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第1話 手首を切ったら猫になった件

 赤く染まった大きな湯船の中で、目をつぶったままの少女がゆらゆらと揺れている。

 バスタブによりかかったどこか影が薄い繊細な容貌が、今にも完全に水没しそうだ。

 ついにその浮力ともたれかかっていた摩擦の均衡が崩れ、静かに彼女の姿が沈んでいく。


 数秒後。


 赤い湯が爆発的に弾け飛んだ。

 大きな飛沫を上げる音と荒い呼吸が浴室内に反響する。


「ごほっ、ごほっ、ごほっ、この大賢者シーゼル様をいきなり水責めにするとは手荒い歓迎じゃな」


 ぎろりと底光りする目で浴室内を見回して物騒なことを呟いたのは、つい先ほどまでは命を失う寸前だった少女である。

 だが目を覚ます前は小柄な体躯から小動物を連想させていた大人しく儚げな印象が、シーゼルと名乗った今は一転して飢えた肉食獣の如き雰囲気となっている。

 何度か喉の調子を確かめるように咳込んだ彼女は、ふと気がついたのか湯船に座ったままで赤く染まっている湯からその原因である左手を上げた。

 勢いこそ弱くなっているが、いまだにそこからとめでなく流れる己の血に対して恐れる様子も痛みを感じているようでもない。自分の体というよりも医者が患者を――いや実験動物の状態を観察する科学者の冷静な視線だ。


「ふむ、結構深い傷じゃな。じゃがこれは誰かにやられたのではなく自傷じゃな……」


 やりきれなそうに頭を振ると手首に深く刻まれたカミソリの痕を一撫でする。


「治れ」


 その一言で跡形もなく傷は姿を消した。これでもう残っている浴室内で起きた惨劇の痕跡は赤く染まった湯のみである。

 さすがに自分の血液の混じったこの湯にもう一度浸かるのは嫌だったのか、仏頂面で呟いた。


「浄化せよ」


 彼女が放つ一言で今度はバスタブの中は澄んだ見た目を取り戻す。 

 もう一度浴室内を見回し彼女にとっては見慣れぬ品々に目を留めるが、とりあえずは差し迫った危険がないと判断をくだしたようだ。小さな鼻を鳴らすと悠々と綺麗になった湯で体を清めるのだった。



 頭の上からほかほかとした湯気を上げながら浴室から出ると、ずぶ濡れのまま彼女はしばらく興味深そうに更衣室を観察した。最初に手を伸ばしたのは真っ先に目に付くところに綺麗に畳まれていたバスタオルで、その感触を指先で擦り合わせるようにして確かめると満足げな笑みを浮かべる。


「ほう、金毛羊の毛織物よりも細やかとは贅沢じゃのう」


 ご機嫌な表情で鷲掴みにしたバスタオルで荒っぽくまだ起伏の乏しい未成熟な体を拭う。

 おそらくこれまでは丁寧に手入れされていたであろう長く艶やかな髪も、そのままタオルでわしわしと適当に水気を取っただけの雑な扱いだ。

 わずか一分でタオルを投げ捨てると、今度は壁にかかった大きな姿見の前に立つ。

 そこに映し出されたのはまだ童女の面影を残している少女の裸だった。


 なにが気に入らないのか「やれやれ、ミスリル銀の鏡より映りは良くてもモデルがまだまだ青いのう」と首を振る。 

 その度にまだ水気を含んだ長い黒髪がボリュームに乏しい体に絡みつき、それを鬱陶しそうに払いのける。

 しばらく鏡の中の自分の姿を点検すると、こめかみに指で触れたまま数秒目を閉じる。その間は呼吸まで止めて精神を集中しているようだった。

 やがて目を開けると、もう一度しげしげと見つめ直しながら以前の自分にはついていなかった胸部の脂肪を片手で掴んだ。同年代と比較すればささやかななものだが、余分なものがついたせいかどうにも気になるらしい。


「……ふむ、なるほど。この体はおなごで、華のジョシコーセー、という奴なのか。こんなに幼いおなごの体を動かすのは初めてじゃが、この程度の胸でも意外とバランスが崩れて動きにくいものじゃな」


