第二話・暴走列車
ギゼンガーは、少年の姿に戻ることが出来る。もちろん、ギゼンガーに変身することも出来る。それにかかる時間は大体2秒ほどで、ほんの僅かな時間である。が、それほどの短時間に細胞がぐねぐねと動いてギゼンガーのもっている羽や触覚を形成し外骨格を作り上げる、というわけではない。
少年の姿に戻っている間も、ギゼンガーはギゼンガーなのである。つまり、羽も触覚もそのままあるのだ。少年の姿に見えるのは、『亡霊』の持っていたテクノロジーによるもので、偽装されているかららしい。つまり、正確に言えば少年の姿に戻っているわけではなく、そのような姿に変装している。そういうことである。
しかし、どういう理屈にせよ、ギゼンガーが少年の姿に戻れるということは重要なことだった。さすがに世をすねて何もかもを破壊したいという欲を持っているとはいえ、今までの生活を全て捨てて、完全にギゼンガーとして破壊活動をせよというのは迷う話である。この少年の姿に戻れるという、二重生活にうってつけの機能を知ったギゼンガーは、普段は少年として暮らし、必要があればギゼンガーに変身するという生活を送ることにした。
しかし、少年は夏休みの最中に『亡霊』と出会い、肉体改造を受けて数日後に彼らを裏切ることになった。つまり、まだ夏休みの最中なのである。ギゼンガーは少年の姿をしたまま、部屋の中でごろごろと転がっていた。テレビはつけていたが、あまりにもくだらない番組しかやっていなかったので電源を切った。出かける気にもなりはしない。畜生が、鬱陶しい。
普段から鬱屈した考えを持つ彼であるが、今日はじりじりとした蒸し暑い天気のせいでその傾向が一段と強いようである。
がばっ、と彼は跳ね起きる。
「図書館へ行こう」
空調の効いた図書館で本を読んで過ごそうというわけである。名案だった。もちろん、移動には空調が効いているであろう電車を使う。ああ、文明の恩恵って素晴らしい。
このあたり、全てを破壊しようと思っていた人間とは思えないが、とにかく彼は涼みたかった。
少年は早く空調の効いた空間に行きたいと願いながらも、やはり駅まで歩いていった。ギゼンガーに変身し、図書館まで飛んでいこうという考えはないようである。
太陽光線の直射を受けながら、焼かれる肌の痛みに我慢を重ねて駅までたどり着く。切符を買って、改札を抜ける。
電車は客も少なく、少年は座席を確保することが出来た。
冷房もよく効いていて、快適である。
ああ、こんなに素晴らしい空間があるのなら、やっぱり世間も捨てたものじゃあないのかもしれない。
そんなことを思いながら少年は読みかけだった本を取り出して、それを読む。
「えっ」
ががん、と何か恐ろしい音がした。瞬間、扉が閉まった。
少年は慌てて時計を見た。まだ発射時間には早い。冷房を効かすために一度閉めたか? と思いきや、列車はゆっくりと動き始めたではないか。
列車は揺れて、外の景色が流れて行く。
加速していく列車。これはなんだ?
少年は慌てて窓に食いついた。ホームが途切れる!
そこに、運転手らしき人物が、倒れているのが見えた。
「なっ」
ぞくっ、と少年の背中が凍った。この列車は、『運転手以外の誰かが運転しているか、無人で動いている』ということだ。
暴走列車だ。
一体、自分はどこに連れて行かれようとしているのか?
周囲を見回すと、自分以外に客は主婦らしい化粧をした女性と、ランニングシャツを着たおっさん、それにメガネをかけて何か本を膝に置いた少女。一両の列車にこれだけいるのだから、他の車両にもそれなりに人はいる。みんなこの事態に動揺し、少年と同じようにきょろきょろと周囲を見回している。
舌打ちを、一つ。
とにかく、運転席に行かなければ。
連結部分のドアに手をかけ、少年は前の方へ向けて走り出した。すると、ランニングシャツのおっさんも彼の後を追って走り出す。
ほどなく、運転席のある車両までたどりついたが、運転席に続いているドアをこじ開けようと、すでに何人かの人々が力をこめている様子が見える。
「中はどうなっているんです?」
少年は、近くにいた乗客に尋ねてみたが、答えはなかった。自分で確認してみると、誰かが運転席にいる。
暴走列車は、何者かの手によって動かされているのだ!
