序
何事も、二番煎じとなる場合がよく在る。
行動、思想、表現…挙げれば切りがなかろうが。
さりとて、上辺をなぞらなければ気狂い同然に扱われる。また、自分としても気を衒った行動は態とらしく思うのである。
「おかしなひとね」、などと言われて嬉しく思う事などない。
誰かの云う個性など在ってないようなものだ。
外観や性格は記号であって、それ以上ではない。
そもそも他人からどう思われているのかに関心があまりなく、無感情に大げさに肯定するか否定するかのどちらかである。
表情から感情を読み取ることも容易い、
彼が望む言葉を口にすることも容易い、
だけれど、全てが気怠く意味をなさぬように感じられるのである。
面倒に思うのが他者との関わりだけならば未だ善かったのかもしれない。
生きることは惰性で、死ぬことも面倒なのである。
世間のいう、主体性等とやらは自分に在ったものではない。
大体皆、生まれてから死ぬ迄、同じ様な経緯を辿っているでしょう。
生まれて、学校へ行って、働いて…
そうでなかったとしても、大半が誰かの軌跡を辿る。
好くも悪くもなければ、愉快でも苦痛でもない。
だからこそ、見知らぬ誰かに、どのように行動すべきかというのを規定されている錯覚に陥るのである。