01
一つの伝承があった。
それは実際の所、他愛の無い昔話なのだろう。
鬼殺しの雪原の王。千里を駆けた飛天の靴。地を割り世界を終わらせる魔物。
程度としては、そんなものと同レベルだ。
曰く――
●○●○●○●○
湿気った程度の悪い、紫煙をくゆらせる葉巻。それと、一月前に発行されて、一週間前に届いた新聞。
そんなものを揃えたところで、何がどう楽しい訳では無い。葉のカスを集めた上に、保存もいい加減なクソまずい葉巻。一口吸い込んで口の中に広がるのは、風味ではなくカビ臭さと苦みだ。一週間毎日目を通している新聞紙も、暇に任せてもう隅から隅まで目を通した。とっくに飽き飽きしているが、新しい新聞が届くまでまだ一週間はある。情報誌としては価値のないそれ。
こんなカスみたいなものばかりでも、辺境では娯楽と割り切るしかない。できなければ、多分退屈あたりで死ぬのだろう。
少なくとも、ここ十年。店主はそれらを楽しみと自分を騙して、何とか生き続けている。
店内は寂れていた。外装はくたびれすぎて半廃墟であり、それは内装にも同じ事が言える。壁、床、椅子にテーブル。どれも手を突いてきしまないものなどない。昔はいっぱいに並んでいた酒棚だって、今は二割も埋まっていない。そして、その二割も無事に保存されている補償は無い。
それらを見て、店主がいつも思う事がある。まるで、この町のようだ、と。
およそ十年前、その町はまだ、炭鉱街と呼ばれていた。売るものがある街は強い。単純に、経済的に。その力の権能は、売るものがあり続ける限り存在する。
今の町がそうでなくなったのは、当然売るものがなくなったからだ。炭鉱が枯渇した、非常にわかりやすい力の喪失。あとは、街が廃れていくのなど、止めようがない。力以外の何かで街を維持する努力などしてこなかったのだから、当然だ。
街が滅ぶのは、本当に一瞬だった。当たり前にあったものが、あっさりと消えていく。店内で、毎日酒を浴びるように飲んでいた労働者も。唯一、血の気の多い人間が集まったことで悪くなった治安、それが人がいなくなった事で改善したのだけが、皮肉だった。
店主は、己の城を横目でちらりと見た。店内には、間抜けな老人すら一人もいない。
これは縮図だ。この風景が、つまり店主の現状であり、町全体の風景であり、同時に町の運命でもある。救いなどはない、人知れず滅びるのだ――
と、いきなり(そうでない事などはないのだが)扉が開かれる。入ってきたのは、旅装の二人組だった。
店主は目を見開いた。そもそも、人が訪ねて来るのすら珍しい。来たとしても町の人間か新聞屋だ。それが旅装――つまり町の外から来た客だ――となれば、もう年単位で記憶になかった。
「くそっ」
客の片割れ、背の高い方が悪態をつく。コートについたフードを取り払って、顔を覗かせた。そして、顔についた砂を払っている。その行為といい(普通はいちいち砂など払わない。無意味だからだ)、留め具が不安定で隙間が空いているのといい、明らかに旅慣れていない。
砂を払おうとして、やがて逆にすりつけているだけと気がついたのだろう。やはり忌忌しげに舌打ちして、やめた。
手を下げた事ではっきり見えた顔、それを見て、もう一度店主は驚く。
紅の髪に、褐色の肌、あとはエメラルドをはめ込んだような、翡翠の瞳。だが、真に注目したのはそれらではない。慎重から予測した顔立ちより、遙かに幼い顔立ちだったのだ。目尻を精一杯拗ねさせているが、それで誤魔化すにも限界がある。
身長から十七歳くらいだと目算を付けていたが、もう二つほど下だろう。つまりは、子供だ。
もう一人も、フードを取り払った。こちらは少年よりも旅慣れている様子ではあった。なんとなくだが、表情が妙に堂に入っているようにも。
紅髪褐色翡翠の瞳と、少年と特徴が合致した少女。コートの中に隠れた髪が特徴的だ。頭一つ小さく、年下にも見えていたのだが。案外それほど年は離れていないのかもしれない。
同郷ではあるのだろうが、兄弟には見えない。ではどんな関係に見えるかと言われれば、
「うむ、やっと着いたのう」
「っ!」
少女が言葉を発すると、明らかに友好的ではない目で睨み付ける少年。どう見ても、駆け落ちをするような仲には見えない。
「急いで出てきたのじゃ、満足な準備もできなんだしの」
「お前のっ――!」
肩を怒らせて絶叫しようとした少年が、すんでの所で自制する。
ただの八つ当たりだと思ったからか、それとも無意味だと思ったのか。もしかしたら、誰もいない店内に配慮したのかも知れない、思って店主は笑った。誰もいないのに、誰に配慮するというのか。
