去年の回収箱(欠番)
「受領票が、消された……?」
侍女の言葉が、耳の奥で反響した。
消えるはずがない。
受領票は紙ではなく、台帳に記録される番号だ。
番号が消えるということは、誰かが台帳そのものを弄ったということ。
つまり――王宮の内部だ。
私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
逃げ道がないことを、もう知っている。
エイドリアンが侍女へ向けて言った。
「誰が言った」
「文書庫の係……いえ、係の見習いです。
『台帳の番号が、最初から存在しなかったことになっている』と……」
「見習いの名前は」
侍女が慌てて答える。
エイドリアンはそれを覚えるでもなく、私の方を見た。
「君は、今夜の受領票番号を覚えているか」
「はい。
二十七―四―……」
言いかけて、私は口を閉じた。
今ここで番号を口に出すのは危険だ。
聞く耳は、常にある。
エイドリアンが頷く。
「いい。番号は心にしまえ。
そして次は“番号が消せないもの”へ行く」
「消せないもの……?」
「物だ。
台帳は消せても、物は消しにくい。
消したら、消した痕が残る」
彼は一歩、歩き出した。
私もついていく。
控室へ戻る道ではなく、反対方向――王宮の裏手へ。
「どこへ……?」
「文書庫」
「今からですか」
「今だ。
相手が動いた直後が一番、油断している」
エイドリアンの声は冷たい。
だが、その冷たさが今は頼もしかった。
慌てない。焦らない。
ただ、最短で刺しに行く。
文書庫は、夜でも明かりが灯っていた。
王宮の影の心臓。
ここにあるのは紙だけではない。
王家の都合、貴族の罪、国家の嘘――すべてが積み重なっている。
入口で衛兵が動きかけたが、エイドリアンが印章を見せると、言葉を飲み込んだ。
軍功貴族の権限は、夜の門番を黙らせる。
重い扉が開く。
インクと古紙の匂い。
静けさが、逆に耳を痛くする。
文書庫の係が青ざめた顔で出迎えた。
「公爵様……? この時間に……」
「台帳を見せろ」
「え……」
「今夜、リュシアが受領した文書の番号が消えた。
その処理履歴を見せろ」
係の顔色が変わる。
恐怖。
そして、隠しきれない“諦め”。
私は確信した。
この人は、もう知っている。
何かを。あるいは誰かを。
係は震える手で鍵束を取り、奥の棚へ案内した。
分厚い台帳が並ぶ区域。
ここに手を入れられるのは、限られた者だけだ。
「……こちらです」
係が台帳を取り出す。
私は覗き込み、該当日のページを探す――が。
ない。
私の番号の欄だけが、きれいに空白になっている。
不自然なほど、整った空白。
消したというより、“最初から書かれなかった”ように見える。
「改竄痕は?」
エイドリアンが短く問う。
係は唇を噛み、首を振る。
「……ありません。
正規の手順で“取り消し”が入っています。
取り消し権限を持つ印が……」
「誰の印だ」
係が答えかけて、言葉を呑み込んだ。
言えば死ぬ。
そう顔に書いてある。
エイドリアンが一歩近づき、淡々と言う。
「言え。
君が守りたいのは命か、職か、忠誠か。
だが、黙れば君は“共犯”になる」
係の瞳が揺れる。
彼はとうとう絞り出した。
「……王太子殿下の、補佐官印です」
補佐官。
王太子が直接手を汚さず、裏で動くための手。
エイドリアンは、驚きもしない。
予想通りだという顔。
「なるほど。
なら“紙の番号”は戻らない。戻してもまた消される」
私は静かに尋ねた。
「では、どうします」
エイドリアンが視線を奥へ向ける。
「“去年の回収箱”だ」
「回収箱……?」
係が小さく息を呑んだ。
その反応で、私は理解した。
ここには“触れてはいけない場所”がある。
エイドリアンは係へ命じた。
「案内しろ」
「で、ですが……あそこは……」
「案内しろ」
声は強くない。
ただ、拒否を許さない温度。
係はついに頷き、私たちをさらに奥――人がほとんど入らない区域へ連れて行った。
薄暗い。
ランプの光が届きにくい。
棚の隙間に影が溜まっている。
