第九話 敗走・後編
完全に闇一色となった部屋の中に、質量が動く。やがて、電灯のスイッチを探り当てた彼女はそれを操作し、部屋の中の闇を追い払う。
蛍光色でない、白熱電球の橙色の光が部屋を照らしだした。
簡素な部屋の中、広さは四畳半程度しかない。天井に吊り下げられた電球ひとつだけで、部屋の中は十分に照らし出すことが出来るくらいであった。
長身の女がこの部屋の主である。部屋に戻って電灯をつけると、彼女は手狭な部屋の中に寝転がった。頭を右腕で支え、部屋の端に積まれていた毛布を引っ張り出した。
女は、新聞紙を持ち帰っていた。毛布を乱雑に自分の身にうちかけるとそれを手に取ったはいいが、広げもせず折りたたんだまま目を通し、舌打ちをする。
気に入らなかった。このところの動き、何もかも全て、女の予想の通りに動いている。
このような有様にもかかわらず、なぜあの男は動こうとしないのだろう。
そんな思いが彼女に舌打ちをさせていた。しかし、そのあとにすぐ彼女は思いなおす。自分には何も関係がない、というように。
何故自分があのような男のことを気にかけなければならないのか。私は私である。
無言で新聞紙を丸め、部屋の隅においてある段ボール箱へ投げ込んだ。大きくはないその段ボール箱はすでにゴミで満たされており、山盛りであったが女は気にしていなかった。
この、物置のような小さな部屋に暮らす女こそが、レッドアイであった。公園の隅に置かれた僅かなプレハブのような家に彼女は好んで住まっている。この家は遠目に見ても、近くで見ても、掃除用具倉庫か、老人会の球技用具倉庫にしか見えない。見事なほど周囲に溶け込んでいるのであった。
スカーレットは周囲を確認し、素早く廃墟の中へ侵入した。倒産したホテル跡、もう誰も出入りするもののない完全なる廃墟の中だった。
さほど大きなホテルでもなく、四階建ての建物に各階四部屋ずつあてられているくらいのものだ。その部屋の一つ一つも豪華なものではない。素泊まり三千円から、という安い宿なのだ。
スカーレットはその中でも最上階、四階の最も非常階段に近い部屋を選んだ。そこへ寝袋や食糧などを運び込み、窓は暗幕を二枚重ねて貼り付けて完全に遮光した。しばらく、ここを根城にするつもりである。
好奇心などからこの廃墟に近寄るものがいないとも限らないし、完全に不法侵入であるので、厳重にカギをつけ、トビラは閉ざしてある。『亡霊』に発見されるのが最も怖いことであるが、一般人にここがばれることも十分に怖いことであった。しばらくは大人しくしているしかない。
部屋は洋装で、二人部屋であるらしかった。スカーレットたちが入ってきた当初はかなり荒らされていたが、そうしたゴミなどは全て隣の部屋に押し込んだので、今は綺麗なものである。シーツを重ねた床にギゼンガーを寝かせており、そのとなりに寝袋や毛布を置いてある。灯りは中央に置かれた小さなテーブルの上にあるランタンだけだ。
外は既に暗い。スカーレットは女学生に偽装した状態で食糧を買出しに出て、今戻ってきたところなのである。
「エレベーターが使えたらよかったんだけど……」
闇一色となったロビーで、彼女は愚痴った。毎回四階まで、自分の足で階段を上らなければならない。面倒なことであった。しかし、万が一のときのことを考えると、最上階という選択肢をとらざるを得なかったのだ。階下から人がやってくる気配に気付いたときにすぐに逃げ出す時間を欲すれば、やむを得ない判断といえる。
入り口から最も遠い、404号室にたどり着いたスカーレットは、ポケットから鍵を出してトビラをあけた。今まで闇の中を歩いてきたスカーレットには眩しい、しかし生活するにはやや暗いと感じるほどの光が、中に満ちている。
