第六話・蜘蛛 前編
不快害虫の代表が登場しますので、
「G」がとても苦手な方は読み飛ばしてください。
部屋の中で、少年は横たわっていた。当たり前である。重傷を負ったのだ。右腕も二の腕から先がない。加えて外骨格はあちこち割れて、体液が漏れていた。包帯を巻き込んで、ベッドに横になっている状態だ。しばらく動きたくもない。
これでしばらく療養に専念できる、と言いたいところだが、そうもいかなかった。何故か、スカーレットが少年の部屋にあがりこんで、図々しくも居ついているからだ。彼女は大した怪我もしていないので、女学生の偽装をしたまま、少年が買い置きしてあるジュースをごくごく飲んだり、テレビを眺めたりしている。一体、何をやっているのか。
文句を言って追い出したいところなのだが、こいつには最早何を言っても無駄だろうという諦念が、すでに少年のうちにはあった。それに、追い出せたとしても相当の労力が要るだろう。そのようなことをするよりは好きにさせておいて、ごろごろしているほうがよいと思えるのだ。
そういうわけで部屋の主から文句を言われないので、スカーレットは冷房の効いた部屋のなかで思う存分ごろごろすることができた。その正体は『ハナビラカマキリ』を思わせるような姿なのだが、今は偽装されてポニーテールの女学生姿になっている。いかに偽装とはいえ、女の子が部屋の中にいると華やかさが違う。これでもう少し、寝ているこちらに気を遣ってくれれば言うことないのだが。
「で、ギゼンガー。その右手は治りそうなの?」
たまにこうやって話しかけてくるが、受け答えするのも億劫なこちらの身にもなってもらいたい。しかし黙っているとうるさく返答を催促される上に、ベッドにいる自分を揺さぶってきたりするからたまらない。
「わからない。前に左手がサナギみたいになったときは、切断されてはいなかったから。もしかすると再生はされないのかもな」
「ふーん、それって不便じゃない? あなた右利きだったんじゃないの」
「右利きだよ。再生されるのならいいけど」
途端、彼女は黙ってしまった。首だけで振り返って彼女の顔を見てみると、どことなく沈んだ表情になっている。
なぜ彼女が沈むのかよくわからないが、ギゼンガーは静かになってくれたのでまぁいいかと思いなおし、再び頭を枕に沈める。
だが、それから五分もしないうちにスカーレットはまた話しかけてきた。
「ね、ギゼンガー。その傷口、ちょっと見せてくれない? 本当にもう再生の見込みはないの?」
「わからないって言ってるだろ、見たければ勝手に見てくれ」
傷ついた右肩を上にして、横向きになっている少年は口だけでそう答えた。もうスカーレットに目をむけるのも面倒くさいのだ。
「じゃ、そうするけど」
ひょい、とスカーレットはベッドの上に飛び乗る。彼女は遠慮もなく少年の右腕に巻かれた包帯をするする剥ぎ取って、傷口をあらわにした。そこは、未だに体液が出ており、傷口が塞がれようとしていない。
「これ、もしかして」
「触るなっ、人の傷口に」
少年は抗議したがスカーレットは遠慮なく傷口に触れる。ひどく当然の話ではあるが、痛くないわけがなかった。
「ばかっ、何してる!」
我慢できなくなって、少年はスカーレットを振り落とした。振り払われた彼女はベッドから転げ落ち、床に頭を打ちつける。が、これは当然の報いである。
「女の子を振り払うなんて、ひどい」
「怪我人に気を遣えないような奴は女の子とは言わん」
「あ、そう」
しかしさすがは改造人間といおうか、スカーレットも床に頭を打ちつけたくらいのことをいつまでも根に持たない。あっさりしたものだった。
「それより、その腕、なんだか……頑張ってる感じじゃない。もしかしたら、右腕も丸ごと再生しちゃうかもよ」
体液を噴いている、というよりも治療のための液体を出しているという感じだった。ひょっとすると、少年の右腕は再生されようとしているのかもしれない。
「だといいがな。それより、お前いつまでここに居座るつもりなんだ。用事があるならさっさとすましてくれ」
もう傷口に悪戯されるのはごめんだと思った少年は、スカーレットにそう質問した。早く帰って欲しいのである。
「ひどい言い草だね。その大怪我は私にも少しばかり責任があるかと思うから、こうしてここにいて貴方を護ってあげているのに」
「それはありがたいが」
