04
僅かな振動を感知して急激に覚醒するのは、もはや習性だった。目を見開いて、広がったのは顔だ。咄嗟に腕を振って、それを横へと追いやった。
「ふべっ!」
奇妙な声を上げて、ヴィクスフィオの顔面がベッドにめり込む。
すぐにシーツを跳ね上げて、その場から脱出した。幾度か自分の顔を触れる。湿っていたり、違和感があるなどと言うことはなかった。悪戯をされる前だったことに、とりあえず安堵する。
顔を持ち上げた少女が、ベッドに座ったままクィンザーを見た。鼻をさすっているのは、硬いベッドに打ち付けたからだろう。
「相変わらず乱暴者じゃのう。そういう所も良いと思うが」
ふふふ、と心底嬉しそうに笑いながら、ヴィクスフィオ。それを睨み付けたまま、クィンザーは言った。
「お前、何をするつもりだった?」
「決まっておろう。目覚めの接吻よ」
ごく当たり前のように、恐ろしく真顔で言われる。それが当然のことであり、間違えているのはお前だと言わんばかりの表情だ。一瞬、そういうものかもしれないと納得しかけて……すぐに訂正する。同時に、あたまがくらりと傾くのを自覚した。
指摘をすることは、とっくに諦めている。もう既に、幾度も行ったことだ。そして、同じ数だけ無意味を悟らされた。
(こいつ、一回ひっぱたかなきゃ分からないか?)
可能性は極小であるが。試していないのだから、可能性がないとは言い切れない。
と――
指先に、感触が蘇った。柔らかく、そしておぞましい、肉の感触。そして、死にゆく顔――
くらり、と頭ごと体が傾きそうになるのを、なんとか自制する。視線を少女から――正確には、その首筋――から離せなくなった。
ヴィクスフィオは座り込んだまま、不思議そうにクィンザーを見上げている。クィンザーが自分から好んでヴィクスフィオを見ることというのは、中々ない。
指は、自然と少女の首へと伸びた。力など全く入っていない。どこまでも力を抜き、赤子相手にそうするように、触れただけで壊れてしまうものを時に似ている。それだけ身長になりながらも、クィンザーは自分の感覚が信じられなかった。だから、触れることにすら戸惑う。
どれほど迷っただろうか。やっと指先が、首の表面に僅かに触れ、感触を確かめた。当たり前に、めり込んでなどいない。ごく普通の首。健康な、命の危機など感じさせないそれだった。
少女は抵抗をしなかった。いや、触れられるのを待ってさえいた。そして触れた瞬間、蕾が静やかに開くように、彼女の顔も綻んだ。
どちらも積極的にはならない。少年はするがままに、少女はされるがままになっている。それが、この二人の関係そのものだ。ヴィクスフィオが振り回しているようで、しかし決定的な選択権は、いつもクィンザーが握っている。いや、ヴィクスフィオが明け渡した、というのが正解だろう。
本当の意味でヴィクスフィオが逆らうことは、絶対になかった。
「まだ気にしておるのか?」
「……もうなんともないんだな」
少女は、指に首筋をすり寄せた。可能な限り触れられるように、しかし指が逃げない程度に。
「当たり前じゃ。余は自らそうと望まなければ、余程の事にはならぬ」
「なら、なんであの時お前は抵抗しなかった。いくら力関係が逆転したと言っても、逃げ出せない程じゃ無かったはずだ」
愚問だ。分かっている。両者とも。
だからクィンザーはそれ以上に言葉を重ねなかった。そして、だからヴィクスフィオは言葉を重ねた。何度も繰り返したそれを、飽きずに何度も。
「余は、お主が与える全てが愛おしい。そして、お主自身をこの余の何よりも愛している。もしお主の手で余の命を奪ってくれるというのであれば、これほど嬉しいことは、他にありはせぬ」
ふふ――という笑い。どこまでも純粋で、まるで童女のような。
「それと同じよ。お主が余の首を絞めた事を悔いるならば、ずっとそれを見せつけ続けよう。そうする事で、少しでも意識が余に向くのならば、行うに戸惑いはせぬ。罪に着せる事に、僅かの躊躇いもないのじゃ」
だから嫌なのだ。クィンザーの瞳が歪む。
この少女は、全てを受け入れてくる。怨念を吐かれても、邪険にされても、全て含めて、全身全霊で愛してくる。それが、どうしようもなく憎い。
彼女がどれほど愛してこようとも。例えば、クィンザーの憎悪を全て受け止めて死したとしても。
絶対に許せないことは、ある。
