところ、先生は、僕の選択した記憶がお気に召さないんですか?バニーさんの愛だから、許可が出せないのでしょうか?」
サエジマ先生は、ニヤリと笑う。そして、首を振る。
「いやいや、構わないよ。大いに結構ですよ。その記憶に関しても、実に興味深い。不愉快な思いをさせてしまったかな?」
僕が今度は首を振る。本当は、かなり不愉快だったけれど。そして、もうひとつ、質問をしてみた。これは少し勇気が必要な質問だ。とりあえず、今の僕に関しては。
「先生はバニーさんの恋人なのでしょうか?」
猫は驚いた表情を見せた。僕にとって、その表情は意外だった。僕は否定しながらも、頭の何処かで彼らは恋人同士なのかもしれない、と思っていたからだ。たぶん、それは、バニーが恋人になることを否定してから。彼女が兎を好きで、先生も好き。彼女が完了体2号で、先生が1号。そう言う繋がりからしても、何らかの関係があるのでは、と思っていた。
「そんなことはありませんよ。そんなことはありませんが…」
「なんとも思ってない男に、恋人になれ、と言われれば、拒否する気持ちも分かります。僕は少し怖くなってとんでもないことを言ってしまったな、と反省もしています。でも、彼女が愛を捧げるのに何故、先生の許可が必要なのですか?」
「それは彼女が説明したでしょう?してないのかな?うーん。」
猫の答えは曖昧だ。僕はさきほどの不機嫌さとは異なることで難しい顔をしてしまった。猫はそれを見て、呆れるような表情を残し、緩く笑った。
「彼女は私を愛しているのは確かですよ。」
「………。」
猫は首を傾けながら話を続ける。
「私もね、彼女を愛していますよ。ただ、彼女とは違う愛し方です。愛にはいろいろな形があります。本人に聞いてみればいいじゃないですか?私がそう命令した、と言いなさい。たぶん、答えてくれるでしょう。」
猫は白衣の胸ポケットにささっているボールペンを取り出す。そして、僕の履歴書の志望動機欄に書かれている赤い文字の下に、o.k.を記す。僕の選択は許されたようだ。しかし、その時、僕の頭の中は混乱していた。愛と言う名の問題で。
「ねえねえ、興味あるんだけどさ、なんで、バニーの愛を選んだの?」
猫は、黄色のファイルに僕の履歴書を綴じた。
「分かりません。ただ何となく、彼女に惹かれました。」
猫はニヤニヤ笑う。薄気味悪い。
「僕は、女性的でない女性に惹かれるのかもしれない。前の女もそうだった。」
「なんだか、バニーやその彼女に対して、失礼な言い方だね。」
そうかもしれない。
「愛にはいろいろな形があるのさ。だから、苦労するんだよ。モノの見方が人それぞれ違うようにね。だから、脳を交換するのもひとつの手であるんだよ。自分の姿を変えるのも同じようなもので、自分を愛したいんだよね。そして、誰かを愛したいし、愛されたいみたいだね。」
「先生も愛されたいのですか?」
「さあね。」
猫はそっぽを向く。そして、白いファイルを取り出す。日付、時刻、患者の名前、などが書かれた表が挟まれている。
「手術日だけどね。えーっと、まず、b.b.の準備に2、3日要するから、19日、はどうだい?明後日。午前中がいいんだけど。できれば、脳が新鮮なうちに手術したい。」
本格的に事が動き始めたのだ、とハッとしたが、問題ありません、と答えた。猫は、19日の欄に、僕の名前を書き込む。
「手術費用だけど…」
僕は一瞬、青白くなる。そうだ。タダではないのだ。こんな大手術だ。相当の金額かもしれない。
手術後、頭が空っぽになった自分を混乱させたくはない。さすがに可哀想だ。
僕はゴクリと唾を一度飲み込む。猫は僕の緊張した顔を見て、笑い出した。
「多額の請求をされると思っているのかい?君は特別だから、そんなに請求しないよ。まず、キャットフードを2缶。でも、美味しいのにしてよ。ほら、猫まっしぐら、とか言うの。ガラスのコップに入れちゃってさ。凄いゴージャスな感じのあれ。あと、マタタビ?あれってば、どう言う感じなの?それくらいかな?最後に、現金として、19800円。どう?」
常識はないのだ。僕は改めて確信する。手術代がキャットフードなんて、聞いた事がない。本当に、脳を交換してくれるのだろうか。心配はないだろうか。変に頭をいじられて、終わり…と言うことにはならないだろうか。僕は目を閉じ、深呼吸をする。
ココハジョウシキハナイノダ。
「それらは、バニーに渡しておいてね。ヨロシク。」
case of bunny girl
僕がバニーの愛を求めた理由。よくは分からなかった。彼女に会った時の最初の印象はいつも事務的で冷たい感じだった。人間じゃないような気がした(すでに見かけは人間じゃないけれど)。
「先生の許可が出ました。どう言う記憶にすればいいのですか?具体的に決めておかなければなりません。文字の記憶やあなたの名前、年齢などのように、単純ではありませんから。」
バニーはやはり、事務的に言葉を並べる。僕は笑って欲しかった。あの恥かしそうに笑うバニー。
「手術後、君と映画館に行ったり、いや、映画館は駄目だな、言葉が分からない。水族館でも行く?」
「それは地上の世界で、ですか?私の耳はこれですよ。大丈夫ですか?」
バニーは耳を動かす。
僕は少し、考えた。
「じゃあ、そばにいてくれるだけでいいよ。ずっと、そばにいて欲しい。」
バニーは、難しい顔を浮かべる。
