第九話 敗走・中編
三日ほどが経過した。『蚕』は、まだ生きている。相変わらず活動的ではなく何かを見つめているか、じっとしていることが多い。とはいえレッドアイによると食糧として育てられたということであるから、大人しく従順な性格であるほうが自然である。
『アリ』による事件の後は特にさしたるニュースもなく、各地に離散した『アリ』の生き残り達が順々に人間達の手で駆除されているということが知らされる程度であった。少年らは何もしておらず、警察か有志の者たちがそれを行ったのであろうと思われる。
「すごいね、人間だけでもやっぱりあいつらを倒せるんだ」
ベッドで寝転がりながらテレビを眺めていたスカーレットが、眠たげに両目をごしごしこすりながらそんなことを言う。夜も遅くまで調べ物をしたり、怪しげな実験を繰り返している彼女は明らかに睡眠不足に陥っていた。それらは全て、『蚕』への栄養補給の方法の模索のためなのであるが、まだその方法は確定されていないらしい。今現在、『蚕』の栄養は一日二回の点滴により補給されている。彼女に点滴が有効なのかどうかもまだわかっていないのだが、何もしないままでは本当にすぐさま死んでしまう。それよりは希望をつなぐために不確定な方法でも試行してみるよりなかったのだ。
「その調子で残り全部の改造戦士を倒してくれればいいのに」
偽装とはいえ、制服姿のままで掛け布団をかぶり、ごろごろしている姿はあまり見よいものではない。ポニーテールがトレードマークのスカーレットだが、今は髪もおろしてしまって、ぼさぼさになっている。
少年はポットの湯でインスタントコーヒーを作りながら、横目でその姿を見ている。その隣には『蚕』がいるが、彼女はテレビをしげしげと眺めていた。
「それはさすがに都合がよすぎるだろう。それに、そのくらいの抵抗があることは『亡霊』も予測しているはずだ」
「じゃあ、あれ、ちょっと待って」
スカーレットは声色を変えた。ふと気付いたのである。
「『女王アリ』だって自分達がいつか駆逐されることには気付いていたのでしょう。だったら、他の連中だっていつかは必ず倒されるってことじゃない。レッドアイだって例外じゃないでしょう」
つまり、改造戦士たちはいつか必ず人間達の結束と文明利器の力によって駆逐されていく運命にある、ということである。60億、70億の人々を全て倒すことなど不可能ごとなのだ。いつかは必ず、数の力によって敗れ去る。
「だから『亡霊』は人々を『混乱させる』ために何をしてもいい、なんて言ったわけね。確かあの『亡霊』、『俺と一緒に世の中を狂わせよう、破壊してしまおう』なんて言っていたけど、よく考えたらそんなこと不可能じゃない……たかが数十人、多く見たって数百人程度の改造戦士くらいじゃ」
スカーレットの考えは、少年にも正しく伝わる。では、『亡霊』の本当の目的とは一体何だったのであろう。それは今実際、そのとおりになっているのだろうか。達成されつつあるのだろうか。
「多分『世の中を混乱させる』という目的は、幾つかのプロセスのうちの一つとして確実に存在すると思う」
インスタントコーヒーを口に運びながら、少年がこたえた。
「だがそれが最終目的、ということはないな。『世の中を混乱』させておいて、その先に、まだ何か目的があるのは間違いない」
ずずっ、と音を立てて飲んだコーヒーを嚥下する。苦い味が舌を抜けていった。
「確かに、人間全てを倒すのは無理でも平和なこの国を揺るがすことくらいはできそう。でも、その先に何かが……」
「その『何か』が問題だろうな。秩序を『失いかけた』世界を作り出すことは出来ても、そんなところであの『亡霊』が何を企むと」
改造戦士たちが作り出せる、その限界まで世界秩序を失わせたところで、そこで『亡霊』はどうしようというのだろう。