ヴィクスフィオは、言い訳のしようも無く、完全無欠の悪だ。少なくとも、クィンザーにとってはそうだった。小賢しい言い訳など通用しなく、同時に彼女も弁明するつもりなどなかった。殺したところで批難できる者と言うのは、存在しないだろう。なにより、クィンザーは完全無欠に被害者だった。
だからと言って――
八つ当たりで殺しかけた事までが、許される訳ではない。その点において、彼は完全に加害者だった。
復讐を完遂する事に、正当性はある。そう信じることはできる。だが、感情の矛先を憎い相手に向ける事に、それがあろう筈もない。
震える喉――まるで自分のそれが押しつぶされているようだ――から無理矢理空気を送り込む。なんとか、気分を落ち着けた。そして、手を放した。残念そうに歪みかけたヴィクスフィオの顔からも、視線を剥がす。
「なんじゃ、もっと余に触れていて良いのだぞ?」
「うるさい」
半ば強制的にいつもの自分を取り戻し、服を整える。
自宅からはろくに荷物を持ち出せなかった。つまりは、替えの服など殆どない。寝ていたときの格好も、昨日の服から上着を一枚脱いだだけだ。
コートと同じく椅子の上に投げられている上着。それに手を伸ばしかけて、途中で手を引っ込めた。どうせ歩くのは、町の中だけだ。気を遣う相手はなく、また格好に気をつける必要もない。極端な話、浮浪者のような出で立ちでいた所で、不利益は無いだろう。そもそも気にする人間がいない。
クィンザーが外に出るのと同じように、ヴィクスフィオもまた着いてきた。本当なら追い返したい所だが、もう半ば諦めている。
廊下に出て、今にも底が抜けそうな床を踏みしめる。強く踏んだら、多分本当に抜けるだろう。
階段にさしかかって、なんとなくカウンターを見たが、そこには誰も居なかった。もしかしたら、昨日そこに店主がいたのは、運が良かったのかも知れない。当然のように客が居ない店内を抜けて、やはり当然のように人が居ない通りに出た。相変わらずの寂れ具合。
「お主、何をしにそとにいくのじゃ?」
「食料と水を買いに行くんだよ」
別に堪える義理もないのだが、言葉は咄嗟に出ていた。
彼女の事は大嫌いだ。憎しみも持っている。が、役に立つ事はあった。とりあえず言葉が通じれば、会話を忘れずに済む事だ。
クィンザーの言葉に、呆れたような――と思い込んだだけだ。実際に彼女がクィンザーに対して呆れる事はありえない――言った。
「要らぬじゃろ」
「いるんだよ」
進む先は分かっていた。位置だけは、昨日歩き回って知っている。あとは、店が開いているのを祈るだけ。
祈りが届いた、という訳では無いだろうが、店は開いていた。掠れて読めない看板に、とたんを避けただけの入り口。割れて意味を無くしたガラスの向こうには、一人の老人(髪型からして、恐らく女だ)がいるのが覗ける。さらに向こうには、決して多くは無いが品物が並べられているのが見えた。とりあえず、旅を続けるのに必要な量が揃えられそうな程度には。
店の正面まで近づくと、それに気がついた老女が愛想良く(不気味なほどに)笑みを浮かべて寄ってきた。
「おやおや、いらっしゃい。たっぷり見ていってね」
甲高い猫なで声で言われ、思わず一歩引きそうになる。が、それである種の納得もした。
つまり、この老婆は、旅人が物資を買いに来るのが分かっていたのだ。恐らく情報はあの店主から。今日店が開いていたのも、偶然ではない。事前にありったけの物資を用意して、待ち構えていたのだ。少しでも多く買わせるために。
理解さえしてしまえば、微妙になった気分はともかく、割り切れる。横からごちゃごちゃとうるさい老婆を九割無視して、ものを手に取った。並んでいるのは保存食が大半と、あとは生ものが少々。一緒に並ばれると、思わず欲しくなる。旅で上手い食べ物とは、町を出て直後にしか望めない。それはとても魅力的であり、同時に抗いがたかった。野菜の一つを手に取る。今は多少萎びているが、元はそれなりに瑞々しかったのを、手のひらからよく伝えてきた。
(まともな食い物は手に入るのか……)
釈然としないものを抱えて、今度は肉に目を向ける。
こちらは流石に生のまま、とはいかなかった。雑ではあるが、それなりにしっかりした燻製だ。
人は何かを食べて生きている。食べるものがある場所が、人間が生きられる場所と言ってもいい。そして、ここにはそれなりにちゃんとした食べ物がある。人が生きられる環境だ。ならば、急激に人がいなくなる理由でもない気がしたのだが……