「あなたの要求は、私とのデートと言う記憶ですよね?そばにいると言うデートですか?それは、どんな感じなのでしょう?ずっと、とは、どう言うことですか?」
僕は少しイライラした。僕が言ったことは、受け付けたくない要求なのだろうか。
「何故、そう言うのを嫌がるんだ?あの猫を愛しているから?」
今度は僕が質問をした。サエジマ猫にも、そう言われたし、僕は間違っていることをしてはいない。バニーはさらに険しい顔になった。
「そんなことを聞いてどうするのですか?」
「あの猫がお前に聞け、と言ったから、気になるから、聞いている。僕はできることなら、あんな猫を君が愛するのを阻止したい。僕は君が欲しいんだ。」
何を言っているのだろう、僕は…君が欲しい、とはなんだ。言ってしまったあと、混乱した。何をムキになっている?僕は何を求めているんだ?愛を目に見える形で表現できたら、僕は、どんなに救われるだろう。
「私は彼を愛しています。とても愛しています。でも、彼は、私のことを、私と同じようには愛していません。それは分かっていますが、私が今、生きていると言うことは、彼の助けがあったからです。私の命を救ってくれたのは、彼なのです。そんな彼を愛してしまうのは、仕方ないでしょう?彼が全てだと言っても、仕方ないでしょう?私の愛は間違っているのでしょうか?とりあえず、私の愛とは、こう言う愛です。だから、あなたの言う愛がいまいち理解できなくて、混乱するのです。私には、こうなる以前の記憶はありません。ですから、愛と言えば、イコール、先生になってしまうのです。私もいろいろ愛、と言うものについて勉強しなくてはならないようですが、私はいろいろ勘違いしているのでしょうか?」
バニーは淡々と喋る。先ほどの顔つきが少し柔らかくなったようにも思う。僕は首を振る。
「君が羨ましい。そんな風に想える人がいて。愛と言っても、君には彼が愛の全てだなんて、羨ましい。僕もそう言う愛が理解できればいいのに。」
二人の間に沈黙が流れた。
「提案をしてよろしいでしょうか?」
バニーが少し困ったように、問いかけた。僕は頷く。
「私が毎日あなたを訪ねます。あなたに、私だけは知っているという記憶、バニーと言う存在をインプットしましょう。あなたは言葉もわからないので、そうですね、私はあなたにとって、言葉の先生です。デートは、言葉の勉強をするデートです。どうでしょう?blank brain自体が未知なので、はっきりとしたことは言えませんが、天才脳ではあるので言葉もすぐに覚えるでしょう。そうなれば、愛について語ることができるかもしれません。あなたの求める愛を形成できるかもしれませんし、私も先生への愛とはまた違う愛を発見できるかもしれません。すべてが、かも、という仮定でしか言えませんが、どうでしょうか?」
僕は笑った。バニーが、顔を赤らめたので、やはり、ダメですか?と小さい声で呟いた。こう言うバニーが僕は好きだ。僕はバニーを抱き締める。バニーはとても慌てて、な、な、と言葉にならない声を出していた。
「僕の先生、バニー。いいね、最高だよ。」
そのあと、僕は、サエジマ猫から聞いた手術費のことをバニーに伝えた。バニーがメモをとる。僕はその姿を見つめた。
「では、後日、また会いましょう。記憶についても、先生に伝えておきます。」
事務的なバニーに戻る。それでも、頬にまだ少し赤みが残っているのに、気付くと、僕はとてもくすぐったい感じがする。僕はまた笑ったが、バニーは笑わなかった。我慢しているのかもしれない。そう思うと、また笑えた。
「失礼します。」
バニーは、スイッと、いつもの扉の向こうに消えた。不思議な感覚が襲う。僕はどうなるのだろう。しかし、以前ほどの恐怖はなかった。
僕が変わっても、バニーはそばにいるのだ、言葉の先生として。とても心強い。そして、とても優しい。
僕は、自分の部屋に帰ることにした。とても長い時間、現実の世界に触れてない気がする。何もかもが凝縮されている。でも、あまり時はたっていないのだ、きっと。
僕は、その場をあとにする…
case of no.243 rabitt
久しぶりに、元の世界、と言うべきか、普通の世界、僕が住んでいる世界に帰ってきた。僕の部屋は相変わらず、暗く、陰気臭かった。それでも、カーテンの隙間から、日の光が一筋こぼれている。今は、まだ太陽が上がっているのだ。時間の感覚が全くなかった。地下の世界(とバニーは言っていた)とここの世界の時間軸が同じなのか、それとも、全く別物なのか、僕には、全く検討がつかなかった。あの世界は、無に近いかもしれない。何もかもが白く冷たい。しかし、あの世界、と言っても、僕にはあの変な病院だか会社だか分からないようなところしか知らない。
あそこの玄関とも言うべき扉を開いても、僕のこの部屋に戻ってしまうのだから。
地下の住民になるには何か、必要なのだろうか?例えば、バニーが住民登録を地下の世界に移すようなそう言う契約と言うか、儀式的な何かが…。
侵されている。
僕は十分に、あの世界の住人なのかもしれない。そのうち、僕は、今のこの世界を知らず、地下の世界で、毎日、バニーを見つめ、暮らすのかもしれない。それはそれで、いいかもしれないが、何か、心に引っかかるものがあるのは確かだった。
僕はまだ、迷っているのか?ずっとずっと求めていたもの、そのすべてを知りたくて、僕はこの手術を行うべきなのではないだろうか?
