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AI小説実験その28

作者: 天姫
掲載日:2026/02/06

これから記述する設定で小説を書いて、40代男性、何もない、世を恨んでいる、酒も飲まない、たばこも吸わない、甘いものも特に好きではない、ただただ真面目に生きてきたでも無職。異世界転移する時に狐耳幼女、十尾の妖孤天狐になる。剣と魔法の西洋ダークファンタジー世界に行く、その世界はレベル制でジョブ取得タイプだが、主人公はスキル熟練度性のステータスになる、チートではないがデメリットでもない予定だったが異世界に行かず、現代に留まる事になる。これらをコメディ6、シリアス4の割合で会話多めで書いて。

「……いや、おかしいだろ。なんで俺、アパートの畳の上で狐になってるんだ?」

鏡に映っているのは、透き通るような銀髪に、ピコピコと動く大きな耳。そして、尻尾。一、二、三……十本。

「十尾の天狐」……伝説の神獣だ。

だが、背景は築40年のボロアパート。


「異世界転移のゲート、閉まったな」

「閉まりましたね、主様」


 目の前で浮遊する自称・案内役の精霊が、気まずそうに目を逸らした。

「『ブラック企業の荒波に耐えたその真面目さを評価し、剣と魔法のファンタジー世界へ転生させます』って言ったよな? 異世界のレベル制に対応するために、わざわざ俺だけ『スキル熟練度制』とかいう特殊仕様に調整したって……」

「はい。不具合です。異世界の座標と接続ミスりました」

「ミスるなよ! 無職の40代独身が、唯一の希望を抱いて異世界行こうとした結果が、現代日本の自宅で狐化か!?」

叫ぶと、キュ~ンと可愛らしい声が漏れた。殺意が沸くほど可愛い。

「まあ、ステータスは十尾の天狐ですから、現代じゃ最強ですよ? ほら、厚生労働省のハローワークに行かなくても、魔力で米くらい出せるんじゃないですか?」

「そんなんで食う飯が美味いか! 40年、酒も煙草も甘いものも断って、真面目に、ただ真面目に働いてきた結果がこれかよ!」

男――だった狐は、畳を叩いて悔しがった。

世の中を恨んでいた。理不尽なリストラ、報われない努力。せめて異世界でなら、この「真面目さ」を武器に這い上がれると思ったのに。

「……待て。俺のステータス、レベル制じゃなくて『熟練度』なんだよな?」

「左様で。現代にはレベルの概念がありませんから、ある意味こっちの方が馴染みますよ」

「馴染むか! 現代で『火球の熟練度』とか上げてどうすんだよ。火気厳禁だぞ、このアパート」

その時、玄関のチャイムが鳴った。

「佐藤さーん、家賃三ヶ月分、今日こそ払ってもらわなきゃ困るわよー!」

大家さんの声だ。

今の自分は、どこからどう見ても狐。

「……おい、精霊。この『変化へんげ』の熟練度、一瞬でMAXにする方法ないか?」

「ありません。真面目にコツコツ、それこそが主様の持ち味でしょう?」

男――天狐は、十本の尻尾で必死に身を隠しながら、この不条理な現実(現代)を生き抜く決意をした。

「……まずは、服だ。服を通販で頼む。それからだ」


「いい加減にしなさいよ佐藤さん! 居留守は……あら?」

扉を開けた大家の目に飛び込んできたのは、膝を抱えて丸まる、異様に神々しい銀髪の狐幼女だった。

「……大家さん。驚かないで聞いてください。俺です。佐藤です」

「はあ!? 何よそのコスプレ。あんた、無職になってからついに……」

「違います。異世界に行き損ねて、体だけ十尾の妖狐になったんです」

佐藤(天狐)は、真面目一筋だった40年の人生で培った「誠実すぎる土下座」を繰り出した。十本の尻尾が、扇のように畳に広がる。

「嘘だと思うなら警察を呼んでも構いません。ですが、これが今の俺の現実です。これ以上、この神聖な(?)体で家賃を滞納し続けるわけにはいきません。今日、この部屋を出ていきます」

「……佐藤さん、あんた。そんな可愛い声で、なんて悲しいこと言うのよ」

不覚にも大家の目が潤んだ。

40代独身男性の悲哀と、天狐のカリスマ性が混ざり合い、奇妙な説得力を生んでいた。

「行く当てはあるの? ネットで調べたけど、今のあなたじゃ賃貸住宅の入居審査なんて絶対通らないわよ。保証人は? 職業は? 種族は?」

「……『無職の狐』で通る審査など、この日本にはありません」

佐藤はスッと立ち上がった。

その手には、精霊がどこからか調達してきたボロい風呂敷包みがある。

「俺は、自分の『熟練度』を信じます。この現代社会というハードモードなダンジョンで、一からスキルを磨き直してみせます」

「佐藤さん……」

「今までお世話になりました。家賃は必ず、何らかの形で――例えば、この尻尾の毛(たぶん高値で売れる)を置いていきますから」

「そんなもんいらないわよ! 抜け毛の掃除が大変でしょ!」という大家の叫びを背に、佐藤はアパートを飛び出した。

「さて、主様。まずはどこへ? Googre マップで野宿できそうな公園でも探しますか?」

「馬鹿を言え。俺の『真面目さ』をなめるな。……まずは、人目に付かない場所で『人間化』のスキル熟練度を上げる。話はそれからだ」


「ふんぬぬぬ……出ろ、俺の加齢臭! 戻れ、くたびれた中年男性の皮膚!」

深夜の公園。植え込みに突っ込んだ十本の尻尾を振り回し、佐藤(天狐)は必死に念じていた。

現在のスキル:【変化(人間):熟練度 12/1000】。

結果、顔だけが40男、体は幼女、おまけに尻尾は隠せないという、通報不可避なクリーチャーが誕生した。

「……無理だ。熟練度制、マジでコツコツやるしかないやつだこれ」

「主様、顔が脂ぎっててキモいです。今のステータス、『不審者』の熟練度ばかり上がってますよ?」

精霊の毒舌が突き刺さる。おまけに、腹が鳴った。

酒も煙草もやらない佐藤の唯一の贅沢は、真面目に働いた後の安飯だったが、今はその金すらない。

「背に腹は代えられん。……行くぞ」

佐藤が向かったのは、SNSで「訳あり歓迎」と噂されていた路地裏の炊き出し。

並んでいるのは、人生の年季が入った猛者ばかりだ。そこに紛れ込む、ボロ布を纏った(顔だけおっさんの)銀髪幼女。

「……お嬢ちゃん、並ぶとこ間違えてねえか?」

前に並んでいた強面の男が振り返る。佐藤は、40年の社会人経験をフル動員した「営業スマイル」を、幼女の顔面で披露した。

「いえ、人生に詰んだ点では皆様の先輩です。あ、大盛りでお願いします」

「声が渋すぎるだろ……」

ようやく配られたのは、出所不明の具材が浮いた「闇鍋風スープ」。

普段なら衛生面を気にして避けるところだが、今の佐藤には神の雫に見えた。

「(……美味い。真面目に生きてた頃の高級ステーキより、今の五臓六腑に染み渡る……!)」

一心不乱にスープを啜る佐藤。すると、脳内にアナウンスが響く。

≪スキル:【毒耐性】の熟練度が上昇しました。1→5≫

「おい精霊、今不穏なログが出たぞ。このスープ、何が入ってるんだ」

「熟練度制の醍醐味ですね。死ななきゃ安いですよ、主様!」

食べ終えた佐藤がふと横を見ると、炊き出しの運営者らしきガタイの良い男が、鋭い視線でこちらを見ていた。

「おい、そこの……白髪のガキ。お前、さっきから尻尾が見えてるぞ。それと、その顔、指名手配犯の誰かに似てるな」

絶体絶命。現代日本で「モンスター」として捕まるか、「変質者」として捕まるかの二択。

佐藤は震える手で、空の容器を差し出した。

「……おかわり、いいですか?」

「おかわり? 寝ぼけてんのか」

運営者の男は、佐藤が差し出した容器を無造作に払いのけた。プラスチックの器がコンクリートの上で虚しく跳ねる。

「……あ?」

「ここはガキの遊び場じゃねえんだよ。その変なコスプレの尻尾も、おっさんのつらしたマスクも気色が悪い。二度と来るな、シッシッ」

周囲のホームレスたちからも、冷ややかな視線が突き刺さる。そこにあるのは、ファンタジーの神秘を敬う心でも、異能への畏怖でもない。ただの「得体の知れない不審者への拒絶」だ。

現代日本において、十尾の天狐という伝説の存在は、単なる「精神を病んだ痛い浮浪者」として処理される。陰陽師などという都合のいい救い手は現れないし、国家機関がスカウトに来ることもない。

