08
やたらに食料の詰められたバッグ。それを手放せば、予想よりも遙かに身軽になれた。いくらか精神的にも楽になった気がする――が、それは気のせいだ。少なくとも、クィンザーはそうと認めていない。
降り立った屋根の上は、随分と風が強い。自然に流れたものではないというのは明白だ。何しろ目の前では、冗談のような巨大な足が必死に動いている。
「あんなのに蹴っ飛ばされたら、まあ、痛いじゃすまないだろうなあ……」
剣を小さく振りながら、益体無い事を考える。
戦いの前というのは、いつもそうだ。どんな攻撃だって、当たれば鈍る。鈍れば、待っているのは死だ。人間の生命力など、生物の中では至極当てにならないものだ。控えめに言っても、脆弱すぎる。
数々の戦闘を繰り返したクィンザーであったが、これほどのサイズの敵と戦った経験は、ついぞない。経験がないという事は、不意の事故の可能性が高まる。命を賭ける場には、ありがたくないリスクだ。
竜だって、遙かに控えめな体格をしていた。もっとも、竜の場合はあれが最適な大きさだったというだけである。変えようと思えば、いくらでも変えられる――とは本人の弁だ。彼女の数少ない美徳に、クィンザーに対しては常に誠実だとうい点がある。嘘では無いだろう。
いくらか遅れて、ヴィクスフィオが追いついてきた。すっかりと定位置になった隣に陣取り、同じように見上げる。
「これはまた、大きなものよ。ぶくぶくと膨れるだけ膨れて、まあ無様なものじゃ」
「遅いぞ。お前が急かしたんだろうが」
「急かしてはおらぬよ。ただ、お主の思い通りに進めるならば、そろそろ始めた方がいいと進言しただけで」
ふふ、と笑い、全身をクィンザーに向ける。
「さあ、初めておくれ」
「……。お前がやれよ」
「嫌じゃ。実際に行うのはお主であろう? それとも、そのままやる気なのか? まあ、倒せぬ事はないだろうが……」
やたら溌剌とした仕草で、親指を町の中心地に向ける。大通りでは、まだ人が右往左往しているだろう。放置しておけば、そのまま潰される。
「あっちは間に合わんな」
「分かってるよ、時間がないんだ。やるしかないって……だからそっちが……」
「だから、嫌じゃと言うておる。そもそも制御訓練を怠ったお主の責任なのじゃ。そのツケは自分で支払うべき、じゃろう?」
悪戯っぽく、そして艶めかしく笑い、ついでに唇を指で撫でる。ふふ、という笑いが聞こえてきそうだった。
うきうきしているのは、絶対に気のせいではない。唇の端のつり上がり方が、普段の比ではないのだ。
クィンザーは嫌々……本当に嫌々、ヴィクスフィオと向き合った。そして、少女の頬に片手を添えて、もう片方の手で顔を押さえる。もが、と言うのが伝わってきた。
「なあ、本当にこれしか方法がないのか?」
「無いことはない。だが、時間が足りぬ。これが一番手っ取り早い。他の方法を怠ったのもお主じゃぞ? いい加減覚悟を決めい」
「ああ……くそっ!」
せめてもの抵抗に、虚空に悪態をつく。どこに向けたものでもないが、どこかの誰かに届けばいい。そして、少しでもこのやるせなさが伝わればいい。
決意を固める為に、大きく息を吸い込んだ。そして、閉ざしていた手を開き。
少女の唇に、自分のそれを重ね合わせた。
●○●○●○●○
世の中には、様々な伝承が溢れている。源流の分かっているものから、所在が全く不明なものまで。
山を崩し海を埋める鬼を殺した、雪原にそびえる氷城の王。骨灰のユーティスヘイヴン。
千人もの人間を千里も離れた場所へ運んだという、飛天の靴ヤルティスティア。その所持者は、在らざる場所にまで飛んだ。
世界は一度終わった。古代の超文明を滅ぼし、修正をした終末のリーヴーアイスン。いつの日か世界を終わらせるため、また蘇るという。
そして、世界で最も気まぐれな生物、竜。
あらゆるものを思い通りに作り替える力を持つそれは、神の欠片とも呼ばれる。世界創世を成した何かの、愛し子。あらゆる力の源であり、同時にそれは普遍である。
全て、所詮は物語の話だ。信憑性など、だれが考えたことも、求めた事も無い。十把一絡げに転がるうちの、一つ。何も特別なものではないし、誰も疑いはしない。
曰く――
