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みんなたいへんだなぁ

 のどかな秋の昼下がりだ。

 平和で何よりだ、とあゆむは思う。

 放課後の中庭に落ちる校舎の影は、少しずつ長くなり始めている。中庭には生徒が手入れする花壇があって、一輪車や竹馬などの遊具が並べられている。植えられた木が、ときおりしおれた葉を落としていた

 校庭では、クラブ活動の子供達が準備を始めていた。

 運動もせずに校舎の外通路に座っているのは、日差しがあっても、やや寒い。

 あゆむが座っているのは、校舎の窓の下だ。窓がある部屋は、学校の相談室ということになっている。わざわざこの場所を選んで座っているのは、美薗霧香の母親が相談に訪れると聞いていたからだ。

 学校を訪れる母親の姿は、すでに確認していた。

 不躾にならない程度に観察したが、母親は美薗霧香によく似ていて、落ち着いた物腰の美人だった。

 簡単な化粧で、髪もそっけなくまとめていたが、素材の良さは隠しようがない。

 挨拶を交わす声が聞こえて、窓のカーテンが音を立てて引かれた。見つかったかと思って、あゆむは首をすくめたが、実際には人目を隔てる為に、カーテンを閉めただけのようだった。

 他人には聞かれたくない話なのだ。

 相談室の中には、美薗霧香の母親と、担任の宮川由紀子がいた。

 あまり和やかな雰囲気ではない。これから、相談する内容を思えば、無理もないかなとも思う。

「霧香ちゃんのごかげんはどうですか?今日もお休みのようですけど」

 宮川由紀子は、保護者向けに取り繕ったキャラで丁寧に言った。生徒に話す時とはずいぶん違う。

「先生にはご心配をおかけしてしまって。実はあまりよくないんです。今日も食べ物を受け付けなくて」

「そうですか……お母さんはお辛いでしょうね」

 美薗霧香の体調は、あまり良くないようだった。

 宮川由紀子は、美薗霧香の事をとくべつ気にかけているようだった。ひいきをするような教師ではなかったが、時々、霧香の事を長く見つめていることがある。

「御心配とは思いますが、今日はお母さんに、お話しておかないといけない事があります」

「霧香の進級のことでしょうか?」

 霧香の母親は、何の話か予想していたようだった。

「霧香は進級できないのでしょうか?」

「まだ決まったわけではありません。このままでは出席日数が足りなくなってしまいますが、補習を受けることもできます。出来る限りのことはするつもりです」

 生徒にはそっけない態度を取るけれど、宮川由紀子は熱心な教師だった。自分のプライベートを犠牲にする事も厭わない。生徒の活動に合わせて休日に出てくることもしばしばだった。

「お気づかいは有難いのですが、先生にはご迷惑ではないですか?」

「迷惑など……霧香ちゃんに必要なことであれば、かまいません。教師の務めだと思っています」

 窓の向こうで、美薗霧香の母親は黙り込んだ。

 なにか、考えているようだった。

 やがて、高ぶった声で言った。

「……霧香は落伍者なのでしょうか?」

「お母さん?」

「進級するのは、健康より大事な事ですか?」

「そんな……お母さん、もちろん健康が何よりも大事です。でも出来ることがあるのなら、お手伝いはするべきだと、わたしは思っています」

「……ほんとうに霧香のためを思っておっしゃっているのですか?」

 黙り込んだのは、今度は宮川由紀子の方だった。しん、と相談室の温度が下がった。

 宮川由紀子が生徒の前で自制を失うことはあまりない。我慢強い方だと、あゆむは感じている。けれど、美薗霧香の母親は、宮川由紀子の地雷を踏んでしまったようだった。

 宮川由紀子は、教師の仕事にプライドを持って取り組んでいる。霧香の母親は、よりによって、その気持ちに疑問符をつけたのだ。

「……どういう意味でしょうか?」

「先生にとっては、ご自分のクラスから問題児を出さない事が、大事なのではないですか?」

「……なんですって」

 宮川由紀子の声が、低く敵意を帯びているのが分かった。以前に冗談で、これでも若い頃はぐれていたのだ、と宮川由紀子が言った事がある。もしかしたら冗談ではないのかもしれない。とぼけてぞんざいな口を利く、いつもの宮川由紀子とは違う顔だった。