「ふーん。直感でいいからさ、ギゼンガー。現段階で予想できる『亡霊』の最終プロセスはなんだと思う?」
ベッドの上であぐらをかき、スカーレットはアゴ先に指を当てる。
「秩序を失いかけた世界の上で、最後の一押しを自らの圧倒的なテクノロジーで行うのか。それとも何か別のことをしようとしているのか、ってところだけど」
スカーレットの質問に、少年はすぐには答えない。じっと考え、カップの中のコーヒーを見つめて、考えた。
するとその様子に興味を引かれたのか、『蚕』も同じようにカップの中をのぞきこんできた。横から顔を寄せてきた『蚕』に気がついた少年は、カップを彼女に渡してやる。『蚕』はカップをもらって、好きなだけその中を観察することが出来た。中にはただ、小さな泡をたてた黒く熱い液体が入っているだけであるが。
少年は、横目でスカーレットを見やる。答えを求めるように、彼女はこちらに目線を向けていた。
「何が奴の最終目的であれ『秩序を失いかけた』世界を奴の望むままに用意してやる義理はない。そいつの妨害にまわる」
その返答に、スカーレットは膝を打った。それから失礼にも少年を人差し指で指し、
「さすが! 正義のヒーローは言うことが違う」
と、声高に言ったのであった。少年は額に指を当てて、頭痛をこらえる。
その少年のとなりで、コーヒーカップを熱心に見つめていた『蚕』がふと顔を上げた。触覚がぴん、と立っている。直後に、少年の触覚も異常な感覚を察知して、立ち上がる。偽装が一部はがれ、ギゼンガーの触覚が少年の頭部に突き出た格好だ。
「誰か、来たぞ」
「ん」
スカーレットが生返事をした途端、ドアが強くノックされた。客人である。
インターフォンを使えばいいものを、と思った矢先、ドアが開けられた。チェーンロックを引きちぎり、ドアがこじ開けられたのだ。
「乱暴な奴だな、誰だ?」
ため息を吐きかけたが、来訪者の顔を見て少年の顔は引きつった。誰だも何もなかった。客は、『亡霊』だったのだ。
一目見て、それがわかった。
少年とスカーレットは、あまりにも衝撃的な来訪者に、凍りついた。『蚕』はコーヒーカップを握ったまま、やってきた災厄の顔を見上げていた。
「し、思念体のはずの、その身体」
ごくり、とスカーレットが息を飲んだ。『亡霊』の姿は異形だったからだ。どの昆虫を元に作られた、ともいえないハイブリッド。頭部には両眼視可能な哺乳動物の眼球に加えて、頭頂部付近には大きな複眼がつけられている。その二つの複眼の間から触覚が突き出ており、口元には強烈な威力を持つであろう、大アゴがついている。胸部、腹部にかけては恐ろしく厚い外骨格に包まれており、さながら『オオスズメバチ』だった。その背中についている長い四枚の羽は透明で、『オニヤンマ』を思い出させる。
尋常ならざるハイブリッド・インセクト。この身体を作るために数々の改造戦士を作っていたのではないか、と思えるほどだ。
『亡霊』は、つかつかと入ってきて、いきなり『蚕』を叩き飛ばそうとした。少年が庇いに入らなければ、彼女は確実に頭を吹き飛ばされていたに違いない。
敵対の意思を認めた少年は『蚕』をベッドにいるスカーレットに向けて突き飛ばした。やわらかな『蚕』の身体はゴムマリのように飛び、スカーレットがそれを綺麗に受け止める。本人は何が起こったのか理解していないようにきょとんとした顔だ。床に落としてしまったコーヒーを気にする余裕もなく。
ハイブリッド・インセクトの両腕は、『カマキリ』のようにカマがついていた。スカーレットはそれに対して強烈な嫌悪感を抱く。
「何をしに来た」
少年は、一足一刀の間合いをとりながら『亡霊』に訊ねた。
「世の中を混乱させるために『何をしてもいい』という約束だったはずだ」
『亡霊』は、それに答えず、すらりと右のカマを少年に向けた。途端、彼の脇腹のあたりから何かが飛んできて少年に迫った!