運転席にいる人物は、やがて人だかりができているドアの向こう側に立った。運転は放棄したらしい。ますます危険だ。しばらくは直線が続くからどれだけ加速しても構わないが、やがてカーブがくれば曲がりきれずに脱線事故になる。大惨事になるだろう。
「あんた、おい! 列車を止めろ!!」
ドアを開こうと必死になっている連中の一人が、ガラスを叩いて叫んだ。
「死にたいのか!」
「……くふふふ」
向こう側から、ドアが開いた。
運転席に座っていた人物は、ぼろぼろによれたシャツ一枚、やせこけて疲れきった男だった。その華奢な身体に、たちまち大勢が詰め寄る。彼の体を揺さぶりながら、さっさと列車を止めろという要求を飛ばす。
しかし、次の一瞬で彼に詰め寄っていた人間が全員、まとめて吹っ飛ばされた。華奢な彼の右腕のほんの一振りで、である。
「混乱だ、世の中を混乱させるんだぁぁ!」
狂ったような声をあげ、彼はそれからけたけた笑う。すると、彼を覆っていた擬態がずるりと解け、まるでバターが溶け落ちるように皮一枚、はがれ落ちた。
その下から出てきたのは、棒状の触覚を二本と巨大なアゴを持ち、全身を黄色と黒に塗られた姿だった。人間では、ない。
少年はその姿を見て、「スズメバチ」を連想した。巨大なアゴ、複眼のような大きな目、それから薄い羽も生えているし、どこかに毒針でも持っていそうだ。
「なっ」
乗客たちは、いきなりのこの変身に、戸惑った。一体何がはじまったのか、という驚き。
その驚きからまだ彼らが解放されないうちに、大きなスズメバチは両腕を振るった。たちまち、あちこちを引き裂かれながら、乗客たちの体が吹き飛ぶ。
「邪魔するな、邪魔するなぁ!」
周辺にいる人物を、手当たり次第に薙ぎ払うスズメバチ。強靭な筋力に、まるでゴムマリのように飛ばされる人間達。この惨事に、乗客たちは後部へと退却していく。だが、連結部のドアが閉じていて、そのドアを開けるのに手間取ってしまう。
あっ、という間にスズメバチは、乗客を引き裂いてしまった。
少年は、逃げ出している乗客がスズメバチの犠牲になっているスキに、運転席へと侵入していた。目の前を見てみると、信号が赤である。ひとまず停止することが先決とにらんだ彼は、ゲームで覚えただけの操作で、アクセルをゆるめ、ブレーキを全開に叩き込んだ。
途端、すさまじい音が響いた。金属と金属のこすれ合う、非常に厳しい音。それと同時に、体が後ろ側に引っ張り込まれるような感覚。慣性の法則がしっかり働いてくる。
だが、これのおかげでブレーキ操作をしたことは、スズメバチに筒抜けだ。
「まぁだ肉が残ってたぁ、かぁ!」
彼はたちまち反転し、運転席に突っ込んでくる。少年は振り返り、飛び掛ってきたスズメバチの足元を抜けるようなスライディングを放ち、狭い運転席から広い車内へと舞い戻った。
スズメバチもそれに気付き、すぐさま反転した。起き上がってきた少年と、正面からご対面である。だが、にらみ合う余裕もなく、彼は右腕を薙ぎ払った。人間の一人くらい、あっさりと処分できると思っているのだろう。
しかし、少年はその一撃を軽々と受けながら前進し、スズメバチの足を払う。予想外のことに、彼はよろめいた。そこへ、少年は大きく振りかぶった打ち下ろしの左拳を炸裂させた。
「ふっ!」
杭を地面に打ち込む木槌のような一撃、それを食らったスズメバチの頭部は一直線に床に叩きつけられ、べしゃりと少し跳ねた。少年はそれに満足せず、倒れたスズメバチの腹部へと強烈なサッカーボールキックを放つ。