「……主様。現実の熟練度、高すぎませんか」

「うるさい。……帰るぞ」

帰る場所など、もうないというのに。

トボトボと夜道を歩く佐藤の脳内に、無機質なログが流れる。

≪スキル:【精神耐性】の熟練度が上昇しました。 45→50≫

≪スキル:【世俗の知恵】の熟練度が上昇しました。 10→12≫

「あー……。酒、飲みたい。飲まないって決めてたけど、今なら泥酔できる気がする」

「あいにく未成年(の見た目)には販売してくれませんよ。それに、お金もありません」

公園のベンチ。街灯の下で、佐藤は自分の小さな、白く細い手を見つめた。

40年間、真面目に、誰に迷惑をかけることもなく生きてきた。

それなのに、今の自分は「不審者」として社会から爪弾きにされている。

「……精霊。この『熟練度』ってやつ、【清掃】とか【単純作業】にも適用されるか?」

「ええ、主様が『スキル』と認識して反復すれば、理論上は」

佐藤の目に、微かな光が宿った。

元・社畜の真面目さを舐めてはいけない。異世界で無双できないのなら、この現代社会の底辺から、システムの隙間を縫って這い上がってやる。

「仕事アプリは、今のこの体じゃ登録できないだろうが……。身分証不要の、もっとドロドロした現場なら、この身体能力があれば……」

その時、路地裏のゴミ捨て場でガサゴソと音がした。

カラスではない。空腹に耐えかねた「同類」が、そこにいた。


「酒? あんな毒、金をもらっても飲まん。俺の体は40年、常にシラフで絶望と向き合ってきたんだ」

ゴミ捨て場の影で、佐藤(天狐)は吐き捨てた。喉を焼くアルコールより、今の空腹の方がよほど残酷だ。

「……おい、そこ。その賞味期限切れのコンビニおにぎりに手を出すな。それは腐敗の熟練度が上がりすぎてる」

影から現れたのは、ボロを纏った一人の老人だった。老人は佐藤の異様な姿――銀髪、幼女、そして不自然に膨らんだ背中の風呂敷(尻尾)――を一瞥したが、驚きもしなかった。

「……新顔か。見たところ、まともな教育を受けた口ぶりだが、格好はドロップアウトの極みだな」

「……事情がありまして。この現代で、身分証も職もなく生き延びる術を学びたいんです」

佐藤は反射的に、営業時代に培った「完璧な角度の45度お辞儀」をした。幼女の体で。

「ほう。礼儀だけは一人前か。……いいだろう。お前、名は?」

「佐藤。……今は、ただの天狐(無職)です」

「天狐? 変な源氏名だな。俺はゲンさんだ。ついてこい。この街の『隙間』を教えてやる」

ゲンさんは、行政の支援も、NPOの炊き出しも届かない、都会の死角を歩き始めた。

「いいか天狐。俺たちの仕事は『見えないこと』だ。まずは環境省の不法投棄対策の裏をかく……わけじゃねえ。【都市型採集アーバン・ギャザリング】だ。どのビルの裏に、まだ食える廃棄が出るか。どの自販機の下に、指が細いお前にしか拾えない『宝』が落ちているか……」

佐藤はゲンさんの後ろを歩きながら、必死にその教えを脳内に刻み込んだ。

≪スキル:【ホームレス・サバイバル】の熟練度が上昇しました。 0→15≫

≪スキル:【隠密(都市)】の熟練度が上昇しました。 0→10≫

「(……異世界で魔王を倒すはずが、新宿の路地裏で『落ちている10円玉を効率よく見つける角度』の熟練度を上げることになるとはな……)」

だが、佐藤の真面目さは異常だった。ゲンさんが一度教えた「廃棄のルール」を完璧に守り、誰よりも素早く、誰よりも静かに街に溶け込んでいく。

「……天狐。お前、筋がいいな。まるで何十年もこの底辺を這いずり回ってきたような執念だ」

「……ええ。真面目に生きることにかけては、誰にも負けない自信があるんです」

月明かりの下、十本の尻尾を器用に操って、自販機の下から「50円玉」を釣り上げた佐藤。

その顔は、幼女の可愛らしさと、40男の哀愁、そして「絶対に食いぶちを稼ぐ」というプロの社畜の目が同居していた。


 佐藤は、自販機の下から釣り上げた50円玉を握りしめ、最安のミネラルウォーターを購入した。

「ゲンさん、これ……」

「なんだ、俺にくれるのか? 殊勝なことだが、自分の心配をしろ。この街じゃ水は血と同じだぞ」

佐藤は無言でキャップを開け、汚れたバケツに残っていた泥水に、買ったばかりの水を一滴垂らした。そして、十本の尻尾を微かに震わせ、意識を集中させる。

40年間、一度もサボらず磨き続けた「集中力」が、今、異世界のシステムと共鳴した。

≪スキル:【浄化クリーン】の熟練度が上昇しました。 1→25≫

一瞬、バケツの中が淡い光に包まれたかと思うと、ドブ臭かった泥水が、まるで高価な天然水のように透き通った。

「……はあ!? お前、何した! 手品か!?」

「いえ、真面目に洗浄のイメージを。……どうぞ、飲めますよ」

ゲンさんが恐る恐る口に含むと、目を見開いた。

「……美味い。なんだこれ、胃の腑まで洗われるようだ。お前、本当にただの無職か?」

驚くゲンさんの背後から、不穏な足音が複数、路地裏に響いた。

現れたのは、鉄パイプやバットを手にした五人の男たち。このエリアを「シマ」として仕切っている、タチの悪い浮浪者グループだ。

「おい……ゲン。勝手に新入り入れてんじゃねえよ。しかも、なんだそのガキ。銀髪に……尻尾? 気持ち悪いコスプレしてんじゃねえ」

「待て、こいつは俺の連れだ。見逃してやってくれ」

「うるせえ。お前も、その小生意気なガキも、ここで野垂れ死ぬのがルールだ。その綺麗な水、こっちに渡しな」

一人の男が、佐藤の細い腕を掴もうと手を伸ばす。

佐藤の脳内に、冷徹なログが流れた。

≪敵対行動を検知。スキル:【護身術(実戦)】の熟練度取得を開始します≫

「……あの、真面目にお願いします。通してください。俺はただ、静かに熟練度を上げたいだけなんです」

「あ? 熟練度だぁ? 壊れてんのかこのガキ――」

男が手を振り上げた瞬間。

佐藤の体が、天狐の反射神経で「勝手に」動いた。

バットを振り下ろそうとした男の懐に、滑り込むように潜り込む。

「えいっ」

幼女の可愛らしい声とは裏腹に、その一撃は的確に男の鳩尾を捉えた。

「が……はっ……!?」

≪スキル:【打撃】の熟練度が上昇しました。 0→10≫

「てめえ、よくも!」

四人が一斉に襲いかかる。しかし、佐藤は十本の尻尾をバランサーに使い、独楽こまのように回転しながら、次々と男たちの膝関節や急所を、最低限の力で「突いた」。

酒も飲まず、タバコも吸わず、不摂生を避けてきた佐藤の精神は、極限までクリアだ。

「……ふぅ。すみません、乱暴なことは嫌いなんですが」

一分後。路地裏には、呻き声を上げて転がる男たちと、呼吸一つ乱していない狐幼女が残された。

「……天狐、お前。……本当に何者なんだ?」

「ただの、真面目が取り柄の無職ですよ」

佐藤は倒れた男のポケットから、先ほど奪われそうになった50円玉を回収し、汚れを「浄化」で拭き取った。


「……げほっ、ごほっ……!」

地面に転がった男たちは、感動に震えることも、恐怖で平伏することもしなかった。ただただ、内臓を打った苦しみに顔を歪め、汚泥に塗れた地面を這いずりながら、佐藤を憎悪の目で見上げた。

「……この、ガキ……。殺す、絶対殺してやるからな……!」

呪詛の言葉。それが現実だった。物語のように、力を見せつければ解決するなんてことはない。ただ、執念深く、陰湿な恨みを買っただけだ。

「おい、天狐。逃げるぞ。こいつら、次は仲間を連れてくるか、もっとエグい手段を使ってくる。この界隈シマにはもう居られねえ」

ゲンさんが佐藤の細い腕を掴み、小走りに路地を抜ける。

背後からは、警察のサイレンの音など聞こえてこない。社会の底辺で起きる小競り合いなど、この巨大な都市にとっては、深夜にカラスが騒いでいる程度の些事さじに過ぎないのだ。

「……主様。これが『社会』の熟練度の上げ方ですよ。誰も助けてくれませんし、勝っても何も得られません」

「分かっている。……虚しいな。40年、必死に会社を守ってきた時と同じだ。守っても、感謝されるどころか疎まれる」

たどり着いたのは、高架下の吹きさらしの空間だった。

冷たいコンクリートの上に座り込み、佐藤は自分の十本の尻尾を抱きしめた。神獣の毛並みは、現代の排気ガスと埃ですっかり灰色に煤けている。

≪スキル:【忍耐】の熟練度が上昇しました。 80→85≫

≪スキル:【虚無感】の熟練度が上昇しました。 10→30≫

「……ゲンさん。俺の『浄化』、誰かの役に立つと思ったんですけどね。結局、波風を立てただけでした」

「……お前のそれは、綺麗すぎたんだよ。この街の連中は、ドブ水に慣れてる。いきなり真水を見せられたら、自分の汚さが際立って、余計に腹が立つもんさ」

ゲンさんは、どこからか拾ってきた湿った段ボールを佐藤に差し出した。

「今日はこれで寝ろ。明日になったら、お前のその『銀髪』をなんとかしなきゃな。目立ちすぎるのは、この世界じゃ『死』と同義だ」

佐藤は段ボールに包まり、十本の尻尾を毛布代わりにした。

酒の匂いもしない。甘い菓子の香りもしない。ただ、冷たいコンクリートの匂いと、自分のスキルのログだけが頭の中で明滅している。

「……真面目に生きるって、何なんだろうな」

狐の耳が、寒さでピクリと震えた。


「……ゲンさん、恩に着ます。俺、不器用ですが……真面目に働くことだけは得意なんです」

翌朝。佐藤は自ら公園の泥を掬い、その神々しい銀髪に塗りたくった。美しい十本の尻尾も、泥とゴミ袋で無造作に縛り上げ、単なる「薄汚れた荷物」に見せかける。

≪スキル:【擬態(底辺)】の熟練度が上昇しました。 0→40≫

「いいか天狐。今日の仕事はアルミ缶だ。一本一円にも満たねえが、嘘をつかねえ。集めた分だけ、飯になる」

「承知しました。効率的なルート、構築してみせます」

佐藤は十本の尻尾を器用に使い、ゴミ箱の奥底にあるアルミ缶を、ピンポイントで釣り上げた。一箇所一分。40男の分析力と幼女の敏捷性が、異様な効率を生む。

≪スキル:【廃品回収】の熟練度が上昇しました。 10→65≫

≪スキル:【選別】の熟練度が上昇しました。 5→30≫

「おいおい……お前、回収業者かよ。半日で俺の一週間分を集めやがった」

ゲンさんが呆れるほどの成果を上げ、換金したわずかな小銭。佐藤はその一部で、自分の食事ではなく、ゲンさんのための「一番安い栄養ドリンク」と、売れ残りの「キャットフード」を買った。

