表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/37

あさましい程に、現実的

 あゆむは玄関のドアを開いて、霧香の家に入った。

 家の中は、微かに香水の匂いがして、あまり、生活臭はなかった。

 玄関は綺麗に靴が揃えられていて、余計な物はない。

 すっきり片付けられているとも言えるし、逆に言えば、殺風景だと感じない事もなかった。

 物がないのは、美薗家の経済的事情を反映しているのかも知れないが、あゆむが連想したのは舞台装置の裏側だ。きらびやかな舞台の裏方は、きっと必要な機材と機能的な道具でまとめられ、表舞台とは、無縁の飾り気のない空間が広がっているに違いない。

 土足で上がり込むのは抵抗があったので、意味がないとは思いつつ、あゆむは靴を脱いで通路に上がった。

 後をついてきた警備ロボットが、バスルームの薄く開いた扉で固まっていた。

 バスルームの中を確認しようとするあゆむに、ケットシーは言った。

『あゆむ、見ない方がいい。傷が残るよ。そこに何があるか、君はもう、分かっているだろう』

「何が起こったのか確認しないのは無責任だろ、ケットシー」

『きみに責任はないよ』

「ほんとうに責任がなければ、おまえはそんな事を言わないよね」

『……そうだね、きみの言う通りだ』

 バスルームのフロアには、宮川由紀子が、積み上げられていた。

 予想していた事なので、べつに驚きはしなかった。

 宮川由紀子の首は、眠るような顔をしていて、苦しそうではなかった。

 たぶん、美薗霧香の母親に、残酷な事をしたという意識はない。嘘を塗り重ねているだけだ。これは霧香の母親にとって、望んだ事ではない、仕方のない出来事なのだ。

 人間の世界にはこういう事が起こる。

 人間の死は、動物の死とは、まったく意味が違う時がある。たとえば、宮川由紀子の死は、食物連鎖や本能が引き起こした物ではなく、ただ、人間の心がまねいたものだ。

 根本的に、意味が違う。

 生命という地球を覆う現象にとっては、なくても良かった死だ。

宮川由紀子の死は、誰かの血肉になって、生命の繁栄を助けるわけではない。そういう意味では、意味のない死だと言える。

 そういう死に直面した時、あゆむはその向こう側に、人の心の薄闇を見る。人の 心の表層にある良識や感情のずっと向こうには、夕暮れめいた、命の気配がない、無機質な薄闇が広がっている。

 美薗の母親が特別というわけではない。

 みんな同じだ。

 ただ、踏み越えてしまう人と、そうでない人がいるだけだ。

 それはコインの表と裏側だ。心があるから、心が痛むのだ。

 暖かい優しさは、この世に冷えきった狂気があるからこそ、尊いものなのだ。

 たぶん、ケットシーはその事を知っている。

 こんなふうに言った事がある。

『きみたち人間は、とっても不可解だ。まるで二重人格だよ。自分でもよく分かっていない線を引いて、敵と味方を決める。味方には惜しみない愛を、敵には容赦なき鉄槌を、みたいな感じだ。でもね、ぼくは人間じゃないからその線引きの意味が、もうわからないよ』

 その話をした時、ケットシーはとても優しげな表情をしていた。

 黒猫はこの話で、彼が人間を好きな理由を、説明しているつもりだったのだろう。

『生命にとって、敵味方とは、本来、自分の生命を脅かすかどうかだ。でも、君たち人間が愛するのは、たいていの場合、自分自身の生命を脅かす相手だよ。その証拠に、人間は最愛の伴侶を失った時、けっこうな確率で後を追う事があるだろ。体調を崩すのなんか普通だ。意味がわからない。ほんと、わからないよ』