「ただいま、サトコ。ついでにギゼンガー」
シーツの上に寝かされているギゼンガーは、起き上がりもせずに渋い顔をしただけだった。両腕と片足を奪われた彼は、治療に専念している。そういえば聞こえはいいが、つまりは何もしていない。ただ寝ているだけだった。強いて言うならば傷ついて戻ってきて以来、彼の傍について離れない『蚕』の相手をしているくらいである。
このホテルはすでに水もガスも出ない。水を汲み置く、不便な生活であった。飲み水もそうであるが、下水のほうも当然不便を強いられる。スカーレットは偽装を施せるので外出できるが、ひどく傷ついたギゼンガー、そして偽装の手段を持たない『蚕』に関してはその処理をどうにかしていかなければならなかった。
「スカーレット」
「何?」
ギゼンガーの呼びかけに、固形燃料で水を沸かそうとしていたスカーレットが振り返る。レトルトのカレーとパックのご飯を温めるつもりらしい。
「感謝してる」
「気にしないで」
突然の言葉だったが、スカーレットは目を細めて苦笑しただけだった。しかし、ギゼンガーとしては自分と『蚕』の世話を一手に引き受けて、力を尽くしてくれていることに対して、言わねばならない言葉であった。
「サトコに言ったほうがいいよ、ギゼンガー。全部やってくれているのでしょう」
「ああ、サトコは何を言っても、心配そうな顔をしてるから」
このホテルに潜伏して何日かになるが、その間スカーレットがしていることを見て、『蚕』はそれを真似るようになった。今は、両腕の使えないギゼンガーの世話を任せても問題ないというレベルに達している。このおかげでスカーレットの使える時間が増え、食糧や飲み水の調達も少しは楽になってきていた。
「なんだかなあ」
「どうした」
スカーレットはギゼンガーの近くに腰を下ろした。その二人の間に、黙って座っている『蚕』もいる。
「こんな生活、することになるなんて思ってなかった」
「やはり疲れるか、こういう介護生活みたいなのは」
寝返りをうって、ギゼンガーはこちらを見つめてくるスカーレットから目をそらした。
「いいえ? 楽しい生活じゃない。私、こういう共同生活って憧れだったから」
「お前、どういう生活を送ってきたんだ? 佐藤京子だった頃は」
ふと、ギゼンガーは気になっていたことを訊ねた。本名を口にするとスカーレットは大体露骨に嫌な顔をするのだが、このときも例外ではなかった。
「そうね、ご飯ができるまでの間、話してあげる」
しかし、自分のことを話すのは承知したらしい。
「スカーレット、って名乗るようになってから誰にも話したことはなかったんだけど。ギゼンガーなら、聞いてくれるでしょ」
「毎日寝てるだけだから、退屈なんだ。話してくれ」
「……じゃあ、どこから話す? 生まれたときから? 小学校のときから?」
「小学校からで頼む」
さすがに生まれたときのことからだらだらと語られるのは苦痛だと思ったらしいギゼンガーは、すぐさま答えた。スカーレットはため息をひとつ吐き、それからこめかみに指をあて、ゆっくりと話し出した。
「まぁ信じないかもしれないけど……私、小学校の頃は頭よかったんだよ。四つくらい年上のお兄ちゃんと一緒に勉強してたせいかもしれないけど、お兄ちゃんの教科書を盗み読んだりしてね。その内容覚えちゃってたりしたから、もうテストとかも満点ばっかりだった。小学校じゃ自慢にならないけど」
「ああ、それで」
「それでね、まぁ自信過剰な感じになってたのかな。まわりのみんなが、頭が悪いようなふうに見えてたからついつい、偉そうに振舞っちゃうような、そんな小学生だったんだよ。生意気な感じのね」
スカーレットは座ったまま、話しながら当時のことを思い出しているようだった。
「そのせいでいじめられた?」