「ぐあ」
しかし、スズメバチもそれ以上の追撃を受けるわけにはいかない。素早く、手足と羽を駆使して体制を戻した。そして今度こそ、しっかりと距離を置いた状態で少年と向かい合う。
「ああぁぁ、邪魔、しないでくれよぉ、なんで邪魔するんだよぉ」
ぎりぎりと大きなアゴの辺りからスズメバチはそんな言葉を発した。もちろん、少年はそんな言葉を相手にする気はなかった。
「おい、あんた。が、がんばれ!」
後ろから何か声が聞こえてきて、少年はちらりとそちらを見やった。
すぐ後ろの車両にいた乗客たち、数名ほどだった。彼らは連結部の扉越しにこちらを見ており、スズメバチと戦っている少年を応援している。
おばあさんもいるが、おっさんもいる。本当に、この場にたまたま居合わせただけの乗客だ。彼らは、列車を暴走させたスズメバチと戦う少年を見ている。下手をすれば自分たちも戦いに巻き込まれるという感覚はないのだろうか。
両手に握りこぶしを作り、不安げな表情でこちらを見やる彼ら。
「勝ってくれ!」
「がんばれ!」
搾り出したような声で、少年に声援を送った。
その声援が、少年には心地よかった。しかし、それは少年の姿で戦っているから、送られているのだろう。自分達と同じ人間が、ここで怪物と戦っているから。もし今少年が偽装を解いて、ギゼンガーに変身した場合、この声援はどうなるのだろうか。悲鳴に変わるのか。
そう思うと、少年は複雑になる。
「おいぃ!」
瞬間、スズメバチは左手を振り回した。その先から、何か液体が飛んでくる。
不意のことだった。毒液かもしれない。少年は顔に向けてくるその得体のしれないものを防ごうと、右手で顔を覆った。
びしゃっ、と液体が手にかかった瞬間、強烈な痛みがそこを走り抜ける。
「ぐわぁ!」
神経を直接、塩酸に突っ込んだような感じだ。指先までビリビリとしびれるような痛み、滅多に大声を出さない少年も、これには悲鳴をあげた。しかも、それだけではすまず、右手で自分の視界をも覆ってしまった少年に対して、先ほどの仕返しともいえる、強烈な蹴りが見舞われていた。やはり、腹部を直撃している。
なみの人間が食らったら、上半身と下半身が真っ二つに折れてしまうのではないかと思うほどの衝撃だった。少年の身体は吹き飛び、進行方向に向かって右側の窓に叩きつけられた。窓ガラスがびりびりとひび割れる。
「ああっ!」
「大丈夫か!」
後ろの車両の見物人が慌てふためく。もちろん、少年は大丈夫ではない。あまりの衝撃に、動けないのだ。
「ぐ」
窓から、床に落っこちる。それでも、まだ立つことができない。やはり腹部は、彼の弱点だった。
その間に、スズメバチは運転席に行って、ブレーキを解除し、アクセルを開けた。再び列車はガクンと動き出し、暴走を再開する。
「あーっ、お前」
戻ってきたスズメバチは、倒れている少年を眺めた。
「聞いてるぞぉ、『蝶』を殺したやつがいるってのはぁぁ。それ、お前なのかぁ、お前なのかぁ」
「だ、だったらなんだ?」
なんとか膝を立て、少年は起き上がる。
「おっ、おっ、お前を、見つけたらぁ、始末しろって言ってたぁ!」
スズメバチは、再び毒液を少年に向けて放出した。さっきと同じパターン、ダメージよりも痛覚に重きを置いた毒液で敵の動きを封じ、その間に攻撃を仕掛けるコンビネーション。
