第三話・スカーレット 後編
かまえをとったギゼンガーを見るや、『カマキリ』はカマのついた両腕を振り上げ、その体勢で止まった。途端、ギゼンガーも相手が何をしようとしているのかを察し、その動きをぴたりと止める。
『カマキリ』は、肉食だ。カマを振り上げて動きを止め、射程内に入った敵に対して一気に振り下ろす。その一撃で勝負を決めるのが、カマキリの狩りなのである。
ゆらゆらと風に揺れる若枝を演出しながら、獲物がふらふらとやってくるのを待ち受けているというわけだ。
そして、そのカマの射程内に敵が来れば機を逃さず、一挙に仕留める。その振り下ろす時間は僅かに0.1秒。たとえホウジャクであろうとも、カマキリに狙われては終わり。食われるだけである。
『カマキリ』も、狩りの構えだ。迂闊に奴の射程範囲に飛び込めば、間違いなくそのカマに捕らえられ、動けぬうちに大アゴで咽喉を食われ、それでおしまいだ。しかし、『カマキリ』のカマは長い。前傾姿勢になって、一気に振り下ろすその間合いはかなり広いとみていいだろう。対するこのギゼンガーは、人間とほとんど変わらないだけのリーチしか持たない。ということは、圧倒的に不利である。しかし、その差を克服しなければ、『カマキリ』には勝てない。
「お前、蛾だなぁ。この俺はカマキリだが、どっちが強いかくらい、わからないのか?」
「一応、食物連鎖は知ってるつもりだ」
ギゼンガーは構えを解かずに、じっと息を殺しつつもそう返答した。しかし、それぞれの肉体改造後の体のイメージが、そのまま当てはまってしまうのでは困る。
それに、ギゼンガーはすでに『スズメバチ』をやぶっている。『カマキリ』が相手でも退くことはない。
とは言うものの、このまま黙っていてはまずい。相手はいくらでも待ち伏せできる。しかし、自分はそうはいかない。じっとしているだけでも徐々に疲労する。
先に仕掛けなければ、勝てない。
血だまりの中に立つギゼンガーは、敵との距離を測った。自分が飛び込んでも、とどかない距離だ。一足飛びにして、手刀で袈裟懸けにしようとしても無理。踏み込んでストレートを放っても空振りだ。走りこんで奴の股を抜くようにスライディングを放てば、それは届くだろう。だが、いずれにしても多分、奴の振り下ろしのほうが速い。
要するに、先手を取るのは無理である。
だったら、避けるしかない。ギゼンガーは『カマキリ』の振り下ろしを回避する方法を模索する。
しかし、考えれば考えるほど、勝つ手立てがなくなっていく。どうやっても、奴の攻撃をかわして懐に飛び込む方法が思いつかない。まさに鉄壁だ。
攻められない城が目の前に存在している。ギゼンガーは、途端に思考を切り替えた。彼は、諦めの早いほうだったのだ。
つまり、攻め込むことができない城に、無理に攻め込む必要性はなかった。
ギゼンガーは大きく身体を落とし、次の瞬間にバックステップを踏んだ。かなり大きく跳び、空中で羽を開き、さらに距離を伸ばす。
「おおっ?」
『カマキリ』は振り上げたカマを一度下ろし、慌ててギゼンガーを追った。彼も気付いたのである。今や、ギゼンガーは逃走しようとしていることに。
あんな無敵の構えに正面から突っ込むようなことはできない。奴を倒すには奇襲。これしかない。
そう考えるギゼンガー。ヒーローとしては卑怯な気もしなくもなかったが、ギゼンガーは正義のヒーローではない。相手を倒せるならば、手段はどうでもよかった。
闇の中を、ギゼンガーは走った。川原は地面がガタガタで走りづらいが、とにかく走った。一度完全に、『カマキリ』の視界から外へ出なくてはならない。そう思ってとにかく走ったが、ちらりと背後を振り返ると街灯の明かりに照らされて、『カマキリ』が羽を開いて空を飛び、自分を追う姿がはっきりと見えてしまった。予想外に過ぎる。
こいつはまずい、とばかりにギゼンガーは逃走経路を変える。川の中へ、飛び込んだ。瞬間、今まで立っていた場所にカマが振り下ろされる。
カマキリに水。
大体のカマキリはハリガネムシに寄生されているので、水辺に来ると腹部を破ってハリガネムシが脱出し、衰弱してしまう。
が、それは本物のカマキリの場合、である。『カマキリ』はハリガネムシに寄生されているわけもない。何しろ彼の食事は人間の女性だったのだから。
そういうわけで、川へ逃げたギゼンガーも『カマキリ』は悠々と追いかけてきた。水上からギゼンガーを狙ってカマを振り下ろす。大慌てでギゼンガーはそれらをかわし、再び逃走をはじめた。川を越えて、向こう側へ。ギゼンガーはずぶ濡れだ。
まずなんにしても逃げなくては!
