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婚約破棄の前に、契約書を差し出したら溺愛が始まりました  作者: swingout777


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1/10

破棄の前に、契約書

王太子が立ち上がった。

あの台詞を言うために。


――「婚約を破棄する」。


会場の空気が、期待でわずかに膨らむのが分かった。

貴族たちが、正義の見世物を待っている。

悪役令嬢を断罪し、可憐な“被害者”に光を当てる――その拍手の準備が、もう整っている。


私の名前はリュシア。

今夜、悪役に仕立て上げられる側だ。


だから私は、王太子が口を開くより早く一歩前へ出た。

ドレスの裾が床を撫で、背中に視線が刺さる。


「殿下」


私の声は驚くほど落ち着いていた。

台本通りに泣けない女は、薄情だと笑われる。

けれど、薄情でも構わない。泣けば負ける場面だった。


私は、手にしていた白い紙束を差し出した。

封蝋も、署名欄も、証人欄も揃えた正式な書面だ。


「婚約破棄はどうぞ。ただし――条文通りに」


ざわ、と波が立つ。

誰かの扇が落ちる音が、やけに大きく響いた。


王太子は、言葉を失ったように瞬きを繰り返した。

彼は“宣言”だけで終わると思っていたのだろう。

感情の勝利に酔い、周囲から拍手を浴び、最後に私を追放する。

その未来が、彼の頭の中では完成していた。


「……何だ、それは」


「婚約契約書です。殿下がお望みの“破棄”を行う場合、必要になる条件一式を、あらためて整理いたしました」


私は淡々と、最初の頁を開いた。

紙が鳴る。

その音が、今夜の主導権が誰に移ったかを告げる合図のようだった。


「第一条。破棄の理由。第二条。賠償。第三条。私の実家への補償。第四条。私個人の名誉回復措置――」


「待て!」


王太子の声が裏返る。

笑いが起こりそうになるのを、私は喉の奥で押し殺した。


「殿下、婚約は王家と貴族家の契約です。

感情の都合で一方的に破れる“口約束”ではありません」


「それは、形式的な――」


「形式が、国を守ります」


私は微笑んだ。

にこり、としているのに、胸の奥は冷えていた。

今日のために、私は泣く練習ではなく、条文を暗唱する練習をした。


「破棄を公に宣言するのであれば、同時に“賠償と処遇”も公にしなければ釣り合いません。

殿下は『私の罪』を語るのでしょう? では私は『殿下の義務』を読み上げます」


会場が静まり返る。

誰もが、続きを聞きたがっている。


王太子の背後――取り巻きの令嬢が、泣きそうな顔で口元を押さえた。

あの顔。

私を悪役と呼ぶための“涙”の準備はできているらしい。


私は紙面の一行を指でなぞった。


「なお、破棄理由として私の“加害”を提示する場合、証拠の提示を伴うこと。

口頭の噂、又聞き、切り取りは認めない。

虚偽が判明した場合、名誉毀損として――」


「黙れ、リュシア!」


王太子が声を荒らげた瞬間、貴族たちが揺れた。

それは彼にとって不利な揺れだ。

正義の主人公は、怒鳴らない。

怒鳴った時点で、観客は“正しさ”ではなく“焦り”を嗅ぐ。


私は、わざと一拍置いた。

場の温度が下がるのを待って、穏やかに言う。


「殿下。破棄は、いつでもできます。

けれど――破棄の後の責任は、逃げられません」


王太子の喉が動く。

彼は知らないのだ。

婚約契約が、どれほど細かく結ばれているか。

王家が“守られる側”でいるために、どれほど多くの条文が積み上げられているか。


そして。


「面白い」


低い声が、横から差し込んだ。


私は視線を向ける。

人波の奥、壁際に立っていた男。

漆黒の軍礼服、冷たい灰色の瞳。

社交界で“冷徹公爵”と呼ばれる、エイドリアン・ヴァルク公爵。


彼は、笑っていた。

笑うべきではない場で、笑える男だ。


「君、契約を武器にするのか」


「武器ではありません。盾です」


「同じだ」


彼が一歩、前へ出た。

それだけで、周囲の貴族が無意識に道を開ける。

力がある者は、声を荒げなくても空気を動かせる。


エイドリアンは私の手元の契約書をちらりと見て、ふっと息を吐いた。


「殿下は今夜、“拍手”が欲しいだけだった。

だが君は“記録”を欲しがっている。

――どちらが国を動かすかは、明白だな」


王太子の顔色が変わる。

怒りと恐れが、同時に滲んだ。


「公爵、口を慎め!」


「慎むのは殿下だ」


エイドリアンの声音は静かだった。

それなのに、会場がさらに静まる。


彼は私へ向き直り、まるで取引を持ちかける商人のように言った。


「リュシア。

君の条件、俺が引き受ける。契約結婚だ」


一瞬、息が止まった。


「……公爵が?」


「殿下の台本を壊すには、相応の役者が必要だろう。

君が“悪役”のまま終わるのは、気に入らない」


気に入らない。

その言葉は、奇妙に胸に刺さった。

同情でも、正義でもない。

ただの好悪で、私を救うと言う男。


王太子が叫ぶ。


「ふざけるな! その女は――」


「破棄するんだろう?」


エイドリアンが淡々と返す。


「なら、誰と結婚しようが関係ない。

……ただし」


彼は、私の契約書の署名欄を指先で軽く叩いた。


「君は“条件”のない救済は受けない顔をしている。

いい。好きに書け。期限も、役割も、守秘も。

俺はそれを履行する」


会場の空気が、ひっくり返る。

拍手の準備をしていた者たちが、言葉を失い、別の物語の始まりを見つめている。


私は、ゆっくりと息を吸った。

ここから先は、感情ではなく手続きだ。

――でも、手続きの先にしか、生き残りはない。


私はエイドリアンを見上げ、微笑んだ。


「では、公爵。

今夜のうちに“署名”をいただけますか」


エイドリアンの口元が、わずかに上がる。


「もちろんだ。

君が破棄される前に、君を“妻”にしてやる」


王太子の顔が、青ざめた。


そして私は確信する。

殿下の台本は、今夜ここで終わる。


――代わりに、私の契約が始まる。


エイドリアンが差し出した指先に、黒い封蝋が光った。

そこに私が署名した瞬間、もう後戻りはできない。

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