夕暮れ時、二人はボロアパート時代の名残である「真面目な習慣」として、近所の公園へ向かった。

「……おいで」

佐藤が指先でキャットフードを差し出す。

すると、植え込みから鋭い目つきの野良猫たちが現れた。彼らもまた、この街の「隙間」で必死に生きる戦友だ。

「主様、猫は警戒心が強いですよ。特に今の主様は泥臭いですし」

「黙って見てろ。俺は会社員時代、気難しい取引先の接待で『相手の呼吸を読む』熟練度をMAXまで上げたんだ」

佐藤は気配を消し、天狐特有の野生の波動と、元営業マンの低姿勢を絶妙にミックスさせた。

「……ほら、怖くない。俺も、お前らと同じ『無職』だ。仲間だよ」

一匹の三毛猫が、恐る恐る佐藤の泥まみれの手から粒を食べた。それを合図に、次々と猫たちが集まり、佐藤の足元や、泥で固まった尻尾の周りで喉を鳴らし始める。

≪スキル:【動物親和】の熟練度が上昇しました。 0→50≫

≪称号:『路地裏の友』を獲得しました≫

「……はは、くすぐったいな」

泥だらけの顔で、佐藤は今日初めて、小さく笑った。酒も甘いものもいらない。ただ、自分の差し出したものが拒絶されなかった。その事実が、乾いた心にわずかな潤いを与えた。

「ゲンさん、これ。……今日のお礼です」

「……栄養ドリンクか。お前、自分の分は?」

「俺は、猫のゴロゴロを聞いてるだけで十分ですから」

だが、安らぎは長くは続かない。

公園の入り口に、数台の黒いワンボックスカーが静かに止まった。


「……天狐、伏せろ。息を殺せ」

ゲンさんの声が、かつてないほど低く鋭かった。

公園の入り口に止まった黒いワンボックスカー。スライドドアが開く音。降りてきたのは、行政の人間でも、ましてや親切なスカウトでもない。揃いのダークスーツに身を包み、無線機を手にした「プロ」の空気を纏った男たちだ。

「……主様、まずいです。あの男たち、装備の下に防刃ベストやスタンガンを隠し持っています。ただの不審者探しじゃありません。明確に『何か』を追っています」

精霊の声に、佐藤の背筋が凍った。

昨夜のステゴロ戦か、あるいは「天狐」としての微かな魔力が、何らかの観測網に引っかかったのか。現代社会には陰陽師こそいないが、法や秩序を逸脱した「異常」を排除しようとする組織の力は確実に存在する。

「ゲンさん、裏のフェンスから抜けます。猫たち、ごめんな……」

佐藤は十本の尻尾を泥まみれの体の中に力ずくで押し込み、ゲンさんの腕を引いて植え込みの中を這った。40年、目立たぬよう、波風を立てぬよう「真面目」に組織の隙間を歩んできた男の隠密行動は、本職のそれをも凌駕する。

≪スキル:【隠密】の熟練度が上昇しました。 10→35≫

≪スキル:【危機察知】の熟練度が上昇しました。 0→20≫

「ハァ、ハァ……。天狐、お前、この動き……」

「黙って。今は、呼吸の音すら『ノイズ』です」

高架下の暗がりに滑り込み、ワンボックスカーが公園を離れるのを待つ。佐藤は泥だらけの指で地面を強く掴んだ。

異世界なら、ここでチートスキルを使って敵をなぎ倒し、ヒロインを助ける華やかなシーンだろう。だがここは、一歩間違えれば「行方不明者」として処理され、二度と日の当たる場所へは戻れない現実だ。

「……行きましたね」

「ああ。……助かった。だが天狐、お前と一緒にいると、俺の心臓がいくつあっても足りねえよ」

ゲンさんは震える手で、佐藤からもらった栄養ドリンクのキャップを開けた。

佐藤はただ、無機質なスキルのログを見つめていた。

≪スキル:【逃走】の熟練度が上昇しました。 5→45≫

「……真面目に生きてるだけなのに、どうして追いかけ回されなきゃいけないんだ。俺は、ただ働いて、飯を食って、寝たいだけなのに」

世の中を恨む言葉が、幼女の唇からこぼれる。酒も飲まず、自分を律して生きてきた報いがこれか。

「……ゲンさん。俺、決めました。泥を塗って逃げ回るのは、今日で終わりにします。もっと根本的に、この社会に『適応』するためのスキルを上げます」

「適応だと? まさか、まともな職に就くつもりか? その姿で」

「ええ。真面目に、コツコツと」


「……いや、考えすぎだった。あいつら、ただの放置車両の撤収業者か何かだ。あるいは、この辺の再開発を狙ってる地上げの調査員か」

佐藤は暗がりで、自分の自意識過剰を鼻で笑った。

秘密結社も、超常組織も、自分を狙う刺客もいない。世界はそこまで自分に構ってくれない。

ただ、公園を「浄化」して猫と戯れていた薄汚い浮浪者が、偶然現れた黒い車に怯えて逃げ出した――。それが、この現実における客観的な事実のすべてだ。

「……ハッ、何が『逃走の熟練度』だ。ただの不審者の全力疾走じゃねえか」

「主様、惨めすぎて見ていられません。いっそ異世界の魔王にでも狙われていた方が、物語としては救いがありましたね」

ゲンさんは隣で、栄養ドリンクをちびちびと飲んでいる。

「……天狐。適応するって言ったな。だがよ、真面目なお前にあらかじめ言っておく。この底辺(こっち側)でどれだけ『適応』したところで、待ってるのは『より効率的な底辺』でしかないぞ」

佐藤は泥のついた手を見つめた。

翌日から、佐藤はゲンさんの伝てで、身分証のいらない、いわゆる「手配師」が仕切る現場へ向かった。

深夜の解体現場。重機が入れない狭い場所で、ひたすら壁を叩き壊し、ガラを運ぶ。

幼女の体だが、中身は伝説の天狐。身体能力は常人を遥かに凌駕している。

≪スキル:【解体】の熟練度が上昇しました。 0→80≫

≪スキル:【運搬】の熟練度が上昇しました。 20→150≫

現場監督は、泥まみれで黙々と働く佐藤を見て「便利なガキだ」と笑い、他の作業員の三倍の量をこなさせ、給料は「子供だから」と半分だけ渡した。

文句を言えば「じゃあ警察に行くか?」と脅される。

佐藤は何も言わず、その金を握りしめた。

40代の理性と真面目さが、「ここで暴れても損をするだけだ」と自分を律する。

「……ふぅ。一日の稼ぎ、4000円か。これじゃ、家を借りるための貯金なんて何年かかるか分からんな」

「主様、生活保護の申請でも行きますか? まあ、その耳と尻尾を見せた瞬間、精神鑑定に回されるでしょうけど」

作業着の代わりのボロ布を纏い、佐藤は現場の隅で、支給された安物の菓子パンを齧った。

甘いものは好きではないが、これしかカロリーがない。

「……美味しいな。泥水の味がする」

世の中は、恨めしいほどに変わらない。

異世界に行けば英雄になれたはずの力は、現代では「安くて頑丈な労働力」として消費されるだけ。

真面目にやればやるほど、搾取する側にとって「都合のいい駒」になっていく。

「……おい天狐。そんな死んだ魚のような目で、次は何を『習得』するつもりだ?」

ゲンさんが、現場からくすねてきた一本のタバコを吹かしながら聞いた。


「……おい。お前、本当にそこにいるのか?」

佐藤は、視界の端でふわふわと浮きながら毒を吐き続ける「精霊」を凝視した。

極限の空腹、慣れない肉体、そして40年分の絶望。それらが作り出した幻視や幻聴ではないのか。科学的に考えれば、統合失調症や心因性反応の症状として、自分に都合のいい「異世界の設定」を投影しているだけではないのか。

