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婚約破棄の前に、契約書を差し出したら溺愛が始まりました  作者: swingout777


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去年の回収箱(欠番)

「受領票が、消された……?」


侍女の言葉が、耳の奥で反響した。

消えるはずがない。

受領票は紙ではなく、台帳に記録される番号だ。

番号が消えるということは、誰かが台帳そのものを弄ったということ。


つまり――王宮の内部だ。


私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。

けれど、逃げたいとは思わなかった。

逃げ道がないことを、もう知っている。


エイドリアンが侍女へ向けて言った。


「誰が言った」


「文書庫の係……いえ、係の見習いです。

『台帳の番号が、最初から存在しなかったことになっている』と……」


「見習いの名前は」


侍女が慌てて答える。

エイドリアンはそれを覚えるでもなく、私の方を見た。


「君は、今夜の受領票番号を覚えているか」


「はい。

二十七―四―……」


言いかけて、私は口を閉じた。

今ここで番号を口に出すのは危険だ。

聞く耳は、常にある。


エイドリアンが頷く。


「いい。番号は心にしまえ。

そして次は“番号が消せないもの”へ行く」


「消せないもの……?」


「物だ。

台帳は消せても、物は消しにくい。

消したら、消した痕が残る」


彼は一歩、歩き出した。

私もついていく。

控室へ戻る道ではなく、反対方向――王宮の裏手へ。


「どこへ……?」


「文書庫」


「今からですか」


「今だ。

相手が動いた直後が一番、油断している」


エイドリアンの声は冷たい。

だが、その冷たさが今は頼もしかった。

慌てない。焦らない。

ただ、最短で刺しに行く。


文書庫は、夜でも明かりが灯っていた。

王宮の影の心臓。

ここにあるのは紙だけではない。

王家の都合、貴族の罪、国家の嘘――すべてが積み重なっている。


入口で衛兵が動きかけたが、エイドリアンが印章を見せると、言葉を飲み込んだ。

軍功貴族の権限は、夜の門番を黙らせる。


重い扉が開く。

インクと古紙の匂い。

静けさが、逆に耳を痛くする。


文書庫の係が青ざめた顔で出迎えた。


「公爵様……? この時間に……」


「台帳を見せろ」


「え……」


「今夜、リュシアが受領した文書の番号が消えた。

その処理履歴を見せろ」


係の顔色が変わる。

恐怖。

そして、隠しきれない“諦め”。


私は確信した。

この人は、もう知っている。

何かを。あるいは誰かを。


係は震える手で鍵束を取り、奥の棚へ案内した。

分厚い台帳が並ぶ区域。

ここに手を入れられるのは、限られた者だけだ。


「……こちらです」


係が台帳を取り出す。

私は覗き込み、該当日のページを探す――が。


ない。


私の番号の欄だけが、きれいに空白になっている。

不自然なほど、整った空白。

消したというより、“最初から書かれなかった”ように見える。


「改竄痕は?」


エイドリアンが短く問う。


係は唇を噛み、首を振る。


「……ありません。

正規の手順で“取り消し”が入っています。

取り消し権限を持つ印が……」


「誰の印だ」


係が答えかけて、言葉を呑み込んだ。

言えば死ぬ。

そう顔に書いてある。


エイドリアンが一歩近づき、淡々と言う。


「言え。

君が守りたいのは命か、職か、忠誠か。

だが、黙れば君は“共犯”になる」


係の瞳が揺れる。

彼はとうとう絞り出した。


「……王太子殿下の、補佐官印です」


補佐官。

王太子が直接手を汚さず、裏で動くための手。


エイドリアンは、驚きもしない。

予想通りだという顔。


「なるほど。

なら“紙の番号”は戻らない。戻してもまた消される」


私は静かに尋ねた。


「では、どうします」


エイドリアンが視線を奥へ向ける。


「“去年の回収箱”だ」


「回収箱……?」


係が小さく息を呑んだ。

その反応で、私は理解した。

ここには“触れてはいけない場所”がある。


エイドリアンは係へ命じた。


「案内しろ」


「で、ですが……あそこは……」


「案内しろ」


声は強くない。

ただ、拒否を許さない温度。