「いや、逆だったかな。心の中でもう周囲のこと全部、最悪だ、あれは悪い、バカだ、とかそんな風に言ってて、それでもなまじっか頭がいいから、うわべだけは取り繕ってさ。先生にもいい顔して見せて、いい子ちゃんだった」
「そんないい子がどうして『誘いに乗る』ことになるんだ?」
「最後まで聞いてよ、とりあえず小学校はそれで終り。中学校に行ってまた変化があるの」
「ああ」
ギゼンガーは頷いたが、スカーレットはすぐには話し出さなかった。思い出すように視線が左上を向いていたが、当時嫌なことがあったのか、少しうつむき加減になって、それからやっと口を開く。
「中学校にあがって、先生と出会ったの。担任じゃなかったけど、すごくいい先生でね。上っ面だけのいい子で、心の中で舌を出してた私の生き方を見抜いてくれた。ほんとに、すごい先生だったんだよ……まぁ私にとっても最初はただの嫌な先生だったけどね」
「それはそうだろ、良薬は口に苦いもんだ」
「良薬でも毒薬でも苦いモンは苦いってば。顔を見るのも嫌だった、最初はね。小言ばっかりいうからさ。でもね、体育祭ってあるじゃない、あれの後片付けのときにたまたま二人だけになってさ。夕焼けをバックにして、諭されたの。いい子ちゃんの生き方になれすぎて、それがベストの生き方なんだって、他の何も試さないうちからそう言って、決め付けてた私のことロジックを全部崩して」
「いい先生じゃないか」
「うん、かっこよかったんだよ。『佐藤、言っておいてやるけど世の中は本当にバカばっかりだ。何にもわかってない奴らが何にもわかってないままに国や会社を動かしている。お前が呆れるのも無理はない……でもな、お前を評価する人間も、お前を育ててきたのも、そのバカな世間なんだ。で、ここで言っておくとだな、お前が今のままで、世間も何もかもバカだなと、自分とはまるで違うように思って生きていくと、自分もいつの間にかそのバカな世の中の一部分になるんだ。これが』……っていう風に言って、中学生にもわかりやすい言い方でね、教えてくれたんだ」
「なんだか、随分痛々しい女子中学生だったんだなお前」
「うるっさい」
スカーレットはそう言いながらギゼンガーの頬にパンチを繰り出した。軽く繰り出したそれは触れるだけで終わる。ギゼンガーは回避の手段もなかった。
「それより、『自分がバカだと思っている連中の仲間入りをしないためには、どうすればいいと思う』なんて言って、すっかり私を発奮させてしまったあの先生は罪だと思うけどね。次の定期テスト満点とっちゃったよ」
「頑張りすぎだ」
「だってね、今のままじゃバカの仲間入りしちゃうって危機感もったんだもの。プライド高かったから必死に勉強したよ。満点の答案持って先生のところに見せびらかしに行ったし」
「テストを頑張らせるために言ったわけでもあるまいに」
「そうだけど、だって結果が出たら嬉しいもんじゃない。まぁ考えてみたら所詮中学生の思考だったわけでね。『世の中』のカテゴリー全部に『バカ』ってレッテルを自分が貼っている限り、自分が『バカ』にならないですむ方法なんてあるわけないのにさ」
「そうなりたくなきゃ、自分が『世の中』を先導するような存在になるしかないだろう」
「とにかくその先生のおかげでちょっと目が覚めたんだよ」
自嘲気味に、スカーレットは力なく笑った。
「だったら、その先生の言葉を思い出して奮起して、正当に努力していくべきだっただろう。どこで間違って『誘いに乗る』ことになるんだ」
スカーレットは、目元に手をやり、下を向いた。
「その先生が、警察に逮捕されたからだよ」
「逮捕? 何の容疑で」
「………………痴漢」
「痴漢?」
「そう」