 あゆむは家の中を進みながら、ケットシーに言った。

「先生の画像が流出したら抹消して。ぼくは先生の事が嫌いじゃなかった。辱めるようなことは許さない」

 子供部屋は、他の部屋とは違って、びっくりするほど暖かで、女の子らしかった。

 うなだれている霧香の足首には、手錠で鎖が繋がれていた。

 パジャマの霧香は、ベッドに座って、痛みを誤魔化すように胸を押えていた。罪人のように目を伏せたまま、冷えきった声で言う。

「どうして来たのよ。馬鹿じゃないの? 危ないんだから……わたしの母さんは普通じゃないんだからね」

「美薗が、ぼくを呼んだんだ」

「べつに、呼んでないよ」

「嘘だ、ちゃんと聞こえたよ」

 やがて、顔を上げた霧香は、ぽろぽろと涙をこぼしながら言った。

「ばか、助けに来てくれたのなら、突っ立ってないで、なんとかしてよ」

 あゆむは膝をついて、霧香の冷え切ってしまった体を抱きしめた。

 霧香はびっくりしたように体を固くしたが、やがてあゆむの体に腕をまわして、ぎゅっと力をこめた。

 間に合った。美園はまだ生きている。

 いなくなってしまうかと、思っていた。

 強く体を抱いていると、霧香は、いつも通りのとぼけた声で言った。

「あゆむくん? はぁはぁしてるの?」

「してない。ふざけるなよ」

「よかった、あゆむくんは普通だ」

「逃げるよ。美薗。服を着替えて」

「でも、足をつながれてるの」

 機械錠だった。ケットシーには解除できない。

 助け出すには、あゆむが、足をつなぐ手錠を外さなければいけなかった。

 手錠の構造が単純なのは知っていた。おもちゃであればなおさらだ。たぶん、あゆむにも、なんとかなる。

「美薗、ヘアピン」

 霧香が髪から外したヘアピンでしばらく探ると、構造はすぐに分かった。鍵の突起がピンを押すだけの簡単な構造だ。

 ヘアピンの先端で突起を押すと、手錠が解けて、霧香が目を丸くした。

「すごい。あゆむくん、泥棒もできるね」

「……努力すれば、たぶんね」

 あゆむは、鍵に夢中になりすぎていたようだった。

 ケットシーの声に気付くのが遅れた。

『あゆむ! なんども呼んでるのに! 母親が帰ってきてるよ』

 霧香が、悲鳴の形に口を大きくした。

 子供部屋の入口に、霧香の母親が立っていた。

 髪が乱れて、少し汗をかいている。走って帰ってきたのだ。表通りの怪現象を見て、霧香の事を心配したのだろう。

「あら、あゆむくん来てたの? いつも悪いわね」

 母親は、右手を背中の後ろに隠していた。

 あゆむは、背中に霧香をかばいながら言った。

「もう、ままごとは終わりだよ。カメラで配信してるから、この様子は警察の人も見てる。ゆっこ先生も、さっき、見つけた」

 霧香の母親は、左手で額の汗を拭った。

「そっか、仕方ないわね。どうせ、こうなるなら、先生には悪いことしちゃったわ」

 霧香の母親は、こんな状況でも普通の様子だった。あゆむはそうだと思っていた。心を病んだ人は、どこまでも合理的に、現実へ適応する。ただ、その望みが歪んでいるだけだ。

「でもね、あゆむくん。わたしやっぱり霧香のことを放ってはおけないわ。霧香にはわたしが必要なのよ。そこをどいてくれる? あゆむくんには怪我をさせたくないの」

 どこまでも論理的だ。

 霧香との生活を守るために、邪魔者を排除した。

 二人だけの生活が壊れないように、霧香の自由を奪った。

 そして、どうしても、守りきれなくなって、誰にも邪魔されない所へ行こうとしている。

 背中に隠したキッチンナイフで、霧香を殺してから、自分も死ぬ気だ。

 あさましい程に、現実的だった。

――ケットシー。美薗につながってるあれ、警報鳴らせない?