「主様、失礼ですね。私はあなたの魂に付随する高次元のナビゲーターですよ」

「……魂だのナビだの、証拠はどこにある。この『ログ』だって、俺の脳が勝手に弾き出している妄想かもしれない。俺は、ただ発狂しただけの無職なんじゃないか?」

佐藤は泥のついた手で頭を抱えた。真面目に、論理的に考えれば考えるほど、目の前の存在が信じられなくなる。

だが、その疑念を遮るように、隣の段ボールから激しい咳き込みが聞こえた。

ゲンさんではない。最近隣の区画に流れ着いた、若い男だ。

かつてはエリートだったというその男は、過労死ラインを越えた労働で心を壊し、すべてを失ってここに辿り着いた。今は高熱に浮かされ、呼吸も浅い。

「……死ぬなよ。ここで死んだら、ただのゴミとして処理されるだけだ」

佐藤は男のそばに寄り添った。

もし「精霊」が幻覚だとしても、この手に宿る温もりだけは信じたかった。

佐藤は十本の尻尾を解き、冷え切った男の体を包み込む。そして、かつて「浄化」と呼んだ、あの不思議な感覚を指先に集めた。

≪スキル:【生命譲渡】の熟練度取得を開始します。 0→10≫

自分の体力が削り取られる感覚がある。だが、佐藤は止めなかった。

40年間、誰にも必要とされず、誰の役にも立てなかった。もしこの異能が狂った脳の見せる夢だとしても、その「夢」で目の前の男が救えるなら、それでいい。

「……っ。主様、それ以上はやめてください。あなたの『真面目さ』は自己犠牲にまで及ぶのですか!」

幻聴かもしれない声が叫ぶ。佐藤はそれを無視し、男の胸に手を当てた。

泥だらけの指から、淡い光が男の体へ染み込んでいく。

男の荒い呼吸が次第に整い、青白かった顔に赤みが戻っていく。

≪スキル:【治癒(微)】の熟練度が上昇しました。 0→35≫

翌朝。男は驚くほどスッキリとした表情で目を覚ました。

「……あれ。体が、軽い。あんなに苦しかったのに」

男は、傍らで泥に塗れて眠る「狐のような影」には気づかず、ただ生きる希望を取り戻したように立ち上がり、街へと歩き出した。

佐藤は、指一本動かせないほどの倦怠感の中で、薄く目を開けた。

結局、感謝されることも、報われることもない。男は自分が救われた理由さえ知らないまま、再び厳しい社会へと戻っていくだけだ。

「……見てろ、精霊。俺の『熟練度』は、誰かに認められるためにあるんじゃない。……俺が、俺であるために上げるんだ」

ゲンさんが、どこからか拾ってきた汚れた毛布を佐藤の肩にかけた。

「……お前、また損なことしたな。まあ、それがお前さんの『真面目』ってやつか」


 男を救った代償は、あまりにも重かった。

視界が激しく点滅し、指先から感覚が消えていく。異世界の勇者なら「聖母の慈愛」と称えられるような行為も、この路地裏ではただの「無謀な自己消耗」に過ぎない。

「……ハァ、ハァ……」

佐藤は力尽き、湿ったアスファルトに顔を埋めた。腹が、焼けるように鳴る。

だが、誰かが駆け寄ってきて抱き起こしてくれるなんてことはない。道行く人々は、泥だらけの幼女(の姿をした不審者)を汚物でも見るような目で避け、足早に通り過ぎていく。

「……主様。だから言ったでしょう。この世界に、あなたの善意を受け止める『器』なんて用意されていないんです」

精霊の冷たい声が響く。幻聴かもしれないその声は、今の佐藤には自分の「後悔」が形を成したもののように聞こえた。

40年間、真面目に生きてきた。他人の失敗を肩代わりし、嫌な仕事を引き受けてきた。その結果がこれだ。異世界に行けず、現代のどん底で、名もなき男のために命を削って行き倒れる。

「……おい。生きてんのか、天狐」

ゲンさんが戻ってきた。だが、彼もまた精一杯なのだ。

差し出されたのは、飲み残しの水が入ったペットボトルと、どこかの配給で余ったらしい、カチカチに硬くなったパンの耳の欠片だけ。

「……すまねえな。これしかねえ。お前、さっきの兄ちゃんに何したか知らねえが、自分の命を切り売りするほどこの街は甘くねえぞ」

佐藤は震える手で、そのパンの耳を口に運んだ。

唾液も出ない口内で、それは砂利のようにザラついている。

≪スキル:【忍耐】の熟練度が上昇しました。 85→92≫

≪スキル:【飢餓耐性】の熟練度が上昇しました。 10→40≫

皮肉なものだ。苦痛を味わえば味わうほど、「生き延びるためのステータス」だけが積み上がっていく。だが、それは人生を豊かにするものではなく、ただ「より過酷な環境に耐えられるようになる」だけ。

「……ゲンさん。俺、やっぱり、世の中が嫌いです。……真面目にやってる奴が、バカを見るこの仕組みが……」

「……そうか。なら、その恨みを忘れるなよ。それが、俺たちの『燃料』だ」

佐藤は十本の尻尾を、寒さを凌ぐためではなく、自分の弱さを隠すようにきつく丸めた。

泥にまみれた銀髪は、もはや元の輝きを思い出せないほど黒ずんでいる。

救われた男は、もう二度とここへは戻ってこないだろう。

佐藤の足元を、一匹の野良猫が素通りしていった。昨日餌をあげた猫かどうかも、もう分からない。

「……次は、何を『習得』すればいい。精霊。……いや、俺の妄想。……教えてくれ。どうすれば、この渇きは癒える」

≪提案:スキル【感情遮断】の取得を推奨します。現在の熟練度:5/100≫


「……了解した。感情は、不要だ」

佐藤は思考を止めた。40年間、組織の歯車として磨き上げた「無心」の境地。それを異能のシステムが加速させる。

≪スキル:【感情遮断】の熟練度が上昇しました。 5→70≫

≪称号:『人間廃業』を獲得しました≫

翌日から、佐藤は日雇い現場の「化け物」となった。幼女の体で、大の男が三人掛かりで運ぶ鉄骨を一人で担ぎ、休憩も取らずに12時間働き続ける。罵倒されても、給料を抜かれても、その瞳には光一つ宿らない。

「おい、あのガキ……気味が悪ぃな。飯も食わねえで、機械かよ」

現場の嘲笑すら、今の佐藤には背景音に過ぎない。ただ、効率的に、真面目に、搾取される。それがこの世界のルールだと、脳が最適化されたのだ。

だが、その「機械」の均衡を壊したのは、隣の段ボールから漏れる、ゲンさんの血を吐くような咳だった。

「……ゲンさん?」

「……ハァ……天狐、か……。気にするな、ただの……風邪だ……」

嘘だ。ゲンさんの肌は土気色を通り越し、死の臭いが漂っている。かつて佐藤が「治癒」で男を救った時、精霊(あるいは幻聴)は言った。*「あなたの真面目さは自己犠牲にまで及ぶのか」*と。今の佐藤には、自分の命を分け与える体力すら残っていない。

必要なのは、神秘の力ではない。救急外来にかけるための金、そして身分証のない浮浪者でも受け入れる「裏の医療ルート」への対価だ。

「……ゲンさん。あんた、俺に『隙間』を教えてくれたな。今度は俺が、その隙間をこじ開けてくる」

佐藤は立ち上がった。泥まみれの服を捨て、現場からくすねてきた黒いパーカーを深く被る。

狙うのは、昨夜自分を嘲笑った現場監督の事務所。あるいは、弱者を食い物にする手配師の金庫。

「主様、それは『真面目』なあなたの生き方に反しませんか?」

「……黙れ。俺は真面目に、『確実に金を得る手順』を実行するだけだ」

十本の尻尾が、闇の中で音もなく解かれた。それはもはや神獣の輝きではなく、獲物を屠るための触手のように、どす黒い意志を宿して蠢いている。

≪スキル:【窃盗】の熟練度取得を開始します≫

≪スキル:【強襲】の熟練度取得を開始します≫

佐藤は、夜の街へと消えた。40年守り続けた「善人」という最後の薄皮を、自ら剥ぎ取りながら。

佐藤は夜の街へと消えた。40年守り続けた「善人」という最後の薄皮を、自ら剥ぎ取りながら。しかし、その足は重かった。「真面目に、『確実に金を得る手順』を実行するだけだ」と自分に言い聞かせても、罪悪感が全身を這い回る。ゲンさんの命のためだ。そう思っても、心臓が鉛のように重い。

どこに行けば、身分証のないゲンさんを受け入れてくれるのか。どこに行けば、この幼い体でも金を稼げるのか。合法的に、しかし迅速に。佐藤の脳は、可能性のある選択肢を必死に検索する。かつて組織で培った情報収集能力が、暗闇の中で微かな光を探し始める。

「主様、その葛藤こそが『人間』です」

精霊の声が、再び脳裏に響く。

「黙れ!」

佐藤は思わず叫んだ。人間らしい感情など、今の自分には邪魔でしかない。しかし、その声は震えていた。完全に感情を遮断し、「機械」となることは、佐藤にとってどれほど困難なことなのか。

夜の街は冷たい。ビルとビルの隙間から漏れるネオンの光が、佐藤の小さな影を不気味に長く伸ばす。ゲンさんのために、手段を選ばない覚悟をしたはずだった。だが、その一歩を踏み出すことができない。心臓を締め付けるような痛みが、佐藤を立ち止まらせる。