頷いて、煮立っていたアルミ鍋からカレーとパックのご飯を取り出した。パックのご飯の蓋を開け、そのままそこへカレーを落とす。例によってさじをご飯にぶすりと突き刺し、『蚕』に渡した。両腕を失ったギゼンガーの腕となって、彼の口元へ食事を運ぶ役目を任され、『蚕』は大仰に頷く。
話の途中だからといって、『蚕』は空気を読まない。食事を渡された彼女はギゼンガーの口元へ食事を運んだ。さじに載せたご飯は熱そうだが、『蚕』に手加減などない。彼女はギゼンガーがそれを口に入れるまで引かないのだった。
仕方がなく、それを口に含む。もちろんそれを嚥下するのを待たずに次の一口が運ばれてくる。必然的に、『蚕』に給仕をしてもらうと意図しないままに早食いになってしまう。
が、スカーレットはそれを注意しようともしない。ギゼンガーとしては、自分が苦しむのを見て楽しんでいるのだろうという予想しか思い浮かばない。
「ひどかった、何もかもが。信じてたのに、裏切られた感じがしたものね」
ギゼンガーは相槌をうちたかったが、矢継ぎ早に『蚕』が食事を運んでくるため、喋ることができない。
「先生だって、やっぱり『バカ』の一部だったんだな、って思うともうどうしようもなかった。そのとき私の中では先生は全能の聖人君子みたいになってから」
「そ、そうか」
表情が薄いながらもさじを押し付けてくる『蚕』と静かな戦いを演じながらギゼンガーは話に相槌をいれた。
「だから私、ひどいことを言ったよ、先生に。裏切られた気になってたからもう、それこそ本当に……」
スカーレットの話は熱を帯びていた。
「わざわざ家まで行って、どんなにひどいことをしたのか、忘れたい。あのとき本当につらかったのは先生のほうだったのに」
「すると先生は否認してたのか」
「うん。あとから聞いたんだけど、どうも冤罪だったみたい。でも、痴漢の冤罪って容疑がかかっただけでもう本当に簡単に終るんだよね。学校は……集会で説明があったくらいで、その後は最初からその先生がいなかったみたいに処理されていってたし。ただその……」
そこまで言うと、彼女は膝を抱えてしまった。
「バカだったよ。あのとき、どうして先生を信じてあげられなかったんだろう。私だけでも信じてあげられれば、先生も」
あまりにも、理不尽なものをスカーレットは感じてしまったのだろう。ギゼンガーは察した。
「やっぱりね、世間はバカだったんだ。あの先生が痴漢扱いされて、誰もそれを嘘だと思わない。誰もそれを嘘だと思ってあげられない。先生は学校も辞めなくちゃいけなくなったし、裁判だって……」
次々と運ばれてくるカレーライスを食べながら、ギゼンガーはいつか本で見た痴漢冤罪の話を思い出した。いくら冤罪だと主張しても、女性側の証言は圧倒的に強く、起訴されれば九割は有罪となるこの国では私人逮捕の段階でほぼ結末が決定するのだとか。スカーレットのいう『先生』もひどく苦しめられたことだろう。
とはいうものの、女性を相手に卑劣な行為をはたらく痴漢も本当に存在し、被害者が多数いるということは間違いのない事実であり、彼らは裁かれねばならない。そこのところは忘れてはならないが。
「それで自棄になったのか、スカーレット」
「まぁね、自棄になった、というよりも嫌になったんだよ。自分が。先生が捕まったときもそれはもうショックが大きかったけど、冤罪なんじゃないかっていう話が出たときのほうがすごかった。だって、他の誰のせいにもできないんだもの。私が先生を信じなくって、他と一緒になって彼を非難したってことは」
まぁよくある話だな、とギゼンガーは思った。自分の過ちを悔いるとき、人は悶え苦しむものだ。
「自分も勿論悪いけど、こんな恩人一人も救えない世界、壊してしまいたくなった。何よりこういうことが許されているっていう世の中の仕組みが何もかも許せなくって……。そんなときに私のところに『亡霊』が来たわけ」