竜を殺した者は、その全てを手に入れる――
体の奥底で無理矢理封じていた『竜』の力。それが解放された時、思わず体がはじけ飛びそうな衝撃を受けた。
いや、そんなものは、気のせいでしかないのだろう。なにせクィンザーの体は――竜を殺した時に、その力を扱うのに最も都合がいいものになったのだから。自分の力を普通に解放しただけで、内からはじけ飛ぶなどあり得ない。少なくとも人間はそうだし、竜だってそうだ。
だから、これはただの錯覚。あまりのエネルギー量に、体が驚いているだけ。強く、そう自分を信じる。
意思は起爆剤だ。願う方向に動くための、第一歩となる。だから、クィンザーはそれを欠かしたことはない。無形の力を扱うならば、尚更必要になる。
『そうじゃ、もっと体の中に力を押し込めるイメージをしろ。まかり間違って発散なぞすれば、こんなちんけな町、跡形も無く吹き飛ぶぞ』
ヴィクスフィオの声が聞こえる。耳から、ではない。体の芯に直接流されるような……恐らくは彼女の使う、もっとも竜の力に近い魔導術。力の流れが曖昧で浮ついていて、魔導術に合った使い方で無いのが分かる。吹けば飛ぶようなものだが、今はそうできない。バックアップを失えば、示唆された通り、当たりが吹き飛ぶ。
『間違っても拒絶などしてはいかんぞ。拒絶をすれば、それは直接お主に向かわず、周囲に何らかの害意として発散されるぞ。魔導と竜の力は違う。魔導を総べるのは術式じゃが、力を総べるのはあくまで意思であり、それ以外にない。自分を律するのと何ら変わらぬ。竜の力を押さえていると思うな。飽くまでお主が行うのは、自制の一環じゃ』
言われたとおりに、意思を整えていく。
荒れ狂った力を、自分の形に。指先まで整えられたそれに、今度は竜の姿を重ねた。
力そのものは知らない。だが、力を行使された姿は知っている。火と、炎と、焔と――あらゆる灼熱と煉獄。幾重にも重なり合い、同時に相乗される。無形、されど己、つまりはクィンザーというただの個人。個人にして究極。
そして、彼は目を開いた。
「これが……」
呟きながら、自分の手を見た。見た目は先ほどまでと変わらない。だが、その性能は、比べるのも烏滸がましい程に、次元が違う。
なぜだろうか、鏡も無いのに、自分の姿が分かる。まあ、竜の力なのだ、それくらい出来てもおかしくはない。
外見は基本的に変わらない。形状は勿論、褐色の肌もそのまま。特徴的なのは、ただでさえ宝石のようだった翡翠が、より強く輝き、瞳孔も縦に割れている事。そして、髪の毛の一本一本が、燃えさかる炎そのものになっている事だ。
「これが竜の力に伴う姿なのか……」
「正確には違うな」
ぴっと指を立てて、ヴィクスフィオが言う。彼女にしては非情に珍しい――詰まらなそうでも笑みを浮かべているのでもない、真面目な表情だ。
ふと彼女の顔を注意して見れば、うっすら汗が浮かんでいるのに気付く。竜でなくなった彼女が制御するには、それほど並ならぬ労力が必要なのか。とにかく、彼女にあるいつもの余裕が、すっぽりと欠け落ちている。
「その姿は、あくまでお主の印象が反映されたもの。余が火竜という伝えと、あとは直接戦ったときのイメージと――実際は竜の力に、火がどうのなど関係ない。あくまで余が好んで使っていただけじゃ。派手だからな。その姿はあくまで、お主の竜としての姿じゃ」
それは、言われてぴんと来るものではなかった。クィンザーとしては、自然とこうなっただけなのだから。
だが、竜の力が火とは関係ないというのは理解できる。内から溢れるそれは膨大であり、同時に無形だ。何らかの形にするというのは、ただそれっぽく見せているだけ。干渉しようとすれば、いくらでも問答無用に干渉できる。
自分の手の内に収まった力に、思わず目眩を覚えた。
なるほど、行動の是非はともかくとして、竜が傍若無人かつ天衣無縫に動く理由がよく分かる。
何に憚る理由もないのだ。この力さえあれば、どんなものが相手でも、縛られない。山一つ、街一つを滅ぼすのも、全て手足を動かすのと同じ感覚。彼女の言葉は誇張でもなんでもなく、本当に自分自身を律するのは、己の意思だけ。
(俺には……人には過ぎた力だ。いや、これに見合った意思を持つ存在なんているのか?)
