あさましい程に、現実的
あゆむは玄関のドアを開いて、霧香の家に入った。
家の中は、微かに香水の匂いがして、あまり、生活臭はなかった。
玄関は綺麗に靴が揃えられていて、余計な物はない。
すっきり片付けられているとも言えるし、逆に言えば、殺風景だと感じない事もなかった。
物がないのは、美薗家の経済的事情を反映しているのかも知れないが、あゆむが連想したのは舞台装置の裏側だ。きらびやかな舞台の裏方は、きっと必要な機材と機能的な道具でまとめられ、表舞台とは、無縁の飾り気のない空間が広がっているに違いない。
土足で上がり込むのは抵抗があったので、意味がないとは思いつつ、あゆむは靴を脱いで通路に上がった。
後をついてきた警備ロボットが、バスルームの薄く開いた扉で固まっていた。
バスルームの中を確認しようとするあゆむに、ケットシーは言った。
『あゆむ、見ない方がいい。傷が残るよ。そこに何があるか、君はもう、分かっているだろう』
「何が起こったのか確認しないのは無責任だろ、ケットシー」
『きみに責任はないよ』
「ほんとうに責任がなければ、おまえはそんな事を言わないよね」
『……そうだね、きみの言う通りだ』
バスルームのフロアには、宮川由紀子が、積み上げられていた。
予想していた事なので、べつに驚きはしなかった。
宮川由紀子の首は、眠るような顔をしていて、苦しそうではなかった。
たぶん、美薗霧香の母親に、残酷な事をしたという意識はない。嘘を塗り重ねているだけだ。これは霧香の母親にとって、望んだ事ではない、仕方のない出来事なのだ。
人間の世界にはこういう事が起こる。
人間の死は、動物の死とは、まったく意味が違う時がある。たとえば、宮川由紀子の死は、食物連鎖や本能が引き起こした物ではなく、ただ、人間の心がまねいたものだ。
根本的に、意味が違う。
生命という地球を覆う現象にとっては、なくても良かった死だ。
宮川由紀子の死は、誰かの血肉になって、生命の繁栄を助けるわけではない。そういう意味では、意味のない死だと言える。
そういう死に直面した時、あゆむはその向こう側に、人の心の薄闇を見る。人の 心の表層にある良識や感情のずっと向こうには、夕暮れめいた、命の気配がない、無機質な薄闇が広がっている。
美薗の母親が特別というわけではない。
みんな同じだ。
ただ、踏み越えてしまう人と、そうでない人がいるだけだ。
それはコインの表と裏側だ。心があるから、心が痛むのだ。
暖かい優しさは、この世に冷えきった狂気があるからこそ、尊いものなのだ。
たぶん、ケットシーはその事を知っている。
こんなふうに言った事がある。
『きみたち人間は、とっても不可解だ。まるで二重人格だよ。自分でもよく分かっていない線を引いて、敵と味方を決める。味方には惜しみない愛を、敵には容赦なき鉄槌を、みたいな感じだ。でもね、ぼくは人間じゃないからその線引きの意味が、もうわからないよ』
その話をした時、ケットシーはとても優しげな表情をしていた。
黒猫はこの話で、彼が人間を好きな理由を、説明しているつもりだったのだろう。
『生命にとって、敵味方とは、本来、自分の生命を脅かすかどうかだ。でも、君たち人間が愛するのは、たいていの場合、自分自身の生命を脅かす相手だよ。その証拠に、人間は最愛の伴侶を失った時、けっこうな確率で後を追う事があるだろ。体調を崩すのなんか普通だ。意味がわからない。ほんと、わからないよ』
あゆむは家の中を進みながら、ケットシーに言った。
