06
(昨日のうちに出ておくんだった)
悔恨に痛む後頭部を意識しながら、クィンザーは足早に歩く。途中、何かを蹴っ飛ばしたが――廃墟寸前の町には、何だって転がっている。家壁に使った意思の破片でも、看板や窓枠の木片でも、何かの空き缶でも。とにかく何でも。いちいち足を止めて確認すれば、きりがない。
無視すればいいだけの事だが、この時はやけにかんに障った。苛立った時の悪癖だ。直す気はあるが、成功した試しはない。
手の中の大荷物をしっかり抱え直して、強く地を蹴った。
(不可能じゃなかった、水だけ手に入れて、とっとと町を後にすればいい。気疲れしてるって言っても、どうせこんな所じゃ大して休めやしないんだ。食料は……いざとなれば、そこらのものを狩ればいい)
次々とわき出る思考。整理もせずに、垂れ流しにする。
(そうすれば、少なくとも余計なことは知らずに済んだんだ。町の事情なんて知ったことじゃない。本当だ)
強く、自分に言い聞かせた。これ以上考えまいと。
しかし、いくら思考を阻害しても、追憶までは妨害できない。
脳裏に映る、強大な化け物。ちんけな村ではどうしようもない、圧倒的な。害意のあるなしに関わらず、それが凶暴なだけで、得られるのは絶望のみだ。今となっては分からない、自分の感情。竜に対する正義感だったか、村への義務感だったか、もっと卑近な何かだった。どれも正解のような気がするし、どれもが間違いであった気もする。ただ一つ、はっきりしているのは、それらは色あせたものでしかないという事だ。もしくは、前世に置き去りにしたか。
思い出すことに意味はない。だが、同じような反応をしてしまう事は、非情にまずい。
見て見ぬ振りをしなければならない事だ。
なぜなら、結末だけはよく覚えている。英雄譚の先など、いつも当事者だけを置き去りにすると身をもって知った。
どうあっても、楽しい思いはできない。やるだけやって、鼠のように逃げ去る事を強要されるだろう。
それでも、どうしても、頭から離れない。
絶望の中でさらにもがいて、より濃い絶望に飲まれるスウィンスの涙が。
「あの小僧の事が気になるか?」
声をかけたのは、当然ヴィクスフィオだった。
クィンザーにもたれ掛かるほど寄り添って、歩いている。いつもなら退けている距離。それにすら、気がつかなかった。
「そうじゃろうのう。お主はああいうのに弱いからな。弱きの為に義憤を覚え、己を剣と化す。美徳なのではないか? まあ、人の感情論など、余には共感できぬがな」
「知った風な口を――」
言いかけた言葉は、そこで止まった。
彼女の言は、クィンザーに関する限り、おおよそにして正しい。少なくとも、少女が戯れているのでなければ、心の底から否定できたことというのは、実際の話殆どない。この虐殺を遊戯とした敵こそが、実は最大の理解者だというのは、面白くもない皮肉だった。
「何が言いたいんだ」
無意味な質問をした。事実に、思わず舌打ちをする。
それも、やはり分かっているのだろう。ヴィクスフィオは大仰に驚く仕草をしながら、言った。
「何を? それはこの町に対してか? それともあの小僧に対してか? どちらでもつまらぬ事じゃ。余の興味は常にお主に対してであり、お主の行動に対してよ。逆に余が聞きたい。お主はどうしたいのじゃ?」
答える事はできなかった。それこそが、まさに自分への疑問なのだ。
嫌がらせのように歩調を強める。これも、少女は気にもとめないだろう。それを知ってしまえば、残るのは惨めさだけだ。
ちゃぷり――骨伝いに、腰の水筒で水が揺れる音を確認する。少年から離れる事ばかり頭にあって、給水を忘れていた。慌てて水を汲みに戻る様は、何というか、無様な喜劇的ではあっただろう。その程度に動揺させられたという意味で、スウィンスの行動は成功していた。
動揺をさらに揺さぶるのは、ヴィクスフィオだ。彼女がクィンザーを知っているのと反比例して、彼にはヴィクスフィオの考えが分からない。
「この村を救うというならば、至極簡単じゃ」
悩んでいる意味すら分からない――頭部の後ろで指を組んだ姿は、そう主張しているようでもあった。