 あゆむは母親に聞こえないように呟いた。

『たぶん、やれると思う。やるよ』

 警報が鳴り響いた。

 生体モニターは、患者の心拍や呼吸に異常が起こった時、危険を知らせるようになっているのだ。

 母親の本能で、霧香の安全を確認する間、視線がそれた。

 あゆむは、腰のあたりをめがけて、体当たりをした。

 転びそうになると、人間は手をつく。それは反射だ。

 ナイフが、床を転がっていった。

「美薗! 逃げろ、ぼくは大丈夫だ。 君が狙われてるんだ!」

 霧香は、呆然と立ち尽くしていた。

「あゆむくん、悪い子ね。足首をくじいちゃったわ」

 母親は、あゆむを無視して、霧香に近づこうとした。人間離れした力だった。

 あゆむは、母親の足にすがりついた。

「仕方ない子ね」

 霧香の母親は、あゆむに向き直った。

 あゆむは簡単に組み敷かれて、首に母親の両手がかかった。大人の力には勝てなかった。

「困ったわね。あゆむくんのお母さんに怒られちゃう」

 手に力が込められた。飲み込む途中の食べ物がつまった感じだ。

 じーんと耳鳴りがした。

『だめだよ、あゆむ。力を抜いて、抵抗しなければ興味をなくすよ』

 床に転がったゲーム端末から、ケットシーの声がした。

 いやだ。

 あゆむは、手に力をこめて、母親の手を押し返そうとした。

 視界が白くなった。

 まずい、ダメかもしれない。

 作戦変更を考えた。その時、母親の手から力が抜けた。

 霧香が、あゆむの首にすがりついていた。

 髪の毛が、鼻をくすぐって、むずがゆかった。

 霧香は、守るようにあゆむの体にすがって、言った。

「だめよ、母さん。おねがい。大切な人なの……」

「霧香ちゃん?」

「おねがいよ……わたしは、どうなってもいいから」

「どうして? わたしはこんなにあなたを大事にしているのに。どうして、その子なの? わからないわ」

「おねがい」

 霧香の母親は、しばらくの間、あゆむと霧香を眺めていた。

 長い時間そうしていて、やがて、子供の成長を寂しがる母親の声で言った。

「そう。お母さんの知らない間に、霧香は、もう、すっかり大人になっちゃったのね」

 母親は、あゆむの頭を、無造作に床に落とした。あゆむの目の端に火花が飛んだ。

 まだちょっと視界が白かった。

 立ち上がって部屋を出てゆく足音がした。母親は、少しだけ、足を引きずっていた。

 霧香は、あゆむの胸に耳を押しあてて、鼓動を確認した。

 大丈夫だと分かると、一度だけ、あゆむの首を抱きしめた。

「あゆむくん、ありがとう……わたし、うれしかった」

 霧香は、何度か失敗しながら立ち上がると、おぼつかない足取りで、母親の後を追った。 

『あゆむ、行かせちゃだめだ』

 わかってる。

 まだ、目がちかちかしている。あゆむは首を振って意識をはっきりさせた。

『まだ、間に合うよ。早く!』

「わかってるって!防火壁を使って足止めして」

 あゆむはなんとか立ち上がって、ゲーム端末を拾い、部屋を出た。ドアを開けるのももどかしかった。通路には警備ロボットが一体待っていて、道を案内してくれた。

『やってるけど、防火壁は人間を閉じ込めるようには作られてない』

「照明全部消して」

『今夜は満月だからね、猫でなくても夜目がききそうだ。もう、母親は屋上に出たよ』

 内通路は防火壁が塞いでいた。バカなことをした。自分の方が足止めされてしまった。

 あゆむは防火壁のドアをくぐって、先を急いだ。

「美薗は?」

『霧香は、すぐ後を追ってる』

 嫌な予感がした。

『屋上にあがるエレベーターはないよ。そこの階段を使って』

 階段の前で、警備ロボットが二体、途方に暮れていた。車輪で動く警備ロボットに、階段を登る機能はないのだ。

 階段は、窓が多くとってあって、月明かりが落ちていた。階段はあまり利用されないので、シンプルなリノリウム張りだ。月を反射して、光っていた。

 上の方で、素足の足音が響いていた。すぐ上を、霧香が登っているのだ。