「……ゲンさん……」

佐藤はうつむいた。その瞳には、かつて失ったはずの光が、再び微かに宿り始めていた。


 瞳に光など戻らない。宿ったのは、暗く濁った「殺意に近い執念」だ。

40年、ただ真面目に生きて、社会のルールを守り、誰にも迷惑をかけないように生きてきた。その結果が、唯一の友が野垂れ死に、自分は泥を啜る現実か。

「……ふざけるな。ふざけるな、こんな世界」

佐藤は、現場監督のプレハブ小屋の影に潜んでいた。

感情を捨てたのではない。「世の中への憎悪」という名の、最も燃費のいい燃料を心臓にくべたのだ。

≪スキル:【感情遮断】が【怨嗟の駆動】へ統合されました≫

≪身体能力が負の感情に比例して上昇します≫

佐藤は音もなく窓枠を外し、事務所へ侵入した。狙いは、現場作業員からピンハネした金が唸る、あの金庫だ。

「おい、誰だ!」

見張りの男が気づき、バットを振り下ろす。だが、今の佐藤にはスローモーションに見えた。

怒りを燃料に変え、身体能力が飛躍的に向上した佐藤は、音もなく男の攻撃を避け、組み伏せた。

「ぎ、ぎゃあああ! なんだこれ、化け物……!」

「静かにしろ。真面目に話を聞け」

佐藤の声は、底冷えするほど低かった。

「この金は、あんたたちが不当に抜いた俺たちの血税だ。……返してもらうぞ」

抵抗する男に、かつてなら躊躇したはずの暴力も、今はゲンさんの顔色を思えば、鉛筆を走らせる作業のように事務的だった。

≪スキル:【威圧】の熟練度が上昇しました。 0→60≫

≪スキル:【強奪】の熟練度が上昇しました。 0→45≫

金庫を無理やり抉り開け、中にある現金をありったけ奪う。

数十万、いや百万はあるか。

佐藤は血を流し倒れる男を顧みず、その金を抱えて夜の街を疾走した。

「主様……。あなたは今、一線を越えました。もう、あの頃の『真面目な佐藤さん』には戻れませんよ」

「……戻るつもりなんて、最初からない」

向かったのは、ゲンさんから以前聞いていた、身分証不問で治療を行う「闇医者」の潜む古い雑居ビルだ。

「これを見ろ! ゲンさんを……あの老人を助けろ! 足りないなら、もっと持ってくる!」

血と泥に汚れた佐藤は、札束の山を机に叩きつける。

闇医者の男は、佐藤の異様な姿を見ても、金さえあれば何も問わなかった。この不条理な現実において、唯一信頼できるのは「異能」ではなく「金」という共通言語だけだった。

「……フン、派手にやったな。連れてこい。金があるなら、地獄の縁からでも引きずり戻してやるよ」

佐藤は震える足で高架下へ戻り、意識を失いかけているゲンさんを背負った。

重い。だが、その重みだけが、今の佐藤がこのクソッタレな世界に繋ぎ止められている唯一の証だった。

「……ゲンさん、死なせない。あんたに、この世界の『終わらせ方』を教えてもらうまではな……」


 闇医者の薄暗い手術室で、ゲンさんの治療が始まった。消毒液と血の匂いが混じり合う中、佐藤は待合室の汚れたソファに座り込んだ。

「……組織、刺客、か」

佐藤は鼻で笑った。そんなファンタジーな存在はいない。金を奪った相手は、ただの日雇い派遣業でピンハネ稼業をしている、小さな零細企業の社長と、その下っ端たちだ。彼らが雇うのは、マフィアの殺し屋ではない。同じような、日銭を稼ぐ路地裏の荒くれ者たちだ。

「……主様。彼らにとって、数百万は痛手です。確実に報復に来ますよ」

「分かってる。次は、俺たちが『不意打ち』の熟練度を上げる番だ」

金を奪われた社長は、警察など呼べない。裏金だからだ。だからこそ、法を無視できる「同じ穴の狢」を使う。

治療費は、たった一晩の「稼ぎ」で支払うことができた。この現実、金さえあれば大概の非合法なことは解決する。

≪スキル:【取引(闇)】の熟練度が上昇しました。 0→50≫

夜が明け、佐藤は体力を回復させるため、再び高架下へと戻った。

静まり返った街の隙間に身を潜めていると、複数の足音が近づいてくる。

「おい、あのキツネ耳のガキ、この辺で見ただろ」

「見たら殺せ、あの野郎。俺たちの顔に泥を塗りやがって」

昨晩、佐藤にやられたチンピラたちだ。刺客ではない、ただの逆恨みで動く荒くれ者たち。彼らにとっては、佐藤という異質な存在は、自分たちの縄張りを脅かす害獣でしかない。

「……来たな」

佐藤は物陰から、拾った鉄パイプを握りしめて覗き見た。

昨晩は「護身」だったが、今度は違う。「迎撃」だ。

「主様。彼らは三人。スキル【隠密】を使えばやり過ごせますが?」

「いいや。この辺りをうろつかれては、ゲンさんが戻って来られない。根絶やしにする」

佐藤は感情を殺し、システム的な思考で相手の動きを分析する。

先頭の男は、気が短い。【短気】の熟練度がMAXだ。すぐに突っ込んでくる。右の男は臆病だ。仲間が攻撃されれば、すぐに逃げ腰になるだろう。左の男は、意外と冷静で武器を持っている。

「馬鹿どもが。素人の喧嘩上等なんて、この現代社会じゃ通用しないんだよ」

佐藤は、自分が身を隠していたブルーシートを勢いよく弾き飛ばした。

「てめえ、ここにいやがったか!」

案の定、先頭の男が鉄パイプを振り上げて突っ込んできた。

佐藤はそれを冷静に受け流し、男の脇腹に蹴りを叩き込む。そして、悲鳴を上げてよろめく男の頭を、隣にいた冷静な男にぶつけた。

「うわっ!?」

二人まとめて転倒したところへ、躊躇なく鉄パイプを振り下ろす。

残る一人は、恐怖に顔を引き攣らせて逃げ出そうとしたが、佐藤の十本の尻尾が彼を絡め取り、アスファルトに叩きつけた。

≪スキル:【戦闘技術(徒手)】の熟練度が上昇しました。 40→80≫

≪スキル:【冷徹な判断】の熟練度が上昇しました。 50→99≫

「……これで、少しは静かになるだろ」

倒れ伏す男たちを見下ろしながら、佐藤の口元が歪んだ。

瞳に光は戻らない。ただ、世の中への恨みつらみが、佐藤という狐を、この現代社会で生き延びるための、冷たい「捕食者」へと変貌させていくだけだった。


 地面に転がった男たちがその後どうなったか、佐藤は知らない。

数日もすれば、彼らの代わりに別の誰かが空き缶を拾い、別の誰かがピンハネの上がりを数えるだけだ。底辺の縄張り図なんてものは、雨が降れば消える地面の落書きほどに脆い。誰かが「鬼」になろうが「獣」になろうが、この街の巨大な歯車は何事もなかったかのように回り続ける。

「……終わったな」

佐藤は闇医者のビルの裏口で、ようやく退院してきたゲンさんを迎えた。ゲンさんの顔色はまだ悪いが、死の淵からは辛うじて這い上がっていた。

「……天狐。お前、あの金、どこで……。いや、聞かねえ。それがこの世界のルールだ」

「ええ。真面目に、『手順』を踏んだだけです」

二人は再び、いつもの高架下へと戻った。

そこには、佐藤が奪い取った金で買った、少しだけマシな厚手の毛布と、コンビニの安物ではないレトルトの粥が置いてある。

「……食えよ、ゲンさん。栄養をつけないと、熟練度が上がらない」

「ハハ……。熟練度か。お前、本当にそればかりだな」

翌朝から、また淡々とした日常が始まった。

佐藤は、泥を塗った姿で廃品回収のルーチンに戻った。ただ、以前と違うのは、その動きに一切の迷いがないことだ。

≪スキル:【ルーチンワーク】の熟練度が上昇しました。 40→90≫

≪スキル:【気配の遮断】の熟練度が上昇しました。 35→75≫

感情を燃料に変えた佐藤の体は、もはや疲れを知らない機械のように、効率的にアルミ缶を集め、効率的に現場の残飯を処理する。

酒を飲まず、煙草を吸わず、甘いものに目もくれず。ただひたすらに、現代社会の「隙間」を這いずるための熟練度を上げ続ける。

「主様、少しは休んだらどうですか。今のあなた、ステータス画面が『無』ですよ」

「……休んで何になる。真面目にやっていれば、いつかこの世界の『底』に手が届くはずだ」

案内役(と自称する幻覚)に答えながら、佐藤は自販機の下に落ちていた10円玉を拾い上げた。

空は灰色。

異世界の剣も魔法も、英雄の凱旋もここにはない。

あるのは、排気ガスの匂いと、十本の尻尾を隠したパーカーの重み、そして「明日もまた同じように生きる」という、非情なまでに淡々とした現実だけだ。

「……行くぞ、ゲンさん。今日は隣町のゴミ捨て場が『収穫時』だ」

一人の狐幼女(40代無職)が、静かにゴミの山へと歩き出す。

その背中は、どんな勇者よりも頑強で、どんな魔王よりも世の中を呪っていた。


「……おい、精霊。お前、本当に俺の脳が作り出した幻じゃないのか?」

佐藤は、高架下の冷たい風に吹かれながら問いかけた。

「主様、まだそんなことを。私が幻なら、先日の【治癒】の力はどう説明するのです?」

「プラセボ効果か、あるいは俺が自覚していないだけで、極限状態で脳内麻薬が出た結果かもしれない」

佐藤は真面目に、論理的に、自分の狂気を疑い続けていた。だが、冬の足音はそんな哲学的な自問自答を許さない。コンクリートから這い上がってくる冷気は、物理的な死の宣告だ。

「ゲンさん。この高架下じゃ、冬は越せない。……もっと『暖かい場所』へ行く」

「暖かい場所……。あそこか。廃墟になった古いサウナビルを占拠してる連中のところか」

ゲンさんの指す先には、再開発が止まり、不法占拠者の巣窟と化した雑居ビルがあった。そこは独自のルールで統治された、ホームレスたちの「自治区」だ。

≪スキル:【交渉】の熟練度取得を開始します≫

≪スキル:【勢力分析】の熟練度取得を開始します≫

佐藤は泥まみれのパーカーのフードを深く被り、そのビルの入り口へと向かった。

入り口には、ドラム缶で火を焚く数人の男たちが立っている。

「新入りか? ここは『組合費』が払える奴しか入れねえよ」

「金ならあります。それに、俺は清掃と修繕の熟練度が高い。ここの衛生環境を劇的に改善できる」

佐藤は、営業職時代のプレゼン能力をフル稼働させた。

相手は、荒くれ者のリーダー。かつてなら「幼女が何を言っている」と一蹴されただろうが、今の佐藤には、数々の修羅場を越えた「凄み」と、精霊が授けた(と本人が思い込んでいる)異能の威圧感が備わっている。