例え竜の力そのものを厭んでいなくとも、忌避するに十分なそれ。こんなもの無ければ無い方がいいと、心の底から思える……
「ぐぅっ!」
クィンザーはうめき声を上げて、胸を抱える。ヴィクスフィオは慌てて駆け寄り、背中をさすった。
「余計な事は考えるな! 集中せい、集中を!」
そう言われても、生まれた疑念を容易く払う事はできない。できるならば、クィンザーはもっと陽気に生きていられた。
「大方、力の正当性がどうのと考えていたのであろう。そんなものに答えはない。いや、疑問に意味がない。力など力以外の何でもないぞ」
ぐっと、強くヴィクスフィオに手を握られる。今は振り払う事すら考えられない。
内圧が強くなっている。溢れれば、一巻の終わりだ。隣の少女も、巨虫も、この町も、帰りを待っているスウィンスも。自分以外の全てが。
「剣を振るうに見合う意思すら、この世にはあり得ぬ。なぜなら、それは全てに通ずるからじゃ。自分だけの力に見えて、その実あらゆるものに繋がっておる。一個で完結する力などありはせん。そもそも、力に正当性を問うこと自体が人の虚誕よ。力を切り離すためのものじゃ」
目前まで迫るヴィクスフィオの顔。今にも泣きそうな――初めて見る顔。そして、嫌いな表情。
「思い出せ、余と戦った時の事を。あの時お主は、一切の雑念を持ておらぬ筈だ。でなければ、どう足掻いても余に及ばぬ。力を扱うなら、そうでなければならぬ。すべきことに集中するのじゃ」
瞳と瞳が重なる。竜の碧。そして、今は自分の色。両者の光が反復し合い、より深いものとなる。強まるそれに、少しずつ魅入られて……
荒くなった呼吸が、次第に戻る。あれほど狂おしかった力の暴走は、嘘のように体の形に収まった。
次の瞬間、ヴィクスフィオが崩れ落ちた。慌てて抱き留める。驚くほどに、体に力が入っていなかった。そして、恐ろしいほど冷たい。理由など分かりきっている、制御の代償だ。クィンザーが暴走させかけたそれを、彼女が必死になって押さえ込んでいた。今度のは、先ほどの比ではない。
「なんで、お前はいつも……」
「いつも……言っておるであろう?」
弱々しい言葉だ。強い風とあいまって、聞き逃しそうになる。
顔を上げる元気もないまま、彼女は続けた。
「余は、お主が本当に望まぬようになど、なって欲しくない。それに……余から渡ったものを、意味なく忌避されるのは、悲しいからな」
ゆっくりと、彼女の体を横たえた。力なく伏せる様子を、苦虫を噛み潰したような表情で見る。
彼女の事は嫌いだ。未だに許せず、憎しみも耐えない。いっそ乱暴をふるって、ずたずたに引き裂いてやれば……その瞬間だけは楽になれる。同時に、ヴィクスフィオは必要な存在でもある。もしもクィンザーの中の竜の力が暴走した時、それにブレーキをかけられるのはただ一人だ。そして――彼女は尽くしてきた。盲目の愛などというものが実在した、そう思わせるほどに。
どうしようもなく、もどかしい。
(今だけは、忘れよう……わだかまりも何もかも。ただ、彼女に感謝して、後は)
集中力を取り戻す。そして、振り向いた。
巨体は相変わらずだし、さらに大きくなっている。
「お前を倒す!」
絶叫し、クィンザーは、しかし動かなかった。
跳ねて上を取る、そんな必要だってない。ただ願うだけで、彼はそこに居る事ができる。いや、空の上だけではない、思えば思うだけ、この世のありとあらゆるものが、意思のままに改変される。
それが、竜の力。世界の欠片と謳われる力。制御もおぼつかず、いくらも使いこなせないそれでも、この世に及ぶ存在はない。
クィンザーは手に持っていた剣を撫でた。錆だらけのなまくらで、重心もおかしい。手のひらが通った所から、刀身が炎に包まれる。改変の火。剣はあっという間に持ち慣れたもの、そして記憶にあるよりも遙かに優れた剣へと生まれ変わった。