「むっ!」
少年は後ろに下がった。飛んできたのは、『中足』だったのだ。レッドアイが持っており、得意としていたロング・スピア。昆虫だけではなく、蜘蛛のものまでも混合した、もう何がなんだかわからない生命体だ。
「……つまり」
『亡霊』はここでやっと口を開いた。
「お前たちは用済みだということだよ、坊や達」
「やっと喋りやがったか。今まで俺たちを放置していたのは、何か狙いがあったってのか。『ジガバチ』を差し向けておきながら、なぜもっと簡単で、手っ取り早い方法で俺たちを殺さなかった?」
訊ねられるときに訊ねておこう、というわけで、少年は『亡霊』に向けて質問を重ねた。
「それと、俺たちを殺した後、お前はどうするつもりなんだ」
「知ってどうする、『蛾』の男。冥土の土産にでもするか」
「いや、喋りたいだろう、と思ってな。あんたには、誰かパートナーの一人もいないのか? あんたが完璧だと思っているその計画の全貌を知っている奴が一人でもいないのか? その自慢話をちょっと聞いてやろうというんだ」
「余計なことだ、そうやって情報を得ようというのだろうが」
「情報ね」
少年は偽装を解き、腕を組んだ。羽も、そして『クワガタムシ』との対決以来欠損していた右腕も再生を終えている。
「どうせ俺たちを殺すつもりなら、情報が漏れることを心配して、どうするんだ」
「沈黙は金というだろう」
ハイブリッド・インセクトが右のカマをギゼンガーに向けた。
「そろそろ、死ぬがいい」
その声と同時に、踏み込んでくる。圧倒的な速度であった。
ギゼンガーは横目でスカーレットと『蚕』を見た。瞬間、彼は踏み切って、飛んだ。
ベランダへ続く引き戸を破り、一気に空へ舞う。『亡霊』はそれを追おうと飛び上がるが、その背後からスカーレットが攻撃を仕掛けた。
しかし、即座に反応され、反撃を食らう。伸ばした両腕のカマを華麗にかわされ、かわりに蹴りを打ち込まれた。スカーレットは再び部屋の中へ吹っ飛び、退場してしまう。『亡霊』は余計な手間を食った、とギゼンガーを再び追う。
だがその瞬間、『亡霊』は上方向から攻撃を食らい、地面に向かって落ちていく。
当然、スカーレットに攻撃を行っているスキを突いたのはギゼンガーである。しかしこれで決められる、などとは思っていない。すぐにもここに戻ってくるだろう。
ギゼンガーはスカーレットと『蚕』を両脇に抱え込んだ。両者ともまるでネコのように抱かれ、大人しい。スカーレットはまともに『亡霊』の反撃を受けたのでダメージもあるのだろうが、『蚕』はまるっきり抵抗しなかった。
「ギゼンガー、勝機はあるの」
「ない」
スカーレットの問いに即答し、無理やり引き開けられた玄関のドアを抜け、ギゼンガーは飛び上がった。偽装など施す暇もなく、駅前に向けて低空を飛んだ。
誰も空に向けて気を払っていないのか、かなり低空を飛んだにもかかわらず下を歩く人々からの視線は感じない。二人も抱えているためにスピードが出ない。そのため、建物の陰に隠れながら飛ぶ必要があった。
「どこへ?」
「隠れられる場所を探している。学校は却下だぞ。人が多いからな、巻き添えになる」
「なら、例のホテル跡は? 倒産したホテルの建物がそのまま残ってるトコ」
「贅沢いえんからな、そこへ行く」
再生した羽も快調に、彼は飛ぶ。だが、ハイブリッド・インセクトは『オニヤンマ』の羽を持っている。トンボだ。最強の飛行能力を持っている。もし、奴と空中戦になればまずもって勝ち目はない。しかも、『オオスズメバチ』の外骨格には毒針も通じないだろう。
見つからないように祈りながら、飛んだ。