「まずは、あの馬鹿虫を殺す。まあ、容易いな。余と張り合ったお主が、たかが慣れた剣がない程度で、あの程度に遅れを取る理由がない。何なら余がやってもいい。一瞬で終わるだろうさ」
言うほど容易い相手ではないのだが。油断していい相手ではない。一歩間違えれば死ぬのに代わりはないのだから。しかし、間違ってもいなかった。
歩くだけで数百人という人間を踏みつぶせる化け物虫であっても、所詮は虫だ。竜と相対する事に比べれば、どれほど気楽か。少なくとも、完全装備で竜と戦う事と、ナイフ一本で巨虫と戦う事、どちらかを選べと言われて後者を選ぶ者はいない。
「しかし、それだけで町を助けるという事にはなるまい。お主の村と違って、ここは滅びかけていたのが、あれで早まったというだけじゃからな。一年後か五年後か、轢死か餓死か、その程度のものよ」
指を振りながら、淡々と語る。
前を向いていた少女の視線がクィンザーを向き、意地悪げに――少なくとも、彼にはそう見えた。悪魔が囁くようなそれに――にやりと笑う。
「それでも救うならば、お主が君臨すればいい。なあに、簡単なものよ。馬鹿虫を殺した功を以てすれば、町の実権を奪うなど容易い。長が有能であれば、そもそも斯様に廃れていなかったであろうしのう。後は……お主の力を発揮し、好みにしてしまえば良い――」
「違う!」
言い聞かせるようなヴィクスフィオの声。それを、強く否定した。
「そんなものは、俺の力じゃない」
「それこそ違うな」
力強い、ヴィクスフィオの言葉。今までとは打って変わって、遊びのない、真剣さを帯びている。
「どれほど拒絶しようと、事実は変わらぬ。お主の持つ力は他の何でも無く、ましてや無視すれば無かったことにできる類いのものでもない」
まずは認めろ――少女のエメラルドグリーンに輝く瞳の奥、そこが力強く輝いていた。強い視線が、クィンザーを捕えて放さない。なぜだが、視線を逸らすことができなくなっていた。
それに、とヴィクスフィオは囁くような声で呟く。
「それを拒絶されるのは、いくら余でも悲しい……」
一転、弱々しくなった瞳の光は、クィンザーのそれから滑り落ちて、地面へと向かった。俯きながら、小さく唇を噛んでいる。
それを見て、うっと息を詰めらせた。
(卑怯だろ……)
外見は可憐(と言うのは納得いかないが、まあ容姿だけ見ればそうだ)な少女である。戦士として生き、村を守るために強くなったクィンザーは、この手の仕草にすこぶる弱かった。いくら反感を持とうが、最終的には自分が折れるとよく知っている。
ヴィクスフィオにとっては、そこがクィンザーとの始まりなのだ。どれほどクィンザーが言ってもそこだけは譲らないと、何度も思い知らされた。
自分にとっては有り難くもないものであっても、人にそれを押しつけるのは憚られる。
殆ど小走りのようになっていた足を緩める。いきなり変更された速度に、ヴィクスフィオがつんのめるようにたたらを踏む。
歩調を緩めて、落ち着いて息を吸う。
それなりに平常心を取り戻すことはできた。少なくとも、もう後頭部の頭痛に悩まされてはいない。
宿に戻っても、マスターは居なかった。到着して早々会えたのは、運が良かったらしい。
二階に上がって部屋に戻り、荷物をベッドに置いた。半分を荷物に支配されたベッドの、もう半分をヴィクスフィオが、やはり無断で占拠する。
腰掛けようと思ったら、無理矢理ベッドに詰めて座るか、あとは壊れて倒れる事を考慮して椅子に座るか。クィンザーは諦めて、壁に体を預けた。
しばらく、会話がなくなる。クィンザーにとっては都合が良かった。平静に戻れた頭で考え事をするならば。
どれほどそうしていたかは分からない。なにしろ、脳内で幾度も同じ事が渦巻いたのだ。本当ならば、結論はすぐに出た筈のものだ。無意味に繰り返された時間など、ただの浪費であり、意味に乏しい。
それでも、結論は出せた。