やめよう。
僕は、大きく呼吸をした。そして、白猫に言われた手術費を手に入れるため、出かける事にした。とりあえず、風呂に入り、まともに見える格好になろうと思った。たぶん。
僕は鏡の中の自分を見て、ギョッとした。自分の顔ではない気がした。ここ数日間(いや、数時間かも知れない)で、僕は異様なほど痩せていた。そう言えば、ものを食べた記憶がない。気絶していたか、地下の世界の不思議人(?)たちと話をしていたか。
やれやれ。
僕はとりあえず、シャワーを浴び、清潔であるはずの下着をつけ、服を着た。それでもやはり、僕は一気に10歳は老けて見えた。これではまともな大学生ではないだろう。自分の顔も忘れそうな勢いだった。それくらい僕の顔は違って見えた。都合がいいと言えば、いいかもしれない。脳を変えることは、顔つきまで変えてしまうのだ。僕を例にとれば、の話だけれど。
僕は、外に出た。眼球が痛かった。なんだ、この光りは…。僕はいつぶりに、この光りを浴びたのだろう。そう言えば、あそこに行く前に履歴書を買いに行って以来だ。それから、どれくらいの時間が流れたかは、相変わらず、分からないのだけれど。
さて。
キャットフード2缶(しかもゴージャスな感じ)、マタタビ、現金19800円。
一体何なんだろう。考えてもきっと、的確な答えは出ないと思い、何も考えない事にした。アイツは猫になりたいのだ。いや、猫かもしれない。それはそれで恐ろしいけれど。僕は頭を振る。考えてはいけないのだ。そう、考え出したら、あの世界の存在から、考えなければならないのだから。それは酷く疲れることだと、分かっている。なんだか、ずっと、考えようとして諦める、を繰り返していることに、少し笑えた。
僕はホームセンターに向かった。電車にも久しぶりに乗った。思わず、人々の顔を観察してしまった。僕が普通なのか、どうか。しかし、誰一人として、僕を変な目で見るものはおらず、むしろ、僕の事など、全く気にはしていない。
そう言う世界である。
降りた駅から歩いて5分ほどのところに、それはある。大学に入ってすぐは、よくここに来た。生活雑貨を買うためだったが、今はそれも無駄だったのかなあ、と思うと、少しだけ後ろめたくなった。相変わらず、人が多い。いろんな人が生活しているのだ。この中の何人かは、地下の世界を知っているかもしれない。白猫は、言っていた。人体部品を交換した人は、この世界で楽しくやっているのだ、と。
僕はペットコーナーに足を運んだ。そんなところ、初めて行く。だいたい、一人暮らしでは、動物は飼えないし、実家でも、ペットなどは飼っていなかった。僕はそのペットコーナーのあたりをウロウロし、キャットフード缶とマタタビを見つけた。
兎のえさ、などはあるのだろうか、とふと、その時思った。あのコウムラハナと言う名の人間は、兎になった。彼に愛されたくて。僕には、その時、いまいち、その心境が理解できなかった。彼が兎を好きなのではなく、彼の女が兎を好きなのだ。
もしかすると、これは復讐なのかもしれないな。僕は少し、そう思った。
彼の好きな女は、彼を愛しながらも、兎(つまり、ハナさん)も愛しているのだ。
自分の好きな女が、元彼女とずっと一緒にいるのだ。本人が知れば、どうなのだろう。少し怖いかもしれない。
僕が家に着く頃には、日が落ちかけていた。一日が終わったのだ。僕は、僕の時間軸とあの世界とのそれが正確にあっているかどうか分からなかったので部屋に留まらず、その世界に行くことにした。
家に帰り、勢い良く扉を開けたが、そこにあるのは自分の部屋だった。
以前は自分の部屋の扉を開けると、白い扉が見え、自然とそこに入れた。
あるいは、白猫が勝手に僕を連れ出し、気がつけば、手術台の上にいて、あの世界にいた。
そう。いつも、あの世界は、自然と用意されていた。
僕はもう一度、外に出て、再度、扉を開いてみたが、ダメだった。とすれば、また眠ればいいのかもしれない。また猫が勝手に運んでくれる。僕は、手にしっかりと、買ってきたものと現金を握り、眠る事にした。しかし、しばらくして、目が覚めても、やはり、自分の部屋だった。
もう一度目を閉じて眠ろうとしたが、無理だった。
よく考えると、地図を見て、行ったわけではない。そもそも道順が分からない。パソコンを立ち上げ、地図を確かめるため、サイトにアクセスしようと履歴ウィンドウを開いたが、なぜかC&R.Coの履歴は見当たらなかった。あそこへ行くべき方法を失った。
夢だったのだろうか。そう考えるとガッカリした。キャットフード缶を見ると、ますます、悲しくなった。
一体どうすればいいんだ?
その時、玄関の扉を叩く音がした。
>>act08 this world or that world
僕は、覗き穴で誰なのかを確認しようとした。しかし、誰もいない。
knock knock
僕は、もう一度、覗く。しかし、やはり、誰もいない。
knock knock
僕は無視して、布団に入った。
knock knock
ノックをする音は鳴りやまなかった。
僕は、腹が立ち、勢いよくドアを開け、怒鳴った。
「うるさい、誰だ!」
やはり誰もいない、と思ったが…足元にコウムラハナがいた。
『コンバンハ。』
「なんで?」
『アチラノ世界デ事件ガ起キタノデス。ダカラ、アナタ、アチラノ世界ニハ行ケナイノ。』
「どういうことだ?」
『事件デス。何者カガ侵入シ、爆破装置ガ起動シタタメ、コチラトアチラノ通信ガ中断シテシマッタノデス。』
何なんだ…事件ってなんだ。僕は力が抜けた。本当に夢に終わってしまいそうだった。コウムラハナと話をしているのは現実的ではないけれど。
「あの世界はどうなってしまうんだ?だいたい何のために、あの世界が襲われるんだ。」
『分カリマセン。タダ先生ノ研究ヲヨク思ッテナイ人モイルトイウコトデス。』
僕はとりあえず、コウムラハナを部屋の中に入れた。兎…なので、コーヒーを入れるわけにもいかないな、と思ったけれど、
『コーヒーダッテ飲メマスヨ。私ハコウ見エテモ人間デスカラネ。』
兎は笑った。と思う。
『モウスグバニーサンモココへ来ルト思イマス。』
僕の淹れたコーヒーを器用に飲んでいた。とても奇妙な光景だ。不思議の国のアリスの2本足で歩く兎は、コーヒーではなく、紅茶を飲んでいたっけ?あまりよくは知らない話なので、変な空想をしてしまう。
「なんで、バニーがここに来るんだ。」
『先生ガ危険ヲ察知シテ、バニーサンヲコッチノ世界ニ移動サセタンデス。』
「話の骨を折るようで悪いんだけれど、なんで、君はそんなに詳しく知っているの?」
『先ホドマデ、バニーサント一緒ニイタカラデス。話ヲ聞キマシタ。』
なるほどね。
兎の耳をした人間が兎を抱いていたら、周りの人は、どう思うだろうか。やはり、初めて僕がバニーに感じたような心持ちでバニーを見る奴もいるだろうか。自分を棚に上げてはなんだが、バニーのことを不信に思われるのは、とても嫌だった。嫌?どうして?僕はバニーに対して、やはり好意を持っているのだ。ちょっとだけ笑ったり、一生懸命考えてくれたり、まっすぐに白猫ドクターを愛していたり。そして彼女自身は求めなかった。誰に対しても、愛をくれ、とは求めなかった。ただまっすぐだった。