少年は眉を寄せた。そういう理由でスカーレットがここにいるのならば、追い出す理由はなくなる。確かに少年も右腕を失った上に上半身のほとんどに包帯を巻いた今の状態で誰かと戦えるかと訊かれれば、首を振るからだ。
しかし、だからといってスカーレットに寄り付かれて、傷口を触られるのはかなわない。
「それならもう少し、大人しくしていてもらいたい。俺が怪我人だということを忘れているのでなければ」
「忘れてないよ」
ベッドの上からかけられた少年の言葉に、スカーレットは塩煎餅の袋を開けながらこたえた。横目気味に少年を見上げつつ、煎餅を口に入れる。ぽりぽりといい音がした。
「ただ、退屈だろうから話でもしたほうがいいかと思ってさ」
「そういう気遣いはいらないから、静かにしててくれ」
「そしたら私が暇じゃない」
「本でも読んでいればいいだろ」
「退屈な本しかないんだもん。漫画ないの? えっちいのでもいいからさ」
少年は返答することも億劫になって、とうとう寝たふりをすることに決めた。そのあともスカーレットは何か少年に尋ねていたが、返答しない彼を見て諦めたようだ。
ところがここで少年は、寝たふりをするうちに、本当に寝入ってしまった。
不意に落ちた眠りの割には、かなり眠りは深かったようで、その眠りから彼が意識を取り戻したのは、すでに空も黒一色となった頃だった。それも、自分ひとりで目覚めたのではなく、スカーレットに起こされたのである。
「起きて、ギゼンガー。来客よ。とても楽しいお客様」
「何、何だって?」
目を開き、痛む身体を起こす。
「とうとう、この家をも探し当てた輩がいるって言うのか? おちおち寝てもいられないのか」
「探し当てるって、あなた。『私』がこの家を知っているのに、他の方々が知らないってこと、あると思ってたわけ?」
「それもそうか。それで、誰が来てるんだ?」
訊ねてみると、スカーレットは背後を指差した。よく見るとそこにはさえないぼさぼさ頭の高校生が立っている。
「こういう輩を追い払っておいてくれるんじゃ、なかったのか」
「強そうだもん。私だって死にたくない」
平然とスカーレットはそう答えた。少年は重傷なのに、何を考えているのか。
とにかく、こうなっては仕方がない。
「で、あなたはこの俺に何か御用ですか」
少年は目の前に立っている高校生に訊ねた。彼はポケットに両手を突っ込み、だらだらと立って、少年を見下ろしている。
「君をやっつけに来たよ。この身体になってからできた友達が何人か、君にやられたので」
「わかった、外に出よう。あなたは一人でここに?」
「一人で十分、君は『蛾』なんだから」
高校生はかなり自信があるようだった。今の段階では彼の本性がどのような姿なのかわからないが、それなりに強力なのだろう。
「侮ってくれると助かる。俺はこんな状態だし」
敵は部屋の中で襲い掛かってこないほどには紳士であるらしい。あとで掃除をしなくていいので楽だ。
とりあえず、狭い部屋の中では二人とも戦いにくいということで、外に出ることにした。時刻は既に午前二時半。部屋を出て、すっかり人の通りもない公園に入った。滑り台とジャングルジム、鉄棒がある。
スカーレットは一応少年の傍に控えた。不利なようならば加勢するつもりであるらしい。
高校生は少年と距離をとって、構えた。スカーレットのことは全く問題ないようである。
「それじゃ、始めよう」
「ああ」
少年の前に立つ彼は、偽装を解く。
それまでの高校生の姿がバターのように溶け落ちて、その中から出てきた姿は、黒い。闇に溶けこむような黒い姿だ。その体表の一部は、街灯の頼りない明かりを反射して輝く。
「ごっ……」
スカーレットが真っ青になった。敵の姿を見たからである。
大した外骨格を持っているわけでも、強力な力を持っているわけでもないのに、恐怖を与える姿なのだ。楕円形のシルエットに、長い触角を後ろへと伸ばし、つやつやとしたその体表は、つまり、誰がどう見ても受ける印象は同じ。
「ゴキブリだっ」
ごく、と少年は偽装を解くことも忘れて息を飲んだ。敵の戦力を分析するよりも何よりも、極めて気持ち悪い。
「この姿、誰が見てもそう言うが……、それが逆に好都合でもある。逃げるなら逃げろ」
『ゴキブリ』、と名前を呼ぶのも気味が悪いので『G』とだけ呼ぶことにしよう、と少年は思った。彼もこの虫は苦手なのだ。
さて、どうやって挑んだものかと思案していると、背後から何か物音が聞こえた。振り返ってみると、スカーレットが倒れている。気が強いとはいえさすがに女性、これだけでかい『G』を見て、目を回してしまったらしい。元々戦力としては数えていなかったから構わないといえば構わないが。