「ちょっと待て、スカーレット」
話の腰を折るようではあったが、気になることがあったのでギゼンガーは質問を投げる。
「今の話は中学のときの話だろう。お前今、一体何歳なんだ」
ポニーテールの女学生は、質問を受けて目を開き、ギゼンガーを横目で睨んだ。
「私まだ、中学生」
「見えん」
驚いたらしく、ギゼンガーは眼を見開いている。随分世間慣れした中学生だな、と思うのにしばらくの時間が必要だった。
「家はちょっと裕福じゃなかったからね。色々お手伝いもしたし、バイトもやったし、家事全般は得意なほう。そのおかげで世間の汚いところも結構見ちゃって、世の中を見下す傾向が一層加速したんだけど」
「しっかり者だな」
半ば無理やりに押し込まれていたカレーライスが終ったらしく、相槌を打つギゼンガーに『蚕』がお茶を差し出してきた。これもまたパックにされたもので、ストローが刺してある。
「そういえば俺の学校に来たことがあったな。あのときも自然に混じっていたが」
「あれは別に全校集会を一緒に聞いてたわけじゃなくて、出口で待ち構えてただけだよ。サトコ、ゴミはこっちに」
空っぽになった容器を回収し、スカーレットはゴミを一まとめにした。それを持って、立ち上がる。
「ゴミ捨ててくるね。それと、旧住所の新聞とかとってくるよ。暇でしょ」
「気をつけてな」
「大丈夫だよ。サトコ、寝るときはランプ消してね」
今、動けるのはスカーレット一人だけである。彼女は『蚕』の大仰な首肯を見届けるとゴミを持って、部屋を出た。
少年が以前に住んでおり、『亡霊』の襲撃を受けた住所に戻るのは危険だった。それは無論、スカーレットもわかっている。そこへギゼンガーらが戻ってくるはずがない、と思われている一面もあるのだが、それでも一応確認しておこう、という輩がいない可能性はない。ゴミを集積所に捨てた後、スカーレットは偽装を施したまま慎重に歩んで行く。
街灯の明かりを頼りに、歩いていく女学生。周囲に気を払いながら、旧住所へと近づいていく。
不意に、彼女は歩みを止めた。とてつもない邪気がやってくる。それも、何度か会ったことのあるものだ。
そういう気配は、心当たりが一人しかない。勿論、言うまでもなくレッドアイだ。
「ハロー、パラノイア・ガール」
予想通り長身の女が現れた。偽装してはいるが、レッドアイに間違いない。スカーレットは警戒し、いつでも戦えるように身構えたが、レッドアイにその気はないようである。
「ギゼンガーはどこに行ったのかな、お手紙を持ってきたのに」
「手紙?」
確かにレッドアイは何か小さな封書を持っている。
「用があるなら、伝えておくけど。それとも私も今ここで『食べる』つもり?」
「あんたには用事はなかったの。長生きしたかったら目上の人には敬語を使いなさい」
「いつから誰が目上になったの」
「頭だけじゃなくて耳まで悪いの、あなた」
スカーレットは腹を立てたりはしなかった。今ここでレッドアイの挑発に乗る意味はまるでないからだ。それに、今の彼女にはギゼンガーと『蚕』の生活のために生活物資を調達する責務がある。今ここで戦って、壊されるわけにはいかない。
「それで、手紙はどうする? 預かろうか」
「預けたら、あなたが中身を見るでしょう」
「当然、見るけど」
スカーレットは正直に答えた。それに、今のギゼンガーに渡しても無駄だ。封を開けることができないのだから。誰かが読んで聞かさなければならない。その意味でも見ることにはなる。
「正直ね、嫌いじゃないけど。それじゃ伝えておいて。私の身体はもう、万全の状態に治った、ってね。決着をつけようと思うから今日の夜、午前二時に月並小学校までおいでなさい、校門前で待ってるから……そういう内容」