ベッドを探って(途中でヴィクスフィオが絡みついてきたが転がして)バッグを取り出す。正直に言って、バッグと言って正しいかも分からない代物だが。なにしろ、布きれを編み草のロープでいい加減に合わせただけ。セキュリティなど影も形も無い場所に放置していたのは、価値がないからだ。道具さえあれば、素人でももう少しマシなものが出来上がる。
バッグの中に、買ってきた食料を詰め込み始めた。いい加減な積み込み方で、取り出す時に苦労するだろう。それも気にせずに、とにかく詰め込んだ。
「行くのか?」
「ああ」
転がった姿勢から上半身だけを持ち上げて、ヴィクスフィオが問うた。作業は中断しないまま、短く肯定する。
「良いのか?」
再度の言葉に、どこか責めるものがあった気がした。
完全な妄想だ。彼女の気質は酷くドライである。クィンザーのそれよりも遙かに。むしろ、慮って発せられた言葉だろう。
そう感じたのは、まだ負い目を捨てきれないからだ。女々しい思考を否定するように、わざと言葉にして発した。
「俺は都合良く人を助ける神じゃない。助けられたらそれでよし、なんて慈愛の精神に溢れてもいない。この町の問題は、町の人間が解決すべきだ。俺にちょっと原因の一つを取り除く力があったとして、それが何になるって言うんだ?」
言い訳がましい自覚はあった。だが、口にしなければ、また惑いそうだったのだ。
「ふむ、では行くか」
彼女の感情は寸分たりとも動かない。案じているのはクィンザーの心情のみ、その言葉に全く違わぬ様子だった。
「荷物を取ってくる。少し待っておくのじゃ」
小さく跳ねてベッドから下り、ふらりと部屋から出て行こうとする。
その時だった。
ぴたり、クィンザーは動きを止めた。そして、視線をヴィクスフィオに向ける。彼女も歩く途中の姿勢のまま、首だけをこちらに向けていた。他に変化と言えば、窓が僅かにかたりと揺れた、それだけだ。
「今のは……」
「うむ、そうじゃな」
感覚は酷く薄く、自信が持てなかった。
だが、それを彼女も共有したのであれば、可能性は高い。
少し……本当にごく僅かだ。もし歩いていたら、気付かなかったであろう、その程度のもの。だが、気付いてしまったからには、無かったことにできない。
地面が、傾いた。
建物が古いから、という可能性もなくはない。しかし、それならばもっと局地的な軋みがありそうなものだ。
半分以上投げ出されたままの食料を放置して、窓に向かった。ガラスの代わりに、ぞんざいに木の板がはめられたそれ。壊れないように気を遣いながら、上に引き上げた。
(……外を見て意味があるのか?)
頭を乗り出す直前に、ふと悩む。元々人口の少ない町であり、加えてこういう自体には慣れている筈だ。ましてや、揺れたかどうかも分からない程度の傾き。外を確認したところで、少なくとも誰かが騒いでいるとは考えづらい。
だが、ここまでして頭を引っ込めるのも、より無意味な行動をしている気がした。結局、外を覗くことにする。
やはり、外は乾燥した静寂さを保ったままだった。と言うよりも、人っ子一人見当たらない。変化らしい変化など、小さく吹いた風が紙切れを飛ばした程度だ。
予想通りに変化の無い光景を確認して、嘆息する。頭を引き戻そうとして――その時だ。
ぐらりと、建物が大きく揺れた。今度は悩みようもなく、明確に。
咄嗟に窓枠を掴んで、体を固定した。
体を落として安定させる。建物のあちこちから嫌な悲鳴が聞こえ、合唱のように耳朶を叩く。それが物理的な影響にまで発展しないことを願った。
さして意識しなくても分かるほどに、床に角度が作られていく。地震はこのためなのか。確証はないが、とにかく自分が斜めになっていくのは分かった。このペースで傾き続ければ、生活に支障を来すレベルになるのに、そう時間はかからないだろう。
「うおっとっと」
体を固定できなかったのか、それとも元からそういう発想がなかったのか、ヴィクスフィオが片足でよろめいている。大層な異常事態なのだが、彼女の口から漏れ出る声には、緊張感の欠片もない。
振動はどれほどもせずに――つまりは生活に支障が出る前に――終わった。