「先生の画像が流出したら抹消して。ぼくは先生の事が嫌いじゃなかった。辱めるようなことは許さない」
子供部屋は、他の部屋とは違って、びっくりするほど暖かで、女の子らしかった。
うなだれている霧香の足首には、手錠で鎖が繋がれていた。
パジャマの霧香は、ベッドに座って、痛みを誤魔化すように胸を押えていた。罪人のように目を伏せたまま、冷えきった声で言う。
「どうして来たのよ。馬鹿じゃないの? 危ないんだから……わたしの母さんは普通じゃないんだからね」
「美薗が、ぼくを呼んだんだ」
「べつに、呼んでないよ」
「嘘だ、ちゃんと聞こえたよ」
やがて、顔を上げた霧香は、ぽろぽろと涙をこぼしながら言った。
「ばか、助けに来てくれたのなら、突っ立ってないで、なんとかしてよ」
あゆむは膝をついて、霧香の冷え切ってしまった体を抱きしめた。
霧香はびっくりしたように体を固くしたが、やがてあゆむの体に腕をまわして、ぎゅっと力をこめた。
間に合った。美園はまだ生きている。
いなくなってしまうかと、思っていた。
強く体を抱いていると、霧香は、いつも通りのとぼけた声で言った。
「あゆむくん? はぁはぁしてるの?」
「してない。ふざけるなよ」
「よかった、あゆむくんは普通だ」
「逃げるよ。美薗。服を着替えて」
「でも、足をつながれてるの」
機械錠だった。ケットシーには解除できない。
助け出すには、あゆむが、足をつなぐ手錠を外さなければいけなかった。
手錠の構造が単純なのは知っていた。おもちゃであればなおさらだ。たぶん、あゆむにも、なんとかなる。
「美薗、ヘアピン」
霧香が髪から外したヘアピンでしばらく探ると、構造はすぐに分かった。鍵の突起がピンを押すだけの簡単な構造だ。
ヘアピンの先端で突起を押すと、手錠が解けて、霧香が目を丸くした。
「すごい。あゆむくん、泥棒もできるね」
「……努力すれば、たぶんね」
あゆむは、鍵に夢中になりすぎていたようだった。
ケットシーの声に気付くのが遅れた。
『あゆむ! なんども呼んでるのに! 母親が帰ってきてるよ』
霧香が、悲鳴の形に口を大きくした。
子供部屋の入口に、霧香の母親が立っていた。
髪が乱れて、少し汗をかいている。走って帰ってきたのだ。表通りの怪現象を見て、霧香の事を心配したのだろう。
「あら、あゆむくん来てたの? いつも悪いわね」
母親は、右手を背中の後ろに隠していた。
あゆむは、背中に霧香をかばいながら言った。
「もう、ままごとは終わりだよ。カメラで配信してるから、この様子は警察の人も見てる。ゆっこ先生も、さっき、見つけた」
霧香の母親は、左手で額の汗を拭った。
「そっか、仕方ないわね。どうせ、こうなるなら、先生には悪いことしちゃったわ」
霧香の母親は、こんな状況でも普通の様子だった。あゆむはそうだと思っていた。心を病んだ人は、どこまでも合理的に、現実へ適応する。ただ、その望みが歪んでいるだけだ。
「でもね、あゆむくん。わたしやっぱり霧香のことを放ってはおけないわ。霧香にはわたしが必要なのよ。そこをどいてくれる? あゆむくんには怪我をさせたくないの」
どこまでも論理的だ。
霧香との生活を守るために、邪魔者を排除した。
二人だけの生活が壊れないように、霧香の自由を奪った。
そして、どうしても、守りきれなくなって、誰にも邪魔されない所へ行こうとしている。
背中に隠したキッチンナイフで、霧香を殺してから、自分も死ぬ気だ。
あさましい程に、現実的だった。
――ケットシー。美薗につながってるあれ、警報鳴らせない?