少年は両脚と左手で床を叩き、その毒液をかわした。
「そうかい、なら、倒してみな!」
飛び上がった少年は、目を見開いた。もはや、何もない。
彼は、偽装を解いた。少年の姿はまるで幻覚だったように空気に溶けて消え、代わりに長い髪と鉢金、ふわりとしたシダ植物のような触覚、そして折りたたまれた毒々しい土色の羽が出現する。ギョロリと鋭く、大きな目を持つこの『蛾』を思わせる姿。これが、少年の正体である『ギゼンガー』だった。
「うは、うはははぁ! お前、それは、『蛾』じゃないかぁ!」
「そう思いたいなら、思え! 俺は『ギゼンガー』!」
狭い電車の中では、羽を使って飛び回ることはできない。空中でくるりと一回転し、ギゼンガーは綺麗に着地を決めた。
「『蛾』のくせにぃ、『蜂』に勝てると思ってるのかぁぁ!」
スズメバチは、大声で吼えた。ぎりぎりぎり、とアゴの関節を鳴らし、それから「かちかちかち」、と大アゴを合わせて音をたてた。
その自信の通り、「オオスズメバチ」は強力な外骨格、筋肉、大アゴ、毒針を持ち、最強最悪のステータスを持った昆虫である。対してギゼンガーは『蛾』である。ただ飛び回っては花から蜜や花粉を集めるだけの存在なのだ。どうあがいても、捕食される存在なのだった。
ギゼンガーは、自分の額から突き出た二本の触覚をスズメバチに向けた。ふわふわとしたその触覚は、戦闘の役には立ちそうにない。だが、これのおかげでギゼンガーの感覚は非常に鋭敏なものとなっている。
「死ねぇ!」
いきなり、スズメバチはアゴをギゼンガーに向けて繰り出した。噛み付き攻撃か。この強烈なアゴにはさまれてしまったら、多分それだけでおしまいである。すさまじく強靭な筋肉のついたこのアゴは、生半可な外骨格などあっという間に打ち砕いて、挟んだものをバリバリに粉砕してしまう。ミツバチなどは、この一撃だけで首と胴体を寸断されるのだ。
これを食らうわけにはいかない、さすがにギゼンガーも身を引いて、これを回避した。だが、スズメバチは左手を振り払うと、その先から毒液を飛ばした。彼の複眼には、身を引いたギゼンガーがはっきりと映っていたのだろう、確実に回避したはずのギゼンガーへ、毒液が飛んでいく。
「ぐ、ぅあぁ!」
今度は顔面に毒液を浴びたギゼンガーは、あまりの激痛に仰向けに倒れた。両腕で顔を掻きむしり、毒液を振り払おうとしている。
のた打ち回る彼に、スズメバチは再び噛み付きをしかけた。
だが、ギゼンガーも必死になってこれを避ける。床を転がり、なんとか大アゴに挟まれることだけは避け、反撃の糸口をつかもうとしている。
「ち、ちくしょう、い……いてぇぇ」
悪態をつきながら、羽を伸ばして起き上がる。起き上がられてしまったので、スズメバチも追撃をとりやめた。だが、ギゼンガーはまだ顔を抑えている。その顔から、ゆっくりと手を放すが、毒液を浴びた顔は半分ただれていた。ギョロリとした目も、片方は潰れている。もともと彼の目は両眼視に向いていない構造なので、遠近感を失うといったような心配はなかったが、視界が大きく狭められてしまったことになる。
「て、てぃこうをするから、苦しむんだぁ、楽にして、やるんだぞぉ」
すっかり痛めつけられたギゼンガーを目に、スズメバチは再びぎりぎりぎりと鳴いた。最初こそ虚を突かれたが、今は自分が優勢なのだ。
痛いのは仕方がない。ここは我慢するべきだ。ギゼンガーは苦痛に耐えながらなんとか構えを戻した。しかし、彼の疲れを示すかのように、二本の触覚が垂れ下がり、くったりと萎えてしまっている。