そのせいだろうか。僕は彼女をとても愛したいのかもしれない。ひとつの革命だ。
僕は急にそう思った。革命なのだ。僕も愛を求めたりせず、人を愛することができるかもしれない。もしも、地下の世界に戻れなくても、blank brainを手に入れなくても、僕は、大丈夫かもしれない。
その時、ドアを叩く音がした。僕は、勢いよくドアを開けたが、開けた途端、愕然とした。
「私が来たら、何か、マズイ事でもある訳?なんで、そんな最悪的な顔ができるの?」
姫乃だったのだ。一体いつぶりに会うのだろうか。元はと言えば、この女が始まりだったのだ。
「いつもこう言う顔だよ。なんだよ、何しに来た。憎まれ口たたきに来たのか?」
僕の足元にそっと、コウムラハナが近寄ってきたのが分かった。
姫乃がハナを見る。そして、笑う。
「寂しくなって、兎なんか飼い始めたわけ?だっさいわね。て言うか、あんた、いつから兎マニアになったの?」
「こんばんは。」
姫乃の後ろから、バニーが顔を出した。ノックアウト。都合の悪いことは重なるものだ。
「ここを訪ねようとしたら、彼女に会いました。暗いし、243号さんとも一緒にいなくて、道が分からなくなってしまったんです。そしたら、彼女が教えてくれました。」
バニーはやはり淡々と無表情に言葉を並べる。
「ちょっと、圭、一体、何?私と別れて、頭がおかしくなったんじゃないの?」
姫乃は、バニーをバカにしたように笑う。それがたまらなく腹が立った。
「お前には関係ないだろ。バニーは僕の大事なお客様だ。案内してくれてありがとう。用は終わったろ?さっさと帰れよ。」
姫乃はますます笑った。
「お客様だって?あんたが、彼女の客じゃないの?こう言うコスプレの設定で、やってもらうんでしょう?最低の趣味ね。よかったわ、こんな格好させられる前に別れて。」
僕の中で、何かがブチ切れた。姫乃に手が出そうになった時、バニーが彼女を引っ叩いていた。
「何なの、あんたっ!」
姫乃は、打たれた右頬を抑えながら、目を真っ赤にして、バニーに怒鳴った。
「最初、同じようなことを、彼から聞きました。あなたのせいですね。彼があんなことを言ったのも。私はそう言うふうに言われるのは、とても不愉快です。確かに、彼は私のお客様ですが、あなたの考えるようなお客様ではありません。ここまで、案内してくれてどうもありがとうございました。それはとても感謝しています。確か、忘れ物?か何かを彼のところにしているのでしたよね?」
姫乃は、何も言わず、その場をものすごい勢いで立ち去った。
忘れ物?なんだ、それは。そんなものあったのだろうか。僕は少し考えたが、姫乃は去ってしまったので、もうどうでもよかった。
「ごめんなさいね。あなたの彼女を叩いてしまいました。」
バニーは部屋に入るとすぐそう謝った。
僕は首を振り、構わないさ、と小さく呟いた。
「忘れ物とか言っていましたけど、それは大丈夫なのでしょうか?」
「何もないさ。ただ何かと都合をつけてここに来たかったのかもしれない。あ、でも彼女には僕に対して、そんな未練はないはずだけどな。分からないや、どうでもいいさ。」
バニーはまだ困った顔をしていた。
「いいから、大丈夫だから。バニーが悪いわけじゃないんだ。それに、こっちこそ、気分を悪くさせてごめんね。」
バニーは、首を振った。
その場はしばらく、沈黙が続いた。嵐が去った後の静けさのようだ。
『スイマセンガ、私ハソロソロ帰ラナケレバナリマセン。最後ニ、地下ノ世界ガコレカラ先ドウナルノカ、教エテ下サイ。』
バニーは首を横に振った。
「ごめんなさい。私にもよく分かりません。でも、きっと、先生が新しいプログラムを練り直して、あの世界を元通りにしてくれると思います。そうでないと、私自身もとても困ります。この世界では、ほら、先ほどみたいなことばかり起こってしまいそうですから。だから、私はあの世界に帰りたいのです。243号さん、そのうち、連絡を入れさせてもらいます。私の番号はこれです。数日後、また連絡を下さい。その時、状況をお知らせします。きっと、何か状況は変わっていると、私は信じています。」
コウムラハナは、バニーの書いた番号のメモ用紙を器用に毛の中に埋めこんだ。
「先生が、ポケットを特別につけてくれたのですよ。バッグなどは持てませんからね。」
僕が不思議がっているのに気が付いたのか、バニーがそう言った。恐ろしい猫だ。改めてそう思い、やはり、コウムラハナは人間なのだと、深く感心した。
僕の部屋には、バニーと僕の二人だけになってしまった。
正直、どうしようか、と思ったのは言うまでもない。
>>act09 blank brain
「いろいろ聞きたいんだけど…」
僕は、沈黙になることを避けたかった。僕に、変な気を起こさせないためだった。
「私に答えられることなら、どうぞ。」
バニーは正座をし、相変わらずの無表情で、僕の方を見つめた。ドキリとする。暗い部屋に、気になる女と二人きりだなんて。僕の頭がキリキリ痛む。
「一体、あの世界はどうなっているんだ?」
「分かりません。」
「じゃあ、なんで、君はここにいるんだ?」
「先生に地上へ行け、と言われたので…。私は先生とともに、残るつもりだったのですが、先生がしまいに、激しく怒り出したので、243号さんと、ここにやってきました。」
「何故、残ろうとした?好きだから?」
「はい。」
今度は僕の心がキリキリ痛む。
少しの沈黙が訪れる。僕は、困ってしまう。バニーは、いつもと変わらず無表情で、何も言わない。
「僕の手術は実行されるのだろうか?」
僕は、次の質問に移る。質問攻めをしようとも、バニーは一度も嫌がったりはしない。何故だろう、どうして、この女は、こんなにまで、無表情なのだろう。時々見せる表情は、人間らしいのに、それ以外はあまりにも冷たすぎて、おかしい気さえする。
「分かりません。でも、必ず、先生が元に戻してくれます。きっと。」
「どうして、そんなにあの猫が好きなわけ?」
「私の全てだからです。先生が私を助けてくれた…と、信じている…のですが…」
バニーの言葉がポツリポツリと切れ出した。すると、次の瞬間に、彼女が眉間にシワをよせ、あまりに、険しい顔をしたので、僕は驚いた。
「どうしたんだ?」
「最近、気が付いたことがあります。」
バニーは険しい顔のまま、僕をじっと見つめる。ドキリとする。
「私には…こうなる前の記憶があまり鮮明ではありません。」
「なんだ、それ。」
僕は愕然とした。ちょっと待て。記憶が鮮明ではない、とはどう言うことだ。もしかして。
「blank brain?」
二人の声は同時だった。
