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あゆむと霧香

 図書館と水辺の遊歩道に面した公園は、木陰ができるように水際に落葉樹が植えられている。夏には水遊びができるように、石畳が緩やかな角度で川面と繋がっていて、今の季節は、逆にその様子が寒々しい。時々、水面を落ち葉がゆっくりと流れていく。きらめく水面のずっと下、川底の方で、魚がじっと身動きをせずにいた。

 美薗霧香は、ベンチの下や茂みの中を探していた。落し物が勝手に茂みの中まで歩いていくことはないので、探し物はたぶん生き物だろう。ベンチの下に隠れられるくらいの生き物だ。

 犬か猫を家から逃がしてしまったのかもしれない。だが、それにしては早く見つけなければ、というような差し迫った感じはなかった。なにかがおかしい。

 十二歳の少女にしては、大人びた容姿だ。チェックのスカートに、仕立ての良いブレザー、切りそろえた髪が、さらに大人びた印象を強くしている。すきっとした卵型の顔立ちではあるが、やや吊り上がった感じの目がきつい印象を与えるのを、あゆむは知っていた。

 美薗霧香は、あゆむのクラスメートだった。

 美薗霧香はクラスの男子に人気があった。恵まれた容姿に加えて、病弱で休みがちな事が、さらに神秘性のオーラを付け加えている。謎が多く口数が少ない病気がちの美少女、とクラスメートは、そう思っていた。

 あゆむは、ゲーム端末の画面に指を触れた。

 原則スマートフォンと遜色ない機能を備えたゲーム機だ。通話もできるので、もう電話だとも言っても間違いではない。ただゲーム用なので、タッチセンサが静電気ではなく、圧力を検知するタイプだった。その方が画面をコントローラとしての使用した時の精度が高い。画面の大きさも、携帯電話としては少し大きかった。

 大きめの画面に現れたのは、アニメ調にデフォルメされた、二頭身の黒い子猫だった。黒猫は、あゆむを見上げて首を傾げた。伸びをしながら言う。

『風邪をひいちゃうよ、あゆむ。暇つぶしなら図書館でしたら?』

 美薗霧香は、あまり体調が良くないようだった。

 真っ直ぐ歩けていないし、この肌寒い空気の中で、冷や汗のような物をかいている。肌の色も、いつもにも増して白い。あゆむは、冷水を注いだグラスが結露しているようだと思った。透き通ってしまいそうだ。

「さっきから見ているんだろ。どう思う?」

『うん、鼻の下が少し伸びてるね。交尾の季節かな?』

「……ぼくの事じゃないよ。彼女、美薗霧香、変じゃないか?」

『変だよ、知ってる。彼女もぼくのともだちだ』

「嘘だろそれ。美薗は、子猫とおしゃべりってじゃないよ」

『きみだって、ぼくと話してるじゃないか』

「これは、おしゃべりじゃない。情報交換だ」

 ケットシーは端末を選ばない疑似人格ソフトだった。ネットで無料配布されていて、世界中に相当な数のユーザーがいる。メモ帳の代わりに記憶の補強をしてくれるくらいで、実用的な機能はあまりないのだが、退屈な時、辛い時、喜びを分かち合いたい時、黒猫はいつでも話し相手になってくれる。

 ほとんど人間と話をするのと変わらないリアルな会話が可能だが、それが複雑な条件式による自動応答なのか、本物の自我によるものなのかは、誰も知らない。製作者さえも知られてはいないのだ。

 あゆむもテストをしたことがあるのだが、ネットに接続せず単独動作の状態だと、片言で会話する事さえできない。なのに、ネットに接続した瞬間、急に高度な知性が生じるように見える。