まあ、どんな関係でもいい。
少なくとも店主には、関係のない事だ。彼にとって重要なのは、二人組が久しぶりに来た飯の種という点のみ。
不機嫌面なままの少年がカウンターにより、銅貨を投げて飛ばす。それは、空のグラスにぴたりと命中し、甲高い音を何度か立てた。
「一部屋頼む」
言われて、やっと店主は動き出した。のそりと鈍い動きで、ぼろぼろの新聞は持ったまま。
その遅さに、少年は眉をしかめた。耐えられても、許容はできないものだったのかもしれない。もっとも、少女に向けたそれのように、危険さを孕んだものではなかった。単純に、気に入らないと言うだけ。
店主は鍵(形だけのものだ。とっくに鍵の周りは壊れており、役割を果たしていない)の一つをとって、少年に投げた。こちらのコントロールは酷いもので、明後日の方向に飛んだのを、少年が手を伸ばしてキャッチする。それを確認して、わざと余計な一言を上乗せした。
「シーツを汚すんじゃねえぞ。男のモンでも女のモンでも、ついたのなんざ洗いたくねえ」
「ほ、なんじゃお主、ついに余に手を出す気になったのか? よいぞよいぞ、存分に余をかわいがって下され」
悪のり――という訳でもないだろう。口調の悪戯っぽさに反して、少女からは本気さが滲んでいる。
だが、少年の変化は劇的だった。顔が一瞬にして真っ赤に染まる。羞恥にではない、怒りに。ただの一言で、自制心は限界点を超えた。
「二部屋だ!」
今度こそ絶叫し、拳をカウンターに叩きつける。思いの外威力があり、風化しかかったそれが大きな悲鳴を上げた。
店主はもう一つの鍵を取って、もう一度投げて渡した。グラスには、倍の銅貨が転がる。
一度店主を睨み付けて、ついでに舌打ちを残す少年。大股で歩き出して、階段を上っていった。少女はその後を、急いで追っていく。
ぼろぼろの建物では、上階の生活音を止める事は出来ない。最低でも今日一日は、雑音に悩まされるだろう。だが、店主の興味はもう金の入ったグラスに移っている。
「へへ……馬鹿なガキを煽って倍額、悪かねえ戦果だな」
にやけるのを止められず、銅貨を手のひらに落とす。
それらの勘定をしながら、二人組のことを思い出した。二人とも、悪くない顔だ。特に少女の方は、体つきは貧相そうだが、仕草が中々そそる。女日照りの身としては、是非ともお相手願いたい相手だ。
もしかしたら、二人をとっ捕まえて売り払うのも悪くない。金に換えるまでは、好きに扱えばいい――考えて、すぐに野心を捨てた。非常に下らない。
少女がかわいそうだとか、人並みの道徳観が働いたわけではなかった。単純に面倒くさいと思ったのが一つ。そして、これが最大の問題なのだが――仮に首尾良く拘束できたとして、売る相手が居なかった。人買いなど、こんな所まで来やしない。
廃れるとは、町が滅びると言うことはそういう事だ。悪党すら見限る。何も残らない。ただの、残骸。
儚い野望だ。ため息を吐いて、定位置に戻った。自分だけではなく、新聞も葉巻も。
結局、こんなもんだ。
店主はあっさりと諦めて、また新聞に集中した。
「ああ、くそっ」
その部屋に入って少年――クィンザー・クレイズマンは、盛大に気を吐いた。
二階に部屋は五室あったが、間違える事はなかった。と言っても、全ての部屋の蝶番の気の部分が腐り落ちている。どこを選んでも変わらないという意味で、やはり正否に変わりがない。
脱いだコートを盛大に払う。付着した砂が盛大に飛び散ったが、それを気にするほど上等な部屋ではなかった。ついでに言えば、勝手に部屋に入ってきた同行者の少女に対して、気を遣うつもりも無い。
舞う砂粒が疎ましく感じたが、それも今更だ。
砂を払ったコートを掛けようとして、ためらう。壁についていたのは、ハンガーなどという上等なものはない。上向きにへし曲げられた、打ち損じた釘、それだけだ。
もう一度息を吐き――今度はため息だ――慣れない事ばかりがあるのを呪う。それが意味の無い行為だと知っていても、現実がそこにあるならせずにはいられない。何も無い荒野を歩き続けるのがこれほど辛いと知らなかった。
コートを掛けるのを諦めて、備え付けられた一本足のテーブルに投げた。たったそれだけで軋み倒れそうになるテーブル。他の何かに置こうかとも考えたが、室内には他にベッドしかない。
取り繕いようも無く粗末な部屋だった。それでも、屋根とベッドがあるだけで、安心感が違う。
「お主も酔狂よな。わざわざこのような腐れた所に泊らずとも、いくらでもなんとかできるであろうに」