「……面白いガキだ。だが、口だけじゃ信じられねえ。奥のボイラー室が壊れて凍えてる連中がいる。あれを直せたら、一室貸してやるよ」

≪クエスト:【凍えるビルの心臓を直せ】が発生しました≫

「(クエストだと……?)」

やはり自分の脳は壊れている。佐藤はそう確信しながらも、案内役の指示に従い、暗い地下室へと降りていった。

そこには、数十年放置された錆び付いた巨大な機械があった。

「主様、ボイラーの構造は論理的です。魔力による『洗浄』と『金属疲労の修復』を組み合わせれば……」

精霊の(幻聴の)助言に従い、佐藤は十本の尻尾を機械の隙間に差し込んだ。

指先から、世の中への怨嗟を転換した純粋なエネルギーを流し込む。

≪スキル:【機械修理】の熟練度が上昇しました。 0→45≫

≪スキル:【魔力操作】の熟練度が上昇しました。 10→30≫

ガコン、と重い金属音が響き、数十年ぶりにビルの配管に熱が宿り始めた。

地上から、住人たちのどよめきが聞こえてくる。

「……直った。これで、ゲンさんも冬を越せる」

佐藤は暗闇の中で、自分の手が微かに光を放っているのを見た。

これが幻覚なのか、それとも異世界の残滓なのか。もはやどちらでもよかった。

真面目に、ただ真面目に「生き残る」という作業をこなす。それだけが、この狂った現実における唯一の正解なのだから。


 ボイラーが息を吹き返したところで、このビルが楽園になるわけではなかった。

ただ「死ぬほど寒い場所」から「湿っぽくて生暖かい場所」に変わっただけだ。そして、暖かさは新たな火種を呼ぶ。

「おい。そこ、俺らの場所だ。新入りは屋上で寝ろ」

暗い廊下。ボロ布を敷いてゲンさんを横にさせた直後、三人の男が寄ってきた。

彼らは革命を起こそうとしているわけでも、支配構造を覆そうとしているわけでもない。ただ「自分たちが少しでもマシな隙間」を確保したいという、生存本能に突き動かされた小競り合いだ。

「……主様。これが現実です。リソースが増えれば、それを奪い合う醜い争いが生まれる。これが社会の最小単位ですよ」

「……知ってる。前職のオフィスでも、これと同じような席の奪い合いがあった」

佐藤は無表情で、十本の尻尾をパーカーの中で蠢かせた。

相手を殺す必要はない。ただ、関わると「面倒だ」と思わせればいい。それが底辺で生きるための【抑止力】だ。

佐藤はゆっくりと立ち上がり、男たちの足元のコンクリートに鉄パイプを突き立てた。

「ここは俺が直した。文句があるなら、ボイラーを止めて外の冷気の中で話し合おうか」

その瞳には、40年間、真面目に働き、すべてを奪われた男の底なしの虚無が宿っていた。男たちはその「狂気」に押され、悪態をつきながら別のフロアへ消えていった。

≪スキル:【縄張り維持】の熟練度が上昇しました。 0→20≫

闘争なんて呼べるほど華々しいものじゃない。ただ、薄暗い廊下で誰かを追い出し、誰かに怯える。そんな日常が淡々と、冬の深まりと共に続いていく。

佐藤は、ゲンさんに拾ってきたアルミシートを被せた。

「……ゲンさん、少しは温かいか?」

「……ああ。ありがとな、天狐。……お前、本当に真面目だな。こんな場所でも、ルールを守って場所を作ろうとするなんてよ」

佐藤は答えず、壁に寄りかかって目を閉じた。

精霊が本当に存在するのか、それとも自分の脳が作り出した避難場所なのか。

カビの臭いと、湿った熱気。そして誰かの咳き込む声。

この救いようのない静寂だけが、今の佐藤にとっての「真実」だった。


「……醜いな。あんな一欠片のパンのために」

廊下の端、非常灯の薄暗い赤色の中で、二人の男が取っ組み合いの喧嘩をしていた。片方の手には、賞味期限が切れてカビの浮いたコンビニの廃棄パン。もう片方は、それを奪おうと男の指を力任せに折り曲げている。

「主様。止めるつもりはないのですか? あなたの【治癒】があれば、あそこで骨を折られた男も助けられますが」

「……助けてどうする。明日になればまた別の何かが奪い合い、同じように折られるだけだ。俺にできるのは、俺とゲンさんの食い扶持を守ることだけだ」

佐藤は、案内役(幻覚)の声に冷淡に答えた。

ビルの住人たちは、外の世界へ出る気力を失い、ビル内に持ち込まれる限られた食料を巡って、陰惨な「内部消費」を繰り返していた。だが、佐藤とゲンさんは違う。

佐藤は毎日、十本の尻尾を隠し、泥で「不審な幼女」としての擬態を完璧にこなして、外の街へ出る。

≪スキル:【諦観】の熟練度が上昇しました。 60→85≫

「ゲンさん、今日はサバの缶詰が手に入った。駅裏のスーパーの裏口、あそこの廃棄ルートを完全に把握したからな」

「……お前は本当に徹底してるな。中の連中が互いのポケットを弄り合ってる間に、お前は外の構造を食い物にしてる」

佐藤の「真面目さ」は、生存戦略においても異常だった。

ビルの住人が徒党を組んで弱い者から食料を奪う中、佐藤は元営業マンの分析力を駆使し、どの店の廃棄が何時に、どのゴミ袋に入るかを完璧にスケジューリングしていた。

「……彼らは、奪い合うことでしか生を実感できないんですよ。主様のように、淡々と『調達の熟練度』を上げる方が、この社会ではよほど異質です」

「異質で結構だ。……俺は、誰とも関わりたくない。ただ、腹を満たして、この冬をやり過ごすだけだ」

廊下では、ついに一人が力尽き、パンを奪った男が獣のような咆哮を上げていた。

佐藤はそれを、まるでドキュメンタリー番組でも見るような冷めた目で見つめ、ゲンさんと一緒に静かにサバの身を分かち合った。

酒も飲まず、甘いものも欲さず、ただ生存に必要な栄養だけを摂取する。

かつて真面目な社員だった頃と同じように、佐藤は今、「真面目な生存者」としてのタスクを、感情を介さずに淡々とこなしていく。


「……また、あの子だ」

駅裏にあるスーパー『マルヤス』の搬入口。

深夜、廃棄物のコンテナが並ぶ薄暗い路地裏で、品出し担当の青年・田中は、影のように佇む小さな人影を見つめていた。

泥まみれのパーカーを深く被り、決して顔を見せない。だが、その動きは異常なほど正確で、無駄がない。他のホームレスたちがゴミ袋を食い散らかして散乱させる中、その「幼女」は狙った袋だけを最小限の動きで回収し、去り際には必ず、乱れたゴミ袋の口を丁寧に結び直して、元の位置に戻していく。

≪スキル:【マナー・オブ・サバイバル】の熟練度が上昇しました。 20→55≫

「(真面目だな……。ゴミを漁る姿が、まるで精密機械みたいだ……)」

田中は、本来なら追い払わなければならない立場だった。だが、周囲を汚さず、誰にも迷惑をかけないその徹底した「真面目さ」に、どこか毒気を抜かれていた。

「……おい、これ」

田中は賞味期限が切れたばかりのおにぎりと、少し形の崩れた惣菜を、コンテナの上にそっと置いた。

佐藤(天狐)は動きを止め、フードの奥から鋭い視線を向けた。

かつての自分なら、この好意に涙を流して感謝したかもしれない。だが今の佐藤は、これを「好意」ではなく「ノイズ」として捉える。

「……施しは、不要です。俺は、俺の熟練度で生きている」

「……えっ、声、渋っ!? ギャップ凄すぎだろ!」

田中の驚愕を無視し、佐藤はおにぎり一つだけを手に取り、代わりに自分が拾った「まだ使える新品のライター」を一つ、そこに置いた。

対価のない授受は、関係性を生む。関係性は、執着を生む。それは生存において、最も避けるべき不確定要素だ。

≪スキル:【等価交換】の熟練度が上昇しました。 0→30≫

「……主様。今のは効率的ではありませんね。黙ってもらっておけば、明日の分まで確保できたのに」

「うるさい。……俺は、乞食になったつもりはない。真面目に、取引をしているだけだ」

佐藤は闇に消えた。

背後で田中が「あの、また明日も掃除してくれたら出しとくから!」と叫んでいる。

認識されること、それはリスクだ。だが、この執拗なまでの「真面目さ」が、結果として社会との奇妙な接点を作り出してしまう。

廃ビルに戻ると、相変わらず廊下では小競り合いの罵声が響いていた。

佐藤は手に入れたおにぎりをゲンさんに差し出し、自分は隅で、誰にも見られないように十本の尻尾を解き、セルフケアを始めた。

「……ゲンさん。明日から、別のスーパーも開拓する。一箇所に固執するのは、真面目な生存戦略じゃない」


「……あの、これ。余っちゃったからさ。よかったら持ってってよ」

翌日の深夜。店員の田中は、おにぎりどころか使い捨てカイロや栄養補助食品まで、わざわざ紙袋に詰めて待ち構えていた。

その目は、困窮した人々を少しでも助けたいという、純粋な善意で輝いている。

佐藤は、最初は警戒していたが、田中の変わらぬ温かさに触れ、少しずつ心を開き始めていた。かつては真面目な会社員だったが、会社の倒産と病が重なり、全てを失ってしまったのだ。

「……ありがとうございます。本当に、助かります」

佐藤は震える手で紙袋を受け取った。中には温かいおにぎりと、体を温めるカイロが入っている。

「いえいえ、これくらいしかできなくて。何か困ったことがあったら、いつでも言ってください」

田中はそう言って、佐藤の返事を待たずに店の中へ戻っていった。

佐藤は一人、夜の闇の中で立ち尽くし、紙袋の中身を握りしめた。田中の善意が、凍えそうな体にじんわりと染み渡る。

廃ビルに戻ると、相変わらずカビ臭い湿気が充満していた。

ボイラーの熱で暖まった廊下には、様々な事情を抱えた人々が身を寄せ合っている。彼らは皆、明日の朝に目が覚めるかどうかという、切実で薄汚れた生存本能だけで生きている。