まあ、それこそ待ちの事情だ。クィンザーの知ったことではないし、知ろうとも思わない。
買い物に興味のないヴィクスフィオは、店内にも入っていない。偶然そのへんを歩いていた、身なりの悪いおっさんを捕まえて、世間話をしていた。昨日邪険にしていても、今日は友のように話す。気まぐれな彼女の、非常に面倒くさい性質。
(まあそれでも)
勝手に押しつけられる荷物を片っ端から棚に戻すのだが。それでも飽きずに、老婆は品を取り出す。
(誰かにつっかかって面倒を起こされるよりは、よほどマシだけどな)
頭を振って、とりあえずそれを肯定した。
少なくとも外見的には、同郷である事を否定できない二人。加えて、ヴィクスフィオはどこだろうと構わずひっついてくる。つまり、彼女が起こした面倒を解決するのは、自然とクィンザーの役割だった。
もしかしたら、無視し続ける事も、不可能ではないのかもしれないが。その場合、解決は血と肉によったものになる。同時に、容赦というものがない。結局、もめ事を避けようと思うならば、彼自身が動くしかないのだ。その自覚があるから、品物を吟味しつつも、耳だけは会話に寄せている。
「――という訳さ。しかもその盗賊らは、どっから手に入れたのか、最新式に近い銃を持っているらしい。気をつけるこったね」
「ほほう、最新式の連発銃か。一度見てみたいものよ」
「どうも話によると、都会では所により市販も始まってるようだよ。気になるなら行ってみるといい」
「うむ、面白い話が聞けた。受け取るが良いのじゃ」
ィン――と甲高く跳ねた音は、多分コインを弾いた音だろう。それも、クィンザーが長年苦労して稼ぎ、僅かしか持ち出せなかったそれの一部。人の持ち物を我が物のように使うのも、いつもの事だ。とは言っても、腹が立つことには変わらない。腹のあたりに、黒く重たいものがのし掛かる。
顔も見ていないのに、話し相手の老人が薄ら笑ったのが、明確に想像できた。
「あとは、面白い話ねえ……そうだ、こっから南に行った方の、竜の話なんてどうだい?」
聞いた瞬間、ぴたりと――ほんの一瞬だけ――クィンザーの手が止まった。だが、すぐに動きを再開する。頭の冴えは十分だ。今でも必要そうな食料を手にとって、中身を吟味できる。ただし、耳と意識はより二人の会話へと近づけた。
ふふ、と含んだような笑い声が聞こえる。誰かと考える必要もない。
今までの口調よりも、遙かにおどけた調子でヴィクスフィオが言った。
「それはそれは、随分と酷い事になっておるのじゃろうな。なにせこの世に竜の力を止められるものなど、ありはせぬ」
その言葉は、全くの事実である。
竜。ドラゴン。あとは、連なる蛇とも。その姿は千差万別であり、一定しない。多少の共通点がある事もあるのだが、それも絶対ではなく。元からそういう姿なのか、自ら環境によって姿を変えているか。それすら判明していない。
一つ、共通認識があるとすれば。それは、竜とは最もたちの悪い自然災害だという事だ。
意思を持つ天災、世界最大の現象。意思一つであらゆる事象を具現させ、その気になれば容易く一国家すら消滅させる。実際、竜の気まぐれによって滅ぼされた国というのは、少なくない。そして、面倒な事に。その逆の例も、また数多くあった。
「ところが、そうでもねえんだ」
と、得意げに言う男――というのは、クィンザーの勝手な想像だ。彼の視線は、缶詰のラベルを注意深く見ている。
「当たりの狭い範囲で好き勝手暴れて、あとは雲隠れ。まあ狭い範囲っつっても、山脈と森が三割近く消し飛んじゃいるんだけどな」
「本当に竜が暴れたのであれば、その程度で済んで御の字じゃな」
「ちげえねえ」
くく、という二つの無責任な笑い声が、妙に腹立たしい。それでも、半ば意地のように、購入物の厳選は辞めなかった。
集中できていない、という自覚はある。
「なんでも、偶然通りがかった調査隊によるとだ、竜は暴れるだけ暴れて、どっか行っちまったらしい。何をしたかったかは不明だが、まあ、竜のやる事の意味が分かった事の方が少ねえしな。奇跡的に、人的被害は殆どなし。被害を受けた連中は憐れだと思うが、竜が関わっていると考えると、めでたしと言って間違いはあるめえよ」
気軽に、本当に気軽に言われたその言葉。クィンザーは、憤りを隠しきれなかった。
(何が「めでたし」なものか……!)