「屋上ロックできないの?」

『屋上は電子化されてない。霧香は外に出たよ』

「くそ。最悪だ」

 最後の階段を駆け上り、屋上へ出ると、どっと強風が吹きつけてきた。高度が高いから、風も冷たい。

 屋上は緑化されていて、強風ですぐに吹き飛ばされてしまうけれど、花の香りがする。

 菜園が作られていて、あちこちに野菜が植えられている。

 ブリキの水やりが、風に倒れて音を立てた。

 霧香は、ブロッコリーの畑に立っていた。月の光を浴びて、映画のシーンのようだった。薄手のパジャマが透けて、細い肢体がシルエットになっている。

 霧香の見ている先は、屋上の外回りだった。屋上の周囲は、安全柵を兼ねたラティスで囲まれている。木材を使用するのは、自然な生活を演出する飾りだ。骨組みは溶接で組み立てた角パイプだった。

 立ち尽くす霧香が見るその先には、母親が立っていた。

 ラティスを乗り越えて、地面を見下ろす突き出したコンクリートに、霧香の母親は立っていた。屋上は、地上十二階になる。もし、落ちたら、人間らしい形が残るかどうかわからない。

 霧香は言った。

「よかった、間に合った」

 違うよ美薗。間に合ったんじゃない。お母さんは君を待っていたんだ。

「母さん……駄目よ。こっちへ来て。そこは危ないわ。わたしが悪い子だったの。だから――」

「わたしがいけないのよ、霧香。あなたはなにも悪くない」

「いいんだよ。母さん、そんな事、どうでもいいの」

「わたしが凜果を殺したの。加減を間違えて、とうとう死なせちゃった。どうしてもやめる事ができなかったの。わかっていても無理なのよ」

母親は背中を向けたまま言った。穏やかな声だが、あゆむには血を吐くような慟哭に聞こえた。母親の生涯をかけた嘘の、人の命を奪った嘘の告白だ。

「わかってるよ、母さん。わたしはわかっているよ」

「お父さんを追いだして、コテツも追い出して、あなたをひとりきりにしてしまったのは、わたしよ。でも、わたしは霧香にずっと、わたしの方を見ていて欲しかったの」

 あゆむは小さな声で、ケットシーに耳打ちした。

「落下予測点に車体の柔らかい車両を配置して、使える物は全部使っていい」

『わかったけど、あゆむ、運動エネルギーを考えたら効果的かどうかは分からないよ』

「わかってる。なにもしないよりマシだ」

 強風が、母親の衣服を巻き上げていた。はためく様子は、まるで、殻をやぶり羽を広げるサナギのようだった。

 母親は霧香を振り返った。

 霧香に視線を合わせ、悪魔のように優しく微笑んだ。少しだけ、心配げで、少しは誇らしげで、底なしの愛情をたたえた、母親の笑みだ。

「ごめんね…霧香」

 そう言ってから、霧香の母親は、背中から空中に倒れ込むようにして、視界から消えた。

 卑劣なやり方だった。

 これは呪いだ。

 霧香はたぶん、大人になっても、この光景を思い出す。何度も、何度も夜に目を覚まして、その度に、母親に泣いて謝ることになる。これから生涯にわたって、それはずっと繰り返される。

 母親は、微笑んで、霧香を加害者にしたのだ。

 死者はとても寂しがり屋で、いつでも、まだ生きている人間を道連れにしようとする。

 あゆむの腕の中で、霧香は気が狂ったように暴れた。

 声をなくして、まるで獣のようだった。

 後を追わないように、必死で体を押さえていると、やがて、胎児のように体を丸めて動かなくなった。

 それで、あゆむは霧香の事を護れなかったのだと知った。

「ケットシー、おまえには、こうなるってわかっていたのかい?」

『これは起こりうる可能性の一つだ。予測には含まれているけど、ぼくは神様じゃないんだよ、あゆむ。ごめんよ』

「いいよ、おまえのせいじゃない」

 ぼくのせいだ。ぼくが余計な真似をしたからだ。

 軍隊と戦える程の力を手にしても、あゆむは、なにもできない、ただの子供だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