王宮中が聖女を崇めているけど、俺だけは彼女の黒歴史を知っている
「ああ、聖女ナミエラ様……! 今日もなんと慈愛に満ちたお姿なのだ……」
「歩くたびに白百合の香りがする。まさに神の愛し子、地上の奇跡だ」
白亜の王宮の廊下。すれ違う近衛騎士や貴族たちが、うっとりとした表情で胸に手を当てている。
彼らの視線の先にいるのは、純白の聖衣に身を包んだ少女、ナミエラ。
ウェーブがかった金髪、吸い込まれそうな碧眼、そしてすべてを許すかのような聖母の微笑み。
(……いや、騙されるな。目を覚ませ、お前ら!)
俺──王宮魔導士団の結界班に所属するフロストは、壁際に寄って一礼しながら、心の中で激しくツッコミを入れていた。
(何が白百合の香りだ。あれは今朝、あいつが『結界の触媒に使うから高価なハーブ香水を買ってくれ』って魔導士団の経費で落とさせたやつだぞ。高価なのに、失敗して激しくぶちまけただけだからな!)
ナミエラが俺の横を通り過ぎる。その瞬間、彼女は周囲に見えない絶妙な角度で、俺にだけ「助けて」と言わんばかりの、白目を剥きかけた視線を送ってきた。
(……おい、なんだその顔は。聖女の顔面が崩壊してるぞ)
すれ違いざま、ナミエラが蚊の鳴くような声で囁く。
『……ふろすと……たすけて、ドレスの裾踏んだ、動けない……』
(はあ!?)
よく見ると、彼女は完璧な微笑みを顔面に張り付かせたまま、完全に硬直していた。気品あふれるポーズに見えたそれは、単にバランスを崩して耐えているだけのポーズだった。
俺はため息を噛み殺し、魔導士らしくスマートに指をパチンと鳴らす。無詠唱で小さな風の魔術を発動させ、彼女のドレスの裾をほんの少し浮かせて、絡まりを解いた。
「──っ、感謝します、フロスト殿」
ナミエラは声高らかにそう言うと、何事もなかったかのように優雅に歩き去っていった。周囲の貴族たちが「おお、一介の魔導士にも声をかけるとは、なんと慈悲深い……!」と涙ぐんでいる。
(違う。あれはただの『お礼』だ。お前らの聖女、今、足がプルプル震えてただろ)
世界中が彼女を完璧な聖女と崇めているが、俺だけは知っている。彼女の本性は、ただのドジで、泣き虫で、驚くほどポンコツな幼馴染のナミだということを。
◇ ◇ ◇
その日の夜。王宮の最上階にある、聖女専用の私室。
一般の人間は立ち入り禁止のその部屋に、俺は業務の報告──という名目の愚痴聞き──のために足を運んでいた。
ノックをして中に入った瞬間、昼間の完璧な聖女はどこにもいなかった。
「フロストおおおおお! もう駄目、死んじゃう! 今日の礼拝、二時間も立ちっぱなしだったの! 足が棒! っていうか、棒のほうがまだ歩ける!」
豪華なソファーに、聖衣を着たままうつ伏せでぶ倒れている女がひとり──。
「おい、せめて着替えてから倒れろ。そのドレス、国宝級のシルクだろ」
「無理! 背中の紐が硬くて指が死んだ! フロスト、解いて!」
「……お前、一応俺は男なんだが?」
文句を言いつつも、俺はソファーの横に膝をつき、彼女の背中のリボンに手をかける。昔からこうだ。こいつは昔から、服の紐を結べば絡まり、靴を履けば左右を間違える。
「大体、昼間のあれは何だ。裾を踏んで固まる聖女がどこにいる」
「だって、あの靴、ヒールが5センチもあるんだよ!? あんなの竹馬じゃん! 神様だって『そんな無茶な靴は履くな』って言ってるよ、絶対!」
「言ってない。神のせいにすんな」
するりとリボンが解ける。ナミエラは「ぷはぁ!」と息を吹き返し、ずるずると這い出てきて、クッションを抱きしめた。
髪はボサボサ、顔は完全にオフモード。だが、その無防備な姿に、俺の心臓が少しだけ変なリズムを刻む。
……いや、これは単なる幼馴染としての呆れだ。そう言い聞かせる。
「でも、フロストがいてくれて本当に良かった。お昼の風の魔法、すっごく格好よかったよ。一瞬で私のピンチを救ってくれるなんて、まるで騎士様みたい」
上目遣いで、ナミエラがへにゃっと笑う。
「っ……、うるさい。結界班の仕事に『聖女の転倒防止』は含まれてない。次やったらそのまま転ばせるからな」
「えー! 冷たい! 昔は『ナミが転んだら俺が絶対受け止める』って言ってくれたのに!」
「それは七歳の時の話だ! 黒歴史を掘り返すな!」
顔が熱くなるのを感じて、俺はわざとらしくそっぽを向いた。
そう、俺たちは田舎の村で一緒に育った。彼女の魔力特性が「神聖属性」だと判明し、聖女として拉致同然に王宮に連れて行かれた時、俺は彼女を守るために死に物狂いで勉強して、王宮魔導士になったのだ。
……まあ、そんな本心は、口が裂けても言えないが。
◇ ◇ ◇
数日後。王宮の大聖堂にて、隣国の使節団を迎えての「光の祝福」の儀式が行われることになった。
大勢の貴族や他国の要人が見守る中、聖女が祭壇で祈りを捧げ、聖なる光を部屋いっぱいに満たすという、極めて重要な国家行事だ。
俺たち魔導士団は、儀式の魔力暴走を防ぐために四隅で結界を張っていた。
(頼むから、今日だけは大人しくしててくれよ……)