「余所見をしている暇があるのか?」
『G』が右腕を薙ぎ払った。大した攻撃ではない。少年も素早く偽装を解き、その攻撃に対処する。
金色の髪と、額に鉢金、二本の触覚、それに背中に折りたたまれた羽が出現。少年は『ギゼンガー』となって、『G』の腕を止めた。
彼の腕を跳ね除け、こちらからも攻撃を繰り出す。ギゼンガーの放った左拳は、やすやすと彼の右の頬をとらえた。
しかし。
ギゼンガーの拳は、『G』の頬の上を滑った。まるで油に塗れているような敵の肌に、衝撃をほとんど与えられず滑らされてしまったのだ。
「効かないな」
『G』は誇らしげにそう言うのだが、そんなセリフよりもその手触りに、ギゼンガーはぞくりと背中が凍った。なんておぞましい感覚。これは、嫌悪感。生理的に嫌だと思う。
もう理屈ではなかった。つまり、ギゼンガーはこう思う、思わざるを得ない。
こいつとは絶対に戦いたくない。
そういうわけで、次にとる行動はひとつだけだった。彼は即座に反転し、倒れているスカーレットを片腕で抱え上げ、そのまま小脇に抱えると全力で走った。
戦いたくないのであれば、逃げるしかないのだ。
だが『G』の動きは速かった。彼が少しばかり本気を出して走るだけで、彼はギゼンガーたちの前にまわることが出来た。逃げ足の速いことで有名な『G』であるが、攻めに回ったときの彼の恐ろしさはいまさら語る手間をとらないだろう。
「逃げるな、戦うんだ」
ギゼンガーは何を言われても、こいつと戦いたくなかった。やるのなら、飛び道具で戦いたい。しかし、そのような便利なものはここにはない。おまけにスカーレットを抱えた状態である。
卑怯とは思ったが、ギゼンガーは足元の砂を蹴り上げた。相手の目を狙っている。だが、『G』は素早く動き回り、その砂をも回避してしまう。その気持ち悪いほどのスピードが、さらにギゼンガーの闘志を萎えさせる。まったく一挙一動が全ておぞましい。こんな敵を相手にしたくない。
黒い手足をもぞもぞと動かし、吐き気がするほどの速度でギゼンガーを翻弄する『G』。
背筋がぞくぞくとする。なんで俺はこんなやつと戦っているんだ、と自問自答してしまうギゼンガーである。
彼は逃げ回り、その度に回り込まれてしまう。相手に疲れた様子など微塵もない。
「逃げても無駄だぞ」
ついにギゼンガーの逃走経路を完全に読まれた。『G』はギゼンガーの次の行動を予想し、彼の動きにあわせて強烈なパンチを繰り出す。
ギゼンガーは回り込まれたことを認めて、次の瞬間には背後に向かって駆け出したはずである。ところが振り返った瞬間、目の前に鉄拳が出現し、顔にめり込んでいた。
スカーレットを抱えたまま、彼は吹っ飛ぶ。吹っ飛んだ彼が地面に落ちないうちに、その背中を『G』が蹴り上げた。俊足である。
二度も蹴りを食らい、ギゼンガーはそれでもスカーレットの体が地面に落ちないように気を払って地面に落ちた。地面との摩擦で外骨格の亀裂がまた痛む。しかし、休む間もなく『G』は追撃にかかっている。
『G』の体が自分の体の上に落ちてこようとしているのが目に入る。
これは避けなくては!
ギゼンガーは自分の腹部を狙って落ちてくる『G』に向けて足を振り上げた。膝から落ちてくる彼を、足の裏で受け止めるつもりだった。だが、ここでも『G』の体表にある油がぬめり、ギゼンガーの足をぬるりと抜ける。結果、強烈な相手の攻撃を、まともに食らうことになってしまった。
今度ばかりは、さすがのギゼンガーも絶望的な気持ちになった。腹部に命中した『G』の足は、深く突き刺さっていた。視界が激しく歪み、胃の腑から空気と共に苦いものがこみ上げる。それでもなんとかもう一度繰り出した蹴りで『G』を跳ね除け、ふらふらになりながら起き上がった。
「そうだ、戦うんだギゼンガー。絶望に苦しみながら、最後までな」
『G』は余裕たっぷりにそう言い放ち、再びギゼンガーに襲い掛かろうとする。だが、その瞬間に声がかかった。スカーレットでも、ギゼンガーでもない、全く新しい人物の声だった。
「そこの黒いの……、なかなか強そうじゃない」
「誰だ?」
乱入者に対し、『G』は目を向けた。暗がりの中に現れたのは、ギゼンガーよりも少し大きな体の持ち主だった。黒っぽい体表でその姿はよくわからないが、髪がそこそこに長いのと、声色で女性ではないかと思われた。