感情のままに罵ったところで、意味などない。ただ、金にがめつい老人が困惑するだけだ。それ以上の、ましてや理解など、期待できない。
元々、理解される事など望んではいないが。それでも、他者にいい加減に完結されるのは苛立たしい。なんとも身勝手な主張だ。
「それは重畳。存外竜も、ころっと死んでおるかもしれんの」
「はっはっ」
ジョークだと受け取った老人が、声を上げて笑う。
それは実際、笑い話の類いだ。竜が死んだ、などと言うのは。ある日突然、塩と砂糖が全て入れ替わった。そう言われるくらい、信憑性に欠ける。
必要なものは詰まった――余計なものも随分と入っている――袋を持ち上げる。店主である老婆は笑っていた。それも当然で、彼女からしてみれば、十分な戦果を上げたのだから。支払った金は、決して少なくない。
クィンザーが店を出ると、ヴィクスフィオも下ろしていた腰を持ち上げた。隣に座っていた老人は、もう一度硬貨が飛ばない事に、あからさまに落胆している。
「帰るのか?」
「次は水だ」
荷物の量は多く、抱えるのに苦労する。半ば破れ、中身も溢れた紙袋では尚更だ。
いくらかヴィクスフィオに持たせようと思えば、持たせる事はできるだろう。だが、クィンザーは全くそうしようと思わなかった。荷物を必要ないと思っている彼女の事だ、粗末に扱うに決まっている。そうでなくても、飽きればどこに投げ出すか分かったものではない。
殆ど前が見えない状態で、なんとか進む。
水場はそれなりにしっかりしていた。水量も、野菜が育つ環境という事で予測はできていたが、少なくはない様子だ。およそ乾いた土地とは、不釣り合いではあったが。だが、安価で飲み水が手に入るのは有り難い。
簡素に小屋が建てられ、使い古されたポンプが一つ。近くの日陰では、中年男が一人やる気なさそうに座り込んでいた。恐らくは勝手に使われないようにする監視だ。
こんな町でも、最低限の公共施設には人を配置するのか。それとも、今は旅人が来ているから特別か。水と塩はどれだけあっても、無料で明け渡すことはあり得ない。どちらが正解かは分からなかったが、少なくともクィンザーには都合が良かった。人がいれば、いざという時に、自分たちの無罪の証人となる。
空になっている大容量の水筒に手を触れながら、近寄っていく。
が、クィンザーは急に、足を止めた。全く同じタイミングで、ヴィクスフィオも歩みを止める。
半歩遅れて横から――つまり建物の隙間に隠れていたそれが、飛び出した。体当たりをしようとしていたのだろう。当てが外れた影は、遮るものの不在に浮いて、そのまま道路に転げた。乾いた地面に叩きつけられ、砂埃を巻き上げながら、ごろごろと堅い土を巻き込んで滑っていく。
それはどれほどもせずに止まった。巻き上がった煙がゆらゆらたゆたい、しかしそれを確認する義理もない。無視して進もうとして、その前にそれは、がばりと起き上がった。
「やっぱりっ……!」
なにがやっぱりなのかは分からないが、とにかくそれ――少年だった――は上げた視線をしっかりとクィンザーに向けて、輝かせた。
「簡単に避けた! すげえ人だったんだ!」
喜びの声を上げて、少年が立ち上がる。
転げた拍子にぶつけたのか、額を切って、鼻血も出ている。が、それは袖で拭われただけで、まるで頓着していない。
ずんずんと、転がった分だけ距離を詰めてくる少年。それを見ながら、クィンザーは首を傾げた。
(こいつ、昨日の……名前何だったっけ?)