「あなたが現れる前までは、私が先生を愛し、私が兎になったことに、疑いを感じず、先生の言うことがすべてだったのです。でも、あなたが、blank brainを選択し、メモリーに私の愛を選んだ時、そして、私が、あなたに提案したメモリーを考えた時…。私の脳は、もしかして、blank brainなのでしょうか?」
もし、その仮定が本当なら、あの白猫はとんでもない猫だ。
いや、バニーも、僕と同じように、あの猫に愛して欲しい、と言ったのかもしれない。猫は言った。彼も彼女を愛してはいるが、彼女の愛し方とは異なると…。頭が混乱する。僕は気分が悪くなり、布団の上に倒れ込んだ。
「怖い…ですか?」
バニーが僕のもとに近寄り、彼女の指が額に触れた。
「どうだろうね。分からない。考え出すと、気味が悪い。僕も君みたいになるのか?無表情な人間に。」
「分かりません。それに、私がblank brainを持っていると言う証拠はありません。先生しか知りません。きっと。」
すべての鍵はあの猫か。僕は少し、悔しかった。バニーのすべてがあの猫に委ねられているのも、僕のこれからもあの猫により、これから左右されるのも。
「あ、あの、あなたに、黙っていたことがあります。これは、言うな、と言われていたのですが、私自身が気になるし、あなた自身も気になるでしょうから。」
僕は気分が悪くなってきた。
何もかもにだ。僕は何も知らない。何も知らない。なのに、周りは何もかも知っている。blank brainもこう言う状況かもしれない。
たったひとつの記憶。バニーと言う記憶。僕には、バニーしかいない。彼女を目の前にすると、何かが怖い。とても怖い。バニーへの淡い恋のような感情が少し崩壊し始めた。
彼女以外、何もない。僕はそれでいいのだろうか?確かに、彼女がすべてになるのは、構わない。そうだ、そう思ったじゃないか。
だけれど、それ以外に記憶がない、と言うことは?やはり…彼女は、blank brainなのかもしれない。状況があまりにも似すぎている。だとすると、とても怖い。なんだ、それは。なんだ、僕は。なんだ?
「あの女性のことなのですが。彼女はまだあなたが好きみたいです。」
僕は、何も答えなかった。
少しずつ、blank brainの恐怖に体が侵されていく…深く、深く、残酷に、切り裂く。blank brainを持つものは、操れる事ができるかもしれないんだ…その恐怖…。
無知なると言う恐怖。誰も何も分からない、と言う恐怖。言葉を知らない恐怖。何もない…恐怖。
「あの、聞いていますか?」
切り裂く、切り裂く。細かく、深く…
「鷹崎さん、鷹崎さん!!」
僕の体が激しく揺れ動く。
ガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガク…
「起きて、起きて下さい、鷹崎圭、鷹崎圭!!!!!」
no change... have nothing...
Who am I?????????????????????????????????????????
はっとした時、バニーが僕の頭を抱き締めていた。僕は意味が分からなかった。
「な、に?」
僕はバニーの腕を取り、体を起こした。
「いきなり、痙攣を起こしたものですから、どうしていいか分からなくて。ゴメンなさい。」
僕は頭を振った。前もこう言うことがあったような?
「契約を取り消しすることも可能です。あまり無理はしない下さいね。」
「少し、怖くなったんだ。もしかしたら、君のようになってしまったら、僕はどうなってしまうんだろうって。もちろん、それは全く未知の世界だし、断定なんてできない。君が十分、あの猫を愛しているのは今は分かっている。でも、手術後、果たして、僕は君のその愛を理解できるかどうか。もし、理解できなかったら、また今の自分と変らないのではないかと思ってしまって。それに、何も知らない、何も分からない、と言う状況はやはり、とても怖い。とても怖いんだ。僕はもう人を傷つけたくないし、そして、自分もできれば、傷つきたくない。ねえ、君は幸せ?もし、blank brainだとしても、今、君は幸せ?」
バニーは大きく頷いた。そして、少し、笑った。
「先生がすべてでも、私はとても幸せです。」
僕は少しホッとした。
「あの、また提案です。あ、それから、さっきのこと、ちゃんと聞いていました?」
バニーが慌てて、ものを言う姿はとても可愛い。
「いや。分からない。何か言ってたの?」
「姫乃さんは、あなたがまだ好きです。」
「はあ?」
間抜けな声が出てしまった。何を言ってるんだ、バニーは。僕は急に力が抜けた。僕はまた横にバタリとわざと倒れた。
「鷹崎さん!」
バニーが慌てて、倒れた僕を覗き込んだので、笑ってしまった。
「もう、冗談はやめて下さい。」
「そっちこそ、冗談を言うのはやめろ。姫乃のあの態度見たろ?あんたも、酷いこと言われたろ?」
僕は、バニーに背中を向け、目を閉じた。もう、混乱はやめてくれ。これなら、すっきり爽快!気分も新たに!で、早く脳ミソ替えてくれ、だ。コノヤロ。
「私は道に迷ってはいませんし、姫乃さんに、ここに連れて来てもらったわけではありません。私がここについた時、彼女もここにいらしていました。ウロウロしていたので、私が声をかけたら、あなたのことを話してくれました。私が変な格好だったから、話しかけやすかったのかもしれませんね。彼女は後悔をしていて、あなたに電話を何度もしたそうです。しかし、繋がらなかった。たぶん、それはあなたが、私達の世界にいたからでしょうね。私はとりあえず、そのことは伏せておきました。それで、私が一緒に、行きましょうって言いました。そしたら、彼女が
『私は思いきり、圭に嫌われたい。そうすれば、私は圭を諦められるかもしれない。私はすごくすごく、彼のことが好きだけど、どうしても、彼に愛されてない気がするの。だから、私は、圭に嫌われたい。たぶん、他の男と寝たことでもかなり、嫌われているだろうけれど。最後にもう一度、私は私でとどめをうちたいの。協力して。嫌い、という形でも圭の中に存在していたい』って。それで、あのようなことに。」
どうして、今頃になってそんなことを言うのだ。僕には訳が分からなかった。
どうして、姫乃は僕のことが好きなのだ。訳が分からない。僕はまた混乱し始めた。何もかもが凝縮したとても息苦しい夜だ。こんな夜早く終わってしまって欲しい。僕は心からそう思った。もう、これ以上何も、起こってはいけない。
「何で、今頃、そんなことを言うんだ。僕に今から、姫乃を追いかけろ、と言うのか?それで、愛を確認しろとでも言うのか?僕にはできない。きっとまた喧嘩になるだけだ。それに、あんたは、アイツにそのことを言うな、と言われたんだろ?恨まれるぞ。そうなると、アイツは本当に怖いぞ。」
「よく知っているのですね。あなた、本当は、ちゃんと愛していたのではありませんか?」
バニーは首を傾けながら、囁いた。僕は黙った。そして、考えた…
ちゃんと愛してた?
