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婚約破棄の前に、契約書を差し出したら溺愛が始まりました  作者: swingout777


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押収の手(箱を渡さない)

補佐官の笑みは、丁寧だった。

丁寧すぎて、背筋が冷える。


「その箱、こちらで預かります。――“欠番”は、不要ですから」


欠番は不要。

それはつまり、“消す”という意味だ。


文書庫の係が、唇を震わせた。

彼は箱の前で、無意識に一歩退く。

退いた分だけ、補佐官の影が箱へ近づく。


私は息を吸った。

怖い。

けれど、目を逸らさない。

エイドリアンの言葉が、耳の奥で硬く響いている。


――今から君は“証人”だ。


エイドリアンが補佐官へ向き直る。

声は低い。表情は変わらない。


「預かる? 君に、その権限はない」


「ございますよ、公爵様」


補佐官は柔らかく笑ったまま、懐から一枚の文書を取り出した。

王太子補佐官印。

加えて、文書庫管理者の承認印。


「“保全のための一時移管”です。

文書庫内に不正な改竄の疑いが出た以上、問題のある記録を隔離する必要が――」


「隔離ではなく廃棄だろう」


エイドリアンが遮る。

補佐官の笑みがほんの一瞬だけ揺れた。


「言い方が過激です。

我々は王宮の秩序を――」


「秩序は記録で守る。

記録を消して守る秩序は、ただの隠蔽だ」


空気が張り詰める。

補佐官の部下らしき者が二名、扉の脇に立った。

手は剣に触れていない。

だが、いつでも動ける姿勢だ。


私は、エイドリアンの背中を見ていた。

彼は一歩も引かない。

それでも、真正面から殴り合う気配はない。

これは戦闘ではない。

手続きの戦争だ。


補佐官が私へ視線を向けた。


「奥様も、よろしいのでは?