「ぎ」
何か聞こえた。
その声に、ギゼンガーは片方の触覚をふわりと上げて、その声を確認しようとした。すると先ほどよりもはっきりと、その声は聞こえた。
「ギゼンガー、がんばれ!」
ぴくん、と。
ギゼンガーの二本の触覚が跳ねるように動いた。
「が、がんばれ、がんばれ!」
「勝ってくれ!」
どんどん、とドアを叩く音まで加わった。
隣の車両にいる乗客たちだ。少年の姿からギゼンガーの本性を見せた時点で、彼らからの応援は絶えていた。だが、ここにきて、なぜか復活している。
「負けるな! 負けないで!」
「がんばれ!」
つまり、これは。
ギゼンガーという異形の存在を認められた上で、今、彼らから応援を受けているということに他ならない。
ギゼンガーは、「がんばれ」という言葉が元々好きではなかった。必死になって全力を振り絞っている連中に向けて、ただそれを見ている奴らが吐きかけるその言葉の、なんたる安っぽさ。言葉なんて、軽いものだと思っていたギゼンガーにとって、「がんばれ」は、ただの押し付けがましい虚飾に過ぎなかった。
しかし、今、連結部分のドアの向こう側から、必死で不安げな表情のまま、苦渋に満ちた声で彼にかけられる「がんばれ」という言葉は、そのような安っぽさからは程遠いものだった。
「頼む、勝ってくれ! 勝ってくれぇ!」
どんどん、と壁を叩いているあの男の顔は、必死なものだ。どうあっても自分は死ねないんだ、愛する家族が俺の帰りを待っているんだ、そんな心の声さえも聞こえてきそうだ。
瞬間、スズメバチが突進をかけてきた。ギゼンガーはそれを天井近くまで飛び上がり、かわした。大アゴからの突撃で、一気にギゼンガーを噛み砕くつもりだったのだろうが、突き出してきたその大きな頭に、左足を打ち込む。だが、頭部の外骨格もかなり強靭である。ギゼンガーの蹴りなど受け付けなかった。
スズメバチは先ほどと同様、毒液を発射したが、蹴りの跳ね返りを利用してギゼンガーは毒液をかわす。空中に飛んだ一瞬、彼は羽を開いてわずかに鱗粉を散らした。羽で身体の向きを整え、天井からぶら下がっている紙製の広告を何枚か引きちぎり、地面に降りる。
「がんばれ、ギゼンガー、がんばれぇっ!」
引き続き向こう側の乗客たちは叫び続ける。ギゼンガーの胸は、熱くなった。
彼は、『正義』を感じることはない。平和を守るためとか、悪は許さないとか、そんな理由のためには彼は戦えないのだ。彼が今スズメバチと戦っているのは、自衛と退屈しのぎという理由に他ならない。
そこに、変化を与えるものがあるとするならば、欲しかない。
彼を戦いにかきたてるのは、『欲望』しかない。
乗客から彼にかけられる声援に、その『欲望』が刺激されつつあった。この場合、『名誉欲』だった。
「がんばれ、がんばれ!」
「負けるな、がんばれ!」
執拗に繰り返される「がんばれ」という言葉。そのリピート回数が、そのままギゼンガーへの期待だった。切実な願いとなっていたと言ってもいい。
これを受けるギゼンガーの気分は、高まっていた。人々の期待を集めるというものが、こんなにも気分のいいものだったと、彼はこれまで知らなかった。もっと、もっとこの気分を味わいたい。
すなわち『名誉』である。そして、この期待を決して裏切りたくないという思いも持ってしまった。
ギゼンガーは、目覚めた。
ヒーローとして!