「僕の言うことに答えろ。」
バニーはまた無表情になった。そして、いつものように淡々と喋り始めた。
「あなたの残す記憶が私に決定してから、愛についていろいろ情報を集めています。彼女の気持ちがなんとなく分かる気がしました。だから、本当の彼女のことを伝えました。そして、私はあなたも姫乃さんを愛していたのだと思います。だから、彼女が自分のもとから去った時、とても辛くて、自分でいるのが嫌でblank brainを選択したのです。普通、そこまで、考えるでしょうか?今までに考えたことは?ないでしょう?それでもあなたはblank brain選択を実行しますか?あなたはちゃんと愛を知っています。」
「分からない。どうすればいいんだ。僕は姫乃のもとに戻る勇気はない。だけど、blank brainもだんだん怖くなってきた。僕は器用な人間じゃないし、いい奴でもない。ただの小心者で我侭なだけだ。」
「手紙を書きましょう。」
バニーは、突如そう言った。僕には訳が分からなかった。
僕が不思議な顔をしていると、バニーは相変わらずの無表情で、言葉を続けた。
「あなたの思いを綴るのです。例えば、姫乃さんへの思いや、私達のこと、blank brainのこと、何でもいいから、思っていることをすべて、そこに書き記して下さい。そして、それを、姫乃さんに送って下さい。例えば、あなたがblank brainになったとしても、姫乃さんは、あなたがあなただと分かってくれる。例えば、あなたが手紙を書いている最中に思いなおして、姫乃さんのもとに行く。いずれにせよ、頭の中でぐちゃぐちゃ考えていても、始まりません。外に出してしまって下さい。私には伝えられない何かを、姫乃さん、いえ、姫乃さんでなくても構いません、誰かに、この地上世界の誰かに、伝えて下さい。ただ、その人たちに、どれだけ地下世界を信じてもらえるか、あなたを信じてもらえるか、分からないのだけれど、とりあえず、あなたは、それらの言葉を外に出すことで、何らかの方法を見つけることができると思います。長い文章なんて、そうめったに書くものでもありませんし、手紙、と言う形になると、声に出して話すよりも、幾分慎重になるし、思わぬことも出てきます。手紙だと、形として残ります。私は今まで、いろんな思いを辛い時、迷った時、書き留めてきました。実を言うと、その考えは先生の考えなのですが、結構すっきりしたものです。どうでしょうか?あなたが今すべきことは、落ち着くと言うことです。そのくらいの時間は十分にあります。まあ、地下の出来事で私自身もあまり落ち着いていないので、言える立場にないと言えば、ないのですが…。」
僕は黙ったままだった。バニーもそれ以上、口を開かなくなった。シンと静まる空間。一体、何がどこで狂ってしまったのだろう。僕はまた頭の中で、考えようとする。だけれど、バニーはやはり、口を聞かない。
「なるほどね。手紙ね。いいね。」
そう言うと、バニーがにっこり笑ったので、僕は少し安心した。
「僕が手紙を書いている最中に、気が変わって、姫乃のもとに帰ったら、君は寂しい?」
「いいえ。」
僕は笑った。そう答えるだろうと分かっていたから、思わず笑った。
「僕がblank brainを選択して、君を愛してたら、君は迷惑?」
「いいえ。」
「僕が君にキスをしても、君は怒らない?」
「いいえ。」
僕は笑ってしまった。バニーはやはり冷静である。僕は彼女を抱き締めた。バニーは驚いて、小さく悲鳴をあげた。
「僕が君を愛してたら、どんな形でもいいから、愛してくれる?」
「はい。」
バニーはとても小さい声で答えた。
僕はなんだか生まれ変わった気分になった。ただ優しさに包まれていた。
「僕は契約通り、blank brainを選択し、君を愛したい。」
キミヲアイシタイ。
僕はバニーの額にキスをした。彼女は顔を真っ赤にしたので、久しぶりに声をあげて笑った。
ボクハケイヤクドオリ、blank brainヲセンタクシ、キミヲアイシタイ。
僕は、手紙を書くことにした。とても長い愛の手紙を。とても長い不思議な手紙を。
僕はきっと僕ではなくなり、僕になる。
>>act10 love letter
姫乃へ。
きっとビックリしているだろう。
僕がこうして、君に手紙を書くことに、君はビックリしているだろう。
何故、この手紙を、この長い手紙を、君に書いているか、それは僕の我侭でしかないのだけど、僕は僕自身のため、僕を確立するために書いている。
まず、それを分かって欲しいし、許して欲しい。
僕の君への正直な気持ちを書こう。
僕は君が好きだった。本当に好きだった。
君は気付いてないかもしれないけれど、本当に好きだったんだ。
僕が今まで付き合ってきた中で、いちばん、特殊だった。
もちろん、いい意味でも悪い意味でも。って書いたら、また僕を殴るかい?