手を放して、腰を戻す。普通に立つには違和感が残る角度だ。左右の足に差をつけて、重力に対して垂直を作った。それでも、真っ直ぐ立つのは難しかった――地面が傾いたのとは別の意味で。壁にもたれ掛かると、異音を奏でた。今の振動で、随分とがたが来ているようだ。だが、それも無視して、クィンザーはため息をついた。とても深く、そして不運を嘆くように。
「本当に……とっととここを出て行っておくべきだった」
「まあまあ、嘆くな。人生こういう事もある。それに、余が居るのだ。お主の人生も、そう捨てたものではないぞ?」
「お前と会ってからはこんな事ばっかりだよ。あとお前自身は、明らかに余計なものの方に分類される」
慰めるために伸ばされる手――どさくさに紛れて触れるつもりだ。それを軽く払い落とした。
つまるところ、この自体は難しくもなんともなかった。
地震の原因も傾かせたのも、あの巨虫だろう。が、それはどうでもいい。これだけ影響があるという事は、相当近くで何かを始めたはずだ。だが、これもどうでもいい。問題は、もっとストレートで身近なものだ。
つまり、今日であったのだ。この町が滅ぶのは。
外が、少しだけ騒がしくなった気がする。この規模の異変であっても、気がする程度の騒ぎにしかなっていないのが、町の廃れ具合を表していた。
再度窓から外を見る。そこでは数人の人が集まっている。二桁にも届かないが、この町で一度に目にするには、もっとも多い人数だ。誰もが困惑した様子で(つまり部外者であるクィンザーと大して変わらない)、戸惑っている。誰一人として、いつかくるこの日に、しかし備えていなかった。明確な終わりがあるなど、分かっていたはずなのに。もしかしたら、直接的な危害がなければ、人の危機感などこの程度になってしまうものなのか。
と、
視界の端に、素早く動く人影が見えた。
一瞬だけしか見えなかったそれ。しかし、見てしまった以上は見なかったことにはできない。クィンザーは強く眉を潜めた。
「何か面白いものでもあったか?」
「ああ、いや……」
問われる言葉に、肯定も否定も無い、中途半端な回答。
気を取り直すのに、手間も時間も必要なかった。既に決めた事だ。ならば、あとは曲げないだけでいい。忘れられない事だって、努めれば無視はできる。気になる事を忘れるのは難しいが、それも時間が解決してくれるだろう。
「急ぐぞ。ここにいたらいつ巻き込まれるか分からない」
「承知承知」
ヴィクスフィオが飛び出るのを確認する前に、荷物を手に取った。先ほどの時点で整然としているとは言いがたかったが、それよりもさらにいい加減に、とにかく詰め込んでいく。入りきらなかったものは、残念だが置いていくしかない。運がよく建物が潰れなければ、誰かが回収するかもしれない。少ない金を無駄にするのは痛恨だったが、今更嘆いてもどうにもならない事だ。
クィンザーが客室を出るのと、ヴィクスフィオが飛び出したのはほぼ同時。そのまま一階へと下りて、やはり店主はいなかった。無人の寂れたカウンターは、もはや見慣れた光景のように思えた。
酒場兼宿を出たが、それに注目した町人は誰一人としていなかった。僅かに視線を向けても、すぐに元に戻す。構っている余裕など無いのだから、当然だ。可能ならば彼らのように、今すぐでもここを出て行かなければならない。もっとも、そうできれば今の今まで町に残ってはいないだろうが。
町の出口に向かおうとして、再度、大きな振動に見舞われた。断続的に小さな揺れはあったが、今度のは桁違いだ。
すぐに建物から離れる。建物の中ならば、何があってもすぐに動けるよう、壁に近い方が良かった。だが、いつどれが崩れてもおかしくない老朽化した建物ばかりの町並み。加えて、耐震性に信頼は皆無だ。多少無茶をしても、離れるのが懸命だった。
「お主よ、これは出るぞ」
今までの揺れとは様子が違う――何と言うか、もっと直接的だ。そう感じるのと、ヴィクスフィオが言ったのは、ほぼ同時だった。
ご! けたたましい音を立てて、地面が揺れる。いや、持ち上げられた。体が一瞬浮き、体勢が崩れそうになるのを、なんとか重たい荷物を制しながら維持する。そして、遠くにある大地が、文字通り吹き飛んだ。