「……ゲンさん、これ。よかったらどうぞ」

佐藤は紙袋の中からおにぎりを一つ取り出し、隣に座っていたゲンに手渡した。

「おっ、すまねぇな。あんたも大変だろうに」

「いえ、これも何かの縁ですから」

佐藤はアルミシートにくるまり、温かいおにぎりをゆっくりと食べた。

田中からの善意は、警察も児相も関与しない、この廃ビルの片隅でひっそりと灯る小さな希望だった。

「……主様。次はどこを『開拓』しますか?」

ゲンの声に、佐藤は顔を上げた。

「……隣の駅の、コインランドリーのゴミ箱だ。あそこには、忘れ物のタオルや、たまに小銭が落ちている。真面目に、一歩ずつだ」


「……寒い。真面目にやって、これか」

廃ビルの隙間から入り込む冬の風は、剃刀のような鋭さで皮膚を削る。

アルミシートにくるまったゲンさんの吐息が白い。このままでは、闇医者に払った金も、これまでの「生存作業」もすべて無に帰す。

「主様。ついに【生活魔法】の熟練度を上げる時が来ましたね。今のあなたの魔力量なら、ビル一棟を暖めることさえ……」

「……馬鹿を言うな。そんな目立つ真似ができるか。俺が必要なのは、誰にも気づかれず、死なない程度の『微かな熱』だ」

佐藤は十本の尻尾を自分とゲンさんの周りに密着させ、毛布の下で静かに意識を集中した。

異世界であれば、ここで派手な火球でも放って周囲を驚嘆させるのだろう。だが、現実のサバイバルにおいて「熱」は命であると同時に、他人の羨望と奪い合いを招く猛毒だ。

≪スキル:【微小発熱】の熟練度取得を開始します≫

掌を合わせ、体内の魔力を「摩擦」させるイメージを持つ。

40年間、満員電車で体温を奪われながら、ただ黙々と耐え続けてきたあの忍耐。そのエネルギーを、逆方向に回転させる。

「ぬ……ぐ……っ」

≪スキル:【魔力操作】の熟練度が上昇しました。 30→45≫

≪スキル:【微小発熱】の熟練度が上昇しました。 0→25≫

じわり、と尻尾の付け根から、カイロのような、あるいは湯たんぽのような、心許ないが確かな温もりが広がり始めた。

それは他人には見えず、計測もできないほど微かな熱。だが、絶望の淵にいる人間にとっては、どんな太陽よりも力強い。

「……あ……天狐。お前、あったけえな。……生き返るよ……」

ゲンさんが意識を混濁させながら、佐藤の尻尾に顔を埋めた。

「……真面目に、寝てください。……明日の朝、凍ってたら、また闇医者に金を払わなきゃいけないんだから」

佐藤は感情を殺したまま、熱を一定に保つための「維持作業」に没頭した。

一晩中、一秒の休みもなく魔力を練り続ける。かつて納期前のデスマーチで、一睡もせずにエクセルのセルを埋め続けたあの日のように。

≪スキル:【不眠不休】の熟練度が上昇しました。 50→65≫

≪称号:『人型ストーブ』を獲得しました≫

朝が来る頃、佐藤の目の下には深い隈が刻まれていたが、その瞳には「生き延びた」という冷徹な事実だけが光っていた。

酒も、煙草も、娯楽もない。ただ命を繋ぐための「作業」としての魔法。

「……主様。そんなに根詰めては、心が壊れますよ」

「……壊れる心なんて、もうとっくに置いてきた。……行くぞ、ゲンさん。今日は古紙回収のルートが熱い日だ」


「……直接は、もう限界だ」

一晩中、自分自身の体温を削りながらゲンさんを暖め続けた佐藤は、極度の疲労に襲われていた。魔力の「微小発熱」は、本人の体力を著しく消耗させる。

「主様、効率が悪すぎます。直接暖めるのではなく、熱を保持する『媒体』を使うべきです」

「……分かっている。40年、熱伝導率とかいう言葉を仕事で聞いたのは無駄じゃなかったはずだ」

佐藤はフラつく足取りで、ビルの裏手にある河川敷の瓦礫の山へ向かった。

拾い上げたのは、手のひらに収まるサイズの、密度が高そうな河原の石。これを複数個、懐に詰め込んで戻る。

≪スキル:【魔力注入】の熟練度が上昇しました。 0→15≫

≪スキル:【蓄熱】の熟練度が上昇しました。 0→20≫

ボロ布の上に石を並べ、佐藤は十本の尻尾をその上に重ねた。意識を集中し、怨嗟の燃料を「熱」へと変換し、石の内部へと封じ込めていく。石は次第に、焚き火の灰の中に残った熾火おきびのように、芯から赤黒い鈍い光を帯び始めた。

「……よし。これで数時間は、俺が意識を止めても熱が持続する」

佐藤はその熱い石を軍手とボロ布で幾重にも包み、即席の「魔力カイロ」を完成させた。それをゲンさんの脇の下や足元に差し込む。

「……ほう。天狐、こりゃあいい。……まるで温泉に浸かってるみたいだ」

「……真面目に、熱を逃がさないように包まっていてください。俺は……少し、寝る」

佐藤は自分用にも一つ、熱を持った石を抱きしめた。

石の熱は、機械的な「暖房」とは違う。どこか生き物の体温に近い、泥臭い温かさだった。

≪スキル:【効率的生存】の熟練度が上昇しました。 30→55≫

酒も、煙草も、甘いものもない。

だが、凍てつく冬の夜、廃ビルの片隅で、拾い物の石が放つ微かな熱を抱いて眠る。

そのささやかな「勝利」が、佐藤の凍りついた心を、ほんの一瞬だけ解かした。

「……主様、良い夢を。……もっとも、あなたの見る夢は、きっと明日集めるアルミ缶の山でしょうけれど」

精霊の嫌味も、今は遠い。


「……妙だな。疲れが、今までより引きにくい」

佐藤は、廃ビルの湿ったコンクリートに背を預け、自分の掌を見つめた。

一晩中、石に魔力を注ぎ込んでいたはずだ。本来なら、翌朝には鉛のような倦怠感に襲われ、這いずるようにしてアルミ缶の回収に向かうのが、これまでの「真面目な」佐藤のルーチンだった。

だが、今の体には、むしろ内側から膨れ上がるような、不気味なまでの活力が漲っている。

「主様、気づきましたか? この廃ビル、淀んでいるでしょう? 社会から弾き出された人々の怨念、諦め、絶望……それらが煮凝りのように溜まっている。……あなた、それを『吸って』ますよ」

「……俺が? 誰かの絶望をか?」

「十尾の天狐は神獣ですが、同時に大妖怪でもあります。清浄な気よりも、こういった『負の感情の集積地』の方が、今のあなたには都合が良いのでしょうね」

佐藤はゾッとした。

自分が真面目に生き残ろうとすればするほど、このビルに漂う陰惨な空気が、かつて「世の中を恨んでいた」佐藤の心と同調し、【妖力】として変換されている。

≪ステータス:【蓄積妖力】が微増しています。 100→150≫

≪スキル:【負の共鳴】の熟練度が上昇しました。 0→20≫

「(……俺は、人の不幸を糧に生きる化物になっていくのか?)」

かつて真面目な会社員だった頃、ライバル会社の失脚を少しだけ喜んでしまったあの日のような、後ろ暗い感覚。

だが、現実は非情だ。罪悪感よりも先に、体が「もっとよこせ」と、周囲の淀んだ空気を貪欲に求めている。

「……天狐。お前、なんだか……今日は一段と『強そう』だな。肌に艶が出てきたぞ」

ゲンさんが不思議そうに佐藤を見る。

「……気のせいです、ゲンさん。ただ、少しだけ『この場所』に馴染んできただけですよ」

佐藤は立ち上がり、昨日よりも遥かに軽い足取りで、外の寒風の中へと踏み出した。

妖力が高まれば、石を温めるのも容易になる。より多くの「温もり」を作り出せる。

だがそれは、このビルの絶望が深まれば深まるほど、自分の力が強まるという、呪われた因果の始まりでもあった。

「……ふん。真面目に、この淀みを再利用してやるさ。……俺は、死なない」

酒も飲まず、甘いものも摂らず。

ただ、人々の溜息と恨みを燃料に変えて、十尾の妖狐は現代の冬を、かつてないほど「万全な体調」で闊歩し始める。


「……妖力なんて、結局は俺の脳が作り出した、都合のいい『気の持ちよう』に過ぎない。現実には、そんな超常的な力は存在しない」

佐藤は、自分の内に滾る活力をそう結論付けた。

これは妖力ではない。40年間、真面目さという名のストイックな生活を続けた結果、極限状態のストレス耐性と、この淀んだ環境への異常なまでの「適応能力」が開花したのだ。

≪スキル:【環境適応(劣悪)】の熟練度が上昇しました。 50→99≫

周囲の住人たちは、佐藤の体の変化に気づかない。彼らにとっては、佐藤はただの「よく働く、薄汚い狐耳の幼女(風俗従業員のコスプレか何かだろう、くらいの認識)」でしかなかった。世界には、異能を感じ取るセンサーなど存在しない。佐藤だけが、世界で唯一、この異常な力を秘めている。