そこに、金属の箱が置かれていた。
無地の回収箱。
封印は、いくつも重ねられている。
紙の束が口から覗いているが、文字は判読できない。
「これは……何を回収する箱ですか」
係が震える声で答えた。
「……欠番です」
「欠番?」
「台帳に存在しない番号、消された番号、矛盾する番号……
“無かったことにしたい記録”を、ここへ移します。
……去年から、急に増えました」
私は背筋が冷たくなった。
欠番。
記録の穴を、“箱”に押し込めて隠す。
エイドリアンが箱へ手を伸ばす。
係が慌てて止めようとする。
「公爵様! それは……触れれば――」
「触れれば、何だ」
係は言えない。
言えば、もっと危険だから。
エイドリアンは封印を観察し、私へ言った。
「君の鍵を借りる」
私が渡した、小さな金属の鍵。
エイドリアンはそれを箱の封印の一つへ当てた。
合う。
鍵穴が、静かに回った。
係が、顔面蒼白になる。
「なぜ……その鍵が……」
エイドリアンは答えない。
代わりに箱の蓋を、ほんの少しだけ開けた。
紙の匂いが溢れ出す。
そして私は見た。
私の受領票番号と、同じ形式の番号が、束になっている。
いくつも。いくつも。
「……私だけじゃない」
私の声が掠れる。
エイドリアンが低く言う。
「当然だ。
記録を消す者は、君だけを狙わない。
狙うのは、記録そのものだ」
私は紙束の端をそっと引き、覗き込む。
そこにあったのは、短いメモ。
『欠番27―4―(リュシア)/破棄劇に備え、存在を削除』
“破棄劇に備え”。
胸の奥が痛む。
私の人生は、少なくとも一年前から、この夜へ向けて整えられていた。
悪役として断罪するために。
記録を消し、私の反証を奪うために。
「……殿下は、最初から」
言いかけた私の言葉を、エイドリアンが遮った。
「殿下“だけ”じゃない」
彼は箱の中の別の束を指した。
そこに押された印章は、王太子補佐官印だけではなかった。
複数。
貴族院。監査局。神殿。
――それぞれの組織の印が、同じ欠番に重なっている。
私は息を止めた。
「共犯……」
「構造だ」
エイドリアンの声は、冷たい鋼だった。
「一人を倒せば終わる話じゃない。
消す側の利害が一致している。だから記録が消える」
私は、唇を噛む。
泣きそうになる。
でも、泣けば何も変わらない。
私は契約書を思い出した。
“夫の名義と権限を用いて是正を求める権利”。
私は顔を上げた。
「……公爵。
この箱の存在を、公開できますか」
エイドリアンが私を見る。
その目に、微かな熱が宿る。
「公開すれば、反撃が来る。
君の命は危険になる」
「危険でも」
私は、言葉を選ばず言った。
「記録が消されるなら、私の名も消されます。
私は――消されるぐらいなら、燃やします」
沈黙。
係が震えながら、壁に手をついた。
エイドリアンがゆっくりと頷いた。
「いい。
ならまず、この箱を“動かせない証拠”にする。
箱ごと、封印ごと、証人ごと。
消したくても消せない形にする」
「どうやって」
「証人を増やす。
そして、写しを同時に外へ出す」
写し。
同時。外へ。
その言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
戦い方が、見えてくる。
その時。
廊下の向こうで、足音がした。
複数人。速い。
夜の文書庫に不自然な速度。
係が青ざめ、唇を震わせる。
「……来ます。
補佐官が……気づいた……!」
エイドリアンが箱の蓋を閉め、封印を戻す。
手際は冷静。
まるで、この瞬間を待っていたかのように。
そして私へ、低く言った。
「リュシア。
今から君は“妻”じゃない。
“証人”だ。
怖くても、目を逸らすな」
扉が開く音。
眩しいランプの光。
王太子補佐官が、冷たい笑みを浮かべて立っていた。
「……失礼。
夜の文書庫で、何をなさっているので?」
補佐官の視線が、回収箱へ滑る。
そして彼は、にこやかに言った。
「その箱、こちらで預かります。
――“欠番”は、不要ですから」