 その動作を解析し、理屈を理解した人間はいない。ありふれたプログラムコードなのに、どの部分が高度な知性を生じさせているのか、誰もわからないのだ。

 ケットシーと会話すると、なんだか癒される、という人が多いようだ。

 あゆむは、ケットシーがひそかにセラピーみたいな事をしているのでは、と疑っていた。

「美薗はお父さんいないのかな?」

『どうしてそう思うの?』

「父親にねだって買ってもらうような物をなにも持っていないし、学校行事の時にも、やって来るのは、いつも母親だけだ」

 母親はあまり社交的ではないけれど、教育熱心な印象だった。娘が休んでいても、父兄の行事には必ず参加していた。

『まあ、誰にでも他人に説明しにくい家庭の事情というものはあるよ』

 黒猫は、あまり興味無さそうに言った。

「美薗はいったいなにをしているんだ? 知っているんだろ」

『話せないよ。プライバシーだからね。ひとつ忠告すると、あまり気にしない方がいいよ。他人の人生は様々さ』

 ケットシーは口が堅いので、友達の秘密をもらしたりはしない。

 美薗霧香は、水際の石畳で、息を切らせて座り込んでしまった。かなり具合が悪いらしい。

『たいへんだ、彼女、助けが必要だね』

「うん、そうかもね」

『近くに女の人はいる?』

「いないね。おっさんばっかりだ」

『大人の男の人は、十二歳の女の子には、ちょっと声をかけづらいよね。変質者と間違われたら困るし』

「かもね」

『きみ、クラスメートだよね、あゆむ』

「そうだけど…なにが言いたいんだよ?」

『べつに、きみが聡明な優しい少年で、彼女は運が良かったという事さ』

「…最悪だ」

 あゆむはこれまで、あまり美薗霧香には関わらないようにしてきた。他のクラスメイトは気づいていないけれど、美園霧香の危うい感じは、あゆむには明白だった。

 彼女のまわりだけ、空気が薄いのだ。

 あゆむは以前にも、そういう人物を見たことがあった。それは近所に住んでいたOLで、あゆむにはとてもよくしてくれたのだけれど、自分を殺すことで周囲を攻撃し、母親と恋人を道連れにした。もう何年も前の話だ。

 美園霧香を包む空気は、その女性とよく似ていた。

 あゆむは公園のベンチから立ち上がって、ゲーム端末をダウンジャケットに突っ込んだ。板張りの遊歩道を渡って、川辺の石畳に歩く。

近くまで歩くと、美園霧香の小さな背中が見えた。苦しげに息をして、肩が大きく動いている。

 美園霧香は、石畳に落ちる影に気づいた。

 ポケットに手を入れたままのあゆむを見上げ、しまったという顔で、唇を噛んだ。病気の発作など、あまり知り合いに見られたくはなかったのだろう。舌打ちをして、霧香は言った。

「なんのつもり?むかつくわね…あっち行ってよ」

 美園霧香の口が悪いのは、前から知っていた。良家の子女みたいなのは外見だけだな、とあゆむは思う。

「具合悪そうだから来てみただけだ。大丈夫なら、もう行くよ」

 歩き去ろうとするあゆむのズボンを、震える指がつかんだ。

 下を向いたまま、美薗霧香は、ただ荒い息をしていた。

「…どうすれば、いい?」

「手を貸して、一人じゃ立てない」

 あゆむが手を差し出すと、美薗霧香は両手ですがるようにして、なんとか立ち上がった。

 美薗霧香の体は、驚くほど軽かった。冷静に見ると、腕や脚は、棒きれみたいにまっすぐで細い。本当に病気なんだ、とその事については、あゆむは素直に可哀そうだと思う。

 あゆむは、少し歩いて、霧香をベンチに座らせた。

 美薗霧香はぐったりと背もたれに体重を預けて、胸を押えていた。苦しげに言う。

「過換気って……知ってる?」

「知ってるよ。過呼吸症候群。呼吸性アルカローシス。先月、秋山さんが病院に運ばれた」

 秋山茜は、クラスメートで、乙女な感じの女の子だ。ちなみにあゆむは、秋山茜がかなり苦手だ。なにかと世話を焼いてきて、正直、面倒だった。

「寝てれば治るって、テレビで言ってたよ」

「苦しいのよ?死ぬことも…あるんだから」

「死にかけているようには、見えないよ」

 あゆむは、端末と反対側のポケットを探った。肉まんの包みがある。少し先にあるコンビニで買った物だ。中身を口にくわえて、紙袋の方を、美薗霧香に差し出した。

 美薗霧香は、受け取った紙袋を口元に押し当てた。少し酸素を減らして、落ち着こうとしているのだ。

「……チーズ臭い」

「ピザまんだ。うまいぞ」

 口元にピザまんの袋を押し当てる少女は、あまり絵になる場面でもないので、あゆむは立っている位置を調整して、通行人から見えないようにした。 美薗霧香は、目元だけで、少し笑った。