つまらなそうに言った少女は、クィンザーと同じようにコートを投げて、ベッドに陣取った。当然、許可を出した覚えはない。勝手についてきて、勝手にそうしている。この少女は、いつもそうだった。
身勝手な振る舞いに内心腹を立たせながらも、少女を無視する。視線も可能な限り向けないようにして。半ば以上は意地だった。
しかし、無視されている少女は気にした様子などまるでなく。むしろそれすら楽しむように、指を伸ばした。
「それとも、余に気を遣ってくれたのかのう?」
戯れるような物言いと、体に触れるように伸びた手。ついにそれらに我慢できなくなり、接触する寸前に体を逃がした。
視界に入った少女は、ある種の超然とした微笑を浮かべている。だが、それに意味が無いことは知っていった。あって、やっと視線を向けたか、その程度だろう。だからこそ、より苛立たしいのだが。
少女の顔立ちは、一言で言って美しい。そして、それ以外の言葉を見つけられなかった。とにかく美しい造形を寄せ集め、それが奇跡的なバランスで上手く組み上がった。そんな容貌。
体つきも似たようなものだ。非常にほっそりとした体つきは、完璧な均整が取れている。好みの差を廃してしまえば、文句の付けようが無い。
まごう事なき美少女としてそこにいる。
(だから何だってんだ)
クィンザーは憎々しげに顔を歪めて、吐き捨てた。
顔が良ければ、美しければ何かが変わるのだろうか。あるいは、何かが許されるのか。
そんな訳が無い。何度も断じている。
もし、この少女が何者かを知らなければ。あるいは、何も考えないバカであれば。彼女の存在を素直に喜び、それを楽しめたかも知れない。だが、クィンザーは知っていた。同時に、それを知らずに少女を受け入れていたらと思うと、思わず自殺したくなる――
自分は冷静だ。言い聞かせて、なるべく声を荒らげないように発した。
「いいかヴィクスフィオ、ここは俺の部屋でお前の部屋じゃない。わかったらとっとと出て行け」
「余の事はフィオで良いぞ。何度も言っているが」
「ヴィクスフィオ、いいから早く出ろ」
わざとヴィクスフィオの言葉を無視して重ねる。しかし、彼女は気にした様子がない。これも、いつもの事だ。自分のやりたい事ばかりを、当然のように行う。思い通りにいかない事など、大抵は気にもとめない。
いや、クィンザーに対してに限れば――
それを楽しんでさえいる。
にやり、悪戯っぽく笑うヴィクスフィオ。
「ならば、お主が余を叩き出せば良いであろう。ほれ、お主の力に比べれば、余のそれなどあって無いようなものじゃ。無理矢理ねじ伏せて、思い通りにすればいい」
両手を広げて無抵抗を主張し、しかし顔は笑ったまま。それを見て、クィンザーは盛大に顔を歪めた。
ヴィクスフィオは、彼がそうできないのを分かっている。中身がどうであれ、見た目は所詮少女なのだ。それをねじ伏せるのは、大きな忌避感がある。厄介なのが、彼女もそれを承知だという点だ。
(いや、知らなくてもこいつは変わらない)
頭を振って、訂正する。
結局の所、この少女は何でもいいのだ。クィンザーから与えられる何に対しても、喜びを示す。もしかしたら、それが殺害であったとしても。普通はあり得ないという発想すら、彼女には通じなかった。そういう嫌な信頼感がある事だけは、嫌と言うほど知っている。
まともに相手をするのは無駄である、その確認をしただけだった。旅の分も合わさり、どっと疲れが溢れたのを自覚する。
だが――と室内を見回す。広さだけはそれなりにある部屋でも、見渡すのに苦労はない。見ようとせずとも、全てが簡単に見渡せた。当然、ヴィクスフィオの顔も、見ないように努力しなければいけない。
休むには、どうやっても動かないであろう彼女を退けなければならない。いや、それ以前に、ヴィクスフィオの顔を見ながら休むのなんてごめんだ。
疲れは深い。が、限界というほどでもない。そして――忌忌しいことに――疲れは精神的なものに由来している。体力で言えば、完全な状態だ。
「どこかに行くのか?」
足を進めるクィンザーに、背後から声がかかった。だが、それはきっぱりと無視する。背後から追いかける足音がするものの、可能な限り無視する。その自制心が長く続かない事は、自覚していたが。
閉じている意義の無いドアに触れて、ふと気がついた。
(安っぽいぼろぼろの寝床でも、いいところの一つくらいあるもんだな)
ここには鏡が置いていない。鏡が無ければ、自分の姿を見なくて済む。少なくとも、忘れたふりをして、見ないつもりには。