逃走、まずは逃走だ。体勢を立て直さなくては。
が、そこへ。何かが降りてきた。
ギゼンガーの目の前に、ふわっ、と降りてきたその姿は。まるでところどころに朱を入れた美しいウェディングドレスのような色合いの、『カマキリ』だった。
「ギゼンガー、何を手こずっているの」
「お前は」
追ってきた『カマキリ』も、新たな『白いカマキリ』が出現していることに気付き、足を止めた。
「あの『スズメバチ』に勝った男が、どうして『カマキリ』に負けるの」
「お前、昼間の女だな」
『白いカマキリ』はバッ、と羽を大きく開いて、片方のするどいカマでギゼンガーを差した。その姿は、極めて美しい。ギゼンガーは、『ハナビラカマキリ』だと思った。白い花の上で花びらに擬態し、獲物を待ち伏せるカマキリだ。この夜の中に、その白い姿はよく目立った。
「そう、……そのとおり」
面倒なことになった。敵が二人に増えてしまったではないか。
ただでさえ手こずっている『カマキリ』が、二倍。
「おい、女、お前は女かぁ。カマキリの女」
『カマキリ』は『ハナビラカマキリ』を呼んだ。
「あぁら、失礼。こんな姿になってもまだ性別を気にするようじゃ、『カマキリ』も救われない奴」
「そいつを食うつもりなのか」
『カマキリ』は濡れたままで立っているギゼンガーをカマで差した。ギゼンガーは二体のカマキリから差されている。
「そのつもりはないけど、どうかしたかね」
「いやぁ、俺は男なんて食いたくないんで、お嬢さんがお好みなら譲ろうと思ったまでのことで、ははは」
「そりゃあまあお気遣いどうも、と言っておきましょうか」
そう言いながらも『ハナビラカマキリ』はもう片方のカマで額の辺りを隠し、『カマキリ』に見えないようにしてギゼンガーにウィンクをする。白い彼女の表皮の端から、赤い舌がのぞいていた。
ギゼンガーは、それに気付きはしたが彼女の意図が読めなかった。が、不思議なことに『ハナビラカマキリ』からは敵意が発散されていないようであった。
「それはいいけど、逃げられそうになってたではないですか。『カマキリ』さん、お手伝いしたほうがよろしいのですか?」
顔を隠していたカマを開き、彼女はそう言った。しかし、『カマキリ』はそれを拒否する。
「結構、俺は俺だけの力で狩りをしますので。もっともこのような薄汚い毒蛾、食おうにも食えませんが」
「そう、それならとんだ邪魔をしました。ごゆっくりどうぞ」
ひょい、と『ハナビラカマキリ』は一歩後ろへ下がった。ギゼンガーと『カマキリ』の戦いが再開されるのだ。今まさに逃げているところであったギゼンガーとしては、状況は間合いが詰まってしまっただけ不利となる。もはや無傷で勝とうなどと思ってはならないようである。
やむをえない。
ギゼンガーは左手を水平に体の前に出し、右手を体の後ろに回した。
彼の構えに、『ハナビラカマキリ』は、彼が何をしようとしているのかを察した。だが、『カマキリ』は気付いていないようである。もう一度カマを両方とも振り上げ、難攻不落の構えをとっている。
ギゼンガーは傷ついた右目をこらし、タイミングを見計らっている。風に揺れる葉に偽装する、『カマキリ』のゆらゆら揺れるような構えを見ているのだ。
いちかばちか、ではない。ギゼンガーのとる戦法は、決まっていた。
一気に体勢を低くして、突っ込んだ。
勿論、所詮は『蛾』であるギゼンガーの脚力では、振り下ろす『カマキリ』のカマを回避することができない。できないのである。いくら体勢を低くとっていても!