「つまり、果たし状ね」
「そういうことよ」
臆せず、レッドアイは言い切った。それから優雅な手つきで手紙を差し出した。
「今言ったことと同じことが書いてあるから。伝えるのよ」
「あなたと争う意味が、よくわからないと思うのだけど」
「気にしなくていいのよ、あなたは。そうね、スカーレット。あなたついてくるなら、来なさい。あなたが一人や二人増えても、別に怖くもないから」
その言葉にもスカーレットは特に反応を見せなかった。どうせ、今のギゼンガーでは行くことができない。
「もし、誰も行かなかったらどうするの」
「それはそれで構わないよ。あの子が死ぬまで、私は狙い続ける。宣言したっていい」
用は済んだ、とばかりにレッドアイはくるりと背を向けて歩き出した。
「それじゃ、今夜のうちに会えるように祈ってるよ」
背を向けたままそう言い放ち、蜘蛛の女はその場から去っていった。スカーレットは手に残った手紙と、レッドアイの後姿を見比べて、黙り込んでいる。時計の針は、午後八時半を差していた。
「ただいま」
と、小さな声でトビラを開けたとき、時刻は午前一時半になろうというところであった。暗幕に仕切られた部屋の中はすでに真っ暗で、ランプも消されている。
スカーレットは手に握っていたライターに火をつけ、ロウソクに火を移した。三本ほどのロウソクに火をつけたところでライターの火を消し、ロウソクをテーブルの上に立てた。
『蚕』はすでに眠っており、ギゼンガーのそばにくっついている。寝袋や毛布も使わず、丸まっていた。スカーレットは部屋の隅から毛布を持ってきて彼女にかぶせ、それからギゼンガーを見た。重傷を負っている彼は、当然戦いに出向くことなどできない。彼はかなり深い眠りに落ちているようであった。
これほどの傷が、果たして癒えるものだろうか。だが治らないにしても彼をこのまま放置して死なせるということはしたくない。どういう形であれ、彼には生きていてもらいたい。スカーレットはそう思うようになっていた。
敗走して、深く傷つき、戦えなくなった正義のヒーローは、どうなるのだろう。その末路は。
ギゼンガーはあれだけ戦い、人々を護ったではないか。その果てが、こんなみすぼらしい廃墟での療養生活、或いは余生を送るというのであれば、あんまりだ。
スカーレットはレッドアイの手紙を、テーブルの上に置いた。そのとなりに、さらにもう一通の手紙を添える。その手紙には『佐藤京子』の署名があった。
「ギゼンガー、あなたの傷が治るまで、おそらく一ヶ月。その間の食べ物と水は、なんとか調達してきた。サトコがいれば復活するまではこれで暮らしていける」
買い置いてきた保存食は、部屋の隅に積み上げられていた。実は万一自分が動けなくなったときのため、当初から備蓄しておいたのである。これがあることはギゼンガーには告げていない。代わりに、手紙に書いておいたわけである。
スカーレットはそれからしばらくギゼンガーの寝顔を眺めていた。が、ふと彼の顔に自分の顔を寄せ、それからすぐに離れた。
「……ごめん」
なぜか彼女は謝罪の言葉を呟き、携帯電話で時刻を確認した。そろそろ行かなくてはならない。ゆっくりと立ち上がった。
「あのとき私は先生のことを信じられなかったけど、代わりに今度はあなたを助けられるように努力してみるよ。もし戻らなかったら、サトコのこと、頼んだから」
ロウソクの火を消し、部屋の外に出た。闇に包まれた部屋の中から、二人分の寝息が聞こえる。果たしてこの部屋に戻ってくることはあるのだろうか、とわずかに思いながら、スカーレットはトビラを閉じた。
レッドアイは月並小学校で待っている、と言っていたはずである。
偽装を解き、白いカマキリは夜空へ飛翔した。




