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婚約破棄の前に、契約書を差し出したら溺愛が始まりました  作者: swingout777


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6/10

奪う(攫われる前に、拡散する)

公爵邸へ向かう馬車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。

夜の街灯が流れ、影が追いかけてくるように揺れる。


「攫う……本当に?」


声が自分のものではないみたいに乾いていた。


エイドリアンは向かいに座り、何でもないことのように頷く。


「本当にだ。

証拠を消せないと分かった相手は、次に“証拠を持つ人間”を消す。

君を攫うか、君の口を塞ぐ。

あるいは――君を“悪役”として固定する話を作る」


悪役として固定する話。

噂。証言。切り取り。

あれほど便利な武器はない。


私は膝の上で拳を握る。

指先が冷たい。


「……怖いです」


言ってしまった。

契約の場で言えなかった本音。


エイドリアンは一瞬だけ視線を下げ、私の拳を見た。

そして淡々と言う。


「怖いなら、怖いまま動け。

怖さは消えない。だが手順は増やせる」


手順。

私はその言葉に救われる。


公爵邸に着くと、もう護衛が配置されていた。

騎士が二名、さらに女性の護衛が一名。

誰も余計な言葉を言わず、必要な距離だけを保ってついてくる。


「奥様。こちらへ」


案内された部屋は二階の端。

窓は高く、廊下側は視界が切れる位置。

扉の鍵は二重。

机は広く、灯りは十分。


「施錠は内側からも可能です」


女性護衛が短く言った。

頼もしい声だった。


エイドリアンが机に紙束を置く。


「今夜、やることは三つだ」


彼は指を三本立てた。


「一つ。写しの手配。

二つ。君の身柄の安全策。

三つ。攫われた場合の“反転”策」


私は息を呑む。


「反転……?」


「攫われれば終わり、ではない。

攫わせて、相手を詰ませる方法がある」


彼の声は冷たい。

けれど、そこに確かな“勝ち筋”がある。


「まず、写しだ。

文書庫の係は今夜のうちに、欠番の束の一部を写し取る。

写しは一通ではない。三通作る」


「三通も?」


「一通は貴族院記録官。

一通は監査局。

一通は――神殿」


「神殿?」


「王宮の外部勢力だ。

貴族院と監査局が潰されても、神殿が残る。

“複数の組織に同時に送る”と、回収できない」


回収できない。

その言葉が、胸の奥に火を灯した。

箱の中身が外へ出れば、消すのが難しくなる。

記録は、消えにくくなる。


エイドリアンはさらに続ける。


「送付は“同時刻”。

時刻がずれれば、先に届いた先だけ潰される」


「同時に送るには……?」


「使者を分ける。

そして――中身を分割する」


分割。

私は理解した。


「一通に全部入れない」


「そうだ。

一通に全部入れれば、奪われた瞬間に終わる。

三通に分ければ、一つ奪われても残る。

さらに――君が持つ鍵の中身も、分割する」


私は背筋が伸びた。


「鍵の中身……」


あの金属片の向こうにあるもの。

私の家が偶然握った不正。

それは王太子派の“本丸”に繋がる。


エイドリアンが机の引き出しから、封筒を三つ出した。

どれも無地。

しかし封蝋の形が微妙に違う。


「君は今夜、鍵の内容を“語る”のではなく“書く”。

三通に分ける。

一通には全体像。

一通には人物名。

一通には取引の流れ。

どれも単体では決定打にならないが、合わせると刺さる」


私はペンを取った。

指先は震える。

震えながらでも書ける。

書けるなら、戦える。


「……書きます」


真夜中。

公爵邸の中庭に、小さな影が三つ集まった。


一つは貴族院へ。

一つは監査局へ。

一つは神殿へ。


使者は別々。

時刻は同じ。