 女子高生に奴という言葉を使うのは適切ではないが、今更ながら客観的に自分の立場を理解したようだ。

 ただどうにもこれまでとは違う胸については納得がいかないのか、しばらくはむにむにと忌々しげにもんでいた。

 それからようやくといった形で口にしたのはこの体の持ち主の個人情報についてだ。


「おぼろげに読めたが、この体の持ち主……彩田 綾(さいだ あや)は周囲から迫害され、自ら命を絶とうとしたわけか……ふん、哀れではあるが弱すぎるのう」


 一瞬だけ新たに得た体の持ち主であった少女に哀悼を捧げるように目を伏せると、それだけで割り切ったようだ。

 魔法使いとはいえ幾度となく戦場にたった彼シーゼルは――いやもう彼女と呼ぶべきか――おそろしく割り切りが早い。人の生死は日常茶飯事で、そんなことにいちいち動揺するほどウブではないのだ。


「だが、魂のみとはいえワシのものとなった頭の中にまだおられるのはじゃまじゃな。このままでは記憶や知識も上手く操れん」


 意味不明な独り言をもらすと、更衣室まで持ち込んであった猫のぬいぐるみを手に取る。

 ずいぶんと古びているが黒く手触りの良い生地には何度も修繕した跡がある。使い込まれるほどに愛着があると見て取れるぬいぐるみだ。


「せめてこの世界での助言者となってもらおうか」


 むにゃむにゃと口の中で呪文を唱え、さいごにほっそりとした指でデコピンを猫の額に一発。

 すると糸目の――これは物理的に糸で細く刺繍されているという意味だ――はずのぬいぐるみの目が大きく見開いた。


「……あれ? 私って天国に行ったんじゃなかったのにゃ? なんで私が目の前にいるのにゃ? というか私ってこんなに大きかったっかにゃ? ってなんで普通に喋っているのに語尾ににゃってつくのにゃ~!」


 意外に元気に疑問をどんどんと重ねていく猫のぬいぐるみ。まだ夢か人生最後の走馬灯の延長線上だと思っているのか、自殺した少女という割には快活な印象である。 


「ちと落ち着いて黙っておれ。にゃーにゃーばかりで聞き取りずらい」


 ぬいぐるみの口をくにゅっと握りつぶし物理的に黙らせると、その手からぬいぐるみへとなにか暖かい物が流れ込んでいく。これで強制的に精神を落ち着かせるのだ。


「しかしこの翻訳魔法は口調が依代(よりしろ)に影響されるのと、ワシが爺っぽい喋りになる以外は万能と言ってもいいんじゃがのう」


 ため息をはきながらシーゼルは糸で形作られたぬいぐるみの目を覗き込んだ。中に入れた魂が影響しているのか、形は固定されているはずなのに魂が入る前より明らかに若干垂れ目になっていた。

 口から首へとぬいぐるみを掴む場所を変えると、命じることに慣れた者特有の逆らいがたい口調で勧誘する。


「さて、落ち着いたようじゃな。では提案じゃ、望み通り命を失ったお主じゃがこのまま地獄行きで良いのか? ワシの手伝いをすれば褒美はやるぞ」

「じ、地獄行きとは失礼にゃ! 私は天国へ行くに決まってるにゃ! それに褒美なんかで転ぶとは見損なわないでほしいにゃ! どんな褒美かちょっとだけ気にはなるけれど、死ぬ覚悟まで決めた私に欲しいものにゃんてにゃいにゃ!」

「ふむ、自殺したらここの世界でも魂は地獄行きじゃないのかね? それにお主は迫害されていじめとやらにあっていたのではないのか?」


 掴まれた細腕からなんとか逃げ出そうと、爪のない前足でもがいていた黒猫のぬいぐるみの抵抗がぴたりと止まった。


「あくまでこのまま死にたいと望むのなら、もう邪魔はせん。安らかに――とはいかんが殺してやろう。じゃがワシの手伝いをしてくれるなら、いじめをしてきたそいつらに仕返しをしてやってもいいぞ」


 ぬいぐるみが木彫りの人形かと思えるほど硬直していたが、決意したように口を開いた。 


「……なんの手伝いをすればいいのにゃ?」

「なあに、せっかくこの世界にきたんじゃから、記念にワシが世界を征服する手伝いをちょっとして欲しいだけじゃ」


 爺の口調でありながら女子高生の澄んだ声で返された答えは、まるで買い物に行くから付き合ってくれと言うぐらいに軽いものだった。


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