小うるさいとは思っていたが、それ以上の印象もない。加えて、鬱陶しい事でヴィクスフィオの上を行く者も、まずいない。印象に残りそうで、微妙に残らない相手だった。
昨日の出来事を、一つ一つ思い出す。
憤りを抱えたまま町に到着し、気疲れに休むことも出来ずに町に出た。そして、この少年に絡まれて、それから云々。
そして、やっと名前を思い出す。スウィンスだ。だから何だという事でもないが。
「完全に不意打ちだったのに、見もしないで避けてた!」
「視界に映らないだけじゃ、不意打ちとは言わん」
人の感知能力というのは、人が思っているほど鈍くない。嗅覚、聴覚、触覚、それに経験と勘。それらを上手く使えるようになれば、それこそ獣に匹敵する感知能力を得る事だって可能だ。障害物が多い場所では、むしろ視覚よりも頼りになる。
「で、何の用だ」
非常に嫌ではあったが、とりあえず聞いてみる。ここで無視をしても、今度は町を出るまで付きまとわれそうではあった。
長居をするつもりは無い。だが、休めるはずの場所で休めないのも辛かった。それならば、いっそ話を聞いて、きっぱりと断った方がいくらか楽だ。
「なあ、本当に頼むよ! この町を救って欲しいんだ!」
言いながら、スウィンスが詰め寄ってくる。
掴みかかられる寸前で、クィンザーは少しだけ、腕を動かした。昨日投げ飛ばされた事を、もう忘れている訳でもあるまい。スウィンスは期待通りに、少し体を震わせて、直前で停止した。
少年は浮いていた手を、握りしめる事で止めた。いつしか震えは恐怖では無く、やるせなさのそれに変わっている。
「もうすぐ、この町は滅んじゃう……。それが明日か、もう少し先かは分からないけど……でも、そう遠くないんだ」
「別に、滅びはしないだろう。少なくとも、そんなにすぐには」
二十年後にはもう無いだろうけど――内心だけで、そう付け加える。
「いなくなった人は、親族を頼ったのか? それなら、これ以上人が流出する事はない。頼れる場所がないんだから。ここには水もあるし、植物が育たないほど痩せている訳でもない。死ぬほど食うに困る訳じゃないさ。ああ、町が貧しい事なら、俺に言っても意味がないぞ。それどころか、どこに言ってもそんなもん解決してくれない。どこにも、そんな事まで解決してくれる機関なんぞないからな」
「そんな事じゃない!」
クィンザーの言葉に、少年は声を張り上げた。目尻に涙を溜めて、睨むように見上げてくる。
「そんなんじゃ……ないんだ……」
勢いを失って、うなだれる。握りしめていた拳は、既に力なく垂れていた。
前髪の隙間から覗く瞳は、疲れ切っているのが目に見えた。この時ばかりは、スウィンスが背中の曲がった老人に見えた。
「はじめから、こんなに寂れた訳じゃないんだ。少なくとも、オレが覚えてる限りじゃ、昔はもっと人がいたし、活気もあったよ。それに、こんなに誰も彼もが諦めてる訳でもなかった。町を良くしようとしている人は、たくさんいた」
スウィンスは思い出しながら、同時に吐き捨てるように言った。憎々しげに睨んでいる先には何があるのか……それはクィンザーには分からないし、理解する気もない。
「みんなが諦めたのは、あれが来てからだ……」
少年の手に、再び力がこもった。今度は先ほどの比ではない。下手をしたら、爪が皮膚を食い破る、それほどの握力。
「あれのせいで、人がいなくなった。残った人も諦めて、もうどうにかしようって人もいない。オレはよく分からないけど、都市の方に連絡しても、動いてくれなかった。だから、あんたたちが来たのがチャンスだと思ったんだ。これを逃したら、もう本当に、どうにもならなくなる」
だから、頼むよ――スウィンスがか細く、囁くように懇願する。
「なあ、魔導師じゃなくても、凄いことには変わりないだろ? たった二人で、それも歩いて森と荒野を抜けてきたんだから」
「生憎と……」
再度触れようと近づく手、触れる前に叩き落とした。
「お前の言葉は要領を得ない。何をさせたいのか全く分からないし、第一俺がしてやる義理も無い。自分たちでなんとかするんだな」
「出来るならやってるさ! できないから言ってるんじゃないか!」
激昂に上がった声は、乾いた空に広く響いた。遠くでうとうととしていた、水場の男が顔を上げる。何事かとこちらを向いていたが、それを気にするつもりはクィンザーには、そしてスウィンスにもなかった。