あゆむは母親に聞こえないように呟いた。
『たぶん、やれると思う。やるよ』
警報が鳴り響いた。
生体モニターは、患者の心拍や呼吸に異常が起こった時、危険を知らせるようになっているのだ。
母親の本能で、霧香の安全を確認する間、視線がそれた。
あゆむは、腰のあたりをめがけて、体当たりをした。
転びそうになると、人間は手をつく。それは反射だ。
ナイフが、床を転がっていった。
「美薗! 逃げろ、ぼくは大丈夫だ。 君が狙われてるんだ!」
霧香は、呆然と立ち尽くしていた。
「あゆむくん、悪い子ね。足首をくじいちゃったわ」
母親は、あゆむを無視して、霧香に近づこうとした。人間離れした力だった。
あゆむは、母親の足にすがりついた。
「仕方ない子ね」
霧香の母親は、あゆむに向き直った。
あゆむは簡単に組み敷かれて、首に母親の両手がかかった。大人の力には勝てなかった。
「困ったわね。あゆむくんのお母さんに怒られちゃう」
手に力が込められた。飲み込む途中の食べ物がつまった感じだ。
じーんと耳鳴りがした。
『だめだよ、あゆむ。力を抜いて、抵抗しなければ興味をなくすよ』
床に転がったゲーム端末から、ケットシーの声がした。
いやだ。
あゆむは、手に力をこめて、母親の手を押し返そうとした。
視界が白くなった。
まずい、ダメかもしれない。
作戦変更を考えた。その時、母親の手から力が抜けた。
霧香が、あゆむの首にすがりついていた。
髪の毛が、鼻をくすぐって、むずがゆかった。
霧香は、守るようにあゆむの体にすがって、言った。
「だめよ、母さん。おねがい。大切な人なの……」
「霧香ちゃん?」
「おねがいよ……わたしは、どうなってもいいから」
「どうして? わたしはこんなにあなたを大事にしているのに。どうして、その子なの? わからないわ」
「おねがい」
霧香の母親は、しばらくの間、あゆむと霧香を眺めていた。
長い時間そうしていて、やがて、子供の成長を寂しがる母親の声で言った。
「そう。お母さんの知らない間に、霧香は、もう、すっかり大人になっちゃったのね」
母親は、あゆむの頭を、無造作に床に落とした。あゆむの目の端に火花が飛んだ。
まだちょっと視界が白かった。
立ち上がって部屋を出てゆく足音がした。母親は、少しだけ、足を引きずっていた。
霧香は、あゆむの胸に耳を押しあてて、鼓動を確認した。
大丈夫だと分かると、一度だけ、あゆむの首を抱きしめた。
「あゆむくん、ありがとう……わたし、うれしかった」
霧香は、何度か失敗しながら立ち上がると、おぼつかない足取りで、母親の後を追った。
『あゆむ、行かせちゃだめだ』
わかってる。
まだ、目がちかちかしている。あゆむは首を振って意識をはっきりさせた。
『まだ、間に合うよ。早く!』
「わかってるって!防火壁を使って足止めして」
あゆむはなんとか立ち上がって、ゲーム端末を拾い、部屋を出た。ドアを開けるのももどかしかった。通路には警備ロボットが一体待っていて、道を案内してくれた。
『やってるけど、防火壁は人間を閉じ込めるようには作られてない』
「照明全部消して」
『今夜は満月だからね、猫でなくても夜目がききそうだ。もう、母親は屋上に出たよ』
内通路は防火壁が塞いでいた。バカなことをした。自分の方が足止めされてしまった。
あゆむは防火壁のドアをくぐって、先を急いだ。
「美薗は?」
『霧香は、すぐ後を追ってる』
嫌な予感がした。
『屋上にあがるエレベーターはないよ。そこの階段を使って』
階段の前で、警備ロボットが二体、途方に暮れていた。車輪で動く警備ロボットに、階段を登る機能はないのだ。
階段は、窓が多くとってあって、月明かりが落ちていた。階段はあまり利用されないので、シンプルなリノリウム張りだ。月を反射して、光っていた。
上の方で、素足の足音が響いていた。すぐ上を、霧香が登っているのだ。
