プロローグ 始まりのサイレン
初投稿です。
超スローペースで頑張ってみようと思います。
龍刻学園の一番打者、松前 光が左打席へと静かに入る。小さな声で礼儀正しく球審に挨拶をした以外、一言も発することなくヘルメットの鍔を触り、軸足となる左の足元を軽く掘って、バットを水平近くに寝かして担ぎ、構えた。
(龍刻学園不動の一番バッター……二年の秋から一番の座を誰に譲ることも無く、全ての試合で出場して、出塁している)
左打席で悠然と構える松前の最大の特徴は、その安定感にあった。能力だけで見れば、松前に特筆すべき特徴は無い。これだけならばただの選手でしかないが、この松前のという選手は、特筆できるほどの弱点もまた、無い。出塁、走塁、そして守備に至るまで全てを手堅くそつなくこなすことが出来るバランスのとれた良い選手だ。
そして、そのバランスの良さは、マウンドで対峙する白坂 細雪にとっては高い壁となる。
(ほんと、特徴のない選手ほど投げにくいものは無いわね)
男子に球威で劣る細雪は、徹底したコントロールと変化球の数とキレで勝負を賭けている。相手のフォームを見て、狙い球を想定し、タイミングを外し、苦手なコースを攻める、といった弱点を徹底的に突くことで細雪はこれまで戦ってきたが、すなわちそれは、突く隙のない選手には戦いにくいということを表している。
(今日のあたしはまだ腕が今一つ振れていない……初球はカーブで様子を見たいわ)
マウンドからサインをのぞき込んだ細雪の思いは、女房役、安福 力也とすれ違う。
(初球から変化球で逃げるなよ。内角にストレートを投げ込んでやれ)
細雪は一つ首を振り否定を示す。
(素振りを見るに、タイミングはストレートに絞っているはず。いきなり内角ストレートは多少強引にでも振ってくる)
(だったら、当てるつもりで顔の前にストレートだ。初球だからって、逃げるなよ)
細雪は小さく溜息を一つして、二度目の否定を示す。同時に集中が途切れたことで、細雪は一度プレートを外し、球場全体がそのしぐさと同調して溜息を吐いた。
龍刻学園のブラスバンドが必殺仕事人のテーマをエンドレスで流し、バックネット裏に陣取る仙人みたいなじいさんが目を細めて汗をタオルで拭う。
細雪は、初回のこの緊張感が嫌いではなかった。どれだけブルペンで投げようが、どれだけ練習試合をこなそうが、公式戦の初回、特に初球は緊張する。それは、投手だけでなく、観客もまた同じのようだ。
「細雪」
ガシャガシャとプロテクターを揺らしながら走ってきた力也はミットで口元を隠しながら細雪の意思を問う。その目に浮かぶのは、不満というよりは純粋な疑問だ。
「どうした。何か心配事でもあるのか」
「そういう訳じゃないけど……」
細雪は力也から目線を逸らし足元を掘りながら答える。力也はピッチャー側の意思を尊重してくれるキャッチャーだが、ストレートを投げたくない理由が「何となく不安」なんてものしか浮かばない細雪としては、意味を考えてリードをしてくれる力也に少し申し訳なく思ってしまう。
「お前、今日あんまり腕振れてないだろ」
「……分かった?」
おどけて答える細雪にマスクの隙間から呆れ顔を見せて力也は肩を竦めた。
「何球受けてると思ってんだ」
「よねぇ」
「何が投げたい」
「カーブ」
「……分かった。でも内角で攻めろよ。当ててもいい。弱気は駄目だ」
「分かってる」
「キャッチャー、早く戻りなさい」
球審から促され、力也が大きく返事をする。
「さあ、いこうぜ」
「おう」
細雪は差し出されたミットに己のグローブを軽くぶつけて、ホームプレートに背を向け、いつものルーティーンに入る。
投 手 板の横から後ろへと回り、前縁に沿うようにして軸足となる右足のスパイクを滑り込ませる。体の正面を一端サード側へと向け、サードコーチャーを一瞥して、送られるサインをのぞき込むためにホームへと体を捻る。
サインは打ち合わせ通り、内角ボールゾーンにカーブ。
『プレイ!』
球審の声に合わせて試合は動き始める。
細雪は胸の前にグローブを構え、キャッチャーミットに集中した。
(いつも通り。練習通り)
楽しい試合が今、始まった。