「優しいのね……モテるわけだ」

「モテてるの?初耳だ。生粋のオタクだよ。ゲームが友達だもん。モテる要素ないけど」

「……自覚なしか」

「なんか、病院からクスリもらってる?」

「安定剤。パニック障害なの……わかるの?」

「まあね。普通じゃないから……やめた方がいいよ、そのクスリ」

「そんなことわかってる。でも、やめたら、こうなる……母さんが心配する」

「ま、ぼくは医者じゃないし。では、落ちついたらメール打って、保護者の方をお呼びになって下さい。じゃ、ぼくはこれで」

「猫を……探してるの」

 美薗霧香は、前置きなく言った。

「はい?」

「妹の猫なの。わたしが……うっかりして……逃がしちゃった。コテツっていう名前なの」

 立ち入った話はされても困る。とあゆむは思う。あゆむは、べつにコテツとは面識がない。というより、むしろ関わりたくなかった。面倒の匂いがぷんぷんした。

「はい……それで?」

「コテツを一緒に、探してくれない?」

「……おんぶに抱っこっていう言葉、知ってる?」

「座右の銘よ」

 美園霧香は思ったより頭が良かった。十人並みの小学生の受け答えではない。

「約束してよ。あしたから……一緒に、探して」

「どうして、ぼくが?」

「優しい人だから」

「都合のいい、お人よしだから?」

「……そうとも言うわね」

 あゆむの心の中で、理性の部分は、サイレンみたいに警報を発していた。けれど、この頃目覚め始めた男の部分が……理性を黙殺した。なにしろ美園霧香は雑誌のモデルのように可愛いのだ。それとはべつに好奇心もあった。

「約束はしないよ。でも暇そうに見えたら、ぼくを捕まえるのは君の勝手だ」

 そう言うあゆむを見た美薗霧香は、目的を果たした事を理解して、満足げに微笑んだ。

 一瞬だけれど、そんな風に笑った美園霧香は、邪気がない優しさと、まだ幼い母性だけで出来ているように見えた。

 天使が嫉妬しそうな笑みだった。

 呼吸はもう、落ち着いていたので、美園霧香は、電話をかけて母親を呼んだ。

「あゆむくんは、こんなところでなにをしていたの?」

「べつになにも……することがないからここに居たんだよ」

「ふーん。あゆむくんは寂しい男の子なんだね」

「……君に言われたくはないけどね、美薗」

「霧香って呼んでもいいよ」

「呼ばないよ。美園でいいだろ」

「寂しい者どうしだ。仲良くやれるね。わたしたち」

「……ぐっと親しくなれて、うれしいよ」

 あゆむは、皮肉をこめて言った。

 やがて、迎えに来た母親は、ベンチに座る美薗霧香の膝に縋りついた。あゆむには、まるで美薗霧香の従者みたいに見えた。素っ気なく髪をまとめ、あまり化粧気もない女性だった。けれどよく見ると、美園霧香とよく似た顔立ちで、むしろ柔らかな表情の分だけ、ほっとするような美人だと、あゆむは思う。

 仕事の途中なのだろう、エプロンみたいな仕事着を身に着けていた。バリスタが使うようなエプロンには、インクの汚れがあった。少なくとも、接客をするような仕事ではないようだった。

 病弱な娘を持つと、過保護になってしまうのだろうか。自宅に帰る為に、母親は、タクシーを呼んだ。支配者が娘で、仕えるのが母親だ。あゆむには、そんな風に見えた。少なくとも、優しい母親だと言うのは分かった。

 美薗霧香の母親は、何度もあゆむにお礼を言った。

 美薗霧香は、母親に肩を抱かれながら、タクシーに乗り込んだ。

「コテツを探すのは、身体がよくなってからだ」

 窓を開けて、素っ気なく手を振った美薗に、あゆむは言った。

 それを聞いた瞬間、美薗霧香の母親は、まるで死人に抱きつかれたように、目を見開いて驚きを見せた。かすかに指が震えていた。

「……霧香。コテツって?」

「なんでもないよ。昔話をしただけ。さよなら、あゆむくん」

 その話題にはもう触れるな、という美園霧香の意思表示だった。とくに逆らう理由もないので、あゆむは美薗霧香にさよならを言った。

「じゃね、また」

 タクシーが走り去った後も、なにか引っかかる感じが残った。

 美薗霧香は、猫を探している。美薗霧香の母親は、探している猫に怯えていた。

 不自然だとあゆむは思う。まだ、なにも確実な事は言えないけれど、美薗霧香の家には、なにか、他人に言えない秘密がある。

 あゆむの血が騒いだ。謎や問題は大歓迎だ。難問はあゆむを退屈から救ってくれる。

 悪趣味だとは思ったけれど、あゆむは、美薗霧香との約束を守る事に決めた。


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