封蝋の形も違う。

それぞれに、分割された写しと、私の分割した告発文の一部が入っている。


「出した」


エイドリアンが短く言う。


私は胸の奥が、じくじく痛むのを感じた。

出した。

もう戻れない。

でも、戻る場所なんて最初からない。


「これで……回収できない」


私が呟くと、エイドリアンは頷いた。


「回収できない。

そして相手は、明日から“奪う”に全力を注ぐ」


私は息を吸った。


「……私を」


「そうだ」


エイドリアンは私の部屋の扉を見た。

扉の向こうに護衛がいる。

それでも、安心しきれない目だった。


「だから、次だ。

君の身柄を“奪いにくくする”」


「どうやって」


「公の場に出る。

明日、君は貴族院へ行く。

俺と、護衛と、証人を連れて。

君が“消える”と、即座に分かる状況を作る」


私は頷く。

それなら、攫いにくい。

攫えば、目立つ。

目立てば、責任が生まれる。


けれど――


胸の奥で、嫌な予感が膨らむ。

相手は責任を恐れない。

責任を押し付ける構造を持っている。


私は恐る恐る言った。


「相手が……私を攫って、別人に罪を被せたら」


エイドリアンが即答する。


「そのための反転策だ」


「反転策……」


「君が攫われたら、俺は“婚約破棄の無効”ではなく、

“誘拐事件”として動かす。

王宮の中で起きた誘拐は、王家の責任になる」


私は目を見開いた。


「王家の責任……」


「そうだ。

殿下は“見世物”を作った。

なら俺は“事件”を作る。

事件の記録は、消しにくい。消せば、国が揺れる」


エイドリアンの声は冷たい。

けれど、そこに僅かな怒りが混じっていた。


「君が消されるのは、許さない」


その一言が、胸の奥を熱くした。

契約書にはない言葉。

でも、契約書より重い。


私は、ゆっくり頷いた。


「……私も、許しません。

消されるぐらいなら、燃やします」


エイドリアンが短く笑った。

初めて見る、少しだけ人間らしい笑い。


「なら燃やせ。

俺が風向きを作る」


その夜、私は眠れなかった。

ベッドに横になっても、耳が音を探してしまう。

廊下の足音、窓の軋み、風の鳴り。


そして――

深夜を過ぎた頃。


カチ、と微かな音がした。


鍵が、回る音。


私は息を止めた。

扉は二重のはず。

護衛もいるはず。


なのに。


扉が、ほんの少しだけ開いた。


影が、滑り込んでくる。

黒い布。

静かな手。

口元を塞ぐための布。


私は叫ぼうとした。

だが声が出る前に、相手の指が近づく。


その瞬間。


廊下の向こうで、剣が抜かれる金属音が鳴り響いた。


「動くな!」


女性護衛の声。

続いて、男の低い声。


「奥様から離れろ!」


影が、舌打ちする。

逃げる。

窓へ――


「逃がすな」


エイドリアンの声が、廊下から届いた。

冷たく、正確で、怒りを含んだ声。


影が窓へ飛び、外へ消える。

庭の闇に溶ける。


私は息を吐いた。

全身が震える。

手が冷たい。


エイドリアンが部屋に入ってくる。

寝衣の上に外套を羽織ったまま。

起きていたのだ。

私の部屋に近い場所で。


「無事か」


「……はい」


声が掠れた。


エイドリアンが扉の鍵を確認し、短く言った。


「侵入経路は、内側から作られている。

……王宮だけじゃない。公爵邸にも、手が回っている」


私は喉が鳴った。


「つまり……」


「時間がない」


エイドリアンが、私の目を見て言う。


「明日の貴族院行きは中止だ。

代わりに――“今この瞬間”に動く。

写しが届く前に、相手は君を奪いに来る。

なら俺は、先に“証人”を増やす」


エイドリアンが机の上の封筒を掴み、私に告げた。


「今から神殿へ行く。

夜明け前に、聖職者の前で宣誓する。

――君の秘密を“神の記録”にする」

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