「屋上ロックできないの?」
『屋上は電子化されてない。霧香は外に出たよ』
「くそ。最悪だ」
最後の階段を駆け上り、屋上へ出ると、どっと強風が吹きつけてきた。高度が高いから、風も冷たい。
屋上は緑化されていて、強風ですぐに吹き飛ばされてしまうけれど、花の香りがする。
菜園が作られていて、あちこちに野菜が植えられている。
ブリキの水やりが、風に倒れて音を立てた。
霧香は、ブロッコリーの畑に立っていた。月の光を浴びて、映画のシーンのようだった。薄手のパジャマが透けて、細い肢体がシルエットになっている。
霧香の見ている先は、屋上の外回りだった。屋上の周囲は、安全柵を兼ねたラティスで囲まれている。木材を使用するのは、自然な生活を演出する飾りだ。骨組みは溶接で組み立てた角パイプだった。
立ち尽くす霧香が見るその先には、母親が立っていた。
ラティスを乗り越えて、地面を見下ろす突き出したコンクリートに、霧香の母親は立っていた。屋上は、地上十二階になる。もし、落ちたら、人間らしい形が残るかどうかわからない。
霧香は言った。
「よかった、間に合った」
違うよ美薗。間に合ったんじゃない。お母さんは君を待っていたんだ。
「母さん……駄目よ。こっちへ来て。そこは危ないわ。わたしが悪い子だったの。だから――」
「わたしがいけないのよ、霧香。あなたはなにも悪くない」
「いいんだよ。母さん、そんな事、どうでもいいの」
「わたしが凜果を殺したの。加減を間違えて、とうとう死なせちゃった。どうしてもやめる事ができなかったの。わかっていても無理なのよ」
母親は背中を向けたまま言った。穏やかな声だが、あゆむには血を吐くような慟哭に聞こえた。母親の生涯をかけた嘘の、人の命を奪った嘘の告白だ。
「わかってるよ、母さん。わたしはわかっているよ」
「お父さんを追いだして、コテツも追い出して、あなたをひとりきりにしてしまったのは、わたしよ。でも、わたしは霧香にずっと、わたしの方を見ていて欲しかったの」
あゆむは小さな声で、ケットシーに耳打ちした。
「落下予測点に車体の柔らかい車両を配置して、使える物は全部使っていい」
『わかったけど、あゆむ、運動エネルギーを考えたら効果的かどうかは分からないよ』
「わかってる。なにもしないよりマシだ」
強風が、母親の衣服を巻き上げていた。はためく様子は、まるで、殻をやぶり羽を広げるサナギのようだった。
母親は霧香を振り返った。
霧香に視線を合わせ、悪魔のように優しく微笑んだ。少しだけ、心配げで、少しは誇らしげで、底なしの愛情をたたえた、母親の笑みだ。
「ごめんね…霧香」
そう言ってから、霧香の母親は、背中から空中に倒れ込むようにして、視界から消えた。
卑劣なやり方だった。
これは呪いだ。
霧香はたぶん、大人になっても、この光景を思い出す。何度も、何度も夜に目を覚まして、その度に、母親に泣いて謝ることになる。これから生涯にわたって、それはずっと繰り返される。
母親は、微笑んで、霧香を加害者にしたのだ。
死者はとても寂しがり屋で、いつでも、まだ生きている人間を道連れにしようとする。
あゆむの腕の中で、霧香は気が狂ったように暴れた。
声をなくして、まるで獣のようだった。
後を追わないように、必死で体を押さえていると、やがて、胎児のように体を丸めて動かなくなった。
それで、あゆむは霧香の事を護れなかったのだと知った。
「ケットシー、おまえには、こうなるってわかっていたのかい?」
『これは起こりうる可能性の一つだ。予測には含まれているけど、ぼくは神様じゃないんだよ、あゆむ。ごめんよ』
「いいよ、おまえのせいじゃない」
ぼくのせいだ。ぼくが余計な真似をしたからだ。
軍隊と戦える程の力を手にしても、あゆむは、なにもできない、ただの子供だった。




