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婚約破棄の前に、契約書を差し出したら溺愛が始まりました  作者: swingout777


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7/10

神の記録(夜明け前の宣誓)

夜の空気は、刃物みたいに冷たかった。

馬車の中で、私は自分の指先を見つめていた。震えが止まらない。


「怖いか」


エイドリアンが問う。

問い方が優しいわけではない。

けれど、私の呼吸を整えるための問いだと分かる。


「……はい」


「なら、怖いまま進め。

今夜の恐怖は、明日の証拠になる」


馬車が止まり、扉が開く。

そこにあったのは神殿の門。

夜明け前なのに、灯りがともっている。

祈りが切れない場所は、闇でも完全には眠らない。


「公爵様」


出迎えたのは、年配の聖職者だった。

黒い外套の下に白い衣。

静かな目をした人だ。


エイドリアンは短く名を告げ、躊躇なく言った。


「証言の保全を頼む。

今夜、王宮で“記録が消された”。次は人が消される」


聖職者の目が細くなる。

政治の匂いを、嫌でも嗅ぎ分ける目だ。


「……神殿は政治の道具ではありません」


「分かっている」


エイドリアンは、そこで引かなかった。


「だからこそ来た。

神殿の記録は、王宮の台帳より消しにくい」


私は、その言葉を噛みしめた。

消しにくい。

それが、今の私の望みのすべて。


聖職者は私を見た。

私の震えを見て、なお言う。


「奥様の意志は?」


私は息を吸う。

ここで逃げれば、次は本当に“消される”。


「……私の意志です。

私は、私の名を残したい」


聖職者が頷き、奥へ導いた。


礼拝堂は静かだった。

天井が高く、音がすぐ祈りに変わっていく気がした。

蝋燭の火が揺れ、影が伸びる。

私はその影さえも、追手に見えてしまう。


「ここで宣誓します」


聖職者が言う。

机の上には、分厚い台帳。

白い紙。

封蝋。


私は喉を鳴らした。

王宮の台帳は消された。

でも、この台帳は――神殿のものだ。


「内容は“分割”のままがよいでしょう」


エイドリアンが言う。


「一通に全てを書けば、奪われた瞬間に終わる。

ここでも同じだ。

必要な部分だけを、確実に残す」


聖職者が頷く。


「では、奥様。

“何が起きたか”だけを、まず」


私はペンを握った。

手が震える。

けれど書く。


王宮文書庫にて、受領票番号が欠番として処理された。

欠番回収箱が存在し、複数の印章が重ねられている。

王太子補佐官が箱の移管を求め、保全を装って消そうとした。

本日未明、私の寝室に侵入者があった。


書いているうちに、震えが少しだけ形を変えた。

恐怖から、怒りへ。

怒りから、意志へ。


「次に、奥様の“秘密”のうち――全体像のみ」


エイドリアンが言う。

私は、封筒の一つを開いた。

三通に分けた告発文。

そのうち“全体像”だけを、神殿の台帳へ写す。


王太子派閥による資金の不正流用があり、

文書庫の欠番処理は不正の隠蔽と考えられる。

関係者名は別紙にて保全。


関係者名は書かない。

ここでは“構図”だけ残す。

名前は、次の証人へ分割して渡す。


聖職者が私の書いた文を読み、静かに言った。


「奥様。

この内容は、命に関わります」


「……分かっています」


「それでも、記すのですね」


私は頷いた。


「記さなければ、私は消されます。

私は――消されるのが一番怖い」


その言葉が、礼拝堂に落ちた。

落ちて、吸い込まれる。


聖職者が封蝋を取り、台帳へ押した。

そして、宣誓の言葉を求める。


「神の前に。

虚偽なく、己の名をもって記すと誓えますか」


私は、息を吸った。

胸の奥が熱い。


「誓います」


声が、震えなかった。

その事実に、私が一番驚いた。


エイドリアンが言う。


「これで一つ、証人が増えた。

神殿の記録官は、王宮より簡単には黙らない」


聖職者は厳しい顔で言った。


「黙りません。

ただし――代償は、覚悟してください」


「覚悟はしています」


私が言うと、聖職者は少しだけ目を和らげた。


「では、次です。

奥様の身柄を守るため、神殿名義の“保護声明”を出します」


私は息を呑んだ。


「そんなことが……」


「命が狙われていると記録した以上、神殿は見捨てません。

ただし――王宮は激しく反発するでしょう」


反発。

つまり、王太子派が暴走する。


エイドリアンが即座に言った。


「それでいい。

暴走させれば、記録が増える」


私の胸の奥で、理解が繋がった。

相手が動けば動くほど、痕跡が残る。

痕跡が残れば、消しにくくなる。


夜明けが近づく。

神殿を出る頃には、空が薄く白み始めていた。


その瞬間、使者が駆け込んできた。

公爵邸の者だ。息が荒い。


「公爵様!

貴族院と監査局より……“受領”の返答が届きました!」


届いた。

写しが。

分割が。

同時拡散が成功した。


エイドリアンの目が鋭くなる。


「……相手も、気づく」


使者が続ける。


「それと――王宮から急使が来ています。

“奥様を王宮へ招致する”と。今すぐに、と……!」


招致。

聞こえは丁寧。

でも実態は、拘束だ。


私は喉が鳴った。

逃げ道が狭くなる。


エイドリアンが即答した。


「行かない」


「しかし、王命で――」


「王命なら文書で寄越せ。

そして理由を添えろ。

理由がない招致は誘拐と同じだ」


使者が息を呑む。


私も、息を呑んだ。

誘拐。

昨夜の侵入。

今朝の招致。

全部が一本に繋がっていく。


そして、もう一つ。

嫌な予感。


「……殿下は、私を“罪人”にする気です」


私が言うと、エイドリアンは短く頷いた。


「そうだ。

君が消せない記録を作った。

なら相手は、君の信用を殺して記録を腐らせる」


「どうやって」


「“告発者は頭がおかしい”にする。

“証拠は捏造”にする。

そして――君を拘束し、口を塞ぐ」


私は唇を噛んだ。

怖い。

でも、怖いだけじゃない。


「……なら、先に公にします」


「何を」


私は一歩、前へ出た。

神殿の門の前で。

夜明けの光の中で。


「神殿が保護声明を出すなら、私は“宣誓した”事実を公にします。

私が逃げたのではなく、記録を残すためにここに来た、と」


エイドリアンが私を見る。

その視線は鋭い。

そして――ほんの少しだけ、誇らしげだった。


「いい。

君はもう、悪役じゃない。

“証人”だ」


その時。

遠くから、鐘の音が鳴った。

神殿の朝の鐘。

祈りの始まりを告げる音。


同時に、王宮の方向から馬の蹄が響く。

速い。多い。

追手の音だ。


使者が蒼白で叫ぶ。


「公爵様!

王宮の騎士団が――こちらへ……!」


エイドリアンが外套を翻し、短く言った。


「来るなら来い。

ここは神殿だ。

王宮が神殿に踏み込むなら――それだけで記録になる」


私は、息を吸った。

怖い。

でも、逃げない。


神殿の門前に、王宮騎士団が列を成して止まった。

先頭の騎士が、冷たい声で告げる。


「リュシア・アルフェン。

王命により、身柄を拘束する。――罪状は“国家反逆”」


反逆。

その言葉が、朝の光の中で黒く浮いた。


私は、ゆっくりと笑った。


「……とうとう、来ましたね」

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