奪う(攫われる前に、拡散する)
公爵邸へ向かう馬車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。
夜の街灯が流れ、影が追いかけてくるように揺れる。
「攫う……本当に?」
声が自分のものではないみたいに乾いていた。
エイドリアンは向かいに座り、何でもないことのように頷く。
「本当にだ。
証拠を消せないと分かった相手は、次に“証拠を持つ人間”を消す。
君を攫うか、君の口を塞ぐ。
あるいは――君を“悪役”として固定する話を作る」
悪役として固定する話。
噂。証言。切り取り。
あれほど便利な武器はない。
私は膝の上で拳を握る。
指先が冷たい。
「……怖いです」
言ってしまった。
契約の場で言えなかった本音。
エイドリアンは一瞬だけ視線を下げ、私の拳を見た。
そして淡々と言う。
「怖いなら、怖いまま動け。
怖さは消えない。だが手順は増やせる」
手順。
私はその言葉に救われる。
公爵邸に着くと、もう護衛が配置されていた。
騎士が二名、さらに女性の護衛が一名。
誰も余計な言葉を言わず、必要な距離だけを保ってついてくる。
「奥様。こちらへ」
案内された部屋は二階の端。
窓は高く、廊下側は視界が切れる位置。
扉の鍵は二重。
机は広く、灯りは十分。
「施錠は内側からも可能です」
女性護衛が短く言った。
頼もしい声だった。
エイドリアンが机に紙束を置く。
「今夜、やることは三つだ」
彼は指を三本立てた。
「一つ。写しの手配。
二つ。君の身柄の安全策。
三つ。攫われた場合の“反転”策」
私は息を呑む。
「反転……?」
「攫われれば終わり、ではない。
攫わせて、相手を詰ませる方法がある」
彼の声は冷たい。
けれど、そこに確かな“勝ち筋”がある。
「まず、写しだ。
文書庫の係は今夜のうちに、欠番の束の一部を写し取る。
写しは一通ではない。三通作る」
「三通も?」
「一通は貴族院記録官。
一通は監査局。
一通は――神殿」
「神殿?」
「王宮の外部勢力だ。
貴族院と監査局が潰されても、神殿が残る。
“複数の組織に同時に送る”と、回収できない」
回収できない。
その言葉が、胸の奥に火を灯した。
箱の中身が外へ出れば、消すのが難しくなる。
記録は、消えにくくなる。
エイドリアンはさらに続ける。
「送付は“同時刻”。
時刻がずれれば、先に届いた先だけ潰される」
「同時に送るには……?」
「使者を分ける。
そして――中身を分割する」
分割。
私は理解した。
「一通に全部入れない」
「そうだ。
一通に全部入れれば、奪われた瞬間に終わる。
三通に分ければ、一つ奪われても残る。
さらに――君が持つ鍵の中身も、分割する」
私は背筋が伸びた。
「鍵の中身……」
あの金属片の向こうにあるもの。
私の家が偶然握った不正。
それは王太子派の“本丸”に繋がる。
エイドリアンが机の引き出しから、封筒を三つ出した。
どれも無地。
しかし封蝋の形が微妙に違う。
「君は今夜、鍵の内容を“語る”のではなく“書く”。
三通に分ける。
一通には全体像。
一通には人物名。
一通には取引の流れ。
どれも単体では決定打にならないが、合わせると刺さる」
私はペンを取った。
指先は震える。
震えながらでも書ける。
書けるなら、戦える。
「……書きます」
真夜中。
公爵邸の中庭に、小さな影が三つ集まった。
一つは貴族院へ。
一つは監査局へ。
一つは神殿へ。
使者は別々。
時刻は同じ。
封蝋の形も違う。
それぞれに、分割された写しと、私の分割した告発文の一部が入っている。
「出した」
エイドリアンが短く言う。
私は胸の奥が、じくじく痛むのを感じた。
出した。
もう戻れない。
でも、戻る場所なんて最初からない。
「これで……回収できない」
私が呟くと、エイドリアンは頷いた。
「回収できない。
そして相手は、明日から“奪う”に全力を注ぐ」
私は息を吸った。
「……私を」
「そうだ」
エイドリアンは私の部屋の扉を見た。
扉の向こうに護衛がいる。
それでも、安心しきれない目だった。
「だから、次だ。
君の身柄を“奪いにくくする”」
「どうやって」
「公の場に出る。
明日、君は貴族院へ行く。
俺と、護衛と、証人を連れて。
君が“消える”と、即座に分かる状況を作る」
私は頷く。
それなら、攫いにくい。
攫えば、目立つ。
目立てば、責任が生まれる。
けれど――
胸の奥で、嫌な予感が膨らむ。
相手は責任を恐れない。
責任を押し付ける構造を持っている。
私は恐る恐る言った。
「相手が……私を攫って、別人に罪を被せたら」
エイドリアンが即答する。
「そのための反転策だ」
「反転策……」
「君が攫われたら、俺は“婚約破棄の無効”ではなく、
“誘拐事件”として動かす。
王宮の中で起きた誘拐は、王家の責任になる」
私は目を見開いた。
「王家の責任……」
「そうだ。
殿下は“見世物”を作った。
なら俺は“事件”を作る。
事件の記録は、消しにくい。消せば、国が揺れる」
エイドリアンの声は冷たい。
けれど、そこに僅かな怒りが混じっていた。
「君が消されるのは、許さない」
その一言が、胸の奥を熱くした。
契約書にはない言葉。
でも、契約書より重い。
私は、ゆっくり頷いた。
「……私も、許しません。
消されるぐらいなら、燃やします」
エイドリアンが短く笑った。
初めて見る、少しだけ人間らしい笑い。
「なら燃やせ。
俺が風向きを作る」
その夜、私は眠れなかった。
ベッドに横になっても、耳が音を探してしまう。
廊下の足音、窓の軋み、風の鳴り。
そして――
深夜を過ぎた頃。
カチ、と微かな音がした。
鍵が、回る音。
私は息を止めた。
扉は二重のはず。
護衛もいるはず。
なのに。
扉が、ほんの少しだけ開いた。
影が、滑り込んでくる。
黒い布。
静かな手。
口元を塞ぐための布。
私は叫ぼうとした。
だが声が出る前に、相手の指が近づく。
その瞬間。
廊下の向こうで、剣が抜かれる金属音が鳴り響いた。
「動くな!」
女性護衛の声。
続いて、男の低い声。
「奥様から離れろ!」
影が、舌打ちする。
逃げる。
窓へ――
「逃がすな」
エイドリアンの声が、廊下から届いた。
冷たく、正確で、怒りを含んだ声。
影が窓へ飛び、外へ消える。
庭の闇に溶ける。
私は息を吐いた。
全身が震える。
手が冷たい。
エイドリアンが部屋に入ってくる。
寝衣の上に外套を羽織ったまま。
起きていたのだ。
私の部屋に近い場所で。
「無事か」
「……はい」
声が掠れた。
エイドリアンが扉の鍵を確認し、短く言った。
「侵入経路は、内側から作られている。
……王宮だけじゃない。公爵邸にも、手が回っている」
私は喉が鳴った。
「つまり……」
「時間がない」
エイドリアンが、私の目を見て言う。
「明日の貴族院行きは中止だ。
代わりに――“今この瞬間”に動く。
写しが届く前に、相手は君を奪いに来る。
なら俺は、先に“証人”を増やす」
エイドリアンが机の上の封筒を掴み、私に告げた。
「今から神殿へ行く。
夜明け前に、聖職者の前で宣誓する。
――君の秘密を“神の記録”にする」




