神の記録(夜明け前の宣誓)
夜の空気は、刃物みたいに冷たかった。
馬車の中で、私は自分の指先を見つめていた。震えが止まらない。
「怖いか」
エイドリアンが問う。
問い方が優しいわけではない。
けれど、私の呼吸を整えるための問いだと分かる。
「……はい」
「なら、怖いまま進め。
今夜の恐怖は、明日の証拠になる」
馬車が止まり、扉が開く。
そこにあったのは神殿の門。
夜明け前なのに、灯りがともっている。
祈りが切れない場所は、闇でも完全には眠らない。
「公爵様」
出迎えたのは、年配の聖職者だった。
黒い外套の下に白い衣。
静かな目をした人だ。
エイドリアンは短く名を告げ、躊躇なく言った。
「証言の保全を頼む。
今夜、王宮で“記録が消された”。次は人が消される」
聖職者の目が細くなる。
政治の匂いを、嫌でも嗅ぎ分ける目だ。
「……神殿は政治の道具ではありません」
「分かっている」
エイドリアンは、そこで引かなかった。
「だからこそ来た。
神殿の記録は、王宮の台帳より消しにくい」
私は、その言葉を噛みしめた。
消しにくい。
それが、今の私の望みのすべて。
聖職者は私を見た。
私の震えを見て、なお言う。
「奥様の意志は?」
私は息を吸う。
ここで逃げれば、次は本当に“消される”。
「……私の意志です。
私は、私の名を残したい」
聖職者が頷き、奥へ導いた。
礼拝堂は静かだった。
天井が高く、音がすぐ祈りに変わっていく気がした。
蝋燭の火が揺れ、影が伸びる。
私はその影さえも、追手に見えてしまう。
「ここで宣誓します」
聖職者が言う。
机の上には、分厚い台帳。
白い紙。
封蝋。
私は喉を鳴らした。
王宮の台帳は消された。
でも、この台帳は――神殿のものだ。
「内容は“分割”のままがよいでしょう」
エイドリアンが言う。
「一通に全てを書けば、奪われた瞬間に終わる。
ここでも同じだ。
必要な部分だけを、確実に残す」
聖職者が頷く。
「では、奥様。
“何が起きたか”だけを、まず」
私はペンを握った。
手が震える。
けれど書く。
王宮文書庫にて、受領票番号が欠番として処理された。
欠番回収箱が存在し、複数の印章が重ねられている。
王太子補佐官が箱の移管を求め、保全を装って消そうとした。
本日未明、私の寝室に侵入者があった。
書いているうちに、震えが少しだけ形を変えた。
恐怖から、怒りへ。
怒りから、意志へ。
「次に、奥様の“秘密”のうち――全体像のみ」
エイドリアンが言う。
私は、封筒の一つを開いた。
三通に分けた告発文。
そのうち“全体像”だけを、神殿の台帳へ写す。
王太子派閥による資金の不正流用があり、
文書庫の欠番処理は不正の隠蔽と考えられる。
関係者名は別紙にて保全。
関係者名は書かない。
ここでは“構図”だけ残す。
名前は、次の証人へ分割して渡す。
聖職者が私の書いた文を読み、静かに言った。
「奥様。
この内容は、命に関わります」
「……分かっています」
「それでも、記すのですね」
私は頷いた。
「記さなければ、私は消されます。
私は――消されるのが一番怖い」
その言葉が、礼拝堂に落ちた。
落ちて、吸い込まれる。
聖職者が封蝋を取り、台帳へ押した。
そして、宣誓の言葉を求める。
「神の前に。
虚偽なく、己の名をもって記すと誓えますか」
私は、息を吸った。
胸の奥が熱い。
「誓います」
声が、震えなかった。
その事実に、私が一番驚いた。
エイドリアンが言う。
「これで一つ、証人が増えた。
神殿の記録官は、王宮より簡単には黙らない」
聖職者は厳しい顔で言った。
「黙りません。
ただし――代償は、覚悟してください」
「覚悟はしています」
私が言うと、聖職者は少しだけ目を和らげた。
「では、次です。
奥様の身柄を守るため、神殿名義の“保護声明”を出します」
私は息を呑んだ。
「そんなことが……」
「命が狙われていると記録した以上、神殿は見捨てません。
ただし――王宮は激しく反発するでしょう」
反発。
つまり、王太子派が暴走する。
エイドリアンが即座に言った。
「それでいい。
暴走させれば、記録が増える」
私の胸の奥で、理解が繋がった。
相手が動けば動くほど、痕跡が残る。
痕跡が残れば、消しにくくなる。
夜明けが近づく。
神殿を出る頃には、空が薄く白み始めていた。
その瞬間、使者が駆け込んできた。
公爵邸の者だ。息が荒い。
「公爵様!
貴族院と監査局より……“受領”の返答が届きました!」
届いた。
写しが。
分割が。
同時拡散が成功した。
エイドリアンの目が鋭くなる。
「……相手も、気づく」
使者が続ける。
「それと――王宮から急使が来ています。
“奥様を王宮へ招致する”と。今すぐに、と……!」
招致。
聞こえは丁寧。
でも実態は、拘束だ。
私は喉が鳴った。
逃げ道が狭くなる。
エイドリアンが即答した。
「行かない」
「しかし、王命で――」
「王命なら文書で寄越せ。
そして理由を添えろ。
理由がない招致は誘拐と同じだ」
使者が息を呑む。
私も、息を呑んだ。
誘拐。
昨夜の侵入。
今朝の招致。
全部が一本に繋がっていく。
そして、もう一つ。
嫌な予感。
「……殿下は、私を“罪人”にする気です」
私が言うと、エイドリアンは短く頷いた。
「そうだ。
君が消せない記録を作った。
なら相手は、君の信用を殺して記録を腐らせる」
「どうやって」
「“告発者は頭がおかしい”にする。
“証拠は捏造”にする。
そして――君を拘束し、口を塞ぐ」
私は唇を噛んだ。
怖い。
でも、怖いだけじゃない。
「……なら、先に公にします」
「何を」
私は一歩、前へ出た。
神殿の門の前で。
夜明けの光の中で。
「神殿が保護声明を出すなら、私は“宣誓した”事実を公にします。
私が逃げたのではなく、記録を残すためにここに来た、と」
エイドリアンが私を見る。
その視線は鋭い。
そして――ほんの少しだけ、誇らしげだった。
「いい。
君はもう、悪役じゃない。
“証人”だ」
その時。
遠くから、鐘の音が鳴った。
神殿の朝の鐘。
祈りの始まりを告げる音。
同時に、王宮の方向から馬の蹄が響く。
速い。多い。
追手の音だ。
使者が蒼白で叫ぶ。
「公爵様!
王宮の騎士団が――こちらへ……!」
エイドリアンが外套を翻し、短く言った。
「来るなら来い。
ここは神殿だ。
王宮が神殿に踏み込むなら――それだけで記録になる」
私は、息を吸った。
怖い。
でも、逃げない。
神殿の門前に、王宮騎士団が列を成して止まった。
先頭の騎士が、冷たい声で告げる。
「リュシア・アルフェン。
王命により、身柄を拘束する。――罪状は“国家反逆”」
反逆。
その言葉が、朝の光の中で黒く浮いた。
私は、ゆっくりと笑った。
「……とうとう、来ましたね」