俺の祈りは、神ではなくナミエラに届くべきだった。祭壇の上に立つナミエラは、今日も神々しい。
完璧な所作で聖杯を掲げ、目を閉じて祈りを捧げる。その身体から、美しい純白の光があふれ出していく。
使節団からは「おお……」と感嘆の声が漏れた。
だが、俺は見逃さなかった。光の結界の向こうで、ナミエラの眉間が一瞬、ピクッと動いたのを。
(……待て。あの顔は、何かを忘れた時の顔だ)
ナミエラの視線が、泳ぐように四隅を巡り、俺のところでピタッと止まった。その目は、完全にパニックに陥っている。
彼女は唇をほとんど動かさずに、魔力通信──小声──を飛ばしてきた。
『フロスト……! 大変、大変なの……!』
『どうした。光の制御が乱れてるぞ、集中しろ』
『違うの! 祈りの言葉の、三番目のフレーズ、ど忘れしちゃった……!!』
『はあ!?!?』
俺は結界を維持しながら、白目を剥きそうになった。国の威信をかけた儀式で、セリフを忘れる聖女がどこにいるというのだ。
『えっと、えっと……「大いなる光よ、大地の果てまで……」だっけ? それとも「大いなる光よ、お腹いっぱいの……」だっけ?』
『後半は昨日の夜食の記憶だろ! いいから聞け、「大いなる光よ、闇を払い、遍く命に慈雨をもたらせ」だ!』
『あ、それだ!』
ナミエラはぱっと表情を輝かせ──周囲には神の啓示を受けたように見えたらしい──、堂々と声を張り上げた。
「──大いなる光よ! 闇を払い、遍く命に慈雨をもたらせ──!」
瞬間、大聖堂はまばゆい光に包まれ、儀式は大成功のうちに幕を閉じた。パチパチパチ、と盛大な拍手が巻き起こる。
使節団の代表が「素晴らしい! なんと力強く、美しい祈りか!」と大絶賛している。祭壇の上で、ナミエラは誇らしげに胸を張り、皆に微笑みかけている。
だが、その視線はまっすぐに俺を捉えていた。いたずらが成功した子供みたいに、嬉しそうに、片目をきゅっと瞑ってウインクして見せたのだ。
(……心臓に悪いから、他所でやれ)
俺は慌てて視線を逸らしたが、耳たぶが熱くなっているのを隠せなかった。
◇ ◇ ◇
儀式の後、いつものように聖女の私室。ナミエラはまたしてもソファーに倒れ込んでいたが、今回はすぐにガバッと起き上がって、俺の元へと駆け寄ってきた。
「フロストー! 本当にありがとう! フロストがいてくれなきゃ、私、今頃『お腹いっぱいの光』を降らせるところだったよ!」
「それはそれで、別の意味で奇跡の聖女として歴史に残ったかもな」
「もう、からかわないでよ!」
ぷくっと頬を膨らませるナミエラ。その顔は、王宮の誰も見たことがない、俺だけのナミの顔だ。
「……でも、本当に助かった。私、聖女になんて選ばれちゃったけど、中身はあの頃の、転んでばっかりのナミのままだから。みんなが私を神様みたいに崇めるたびに、本当はすごく怖くなるんだ」
ナミエラは、ドレスの裾をきゅっと握りしめ、少し寂しそうに視線を落とした。
「私がポンコツだってバレたら、みんなガッカリしちゃうかなって。……でもね」
彼女は顔を上げ、一歩、俺に近づいた。ふわりと、今度は白百合ではなく、彼女自身の、昔から知っている甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
「フロストが私を見ていてくれるから、私、聖女様を頑張れるんだよ。私の黒歴史も、ドジなところも、全部知った上で……隣にいてくれるから」
碧眼の瞳が、まっすぐに俺を見つめる。その瞳には、大聖堂の光よりも綺麗な、俺の姿だけが映っていた。
──いや、ずるいだろ! それ!
昼間はあんなにポンコツだったくせに、こういう時だけ、聖女みたいな破壊力のある笑顔を見せるなんて。
俺はふいっと顔を背け、彼女の頭を少し乱暴に、だけど優しく撫でまわした。
「……当たり前だろ」
「あうっ、髪がボサボサになっちゃう!」
「お前がどれだけ偉くなろうが、聖女と崇められようが、俺にとってはただの幼馴染だ。お前が忘れたセリフは俺が教えるし、裾を踏んだら魔法で助ける。だから──」
俺は手を止め、彼女の耳元で小さく呟く。
「周りの目なんて気にするな。お前のポンコツなところは、俺だけが一生、面倒見てやるから」
「──っ」
ナミエラの顔が、一瞬で真っ赤に染まった。両手で顔を覆い、指の隙間から俺を上目遣いで睨んでくる。
「な、何それ……! それ、ずるい! 格好よすぎる! いつの間にそんなセリフ言えるようになったの、この魔術オタク!」
「オタク言うな。お前が煽るからだろ」
「うぅ……心臓がバクバクする。これ、神聖魔法でも治せないよ……」
ソファーに顔を埋めて悶絶し始めた聖女様を見て、俺は小さく吹き出した。
王宮中が彼女を聖女と崇め、その完璧さにひれ伏している。だけど、彼女の本当の可愛さを、その手を引いて歩く特権を、俺だけが知っている。
これからも、この黒歴史の共有者は、俺一人で十分だ。
おしまい
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