「がんばれ、ギゼンガー!」
繰り返される言葉に、ギゼンガーはついに笑みを見せた。ギョロリとした、片方だけ残った目を見開き、口元を吊り上げる。
二本の触覚がぴんと逆立ち、閉じていた羽が一気に開いた。
「う、うぅ? 今ごろ、本気かぁ?」
スズメバチは羽を開いたギゼンガーに、嘲笑ともとれるような表情を向けた。そして次の一瞬で、大アゴを開いて一気に体当たりをしかけた!
「死ねぇ!」
だが、ギゼンガーはそれをするりと回避し、突進してきた大アゴの下をスライディングでくぐった。同時に、素早く反転し、彼の両脚を両腕でがっしりと掴む。
「むぅっ? 何をする気だ!」
「覚悟しな、こいつでとどめだ!」
ギゼンガーは、バックドロップを仕掛ける寸前のような体勢であるが、掴んでいるのは相手の腹部ではなく脚である。この体勢から、何をしようというのだろうか。
瞬間、両腕を持ち上げると同時に一気に開いた。スズメバチの股間を裂くような大技だ。足を持ち上げられたスズメバチは前のめりに倒れる。だが、それだけではすまさない。ギゼンガーの右足が、彼の股間に向けて突きこまれていた。
「ギャアーッ!」
ギゼンガーの脚は、膝のあたりまでスズメバチの体内に埋まっている。大声を張り上げ、ばたばたと両腕、両脚をばたつかせてもだえ苦しむスズメバチであるが、その悶えぶりも当然のことと言えた。だが、ギゼンガーはまだ攻撃を終らなかった。
「食らえ! 必殺!」
両腕をさらに持ち上げ、相手を完全に上下逆にしてしまうギゼンガー。相手の体内に埋められた右足以外はパイルドライバーのような体勢である。ここまでくると、スズメバチもこれからどうなるのか予想がついたらしい。手足をばたつかせ、必死な目で口を開いた。
「ま、待てっ! ギゼンガー!」
そのまま背中の羽をばたつかせ、同時に左足を踏み切って、ギゼンガーは天井ギリギリまで飛んだ。
あとは、落下してくるだけである。重力に引かれ、たちまちのうちにギゼンガーとスズメバチは床に叩きつけられる!
「エレクトリック・ドライバー!」
二人分の重量が落っこち、先頭車両はがたりと揺れた。
着地の衝撃で、ギゼンガーの右足はスズメバチの体内を貫き、股間から頭まで完全に押しつぶしていた。彼の体は、真ん中から真っ二つに引き裂かれたのだ。生きているはずもなかった。
ギゼンガーが手を放すと、スズメバチの身体はどさりと落ちて、ぴくりとも動かなかった。
しばらく、張り詰めた空気が流れる。ギゼンガーはくるりと後部車両の方を向いて、目を見開いている乗客たちに向かってニヤリと笑い、親指を立てて見せた。
「や、やったぁぁ!」
「は、はやく列車を止めてくれ!」
わぁ、と乗客たちは喜びの声を発し、一気に周囲の空気が弛緩する。ギゼンガーはやや急ぎ足で運転席まで行き、アクセルを緩めてブレーキを引いた。
誰かの役に立つのはいいもんだ、とのんきなことを考えた。
しかし、それからちらと後ろを見ると、スズメバチにやられた先頭車両の乗客の死体が転がっている。
このまま列車が止まるまで残っていると、面倒なことになるだろうなと思った彼は、ある程度スピードが緩まったところで窓を開け、そのまま車外へと飛び去って行く。
しかし、彼の姿を見た乗客が「ありがとう」という言葉を発したのを彼の触覚はとらえてしまった。
これまでの彼ならば無視していただろうが、大いなる彼への期待が、彼を変えつつある。
ギゼンガーは停止した列車に向かって小さく手を振った。それから自分の家に戻ろうとし、最初に自分は図書館へ行くつもりだったことを思い出して、苦い笑いを浮かべた。
物陰に隠れて、偽装を戻す以外の選択肢は、彼には残されていないようだ。
「どうしてこうなった」
一人ごちて、ため息を吐く少年。だが、そこには確かに笑みが含まれている。