しばらく飛んだところで、スカーレットが飛べるくらいに回復したというので、彼女を放し、『蚕』を任せようとした。『蚕』にも羽はあるが、彼女は飛行能力をもたないのである。
「それじゃ、頼む」
「承知。あれ、どうしたの」
スカーレットが受け取ろうと手を伸ばしたのだが、『蚕』が嫌がった。腕をばたつかせ、抵抗している。大人しい彼女にしては珍しい。
「反抗期か」
「冗談言ってる場合じゃないでしょ、どういうわけかな」
仕方がないのでギゼンガーは腕を引っ込め、再び『蚕』を抱いた。が、その瞬間。
その場にいた全員の触覚が立ち上がった。こちらに向かって何かがやってきている。確認するまでもない、『亡霊』であろう。見つかってしまったのだ。
「逃がしてくれそうにない」
怯えるように自分にしがみついてくる『蚕』を引き剥がし、ギゼンガーはやってくるハイブリッド・インセクトを確認する。口のない『蚕』は泣き喚くことはなかったが、散々にその身を抱くスカーレットに抵抗した。
だが、いくらむずがっても、仕方がない。緊急事態なので、スカーレットは荒っぽく『蚕』を押さえつけ、力強く抱いた。
「行っててくれ、あいつを足止めする」
ギゼンガーはその場に停止した。慌てたスカーレットも止まった。
「本気? 勝機なんてあるの」
ギゼンガーはそう問われて、何も答えられなかった。
「後で追いつく」
かわりに口から出たのは明らかな虚言だった。それが不可能なことはわかりきっている。スカーレットは共に戦うと申し出たが、即座に却下された。
「サトコを巻き込むわけにはいかんだろう。いいから」
「でも」
「行っててくれ」
自分でも「ガラじゃないな」と思いながら、ギゼンガーは微笑んだ。スカーレットはそれを見て、『蚕』を抱く腕に一層の力をこめ、即座にそこを離れた。
横目でスカーレットを見送ったギゼンガーと、彼女に押さえつけられて暴れる『蚕』の目が合う。泣き出しそうなその目は、ギゼンガーの心に深く染み入った。
「……来たな」
彼は構える。あとほんの数秒で、ハイブリッド・インセクトはここにやってくる。
何としても、勝たねばならない。それが無理なことはわかっているが、それでもせねばならないことだった。
「来い」
ギゼンガーは、やってくる『亡霊』に命じた。その命令に応じて、彼はやってきた。左のカマを構えている。到着と同時に、ギゼンガーを逆袈裟に切り裂くつもりだ。
そこへやってくる勢いそのままに、『亡霊』は左手を振り払う。体重全てのかかった攻撃だ。空中でそれをかわすことはできない。蹴りつける地面がないからである。
代わりにギゼンガーは羽を止め、重力に引かれる道を選んだ。自由落下しつつ彼は身をできるだけ屈め、結果、ハイブリッド・インセクトのカマはギゼンガーの頭上を通過した。
「ちっ!」
だが、『オニヤンマ』の飛行能力を持つハイブリッド・インセクトはすぐさま方向転換を行った。真下にいるギゼンガーに向けて、落下速度も加えて突撃を仕掛ける。
ギゼンガーは一足早く、地面に足をつけていた。素早く地面を蹴り、その突撃を回避する。ハイブリッド・インセクトはそのまま地面に激突し、タイルで舗装された歩道に大穴を開けた。
4車線の通りにある、舗装された歩道だった。商店街ほどではないにしても人も通っている。ギゼンガーは偽装していないし、ハイブリッド・インセクトもその気は全くないだろう。つまり、彼らの奇異な姿は通行人に丸見えだった。
瞬間、衝撃がその場を襲った。パニックとなったのである。
これが『アリ』たちの出る前であるなら、こうはならなかったかもしれない。何かの撮影だろうということで大した騒ぎにならなかった可能性もある。都会の人間とはそういうものだからだ。しかし、今は情勢が違う。もはや改造戦士がいるということは世間に知られているし、離散した『アリ』たちが人間の手で駆逐されたという事実からも、彼らが人間にとって敵であるということは疑う余地もない。
