押収の手(箱を渡さない)
補佐官の笑みは、丁寧だった。
丁寧すぎて、背筋が冷える。
「その箱、こちらで預かります。――“欠番”は、不要ですから」
欠番は不要。
それはつまり、“消す”という意味だ。
文書庫の係が、唇を震わせた。
彼は箱の前で、無意識に一歩退く。
退いた分だけ、補佐官の影が箱へ近づく。
私は息を吸った。
怖い。
けれど、目を逸らさない。
エイドリアンの言葉が、耳の奥で硬く響いている。
――今から君は“証人”だ。
エイドリアンが補佐官へ向き直る。
声は低い。表情は変わらない。
「預かる? 君に、その権限はない」
「ございますよ、公爵様」
補佐官は柔らかく笑ったまま、懐から一枚の文書を取り出した。
王太子補佐官印。
加えて、文書庫管理者の承認印。
「“保全のための一時移管”です。
文書庫内に不正な改竄の疑いが出た以上、問題のある記録を隔離する必要が――」
「隔離ではなく廃棄だろう」
エイドリアンが遮る。
補佐官の笑みがほんの一瞬だけ揺れた。
「言い方が過激です。
我々は王宮の秩序を――」
「秩序は記録で守る。
記録を消して守る秩序は、ただの隠蔽だ」
空気が張り詰める。
補佐官の部下らしき者が二名、扉の脇に立った。
手は剣に触れていない。
だが、いつでも動ける姿勢だ。
私は、エイドリアンの背中を見ていた。
彼は一歩も引かない。
それでも、真正面から殴り合う気配はない。
これは戦闘ではない。
手続きの戦争だ。
補佐官が私へ視線を向けた。
「奥様も、よろしいのでは?
“欠番”など、世間に出れば混乱します。
貴女の名誉のためにも、ここは――」
「私の名誉を語るなら、手続きを」
私は短く言った。
声が震えない。
震えそうになった瞬間、舌先で押さえ込んだ。
補佐官が瞬きする。
私が口を開くと思っていなかったのだろう。
「……手続き?」
「箱の移管理由、移管先、保管責任者、保管期限。
さらに、封印の現状確認と、開封条件。
“廃棄”はあり得ません。保全なら、保全の条項を」
私は言いながら、自分が少しおかしくなる。
怖くてたまらないのに、口から出るのは条文の骨格だ。
補佐官の笑みが薄くなる。
「奥様は……ずいぶんと、詳しい」
「今日、学びました」
私は答えた。
今日、舞踏会で。
“泣けば負ける”と。
エイドリアンが、静かに頷いた。
それは褒め言葉ではない。
合図だ。
彼は補佐官の文書を受け取り、ざっと目を走らせる。
そして、紙を机に置き、淡々と言った。
「この承認印、文書庫管理者のものだな」
「ええ」
「管理者は今、どこにいる」
補佐官の口元が動く。
「夜です。休まれて――」
「呼べ」
「公爵様」
「呼べ」
言葉が重なる。
押し引きではなく、圧の差。
補佐官は小さく息を吐き、部下へ顎で命じた。
「管理者を」
部下が出ていく。
扉が閉まる音が、やけに大きい。
その間、エイドリアンは私へ視線を投げた。
短い。
だが意味は明確だった。
――準備しろ。
私は文書庫の係へ、ほとんど口の形だけで言った。
「写しを」
係は震えながら、頷いた。
彼の目は、すでに“共犯になる恐怖”から、“生き残るための選択”へ変わっている。
係は棚の影へ消え、紙束を抱えて戻ってきた。
私はそれを受け取るように見せず、机の端に寄せる。
手は動かさない。視線も動かさない。
今ここで“箱の中身に触った”と取られるわけにはいかない。
補佐官が私の動きを見ていた。
笑みは戻らない。
代わりに、冷たい観察の目になる。
「公爵様。
今夜の件は、殿下が非常にご不快に思われています。
これ以上、奥様を“守る”ために事を荒立てるのは――」
「守るためじゃない」
エイドリアンが、切る。
「国のためだ。
記録を消す者がいるなら、王家の信用が死ぬ。
殿下の不快など、些末だ」
補佐官の頬がぴくりと動いた。
王太子の名を軽んじられることに耐えられない。
だが、真正面から反論はできない。
ここで反論すれば、補佐官自身が“殿下の私情”を認める形になる。
だから彼は、別の矢を放った。
「では、奥様の“秘密”についてはどうでしょう」
私は心臓が跳ねた。
鍵。
証拠。
あの金属片。
私が抱えていた不正の痕跡。
補佐官は、柔らかい声で続ける。
「奥様は、ご自身の家が殿下の派閥の不正を握っていると――
そう公爵様に告げたと伺いました」
伺いました。
誰かが聞いている。
この文書庫にも耳がある。
控室にも耳があった。
私の喉が乾く。
けれど、私は“説明しない”。
エイドリアンが、補佐官を見た。
「誰から聞いた」