重力に引かれて、クィンザーが落下していく。落ちていきながら、元町の住居区半ばまで食い込んだ巨虫に狙いを定める。
胴体、中心に照準を付けて、大きく剣を振りかぶった。
「これで――終わりだ!」
そして、振り下ろされた剣と同時に、膨大な光を伴う灼熱が襲いかかり。
巨虫は何も知らぬまま、彼の言葉通りに、終わった。
●○●○●○●○
スウィンスは、確かに見ていた。空から降る、光る何か。それが長年町の全てを苦しめていた巨虫を飲み込んだのを。そして、たったそれだけで巨体が姿を消した――もう巨虫の驚異に脅かされる事はないのだ。
あまりにあっさりしすぎている。冗談を言われたかのように、現実感がない。また姿を現した方が、信じられそうな……
しばらく呆然としていて。廃墟の方から、ゆっくりと近づく何かに気がついた。
あの、荷物を預けた男だ。そう判断したのは、それ以外の誰かが来ると思えなかったからだ。行きのように、一瞬で跳ねはしない。ゆっくりと歩いてくる。影が一つなのは、女が背中に背負われているからだ。腰で揺れているむき出しの剣は、見たことが無いほど立派であり、輝いている。
足音がすぐ近くになるまで、スウィンスはそのままだった。目前までたどり着くのを確認して、やっと自分の上に荷物が載ったままだと気付く。それをゆっくりと、地面の上へ下ろした。
戻ってきた男は、スウィンスを見てため息をついた。いや、よく見れば荷物を確認してだ。
大小の、二つ転がっている荷物。そして、片方の持ち主は背中で寝息を立てている。つまり、男が持って行くしかない。
「あっちの巨虫がいた方に……」
「す……すげえ! なあ、あれどうやったんだよ! 魔導ってあんな事もできるのか!?」
興奮のままに、スウィンスはまくし立てた。目を輝かせて――足はまだ動かないから、近寄る事はできなかったが。
男は言葉に、何の反応も見せない。淡々と、言うべきことだけを伝えようとしている。
「大穴が空いている。その中に、どうも巨大な水晶洞窟があるみたいでな。それ自体は金にならないだろうけど、まあ観光地としては悪くないんじゃないか?」
それをどうにか物にできるかは、お前達次第だが――そんな口調だ。
男が冷めているのと対照的に、スウィンスの興奮はさらに高まる。まるで物語の主人公、そうとしか思えない。
「オレもできるようになるかな? ちょっとだけでいいんだ、教えてくれよ!」
「こうも言ったはずだぞ」
全く反応を見せなかった男が、初めて言葉を返してくる。鋭い視線で、威嚇するように。
スウィンスは息を詰まらせた。ただ睨まれた、それだけで、口が縫い付けられたように動かなくなる。
「今回限りで、もう手助けはしないと。あとはお前達の問題だ。それで何もできなければ、この町は元々そういう運命だったんだよ」
一言一言、刻みつけるような、強い言葉。
スウィンスが顔を伏せるのと同時に、男も目を逸らした。女を抱えたまま、荷物を背負おうとしている。難儀している様子ではあったが、なんとか持ち上げた。
荷物と交換するように、剣がスウィンスの前に転がる。少年は、はっと顔を上げた。男達は、既に背を向けている。
「なあ、せめて名前だけでも教えてよ!」
言葉に、反応は返ってこなかった。変わらぬ歩調のまま、少年を置き去りにして去っていく。
その後、スウィンスが二人を見つける事はできなかった。
化け物がいなくなっただけで、町が上手くいくようになった訳ではない。町の人口は少なく、そして気力を失っていた。観光地どころか、ちゃんとした町の形に戻すのすら難しいだろう。
それでも、努力は始めようとしている。前進しようと、してはいるのだ。
子供である自分ができる事は少ないと、スウィンスは分かっている。今まで何も出来なかったのだ。無力の痛さだって、十分に噛み締めている。
だから、今度こそは無力でいないように。
少年はずっと、残された剣を振り続けていた。