感情がわき上がるのを自覚する。憤りと、同情だ。
どれほど努力しても……例え命を賭けても、どうしようも無いことはある。クィンザー自信、それをずっと噛み締めていた。いや、彼だけではない。世の中の誰でも、多かれ少なかれ、それを感じている。違いがあるとすれば、対象となったものが致命的か否か、それだけだ。
だから、人は祈ることを覚えた。これもやはり、逃避かそうでないかの自覚を持っているかの違いしかない。あった所で、意味はないのだが。どちらであっても、何もできないのは変わらない。
だからと言って――クィンザーは唇を噛んだ。それで、縋り付くとこが肯定される訳ではない。
求めなど、所詮はそれだけで完結している事柄だ。その先はない。例えば、願った通りに誰かが解決したとして、当人が知るのはそれまでだ。後は、与えられた幸福な――少なくともそう期待できる日々を、甘受すればいい。解決者を置き去りにして。
何もかもが、終わらないままわだかまる。後悔であれば、特に。
「なら諦めろ。それは、お前たちの問題だ」
今度唇を噛んだのは、スウィンスだ。なおも縋り付こうと手を伸ばし、今度こそ再度投げてしまおうとして――その時、それは起こった。
町に、激震が走る。地面が上下に大きく揺れて、足下が何度も浮く。
クィンザーは咄嗟に腰を低くして安定させ、構えた。両手が自然と腰のあたりを探り――空を切る。本来あるはずのもの、つまりは剣の柄がない。使い慣れたものは、村を出る前に壊してしまった。抜けない癖に舌打ちして、腰に固定されたナイフに指をかける。引き抜きはせずに、周囲を探った。
「どこを見ておるのじゃ」
言ったのは、なぜか今まで黙っていたヴィクスフィオだ。この揺れの中、普通に立つようにしている。あまりに何も語らないから、すっかりと存在を忘れていた。
指摘と共に指された指は、変な方向に向いている。地面と水平ではなく、極端に傾いて。つまりは、上だ。
「……なんだあれは」
指先を追って、そしてクィンザーは呟いた。
それなりに距離があるにも関わらず、全容を確認するには、視線を上に上げなければならない。当然、それは飛んでいる訳では無かった。単純に大きいのだ。いい加減に目算しても、数十メートルはある。
「巨虫か……? それにしてもでかいが」
人が侮っていい生物というのは、あまり存在しない。えてして野生に生きる生物というのは、人よりもどこかしら優れている。だが、あえてその中に順番を付けるならば。間違いなく上位に入り込むのが、巨虫だった。分厚く圧倒的な強度を誇る装甲に、細く見えても十分な膂力を持つ節。この上なく、はっきりした危険だ。
クィンザーにも討伐経験はある。剣は通用しにくく、下手に当てればすぐに刃こぼれする。さんざんな相手だった。しかし、それだって建物を踏み潰すほどの大きさではなかった。
元々剣で相手をするような存在ではないのだ。魔導術で内側に打撃を与えるのが、一番確実な方法。ましてや、今のクィンザーには、満足な剣すらない。
教われでもしたら、逃げるか諦めるしか無い相手だった。
虫は町に近づきもせず、その場で暴れる。やがて満足したのか、地面へと潜っていった。
姿が見えなくても、クィンザーは構えを解かなかった。いつまでも神経を尖らせて、僅かな違和感も見逃すまいとする。完全に警戒態勢を解けたのは、足の裏から感じる振動が途切れてからだった。
完全にいなくなった事を確認し、息を吐く。汗ばんでいた指から力を抜き、柄から手を放す。触れ慣れていない、植物を編んだ縄を巻き付けた粗い感触。緊急時に普段と違うというのが、どれほど頼りないか初めて知った。
手のひらを開閉する。三度目で、やっと緊張が完全に解けた。
「アイツの名前は、町の誰も知らない」
視線を上げて、スウィンスを見た。少年はこちらを見てもおらず、そして動揺した様子もない。ただ、先ほどの巨虫がいた方向を、深い憎しみを込めて睨んでいた。
ヴィクスフィオの様子は……ごく普段通りだった。危機が迫っても、ただ突っ立っているだけ。まあ、彼女の場合は、それを危機とも認識していないのだが――少女が動揺した姿を、クィンザーは見たことがない。いかなる時もそうであるのは、超然としていると言ってもいいかもしれない。
しかし、と今度は水場の近くに居る中年に、視線を飛ばした。そちらすら、腰を浮かせた痕跡もない。だらけた様子で座ったまま。
(それってまずいんじゃないのか?)
