凛果の想い出
「ただいま」
習慣で霧香は言ったけれど、家の中に人の気配はなかった。
携帯をチェックすると、仕事で少し遅くなるというメールが入っていた。霧香の母親は、この頃、仕事が忙しいようだった。
あまり、遅いようなら、いつもコンビニでなにか買ってくる。母親が眉をひそめるような脂ぎったジャンクフードが、霧香は好きだった。レストランにはあまりいかない。子供が一人で食事していると、変な目で見られるし、余計に惨めな感じがするからだ。
「べつにいいや、おなかへってないし」
霧香の家は、子供部屋とトイレ以外は、作りつけのままで味気ない。母親は、子供の使う部屋以外は、あまり関心がないようだった。
人気のないキッチンやリビングを過ぎて、霧香は冷たい床を歩いた。
子供部屋に戻り、部屋の明かりを点けて、通学カバンをベッドに投げた。
机にある貯金箱を取り、ひっくり返して中身を確認する。大きなお札で八万円くらいはありそうだった。べつに使うあてはない。粂川あゆむへの返済は大丈夫そうだ。
霧香には想像もつかないコテツの捜索方法を、粂川あゆむは説明してくれた。
チェーンメイル方式。
と、あゆむは言った。ネズミ講とも、言うらしい。
Aさんは、親だ。つまり、霧香自身だ。
Aさんは、B~Fさんに、猫を探して欲しいとお願いする。ノルマは五人以上。
B~Fさんは、さらに他の五人に、猫を探すようにお願いする。その五人も、また、別の五人に猫探しを依頼する。
この時点で、捜索人員は一二六人。三階層目で一二六人だ。
式で言うと、五の(階層N引く一)乗、足すことの一。
霧香にとって、式はどうでもよかった。
六階層繰り返すと、捜索人員は三一二六人。
十階層繰り返すと、捜索人員は一九五万三一二六人。
この数字は、空町市の人口、十二万人を大きく上回る。
「そんなにうまくいくの?」
と、聞いた霧香に、あゆむは、こう言った。
「もちろん、一九五万三一二六人が捜索してくれるわけじゃないよ。重複があるからね。これを始めると、同じ人が何度も依頼を受けることになる。その分は目減りする」
「それに、他人の猫を真剣に探してくれる?」
「動機づけは必要だ。だから、いくら持ってるか聞いたんだ。賞金総額を階層で割って配分する。二階層目の依頼主が見つけたら全部。三階層目の依頼主が見つけたら半分ずつだ。情報伝達の経路にいた人間だけで山分けにする」
「わたし、そんなにお金持ってないよ」
「いくらなら、出せる?」
「……四万円くらい? かな」
思い出すと霧香は顔が熱くなった。ここにちゃんと現金で八万円ある。けちんぼの嘘つきと、あゆむに言われても仕方ない。
「人が真剣に考える金額は、大人と子供を考えると一万円くらいからかな。全人口を網羅するまでの階層数を考えると、最悪のケースで十万円くらい必要だ」
「あゆむくん、足りないよ」
「足りない分は、貸してあげるよ。返すのはいつでもいい」
「うそ。どうして?」
「どうしてって…たいした金じゃないからさ。父さんに作ってもらった証券口座で、株で遊んで、結構もうかった。真剣に探したかったら、もう一枚上乗せしてもいいよ」
「……十一万円?」
「美薗は馬鹿なの?二十万円だよ。十万円も十一万円も変わらないだろ」
あゆむくんは、ただものじゃない、と霧香は目を大きくみはった。
「無理、返せない」
「……じゃあ、十万円だ。いま、説明した事、理解できた?」
「たぶん、一応、それなりに」
「パンフレットは美薗が作って。コテツの写真がいるよ。それから、コテツを引き取りたいって書いちゃ駄目だ。もう、コテツを取り戻す気はないけど、無事を確認したいってはっきり書いて。今の飼い主が隠してしまうと、意味がないからね」
「了解。ただちに取りかかります」
「パンフレットが出来たら、何十枚かコピーして配ろう、後はゲーム参加者が勝手にコピーしてくれる」
粂川あゆむは、大人しくて物静かだが、実は頼りになる少年だった。
霧香は現金を片づけて、学習椅子の上で、膝を抱えた。部屋は少し寒かった。
一人きりになると、いつも思い出す出来事がある。
それは霧香の妹、凛果が死んでしまう少し前のことだった。
少し記憶が遠くなっている部分もあるけれど、おそらく霧香は母親と口論していたのだ。理由は忘れてしまったが、場所はちゃんと憶えていた。病院の通路だ。ワックスが効いたリノリウム張りで、近くに共用のトイレがあったのを憶えている。今でもそうだが、霧香は病院のトイレを使うのが嫌いだった。
もう消灯時間は過ぎていて、通路には人影はなかった。霧香は誰も聞いていないと思っていたのだ。
霧香は、不公平だと言った。本当はそんなつもりではなかった。
ただ、凜果を気にかけるその半分だけでいいから、母親に注意を向けて欲しかっただけなのだ。
心配して、そばに居てもらえるのは凜果だけだった。
凜果が、父親も母親も独り占めにしているのだ。
どんなに頑張っても、霧香は両親の視界の端にすら入れてもらえない。
――お姉ちゃんなんだから、しっかりしないと駄目よ。
同じ言葉が、呪いのように繰り返された。
その事について、凜果を責めるつもりはなかった。ただ、気を引きたかっただけなのだ。
霧香は、凜果ではなく母親を非難していたのだ。
霧香は叫んだ。
――凜果ばっかりズルい! 凜果なんのか居なくなってしまえばいいのよ!
霧香の母親は絶句して口許を押えた。嗚咽を堪えているのだと分かった。やがて霧香の頬を叩き、声を殺したまま、どこかにいなくなった。
霧香は泣かなかった。母親が傷つく事をわかっていて言ったのだ。ただ自分の事が、また少し嫌いになっただけだ。
母親を見送ってから病室に入ると、凜果の姿が見えなかった。
妹が病室から出る筈はなかった。当時の凜果はもう、手助けがなければ、自分で歩く事も出来ない状態だった。
消灯された病室は、壁を照らす小さなオレンジ色のランプがあるだけで、薄暗くて現実の世界ではないようだった。
病室を廻りこんで、TV台がある物陰の方に歩き、霧香は妹の姿を探した。
凜果はベッドの陰で、肩を抱いて震えていた。
やせて、骨ばかりになっているのに、涙があふれて、顔や手を濡らしていた。
凜果泣きながら、消え入りそうな声で謝っていた。
――ごめんね。きぃちゃんごめんね……わたしのせいで……ごめんなさい。
凜果に、聞かれてしまったのだ。
わたしより、凜果の方がずっと優しい子だった。
霧香は、学習椅子の上で、膝を抱えたまま、唇を噛んだ。
この世から、居なくなるなら、凜果よりわたしの方がよかったのだ。
霧香は立ち上がってリビングに戻り、大きな音でテレビをつけた。お笑い番組がいい。とびきり馬鹿馬鹿しい奴がいい。なにも考えずに笑っていたい。
同じ年頃の子供は、みんな笑っている。
霧香は部屋の明かりを全部つけて、近所から苦情が来そうなほど、テレビの音量を大きくした。
そうしておいて、霧香は、携帯に付属する文書作成アプリで、パンフレット作りに取り掛かった。
母親のパソコンを使うわけにはいかなかった。母親は、コテツは死んでしまったと信じているのだ。
テレビから、賑やかな笑い声が届いた。