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霧香の朝食

 朝、朝食を食べるとすぐに、内臓が裏返ってしまいそうな吐き気が、やって来た。

 まあ、そんな気はした。

 先週は調子が良くて、次の病院は二週間後の予定だ。そろそろ発作が起きるタイミングだった。霧香の体は、ペース配分をしている。生かさず殺さず、霧香を苦しめるのだ。

 霧香は、中央に無地のタイルをあしらったダイニングテーブルから、口を押えたままトイレに走った。なんとか間に合って、食べたばかりの朝食を床に広げずに済んだ。

「霧香! どうしたの!」

 美薗霧香の母親、美薗早苗が、洗い物をシンクに放り出してやって来た。

もう、こんな事には慣れている筈なのに、母さんはおおげさだ。と、霧香はため息をつく。中身を出してしまえば、どうという事はない。吐き気を我慢しさえすれば、それ以上は出てくるものがないのだ。

「大丈夫。もう全部出ちゃったから……ごめんね、せっかく作ってくれたのに」

「食事なんかいいのよ……どこも苦しくない?」

 なんとか便器から顔を上げると、母親の手を借りて、先ほど這い出して来たばかりのベッドへ舞い戻った。

 その間、母親はずっと背中をさすっていてくれた。

 このマンションは離婚した父親が、霧香達に譲ってくれたものだ。見晴らしのいい最上階付近で、にぎわう市街部を見下ろす事が出来る。学校や病院も近く、ショッピングモールも歩いて行ける距離にあった。空町市としては一等地と言ってもいい。

 霧香は、あまり父親の事が好きではない。もともとが気分屋で軽薄な人だった。離婚も浮気が原因で、しかも母親ではなく父親から切り出してきたのだ。若い愛人との生活に、妻や子供の存在が邪魔だったからだ。

 夫婦仲が疎遠になった理由の一つとして、妹の死が大きいのかもしれない。けれど、それを差し引いても、父親のする事は身勝手だった。母親とで、霧香の事も捨てたのだ。

 そんな父親だが、仕事の才能には恵まれていて、収入は平均を大きく上回っていた。このマンションについては、霧香は父親に感謝をしている。

母親の稼ぎはあまり良くないので、共済費や諸々の費用には、父親の援助を当てている。

 けれど母親は、病気の看病を理由にして、今日も会社を休むつもりのようだ。

 母親は、街の印刷所が出資する、小さなデザイン会社で働いている。広告を作ったり、地方の商品をプロデュースする会社だ。この不景気なご時世で、きっと経営は楽ではない筈だ。この分だと近いうちに、もっと生活費が安くなる所へ、引っ越しを考えないといけないかもしれない。それを思うと、霧香はさらに気分が暗くなった。

「学校には、連絡しておくわ。なにかして欲しいことある?」

「……べつにないかも」

 子供部屋は落ち着いた感じのピンクの壁に囲まれていて、ベッドや窓はレースで飾られていた。家具はメープルやパインで作られたカントリー調で、おそらく高価な物だ。恐ろしいほどに少女趣味な部屋だった。

 部屋の調度品は、母親が選んだものだ。霧香の母親は、自分の事にはあまり構わないが、娘が触れる物には金を惜しまなかった。収入を考えれば見栄を張り過ぎなのだが、自分にかけるお金ではないので、文句をつける事もできない。

 朝の光がカーテンの隙間からさしていた。ひっそりとして、神秘的な時間だった。この世のどこかにある楽園を切り取って箱に入れたら、たぶんこんな感じだ、と霧香は思う。

 母親は涙ぐんで、霧香の頬を撫でた。

「わたしのせいだわ…昨日、あんな事があったのに……ちゃんと病院に行っていれば……」

 霧香の母親、美薗早苗は、目鼻立ちが小じんまりしているので、やや地味な印象ではあるけれど、整った顔立ちの美しい女性だった。女らしい服を着て、化粧をちゃんとすれば、きっと今でも男の人が放っておかない筈だ。

 きっとその血を受け継いでいるのだろうと、霧香は自分でも感じている。例えば、大人の男性が不躾な視線で眺めてくる時や、クラスの男の子が耳まで赤くなっている時に、少なくとも自分はブスではないのだな、と思う時がある。あまり愉快な気分ではなかったけれど。

 霧香の妹、美薗凛果も、黙って座っていれば、まるで人形のようだった。

「母さんのせいじゃないよ。わたしのせい。わたしが気を付けてなかったから」

「ほんとうに、ごめんなさい」

「なにを謝るの?わたしは、これで納得しているんだよ」

 嘘ではなかった。霧香は自分の運命を受け入れていた。

 十歳の時に仲がよかった妹を病気で亡くし、自分もパニック障害と診断を受けた。薬だけで満腹になってしまいそうな程の投薬を受けていて、原因不明の発熱や嘔吐がある。

 今朝などは、手足の先さえ痺れて、感覚がない。まるで遭難した登山者のようだった。

 でも、それでいい、と霧香は思う。

 昨日、粂川あゆむと交わした約束が頭の中をかすめた。

 粂川あゆむは、霧香と一緒に猫を捜してくれるだろう。不審に思いつつも霧香を信じてくれたのだ。合わせてくれた、というのが正しいかもしれない。優しい少年だった。

 今朝も、わたしの姿を捜してくれているかもしれない、と考えると、霧香の胸が少し痛んだ。

 わたしは自分勝手で、しかも、嘘つきだ。

 霧香はあゆむになにも説明していないし、説明する事も出来ない。騙しているのと同じだ。

「昨日ね、担任の由紀子先生から電話があったの。これからの事を相談したいって、だから、母さん、お昼から行ってくるね」

 霧香は卒業する事ができない。おそらく、そういう話だ。霧香にとっては大した問題ではなかった。来年の今頃、生きているかどうかも分からないのだ。

「帰りにケーキを買ってきてあげる。霧香の大好きな奴」

 母親は微笑んだ。霧香の好きなのは、生クリームがたっぷりとのった、洋梨のタルトだ。胃腸の弱った病人が食べるような物ではなかった。

霧香の母親は、昔から、こういう独りよがりな所があった。思いやりのつもりではあるけれど、結局、自分のしたい事をしているだけなのだ。あまり他人の気持ちを確認したりはしない。家族は振り回されるばかりだった。

「ありがとう。楽しみよ、母さん。一緒に暮らせてよかったわ」

 母親は、幸せそうに笑った。

霧香の具合が悪い時、母親はとても優しい。

母親は、自分の化粧道具や着る物も惜しんで、霧香に良い格好をさせる。よい物を持たせる。

 人の注目を集める霧香が、母親は好きだった。

 霧香も、母親の喜ぶ顔が好きだった。

 だから……なにもかも、きっと、これでいいのだ。

 母親の手を取って、霧香は目を閉じた。

 眠って目を覚ませば、もしかしたら、世界は大きくかわっているかもしれない。


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