問うたが、その中身は全くの無意味だ。
巨虫は、あれほど近くにいるのに無視して安全な相手ではない。言うまでも無い事だ。動揺もなく、逃げるそぶりもない。つまり、それだけよくある光景なのだ、あれだ。
もしあれが何かの拍子に町まで来たら――それで町が容易く壊滅すると、否定できる者は居まい。しかし、逃げない。諦めているのだ。巨虫にも、町にも、自分にも、もしかしたら命さえも。今、ここの町に残っている者は。
目の置くが痛んだ。ずきりと、それは脳まで達し、簡単に不快感を作り出す。同時に、痛んだそこから何かが映った気がした。
遠くない昔に見た、何かを。
「名前は分かんないけど、分かってる事もある。例えば、あれは地面に潜むとか、周りを乾燥させて地下水脈もそのうちなくなるとか、ひと跳ねで何百メートルも飛ぶとか――こんなチンケな町の戦力じゃ、どうしようもないとかさ」
スウィンスの瞳は、絶望に浸かっていた。だが、それはまだ、底なし沼から顔だけ出せているという事だ。
最後まで沈んでいれば、もう絶望も映らない。ただ気力が失われ、空虚だけになる。
「何度も助けを求めたみたいだけど、全然とりあって貰えなかったって言ってた。もう出るもののないここじゃ、そんな価値はないって」
そこに住んでいる人間にとっては、非情な判断だろう。だが、当然の判断だと言えばそれも否定できない。
国が地方に求める税というのは、はっきり言って少ない。単純に、取り立てが困難だからだ。最低限の税収で最低限の仕事をする。そして、最低限の中に、そういったものの被害は含まれていなかった。
納税額が大きいか、または魅力的だったり代えがたい特産があるか。軍を動かして貰うには、それに足る何かが必要だ。
なければ、自分でなんとかする。
できなければ、滅ぶ。
至極単純な構造。
それでも諦めきれないから、見ず知らずの人間に縋る。溺れる者が、藁にすら縋るように。それも、単純だ。
「他に、もう頼れるものなんてないんだ……お願いします……」
嗚咽の中に混ざった言葉を聞き取るのは、酷く難しい。その筈なのに、妙に鮮明に、それは聞こえた。
頭が痛い。瞳の奥だけだったそれは、既に脳全体に染みている。収まる様子はまるでない。むしろ、もっと酷くなる気配すらあった。
「あれさえいなくなれば、それだけでいいんだ! それだけで何もかもが良くなるなんて、都合がいいことは思っちゃいない。でも、あれがいるだけで何も始まらないんだ。あれがいなくなるだけで、何かを始める事ができるんだ!」
言葉は、もう何に対して訴えているのか分からなかった。
不愉快だ。しかし、無視しきる事もできない。
情など、所詮は一時の感情だ。無視して去ってしまえば、遠からず忘れられる。そうすればいい、簡単なものだ。この町は育った故郷という訳でもない。義理などない。何が正しいかと言われれば、それは何も気にしない事。あとは、この先地図でも見た時に、町が消滅したのを確認して憐れめばいい。地図を置いて新聞でも手に取り、忘れてしまうのが普通であり、完璧だ。
誰も否定などすまい。そもそも、ただの旅人があんな巨大生物に挑む事こそが間違いなのだから。
問題は――
考えるべきではない。クィンザーは頭を振った。頭痛はさらに酷くなった。
もう話を聞く気は無い。スウィンスにそう言うように、もしくは自分に言い聞かせるように、歩き出した。
ヴィクスフィオは、相変わらず何も考えていない様子で着いてくる。それだけだ。
巨虫の作る乾いた空気を運ぶ風と、あとは何もない。酷くかんに障る声も、聞こえない。少年は、もう追いすがろうとしなかった。