君はいつもストレートで、一緒にいても、苦しいことなんてなかった。
だけど、僕がへんに君を意識した時から関係がおかしくなったんだ。
付き合う前の方がよかっただなんて、とても悲しいけれど、僕には人をちゃんと愛すると言うことが、まだ分かっていなかった。
君への思いは、戸惑いばかりで、どうしようもなくて。
今分かることは、君に上手に、僕の気持ちを伝えることができなかったということ。
君を手に入れたくて、セックスばかりしてた気がする。でも、そのたびに、とても怖かったんだ。
こんなことでしか、君を繋ぎ止めておけないだなんて、僕は一体何をしているんだろうって悩んでた。
そして、いつのまにか、僕は君を酷く傷つけたようだね。
そして、僕も君に去られて、本当に、本当に、傷ついた。
ずっと、女になんか不自由はなくて、気がつけば、僕から離れて行く女たちを、どうだ、ってほど、考えたことなんてなかったけれど、離れて行かれる度に、僕の中の虚無感が増大した。
だから、怖かった。姫乃には、離れて欲しくなかった。
だけど、僕には、その繋ぎとめ方が分からなかった。
そして、君も離れて行った。自分が悪いのは分かっているけれど今回は、とても辛かった。
本当に辛かった。
それからの僕は…最悪だった。部屋から一歩も出ず、ひたすら、パソコンの画面に向かって無意味に、キーボードを叩いたり、マウスでクリックできるところは、クリックしまくった。
そして、僕はとんでもないサイトにたどりついたんだ。
ここで、少し、君に、言っておこう。
これから、書く話を信じるか、信じないかは君次第。
だけれど、できることなら、君に信じてもらいたい。
それは、最初にも書いたけれど、これは僕自身のために大切な手紙だから。
僕自身の未来のために。
話を元に戻そう。
僕が見つけたそのサイトは、とてもへんな会社のサイトだった。
人体部品交換、変換会社。普通に考えたら、そんなバカな話ないよな?
でも、僕はその時、頭がイカれていたから(今もたぶん、かなりイカれてるけれど)そういうものがあるなら、僕はぜひとも脳ミソを交換してもらいたいって思ったんだ。
もう君の事を考えるのが嫌だったし、不器用な恋愛はウンザリだったから。
そしたら、実際、あるんだ。その会社は。僕の部屋はそこに繋がっていた。ありえないだろ?
君は、兎の耳をつけた女に会ったね?彼女は、そこの社員だ。受付係り、もしくは、そこの秘書。
あの兎の女、耳が本当に、兎の耳なんだ。もし、今度出会ったら、見せてもらうといい。
そんな彼女を見て、ああ、これは本当かもしれない、って思ったんだ。
そしたら、次に出てきたのは、猫。でかい白猫さ。白衣なんか着てるし、まさか、と思ったけど、その猫野郎が僕の脳を交換してくれる主治医さ。
あ、もう、読むの嫌になってきた?ごめんね。僕だって、信じられない事の連続だったけど、慣れてくると、どうってことないんだから、怖い。
あと、兎になった女もいた。気がついた?僕のところにいただろ?あの兎も喋れる。聴き取りにくいけれど。
じゃあ、本題。
僕は、これから、その手術を受けると思う。
そう、脳を交換する手術。
そして、その脳はblank brainと言って、記憶のない脳だ。
つまり、僕は、君のことも僕自身のこともすべて分からない人間になるだろう。
僕が僕でなくなるために、この脳を選択したけれど、僕は僕でもいたいんだ。
だけれど、それでは、また僕は君を傷つけたり、愛に不器用だったりするだろう。
僕の考え方をすべて除去するために、これしかないんだ。
君を忘れたい。
だけれど、君が嫌いだから忘れるんじゃなくて、君が好きだから忘れたい。
都合のいい男だと思うだろう。その通りさ。僕は我侭で自分勝手で最低の男だ。
だけれど、もし、もしも…blank brainになった僕が君の前に現れたら、僕であることを君には分かって欲しい。
すべて忘れている、いや、僕という記憶のない僕をどうか、受け止めて欲しい。
そうすれば、僕は、君をちゃんと、愛することができるかもしれない。
もうひとつ、我侭を言えば、その時、僕の本当の名前とか過去のことを何も言わないで欲しい。
そして、僕が君の満足のいくほどに君を愛することができたら、僕のことを打ち明けて欲しい。
あ、今、思ったんだけど、君がもう僕を嫌いだったら、こんな要求は無謀だね。
じゃあ、僕と言う人間を忘れないでくれ。
姫乃にとって最低最悪の男、と言う記憶でいいから、忘れないでくれ。
我侭だねー、本当に。自分は君を忘れるくせにね。自分勝手だ。
でも、blank brainは未知だし、本当に不安で、僕には誰も分からない、となれば、僕の気持ちも分かってくれる?なんて、またしても我侭だ。
我侭ついでに、僕が今度、君の前に現れる保証はない。君を知らないしね。
それに、地下の世界に居着いてしまうかもしれない。
blank brainはひとつだけ、メモリーを残せる。僕はそれに、バニーの記憶を選んだ。
何故、選んだか。理由はひとつ、彼女の人の愛し方に興味があるから。一途過ぎるその愛を信じたい。
僕が彼女への愛を知って、君への愛も理解できるようになれば、と思っている。
僕はそう、本当に、強く望んでいる。
こんな形で、我侭で、突拍子もない手紙でごめん。
だけれど、君に伝えるべきことだった。
君をたくさんたくさん、傷つけてごめん。
本当にごめん。
そして、これから、僕がここから消えてしまうことを許して欲しい。
でも、もし、またいつか出会えたら、その時は、愛を知ってる男かもしれない。
その時はヨロシク。
最後に、君がくれた愛の記録を僕は手術までの間、ずっと書き続けるつもりだ。
君にそれを送るかもしれない。いや、送らないかもしれない。
ただ書き続けることだけは約束する。
本当は自分がいちばん、愛が欲しかったんだ、と気が付きました。
君の言うとおり、求めてばかりでゴメンなさい。
ただ、どうしていいのか分からなかった。本当に分からなかったんだ。
ねえ、僕を探して。
そして、僕を愛して。
今度は、ちゃんと愛を返せるから。
鷹崎圭
追伸:僕にいろんな意味において、兎の趣味はありません。
>>act final a new day?