“欠番”など、世間に出れば混乱します。

貴女の名誉のためにも、ここは――」


「私の名誉を語るなら、手続きを」


私は短く言った。

声が震えない。

震えそうになった瞬間、舌先で押さえ込んだ。


補佐官が瞬きする。

私が口を開くと思っていなかったのだろう。


「……手続き?」


「箱の移管理由、移管先、保管責任者、保管期限。

さらに、封印の現状確認と、開封条件。

“廃棄”はあり得ません。保全なら、保全の条項を」


私は言いながら、自分が少しおかしくなる。

怖くてたまらないのに、口から出るのは条文の骨格だ。


補佐官の笑みが薄くなる。


「奥様は……ずいぶんと、詳しい」


「今日、学びました」


私は答えた。

今日、舞踏会で。

“泣けば負ける”と。


エイドリアンが、静かに頷いた。

それは褒め言葉ではない。

合図だ。


彼は補佐官の文書を受け取り、ざっと目を走らせる。

そして、紙を机に置き、淡々と言った。


「この承認印、文書庫管理者のものだな」


「ええ」


「管理者は今、どこにいる」


補佐官の口元が動く。


「夜です。休まれて――」


「呼べ」


「公爵様」


「呼べ」


言葉が重なる。

押し引きではなく、圧の差。

補佐官は小さく息を吐き、部下へ顎で命じた。


「管理者を」


部下が出ていく。

扉が閉まる音が、やけに大きい。


その間、エイドリアンは私へ視線を投げた。

短い。

だが意味は明確だった。


――準備しろ。


私は文書庫の係へ、ほとんど口の形だけで言った。


「写しを」


係は震えながら、頷いた。

彼の目は、すでに“共犯になる恐怖”から、“生き残るための選択”へ変わっている。


係は棚の影へ消え、紙束を抱えて戻ってきた。

私はそれを受け取るように見せず、机の端に寄せる。

手は動かさない。視線も動かさない。

今ここで“箱の中身に触った”と取られるわけにはいかない。


補佐官が私の動きを見ていた。

笑みは戻らない。

代わりに、冷たい観察の目になる。


「公爵様。

今夜の件は、殿下が非常にご不快に思われています。

これ以上、奥様を“守る”ために事を荒立てるのは――」


「守るためじゃない」


エイドリアンが、切る。


「国のためだ。

記録を消す者がいるなら、王家の信用が死ぬ。

殿下の不快など、些末だ」


補佐官の頬がぴくりと動いた。

王太子の名を軽んじられることに耐えられない。

だが、真正面から反論はできない。

ここで反論すれば、補佐官自身が“殿下の私情”を認める形になる。


だから彼は、別の矢を放った。


「では、奥様の“秘密”についてはどうでしょう」


私は心臓が跳ねた。

鍵。

証拠。

あの金属片。

私が抱えていた不正の痕跡。


補佐官は、柔らかい声で続ける。


「奥様は、ご自身の家が殿下の派閥の不正を握っていると――

そう公爵様に告げたと伺いました」


伺いました。

誰かが聞いている。

この文書庫にも耳がある。

控室にも耳があった。


私の喉が乾く。

けれど、私は“説明しない”。


エイドリアンが、補佐官を見た。


「誰から聞いた」


「さあ。

噂とは、広がるものですから」


「噂で動くのか。王宮は」


補佐官が笑う。

いや、笑おうとする。


「公爵様も、噂で人を動かしておられるではありませんか。

奥様を“賢い”と持ち上げ、殿下を“無知”と嘲る。

それもまた――」


「違う」


エイドリアンが、静かに否定した。


「俺は噂では動かない。

記録で動く。

――だからこそ、箱を渡さない」


その瞬間、扉が開いた。


年配の男が、息を切らして入ってくる。

文書庫管理者だ。

顔色が悪い。

夜中に呼び出される意味を理解している。


補佐官がすぐに言った。


「管理者殿。こちらの回収箱を、保全のため移管します。

承認印を――」


「待て」


エイドリアンが管理者へ向けて言う。


「その承認印、本当に君が押したか」


管理者は固まった。

目が泳ぐ。


「わ、私は……補佐官殿から“緊急”と――」


「押したな」


管理者が小さく頷く。

補佐官が勝ち誇ったように息を吐く。


エイドリアンは、そこで終わらせない。

彼は静かに続けた。


「押した理由は。

箱の中身を確認したか」


管理者が言葉を失う。


確認していない。

当然だ。

確認すれば、共犯になる。


補佐官がすぐに割り込む。


「中身は欠番記録です。確認は不要――」


「不要ではない」


エイドリアンが管理者へ言う。


「君は“保管責任者”になる。

保管責任者は、中身を知らずに責任を取れない。

知らないまま運ぶのは、ただの運び屋だ。

それは責任ではない」


管理者が青ざめる。

“責任”という言葉は、王宮で最も怖い。


補佐官が苛立ちを隠せなくなった。


「公爵様、論点をずらして――」


「ずらしているのは君だ」


エイドリアンは補佐官を見ず、管理者へ淡々と告げた。


「今ここで、箱の封印を確認し、開封条件を明文化する。

開封には、保管責任者の立ち会い、貴族院記録官の立ち会い、

そして――俺と、リュシアの立ち会いを条件にする」


補佐官の顔が、初めて明確に歪んだ。


「公爵様、それは――」


「嫌なら、移管を諦めろ。

保全のふりをして消すつもりだったことになる」


管理者が震えながら言った。


「わ、私は……その条件なら……保管責任を……」


補佐官が管理者を睨む。

だが管理者はもう戻れない。

今拒否すれば、“消す側”に回ったと記録される。


補佐官は、歯を食いしばり、最後の手を出した。


「では、箱はここで“封印を増やして”保管しましょう。

移管はしません。

これでよろしいですか」


エイドリアンが頷く。


「それでいい」


補佐官は悔しそうに封印具を取り出し、箱に新たな封を重ねた。

封印が増えるほど、箱は“動かせない証拠”になる。

皮肉だ。


私はその手元を、目に焼き付けた。

誰の印が押されたか。

封印の順番。

封蝋の形。

すべてが、後の証拠になる。


封印が終わった時。

補佐官は、にこりと笑った。

笑みが戻ったのではない。

刃を隠した笑みだ。


「奥様。

今夜は……お疲れでしょう。

お休みください」


そして、私だけに聞こえるほどの声で付け足す。


「眠っている間に、記録はまた“整います”から」


背筋が凍った。

脅し。

それも、“消す”側の確信。


補佐官が去る。

扉が閉まる。

足音が遠ざかる。


文書庫の係が、床に崩れ落ちそうになり、必死で踏ん張った。


「……公爵様。

わ、私は……」


「まだ終わっていない」


エイドリアンは冷静に言った。

そして私へ視線を向ける。


「今夜の勝ちは小さい。

だが意味がある。

箱は動かせなかった。

――次は、箱の中身を“外”に出す」


私は頷いた。

そのために、写しが必要だ。


私は低く言う。


「写しは……取れますか」


係が震えながら、机の端の紙束を見た。

彼は小さく頷く。


「……今夜のうちに。

ただし、見つかれば私は――」


「見つけさせない」


エイドリアンが言い切る。


「君は、明日の朝から“病”で寝込め。

そして文書庫には二度と戻るな。

俺が別の席を用意する」


係の目に涙が滲む。

救われたのか、切り捨てられたのか分からない顔。

けれど、彼は生き残る道を選べる。


私は、胸元の空白を感じた。

鍵を渡した場所。

そこが痛い。

でも、痛いからこそ、私は分かる。


もう一人ではない。


文書庫を出る直前、エイドリアンが私の耳元で囁いた。


「明日、貴族院に“写し”を同時に送る。

その瞬間、王太子派は“証拠を消す”から“証拠を奪う”に切り替える」


私は息を呑む。


「奪う……?」


エイドリアンは静かに答えた。


「君を攫う」

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