住人達は即座に逃亡を開始し、その場から消えていく。ほどなく警察や消防に通報がなされるだろう。
『亡霊』はすぐさま自ら開けた大穴から抜け、ギゼンガーに斬りかかってきた。地面の上で戦うならば飛行能力の違いはさほど問題にはならない。『ホウジャク』のようにすばしこいわけでもないからだ。
しかし、地上戦においてもハイブリッド・インセクトは強い。強靭すぎる外骨格、それに毒針、大アゴ、カマ、中足といったいいところばかりを取り揃えた怪物だ。
「懺悔の時間が欲しいか?」
再びギゼンガーの前に立った『亡霊』が、憐憫を垂れたような声で言う。自らの勝利を確信しているようである。その態度は気に食わないが、これほど圧倒的な強さをもっているのならば、それも仕方がないとギゼンガーは思った。
「俺が何をしにここに来ているのか、わからないのか? 偉そうな割に脳味噌は足りてないと見える」
だが腹は立ったので、ギゼンガーは相手を挑発した。スカーレットを先に逃がしたことを考えても、ここにギゼンガーがいるのは彼女達が逃げるだけの時間を稼ぎにきている、ということは明白だった。にもかかわらず懺悔する時間を与える『亡霊』にはそれがわかっていないのだろう、という皮肉である。この挑発に『亡霊』はあっけなくかかった。すぐさま言葉もなく突撃を繰り出し、ギゼンガーを中足でつらぬこうとする。
これに対し、ギゼンガーはタイミングを合わせて突撃をかけた。レッドアイとの戦いと同じように、相手の素早さを逆に利用し、攻撃を抜けようというのだ。
だが、『亡霊』はこれを読んでいた。正面からがっしりとギゼンガーの突進を受け止め、返す刀で右のカマを一振り、ただそれだけで十分だった。
圧倒的な体格の差と地力の違いでギゼンガーの突進は失敗となる。彼は突撃の甲斐もなくはね飛ばされ、しかも両腕を切り飛ばされたのだ。
片腕を失うということは今まで散々あったが、両腕とも切断されたことはなかった。急いで距離をとったが、切断された両の腕は地面に落ち、体液を吐いている。さすがのギゼンガーも、これは夢ではないのかと思ったくらいだった。
今切断されたのは、『確かに俺の腕』なのか。俺が、俺が両腕を切られるなんてこと、信じられない。
どうすることもできない。何度確認しても、彼は両腕を失ったのだ。肘関節から先が落ち、なくなっている。
「絶望したか?」
ハイブリッド・インセクトの顔が笑ったように見えた。大アゴの奥からバカにしたような声がする。
「そんな暇はない」
ギゼンガーは冷静になった。バカにされたことで、逆に現実を見据える力を得たのである。
自分の目的は勝つことではない。時間を稼ぐことだった。だから、ここは負けてもいいのである。希望をつなぐことさえ、できればそれでよい。
確かに彼は勝たねばならない。しかし、この場合の勝利とは、ここでハイブリッド・インセクトを葬り去ることではない。十分な時間を稼ぐことなのだ。
「手無しの蛾が一匹で……」
『亡霊』が足を振り上げた。両腕を失ったギゼンガーはかわそうとしたが、それさえもできなかった。回避しようとしたのはよかったが、バランスがとれず、背後にひっくり返りそうになったからだ。当然そこへ打ち込まれる蹴りなど、対処できるはずもない。
あっさりと決まった。たったの一発の蹴りでギゼンガーは吹き飛び、車道に投げ出された。口元から体液が噴き出し、咳き込む。起き上がることさえも困難だった。
羽と足でなんとか起き上がると、もうそこに敵が飛び掛ってきている。