僕が地下の世界に戻ったのは、あの夜から7日目のことだった。バニーが言うには、どうやら、地下組織システムの回復が終わったらしい。今回は、以前、ここで手術を受けた患者が、そのデータを盗もうとして、ウィルス攻撃に出たらしい。そのため、この世界を管理にしているパスワードの一部が壊れ、それ以上の崩壊を防ぐために、爆破が起こったらしい。あの猫は、なんと言うシステム作りをするんだ。
いくらなんでも、自分の住んでるところに爆破装置を組み込んでいるだなんて。しかし、猫は、クールに言うのだ。
「爆破したら、すぐに分かっていいじゃない。それに、死んでしまうほどの爆破じゃないよ。」
やはり、この猫ドクターだけには、いつまでも、慣れない。そして、猫は言う。敵が多いのだと。
「こんなことで、いちいち、システム管理のパスワードを幾重にもするより、爆破しちゃう方が楽だよ。敵はビビるだろう?あ、あそこはもう壊れたかもって思うだろう?そんな単純なものでもないけど、パスワード組み込んでぐちゃぐちゃにするより、私はそっちが楽なんだよ。シンプルイズベストっていうじゃないの。まあ、私の頭に侵入しない限り、ここの全データを盗むことは不可能ということになっているんだよ。」
僕の手術は、予定より、遅れたが、実行されることになる。最後に、僕はとても気になるので、バニーについての質問をしてみた。そしたら、猫に大笑いされた。やはり、この猫は苦手だ。
「想像力が豊かだね~。君の脳、冷凍保存しておこうね。何かの役に立つかも。」
「じゃあ、彼女はblank brainではないんですか?」
猫は僕が持ってきたマタタビの袋を開けながら、当たり前じゃないか、とぶっきらぼうに答えた。
「あの子は、ただの記憶喪失だよ。交通事故にあってね。脳の一部が損傷したのだろう。とても可哀想な子だよ。昔はもっと、笑っていた子だったのに、その事故以来、無表情で、ろくに喋りもしない。彼女は何度も自殺を謀ったよ。親が何度も止めたが、彼女は手首を切る事をやめなかった。私はそんな彼女を見て、とても辛かった。」
「彼女はあなたの何なのですか?」
マタタビを一口食べて、顔を歪めながら、猫は小さく呟いた。
「娘だよ。」
猫は話を続けた。
「事故以来、娘のことで、妻と喧嘩ばかりを繰り返してね。あのままじゃ、本当に、あの子は死んじゃうってね。彼女はほぼノイローゼ気味だった。その様子をルイコ、ああ、娘の名前ね、ルイコはしっかり見ていて、妻の目の前でも何度か手首を切ったよ。妻は発狂してしまってね。今は毎日のように、ブツブツ呪文みたいなわけのわからない言葉を囁いている。妻はこの建物の地下の特別室にいるんだ。今度よかったら、会ってやってくれ。普通に話せる日もあるんだよ。私は、ルイコを助けたかった。そして、私は、バニーと言う名の人間として、彼女を救った。もともと記憶が曖昧な上、手術のショックも大きかったのだろう、自分のことを忘れているんだ。しかし、私は、それで、彼女が幸せになったのか、どうか分からない。私も私自身の姿を変えた。自分を忘れたくてね。昔君のいる世界で見た映画にあったろう?豚に姿を変えるのさ。でも、完全に自分を忘れてはいないよ。妻をそばに置くことで戒めているのさ。妻も手術で楽にしてあげられるかもしれない。でも、手を加えることができなかった。バニーを見ていたら、何が正しくて間違っているか分からなくなってね。バニーは、妻をただの患者としか思ってないけれど、よく世話をしてくれているよ。変な家族だけれど、それぞれ、皆、傷つき、必死で生きている。」
なるほど。だから、彼と彼女の愛し方が根本的に違うのだ。そして、僕のバニーへの好意に興味を持っていたのだ。今、考えると、ちょっと自分は大胆だったな、と思う。特殊だけれど、親子愛に変わりはないのか。
「このことは、バニーには言わないで欲しい。お願いします。」
「約束します。それに、手術すれば、忘れてしまうので、信用できないなら、早急に手術に取りかかって下さい。」
「ユニーク。」
愛にはいろいろな形がある。だから、すれ違いもあり、傷つく事もある。だから、愛し合えた時の喜びも大きい。
つまり、そう言う事なのだ。
「君、本当に、blank brainだよ?いいね?バニーをヨロシク。」
手術台に横になり、猫がそう言ったのが遠くの方で聞こえた。僕は…記憶がなくなる。僕は、blank brainに変換するのだ…
姫乃に手紙は届いただろうか?
どうも、こんにちは。サエジマです。
いやいや、ねえ、鷹崎くんの手術は見事成功ですよ。ええ、ええ。
だって、私、プロですから。ホホホ。
あ、なんで、私が喋ってるかって?
当の本人は、ほら、言葉も分からないしね、皆さんに語りかけようがないでしょう。
あ、でもね、サービスで、言葉の記憶もちょっとだけつけといたんですよ。優しいでしょう?思いの他、マタタビがおいしくなかったのですが、彼自身のことを私が気に入りましてね。
ええ、ええ。そんなものですよ。
皆さんも、ぜひ、C&R Co.にお越し下さい。
え?サイトアドレスを教えてくれって?そんなー、私はそこまで親切ではありませんよ。
きっとあなたが迷った時、落ち込んだ時、ふと、その扉は開くものです。
今、この会社も増築工事が進んでいますので、もしかすると、あなたのうちにも繋がっているかもしれませんね。
鷹崎くんがどうなったかって?
その物語は、彼がしっかり言葉を覚えたら、また語ってくれるでしょう。
おっと、私は次のオペがあるので、これで失礼。
今度はあなたに会える日を楽しみにしています。
『生マレ変ワリマショウ、キット、ナリタイ自分ニナレルハズ…』
デモ、ソノ扉ヲ持ッテイルノハ、アナタ自身。
ソノ扉ハスグ、ソコニアルノカモシレマセン。
the love door is always opened…maybe.
Fin.