係はついに頷き、私たちをさらに奥――人がほとんど入らない区域へ連れて行った。


薄暗い。

ランプの光が届きにくい。

棚の隙間に影が溜まっている。


そこに、金属の箱が置かれていた。


無地の回収箱。

封印は、いくつも重ねられている。

紙の束が口から覗いているが、文字は判読できない。


「これは……何を回収する箱ですか」


係が震える声で答えた。


「……欠番です」


「欠番?」


「台帳に存在しない番号、消された番号、矛盾する番号……

“無かったことにしたい記録”を、ここへ移します。

……去年から、急に増えました」


私は背筋が冷たくなった。

欠番。

記録の穴を、“箱”に押し込めて隠す。


エイドリアンが箱へ手を伸ばす。

係が慌てて止めようとする。


「公爵様! それは……触れれば――」


「触れれば、何だ」


係は言えない。

言えば、もっと危険だから。


エイドリアンは封印を観察し、私へ言った。


「君の鍵を借りる」


私が渡した、小さな金属の鍵。

エイドリアンはそれを箱の封印の一つへ当てた。


合う。


鍵穴が、静かに回った。


係が、顔面蒼白になる。


「なぜ……その鍵が……」


エイドリアンは答えない。

代わりに箱の蓋を、ほんの少しだけ開けた。


紙の匂いが溢れ出す。

そして私は見た。


私の受領票番号と、同じ形式の番号が、束になっている。

いくつも。いくつも。


「……私だけじゃない」


私の声が掠れる。


エイドリアンが低く言う。


「当然だ。

記録を消す者は、君だけを狙わない。

狙うのは、記録そのものだ」


私は紙束の端をそっと引き、覗き込む。

そこにあったのは、短いメモ。


『欠番27―4―(リュシア)/破棄劇に備え、存在を削除』


“破棄劇に備え”。


胸の奥が痛む。

私の人生は、少なくとも一年前から、この夜へ向けて整えられていた。

悪役として断罪するために。

記録を消し、私の反証を奪うために。


「……殿下は、最初から」


言いかけた私の言葉を、エイドリアンが遮った。


「殿下“だけ”じゃない」


彼は箱の中の別の束を指した。

そこに押された印章は、王太子補佐官印だけではなかった。


複数。

貴族院。監査局。神殿。

――それぞれの組織の印が、同じ欠番に重なっている。


私は息を止めた。


「共犯……」


「構造だ」


エイドリアンの声は、冷たい鋼だった。


「一人を倒せば終わる話じゃない。

消す側の利害が一致している。だから記録が消える」


私は、唇を噛む。

泣きそうになる。

でも、泣けば何も変わらない。


私は契約書を思い出した。

“夫の名義と権限を用いて是正を求める権利”。


私は顔を上げた。


「……公爵。

この箱の存在を、公開できますか」


エイドリアンが私を見る。

その目に、微かな熱が宿る。


「公開すれば、反撃が来る。

君の命は危険になる」


「危険でも」


私は、言葉を選ばず言った。


「記録が消されるなら、私の名も消されます。

私は――消されるぐらいなら、燃やします」


沈黙。

係が震えながら、壁に手をついた。


エイドリアンがゆっくりと頷いた。


「いい。

ならまず、この箱を“動かせない証拠”にする。

箱ごと、封印ごと、証人ごと。

消したくても消せない形にする」


「どうやって」


「証人を増やす。

そして、写しを同時に外へ出す」


写し。

同時。外へ。

その言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。

戦い方が、見えてくる。


その時。


廊下の向こうで、足音がした。

複数人。速い。

夜の文書庫に不自然な速度。


係が青ざめ、唇を震わせる。


「……来ます。

補佐官が……気づいた……!」


エイドリアンが箱の蓋を閉め、封印を戻す。

手際は冷静。

まるで、この瞬間を待っていたかのように。


そして私へ、低く言った。


「リュシア。

今から君は“妻”じゃない。

“証人”だ。

怖くても、目を逸らすな」


扉が開く音。

眩しいランプの光。

王太子補佐官が、冷たい笑みを浮かべて立っていた。


「……失礼。

夜の文書庫で、何をなさっているので?」


補佐官の視線が、回収箱へ滑る。

そして彼は、にこやかに言った。


「その箱、こちらで預かります。

――“欠番”は、不要ですから」

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