腕の振りがないだけで、こんなにも身体は動かしにくくなるものか。
ギゼンガーは舌打ちをしたかったが、口の中は体液で溢れていた。
水平に薙がれた両のカマが、ギゼンガーを襲う。彼はお辞儀をするように頭を垂れてそれを回避する。次の瞬間、彼の視界は暗転した。垂れた頭を蹴り上げられたのだ。
ハイブリッド・インセクトは、蹴り上げたギゼンガーの頭を右のカマで吹き飛ばそうとさらなる追撃を見舞う。これを食らえば終わりだ。
すんでのところで、ギゼンガーはこれを回避した。蹴られた衝撃にプラスし、自分でも背後に倒れこむように力を入れ、のけぞるようにしてこの一撃を避けたのだった。頭を蹴られた彼の視界はまともではなくなっていたが、何度となく繰り返した戦闘のおかげで、敵の動きは読めるようになっていた。
さらに、片足を振り上げて突っ込んできた敵に対して一撃を見舞う。あの外骨格に大した効き目はないと思われるが、何もしないよりはマシとふんでのことだった。
しかし、やはりといおうか、ハイブリッド・インセクトにダメージが与えられたとはいえないようであった。振り上げた片足をつかまれ、それを切断された。
「!」
いよいよもって、ギゼンガーは死を覚悟した。勝負にならない。右足が膝から切断され、体液を吐いている。一挙に両腕、片足を千切られたダメージが大きく、気が遠くなる。羽を動かして、さらに背後に下がろうとしたが、無駄だろう。
右目に額から落ちた体液が流れ、視界も確保できなくなってきた。
「数々の活躍、ご苦労だったな。お前の身体は野ざらしにして風葬にしてやろう、手間を取らんから」
両腕と右足を奪われたギゼンガーは、立つだけで精一杯である。
「『蛾』というよりも、芋虫にもどったようだな。その姿では這い回ることしかできまい」
『亡霊』の嫌なセリフが聞こえる。次の一撃はどうあっても回避できない。さすがにここまでか、と思う。
しかし運命は彼にまだ死ぬことを赦さなかった。
ギゼンガーを縦半分に真っ二つにするべく、カマを振るったハイブリッド・インセクトに不意打ちをかけたものがあったのだ。ちょうどカウンターになったその攻撃は見事に彼をひるませた。
やってきた勢いそのままにとび蹴りを食らわせたのは、スカーレットだった。彼女は必死の形相で、一撃を与えた後はもう『亡霊』には目もくれず、ギゼンガーの身体を引っつかむと大急ぎでその場から離れた。
「スカーレット!」
ギゼンガーは白いカマキリの姿をなんとか視界にとらえた。
「黙って!」
ここから退避するのに必死なスカーレットは唇をぎゅっと結び、助走をつけて踏み切り、飛び上がる。だが、当然『亡霊』も追ってくるに違いない。『オニヤンマ』の機動力をもってやってくる彼から逃れるには、隠れながら行くしかなかった。
「俺の羽を揺すってくれ、鱗粉を撒く」
そう言われてスカーレットは必死に飛びながら、ギゼンガーの羽を揺すった。彼の羽から落ちた鱗粉が空に散っていく。
目くらましの効果程度しかないが、何にでも頼る必要性があった。
『亡霊』は、その鱗粉を頼りにしてスカーレットとギゼンガーを追いかける。あまりにも目立つ、空中への散布。ギゼンガーの鱗粉は格好の目印となってしまっていた。
鱗粉は小さなビルの屋上へと続いている。浅はかな、と彼は思い、そこへ飛んだ。しかし、そこに残されていたのはギゼンガーの片羽だけだったのである。
「ちっ。潜伏を許したか」
『亡霊』は苦々しく言った。追跡は失敗したのだ。
とはいえ、彼はあまりこの失敗を問題にしていない。ギゼンガーたちは正義のヒーローごっこに興じている。すぐさま、また自分の前に立ちふさがるに違いない。そのときにこそ、鉄槌を下せばよいのだという考えがあったのである。