「ふざけるんじゃないわよ、あんた。悲劇のヒロインぶるのは勝手だけど、病気で苦しんでるのはあんたじゃないわ。霧香ちゃんよ」

 霧香の母親は、あまり感情的なやりとりには慣れていないようだった。言葉を失っている気配があった。

「あんたは、泣いてれば気が済むかも知れないけどね、霧香ちゃんは、病気が治った後も、長い人生が待っているのよ! 留年するのが、どういう事かわかるの、あんた」

「わかります」

「じゃあ、言ってみなさいよ」

「霧香は、一人だけ出遅れてしまいます」

「馬鹿だわ、あんた。小学六年生の女の子が留年するってことはね、仲のいい友達が、みんな霧香ちゃんを置いて、中学校に行ってしまうってことよ。あんた、なにも分かってないじゃない」

 美薗霧香の母親は、長い間黙っていた。

 あまり長いので、あゆむが手のひらのしわを数え始めた頃、母親はとつとつと話し始めた。

 消え入りそうな声だった。

「……霧香と、わたしの関係はうまくいっていませんでした」

 宮川由紀子が深呼吸をする気配があった。しまった、といった雰囲気が伝わってくる。

「下の娘はわたしにべったりで……わたしと霧香を遠ざけようとしていました。正直、わたしは霧香のことを、あまり、よく知りません」

「ごめんさい、取り乱して、つい失礼なことを……」

「下の娘を亡くして、初めて霧香の事をなに一つ知らないと、気づいたんです。ずっと、わたしは霧香の事を傷つけていました。二人で暮らすようになって、やっと、話をする機会も増えたのに……」

 霧香は、今度は病気で苦しむようになってしまった。そういうストーリーなのだろう。

「霧香はこれでいいのだと……わたしと一緒にくらせてよかったと言ってくれます。でも……わたし……わたし、なにもしてやれないんです」

「気持はお察しします」

「……こちらこそ、失礼な事をいってしまって。先生のような人に担任してもらえてよかったわ」

「どうか、諦めないでください。なにか方法はある筈です。一緒に考えましょう」

 霧香の母親は、病状や、かかっている病院、休みの間の生活の様子などを話して帰った。

 あまり、学校での様子や、勉強の進み具合などは聞かなかった。まるで、今起こっている事だけにしか関心がないようだった。

 客観的には、結局、話をはぐらかされただけのように思える。

 美薗霧香の母親は、自宅に他人を近づけたくないのだ。それには、なにか理由がある筈だった。

 勢いよくカーテンが開けられた。窓を開ける音がする。

 あゆむは、ひなたぼっこの振りで、わざとらしく伸びをした。

 宮川由紀子が窓の下を覗き込んで言った。

「盗み聞きとは趣味が悪いわね」

「……ばれちゃった?先生、案外鋭いね」

「他人の家の事情に、なにか興味があるの?」

「ま、少しね。先生、思わなかった?あの人、なにか隠してるよ」

 宮川由紀子は、複雑な顔をした。あゆむと同じように、美薗家の違和感に気付いているのだ。けれど、それを生徒に告げる事は出来ないので、言葉に詰まっているのだろう。

「興味本位なら、忘れなさい。首をつっこんでも、どうせロクなことにならないわ」

「それは先生にも言えるよね」

「あたしはね、怠け者だから、あまり深入りしないのよ」

「それ嘘だ。顔に書いてあるよ」

 あゆむは立ち上がって、お尻の埃を払った。

 校庭では、サッカーの練習が始まっていた。距離をとってパスの練習だ。ボールが校庭の端から端まで飛び交っている。あゆむはあまり運動が得意じゃない。

 みんな、たいへんだなあ、と他人事のように思う。

 おかげで、体が冷え切ってしまった。

 でも、退屈ではなかった。美薗霧香の周辺には、まだまだ秘密が残っているようだった。

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