振り下ろされるカマにはさまれたギゼンガーの外骨格が砕け、体液を吹いた。やはり、振り下ろすカマの速度は尋常ではなかったのだ。
しかし。
そのカマにはさまれたのは、ギゼンガーの『左腕』だけだった。高く振り上げたその腕で、ギゼンガーはカマの一撃を止めたのだ。強烈な力ではさまれて、彼の左腕は砕けた。だが、右腕は動く、動くのだ。
「うあ、あぁ!」
悲鳴を上げたのは腕を砕かれたギゼンガーではなく、『カマキリ』の方だった。その腹部に、何かが刺さっている。
「ハリだ」
『ハナビラカマキリ』には、それが何なのか、はっきりとわかった。毒針だ。
蛾の幼虫によくある、毒針なのだ。命に直撃するような毒ではなく、神経作用によって強い痛みを喚起するだけの毒。おそらく、『カマキリ』は傷の痛みよりもその毒のための激痛でとても立っていられないはずだ。
さすがに腹だけは外骨格に覆われていなかった『カマキリ』であるが、今やギゼンガーの左腕も放り出し、水を求めて川の中でのたうち回っている。
外骨格の砕かれたギゼンガーの左腕はボロボロで、手首から先の関節が使えない状態だった。しかし、それでもここで決めてしまわなければならない。
肉を切らせるところまではうまくいったのだ。あとは、相手の骨を断つ、それだけである。
「そりゃあぁっ!」
のたうつ『カマキリ』の腹部を、ギゼンガーは思い切り踏みつけた。
「ぐげぇっ!」
ぐぼっ、と彼の口元から血が噴かれた。彼自身の血なのか、先ほど彼が食っていた少女の血なのか、まるでわからない。
「とどめを、ギゼンガー」
離れてこれを見ていた『ハナビラカマキリ』が、静かにそう告げると同時に、ギゼンガーもとどめの一撃を繰り出した。血を噴いている彼のくび元を狙った、高い位置からのエルボードロップである。
「ぎっ、『ギゼンガー』!」
「……ハリファックス・ドロップ!」
激突音、同時に水しぶきが吹き上がった。
首の付け根のあたりに、ギゼンガーの肘がめり込んでいる。衝撃に脆いその接着面は千切れとび、『カマキリ』の首は川原の端のほうまで吹っ飛んでいってしまった。
首のなくなった『カマキリ』はしばらくビクビクと動いていたが、やがて川の中にくたりとその四肢を下ろし、ついには全く動かなくなった。
「お見事、ギゼンガー」
『ハナビラカマキリ』が近づいてきた。
ギゼンガーは警戒し、左手を後ろにかばいながら構えをとる。しかし、相変わらず『ハナビラカマキリ』に敵意はない。
「戦うつもりがないのか?」
濡れたまま、ギゼンガーは訊ねた。もちろん、左腕も右目も傷ついている今、彼は戦いたくない。
「今は、ね。それとギゼンガー、私は『スカーレット』と名乗っているカマキリ。こんな目立つ姿だし、覚えておいて損はないと思うけど」
「お前、何を考えている。何が目的だ? 裏切り者である俺を、消そうとしているんじゃないのか?」
スカーレットと名乗った『ハナビラカマキリ』は、右のカマで口元を隠すようにしてくっ、くっ、と笑った。
「別に。あなたのしていることに興味があるだけ。今はね」
「敵なんだろ?」
「そう、あなたの敵よ。倒せると思うのなら、いつでもおいでなさい。でも」
ふわ、とスカーレットは羽を開いた。その白い姿は、純粋に美しいと思える。
「私は貴方を、ちょっと気に入っている。それは事実だよ」
そのまま夜空に浮かび上がると、スカーレットは羽ばたき、一気に急上昇してギゼンガーの前から去っていってしまった。
「スカーレット」
月明かりもない夜空に消え果た白い姿の残像を目に追いながら、ギゼンガーはその名を呟いた。
そして、自分の左腕に残った傷を見て、下を向く。あと何度、あと何回俺は戦えるのだろうか。そんなことを思い、彼は少年の姿へと戻りながら、家路をたどっていったのだった。