「うわあああぁぁぁ!」
それは、誰の悲鳴だったか。クィンザーには判断できなかったが、誰の悲鳴でもおかしくない。
吹き飛ばされた土がぱらぱらと降り注ぎ、爆心地に大きな山が出来上がった。いや、よく見れば違う。それは大量の土を被った何か……小山ほどの大きさもある生き物。この町を長年脅かしてきた、巨虫だった。
町と虫との距離は、前に見た時の比ではない。本当に、目と鼻の先に出現した。そして――巨虫は、顔をこちらに向けている。方向を変えぬまま、ずん、と音がした。山の一部が崩れる。雪崩を起こした土の塊の中から、鋭い足が見えた――踏み出して、進んでいる。町に向かって。
単発の悲鳴は固まった怒号になり、最終的に混沌へとたどり着いた。誰が、どこに向かって走っているのか分からない。逃げるための行為にすら見えなかった。千々になる人たち。
クィンザーは冷静に、頭を回転させた。ここの人たちは助からない。住人の多くは老人だ。ましてや、この期に及んで私財を回収しに行った者さえいる。助けようと思って、助けられる規模ではない。
彼らの姿は、ただの代償だ。いつか来るはずだった今日を忘れた事の。自業自得だ、とは言わない。どうしようもないものは、どうしようもないのだ。ただ、理不尽に降りかかるものというのは、存在する。何の前触れもなく、当たり前の日常を唐突に奪うもの。それがある事だけは、心に刻んでおくべきだった。
すぐに逃げてしまえばいい。後悔はいつか、思い出せなくなるほどに薄れる。
それでも――僅かに視界に映ったそれ。小さな影。小生意気な子供。スウィンスという、絶望にもがき続けている少年。
あの子供は、今もなお、もがいている最中だった。
何もする必要はない。だが、どうしても一歩が踏み出せなかった。進む先は、どこでもない。町の出口だ。
ふと、強く手を握られた。驚いてそちらを見ると、強く微笑んだヴィクスフィオ。握った手に力を入れて、クィンザーを引きずり始めた。向かう方向は、町の出口では無い――巨虫のいる方向。
「おい、ちょっと……」
「お主はいつも、わざわざ小難しい事ばかり考えよる」
声をかけたクィンザーの言葉を無視して、ヴィクスフィオは語った。足はさらに速くなる。
「こんな所なんぞに義理もなければ義務もない、利益もない。トラウマだって有ろう。どれほど力があろうが、お主が世話してやる理由には欠片もならないのは当然じゃな。これで助けを要求する奴が居たら、それは余程の夢想家か、もしくは恥知らずよ。ま、人の社会の話ではそうなっておるの」
くくく、と笑うヴィクスフィオ。
握った手に不快感を感じるのは、変わらない。彼女がやった事が許せる訳もないし、つまりは相変わらず敵だ。いつもすげなく振り払ってきた手。しかし今だけは、そうするつもりになれなかった。
「じゃが、そんなものは所詮人の事情よ。余の知ったことではない。要諦などただ一つ。自分が今、どうしたいかじゃ。それだけあれば、後の事など些末であろう?」
柔らかい笑顔を向けてくる。強かった手が、緩く握られる。
いつの間にか、クィンザーは自分の足で走っていた。手を引かれた、それがただのきっかけでしかないというのは、彼自身がよく分かっている。
スウィンスという少年に、嘗て自分がいた場所を思い出した。良かったことも、悪かったことも。感傷でしかないのだろう、という自覚はある。それでも、確かにあったのだ。彼の先には、もう随分と昔のことのように思える光景――嘗ての自分と、その仲間達が。
そして、死んで欲しくないと、そう思った。
クィンザーの顔が、大きく歪む。どんな顔をしているのだろう、ただ、普通の表情で無いだろうとは思っていた。
「知った風な口を」
「知っているさ。なにしろ、この世でお主を最も理解しているのは、他ならぬ余なのだからな」
――それだけは、譲れない。
胸を張り、自信満々に、そして誇らしげに――人となった竜は、語っていた。
手と手が離れる。振り払ったのではない、自然とそうなったのだ。なにしろ、
「急ぐぞ!」
「応ともよ!」
全力で走るならば、邪魔にしかならないのだから。