「さあ。
噂とは、広がるものですから」
「噂で動くのか。王宮は」
補佐官が笑う。
いや、笑おうとする。
「公爵様も、噂で人を動かしておられるではありませんか。
奥様を“賢い”と持ち上げ、殿下を“無知”と嘲る。
それもまた――」
「違う」
エイドリアンが、静かに否定した。
「俺は噂では動かない。
記録で動く。
――だからこそ、箱を渡さない」
その瞬間、扉が開いた。
年配の男が、息を切らして入ってくる。
文書庫管理者だ。
顔色が悪い。
夜中に呼び出される意味を理解している。
補佐官がすぐに言った。
「管理者殿。こちらの回収箱を、保全のため移管します。
承認印を――」
「待て」
エイドリアンが管理者へ向けて言う。
「その承認印、本当に君が押したか」
管理者は固まった。
目が泳ぐ。
「わ、私は……補佐官殿から“緊急”と――」
「押したな」
管理者が小さく頷く。
補佐官が勝ち誇ったように息を吐く。
エイドリアンは、そこで終わらせない。
彼は静かに続けた。
「押した理由は。
箱の中身を確認したか」
管理者が言葉を失う。
確認していない。
当然だ。
確認すれば、共犯になる。
補佐官がすぐに割り込む。
「中身は欠番記録です。確認は不要――」
「不要ではない」
エイドリアンが管理者へ言う。
「君は“保管責任者”になる。
保管責任者は、中身を知らずに責任を取れない。
知らないまま運ぶのは、ただの運び屋だ。
それは責任ではない」
管理者が青ざめる。
“責任”という言葉は、王宮で最も怖い。
補佐官が苛立ちを隠せなくなった。
「公爵様、論点をずらして――」
「ずらしているのは君だ」
エイドリアンは補佐官を見ず、管理者へ淡々と告げた。
「今ここで、箱の封印を確認し、開封条件を明文化する。
開封には、保管責任者の立ち会い、貴族院記録官の立ち会い、
そして――俺と、リュシアの立ち会いを条件にする」
補佐官の顔が、初めて明確に歪んだ。
「公爵様、それは――」
「嫌なら、移管を諦めろ。
保全のふりをして消すつもりだったことになる」
管理者が震えながら言った。
「わ、私は……その条件なら……保管責任を……」
補佐官が管理者を睨む。
だが管理者はもう戻れない。
今拒否すれば、“消す側”に回ったと記録される。
補佐官は、歯を食いしばり、最後の手を出した。
「では、箱はここで“封印を増やして”保管しましょう。
移管はしません。
これでよろしいですか」
エイドリアンが頷く。
「それでいい」
補佐官は悔しそうに封印具を取り出し、箱に新たな封を重ねた。
封印が増えるほど、箱は“動かせない証拠”になる。
皮肉だ。
私はその手元を、目に焼き付けた。
誰の印が押されたか。
封印の順番。
封蝋の形。
すべてが、後の証拠になる。
封印が終わった時。
補佐官は、にこりと笑った。
笑みが戻ったのではない。
刃を隠した笑みだ。
「奥様。
今夜は……お疲れでしょう。
お休みください」
そして、私だけに聞こえるほどの声で付け足す。
「眠っている間に、記録はまた“整います”から」
背筋が凍った。
脅し。
それも、“消す”側の確信。
補佐官が去る。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
文書庫の係が、床に崩れ落ちそうになり、必死で踏ん張った。
「……公爵様。
わ、私は……」
「まだ終わっていない」
エイドリアンは冷静に言った。
そして私へ視線を向ける。
「今夜の勝ちは小さい。
だが意味がある。
箱は動かせなかった。
――次は、箱の中身を“外”に出す」
私は頷いた。
そのために、写しが必要だ。
私は低く言う。
「写しは……取れますか」
係が震えながら、机の端の紙束を見た。
彼は小さく頷く。
「……今夜のうちに。
ただし、見つかれば私は――」
「見つけさせない」
エイドリアンが言い切る。
「君は、明日の朝から“病”で寝込め。
そして文書庫には二度と戻るな。
俺が別の席を用意する」
係の目に涙が滲む。
救われたのか、切り捨てられたのか分からない顔。
けれど、彼は生き残る道を選べる。
私は、胸元の空白を感じた。
鍵を渡した場所。
そこが痛い。
でも、痛いからこそ、私は分かる。
もう一人ではない。
文書庫を出る直前、エイドリアンが私の耳元で囁いた。
「明日、貴族院に“写し”を同時に送る。
その瞬間、王太子派は“証拠を消す”から“証拠を奪う”に切り替える」
私は息を呑む。
「奪う……?」
エイドリアンは静かに答えた。
「君を攫う」