「主様。やはり、あなたの解釈は現実的すぎますね。もう少しファンタジーに乗っかってもいいんですよ?」

「黙れ。俺は真面目だ。この力は、俺がこの世界で生き残るための、ただの『道具』だ」

膨れ上がる「活力」を背景に、佐藤は一つの計画を立てた。

今の佐藤なら、【人間化】スキルを使わずとも、圧倒的な威圧感と交渉術で、ビルのリーダーたちを従わせることができる。だが、それは効率が悪い。権力争いはノイズだ。

「……ゲンさん、俺は少し、別の場所を探す。このビルは、いずれ崩される。一箇所に固執するのはリスクだ」

「そうか。お前らしいな。……気をつけろよ、佐藤」

ゲンは、佐藤が『佐藤』と名乗っていた頃の呼び名で送り出した。

佐藤はビルの外へ出た。外の世界には、高まった「活力」を消費する場所がいくらでもある。

≪スキル:【潜伏】の熟練度が上昇しました。 75→90≫

佐藤は、高まった活力を使い、街の裏側へ潜り込んだ。

狙うは、人目につかない場所にある、日払いの倉庫作業。そこなら身分証は不要だし、誰とも深く関わらずに金を稼げる。

翌日。現場に現れた佐藤は、昨日までの疲弊した姿とは打って変わって、恐ろしいほどの集中力で作業をこなした。荷物を運び、積み上げ、指示を完璧にこなす。

「おい、あのガキ。昨日までのやつか? なんだか、覇気が違うな……」

「まるで、飢えた獣が仕事してるみたいだぜ……」

周囲の作業員が囁き合うが、彼らに佐藤の力の源泉が「周囲の絶望を吸い取った妖力」だとは気づけない。ただ「異常に働く子供」がいる、という認識だけが残る。

佐藤は感情を殺し、ただ淡々と作業ログを頭の中で更新し続けた。

≪スキル:【倉庫作業】の熟練度が上昇しました。 0→50≫

この世界に超常現象はない。あるのは、非情な現実と、それに適応しすぎた一匹の狐だけだ。


「……ああ、これが『妖力』の重みか」

佐藤は現場の裏手、自販機の光が届かない暗がりに座り込んだ。

世界で唯一、自分だけが認識できる力。誰に自慢できるわけでも、畏怖されるわけでもない。ただ、周囲の淀んだ空気を吸い込み、強制的に体を動かし続けるための、どす黒いバッテリー。

≪スキル:【妖力変換】の熟練度が上昇しました。 20→40≫

今日の現場は、建築資材の荷揚げだった。大の男が悲鳴を上げる重量を、佐藤は「妖力」という非現実的なブーストを使い、真面目に、ただ真面目に一人でこなし続けた。

周囲からは「火事場の馬鹿力」や「異常なスタミナ」としか見られていない。この世界に超常現象を測る物差しなど存在しないからだ。

「……主様、お疲れ様です。今日の稼ぎは、いつもの1.5倍。立派なホワイト社畜ですね」

「黙れ。……今日は、自分を律するのを少しだけ緩める」

佐藤は、血の混じったような泥を水道水で洗い流し、現場近くのドラッグストアに向かった。

レジに並ぶ。泥だらけの狐耳幼女という異常な外見も、深夜の駅前では「ヤバいコスプレイヤー」として視線が逸らされるだけだ。

購入したのは、一本300円の高級栄養ドリンク。

酒も飲まない、煙草も吸わない、甘いものもいらない佐藤にとって、これが許しうる唯一の「贅沢」だった。

「……いただきます」

キャップを捻る。鼻を突く強烈な生薬の香りと、化学的な苦味。

本来、妖力を持つ天狐なら甘い蜜でも啜るべきなのだろうが、40男の魂を持つ佐藤には、この「効きそうな苦味」こそが、明日への唯一の希望だった。

≪スキル:【自己報酬】の熟練度が上昇しました。 0→10≫

≪状態:一時的な疲労回復(プラセボ込み)≫

「(……美味い。真面目に働いた後の、この毒々しい味が、今の俺には一番似合っている……)」

妖力というファンタジーの力を持ちながら、やっていることは深夜の栄養補給という、あまりにも現代的で世知辛いルーチン。

佐藤は空き瓶を、リサイクル法に則って正しく分別用のゴミ箱へ捨てた。

「……さあ、帰るぞ。ゲンさんに、この元気な分の妖力を分けてやらなきゃいけないからな」

佐藤は闇に紛れ、再び廃ビルへと向かった。

自分だけが知る、孤独な最強の力。それを「誰かを倒すため」ではなく「明日もまた真面目にゴミを拾うため」だけに使う。

それが、世界で唯一の妖狐が選んだ、あまりにも非情で真面目な生存戦略だった。


 空から落ちてきたのは、光り輝く幻想的な破片ではなく、ただの冷徹な死の宣告――初雪だった。

「……最悪だ。真面目にやってきたのに、天候だけは忖度してくれないな」

廃ビルの隙間から吹き込む雪混じりの風は、先日までの冷気とは次元が違った。コンクリートの床はもはや氷板と同じだ。妖力で自分自身を温めることはできても、それには限界がある。エネルギー源となる「食料」と、熱を逃がさない「環境」がなければ、いくら十尾の天狐といえど、この現代日本の冬に凍死する。

「主様。妖力があるといっても、あなたは今、物理的な熱力学の法則に縛られています。このままだとゲンさんは数日で動かなくなりますよ」

「……分かっている。プランを切り替える」

佐藤は、溜め込んだ妖力を指先に集中させ、ビルの壁一面を覆う断熱材の代わりとして、廃材の段ボールとブルーシートを「妖力による吸着」で隙間なく貼り付け始めた。

≪スキル:【防寒加工】の熟練度が上昇しました。 15→45≫

さらに、佐藤は「真面目な生存戦略」として、以前助けたスーパー店員の田中に交渉を持ちかけた。

「田中さん。……雪をしのぐために、廃棄予定の梱包用プチプチ(緩衝材)と、使い古しのパレットを譲ってくれませんか。代わりに、店の搬入口の除雪、完璧にこなしますから」

「え、あ、うん……。いいけど、そんなので大丈夫なの?」

田中に怪しまれながらも、佐藤は妖力で強化された怪力と敏捷性を使い、瞬く間に搬入口の雪を片付けた。手に入れた緩衝材は、空気を閉じ込める最高の断熱材になる。

廃ビルに戻った佐藤は、ゲンさんをパレットの上に座らせ、緩衝材と妖力で温めた石を組み合わせた「高効率保温シェルター」を構築した。

≪スキル:【即席建築】の熟練度が上昇しました。 0→30≫

「……天狐。お前、本当に……何でもできるな。まるで、冬眠前の獣みたいだ」

「……ただの、リスク管理です。死なれると、寝覚めが悪い」

佐藤は、自分だけが持つ妖力を「奇跡」として使わない。

あくまで、緩衝材の固定や、石の蓄熱といった、「物理的な生存手段の補助」として真面目に運用する。

雪は激しさを増していく。

酒も煙草も甘いものもない、ただ「暖」という一点のみを追求する、極限の冬が始まった。


 寒波は情け容赦なく都会を白く塗り潰した。積雪は数十年ぶりの記録を更新し、路上のアルミ缶は深い雪の下に埋もれ、佐藤の唯一の収入源である「廃品回収」は完全に死んだ。

「……計算通りだ。真面目な備蓄が、ここで生きる」

廃ビルの薄暗い一角。佐藤は、秋からコツコツと妖力で『乾燥処理』を施し、湿気から守ってきた非常食のストックを開いた。半額で買い叩いた乾パン、賞味期限切れのカップ麺、そしてゲンさんが拾ってきた乾燥ワカメ。

≪スキル:【備蓄管理】の熟練度が上昇しました。 40→75≫

「主様、これがあと何日持ちますか?」

「一日一食、妖力で代謝を落とせば十日は持つ。だが、それ以上は……」

酒も煙草も嗜まない佐藤のストイックさが、静かに、しかし着実に削り取られていく。三日目、ビルの外では配送車両が立ち往生し、都市の物流が麻痺していた。

「……行くぞ、精霊。じっとしていても腹は減る」

佐藤は吹雪の中へ踏み出した。視界は数メートル。そんな中、ビルの近くの坂道で、一台の高級セダンが激しく空転し、雪の壁に突っ込んでいるのを見つけた。

「おい、大丈夫か!」

運転席には、顔を青白くさせた老紳士がいた。スマホは圏外か、バッテリー切れか。JAFを呼ぼうにも、この雪ではいつ到着するか分からない。

「……主様、これは『収穫』のチャンスですね」

「黙ってろ。俺は真面目に、路上の障害物を取り除くだけだ」

佐藤は十本の尻尾をパーカーの中で蠢かせ、四肢に妖力を凝縮させた。40代無職の執念と大妖怪の力が、非現実的な出力を生む。

「……ふんっ!」

≪スキル:【物理干渉(妖力)】の熟練度が上昇しました。 10→40≫

車体の下に手を差し込み、数トンの鉄塊を雪の中から強引に持ち上げる。タイヤが空転する隙間に、手際よく近くの廃材を敷き詰める。老紳士には、泥まみれの幼女が火事場の馬鹿力を発揮したようにしか見えなかっただろう。

「……助かった。本当に、助かったよ、お嬢ちゃん」

老紳士は震える手で、財布から数枚の「諭吉」を取り出した。

「これはお礼だ。……いや、もっと渡すべきだが、今持ち合わせているのはこれだけなんだ」

≪スキル:【不労所得ではないが】の熟練度が上昇しました。 0→20≫

「……預かります。冬を越すための、正当な『作業報酬』として」

佐藤はその金を握りしめ、吹雪の中を廃ビルへと引き返した。数万円。これでカセットコンロのガスボンベと、ゲンさんのための栄養価の高い飯が買える。

「主様、これで春まで生き延びられますね」

「……ああ。だが、明日もまた雪は降る。真面目に、除雪作業の準備をするぞ」

2026年の冬、世界で唯一の妖狐は、一千円札の束を胸に、再び冷たいコンクリートの寝床へと戻っていった。


 20XX年、某月某日。

都会が数十年ぶりの豪雪に沈黙する中、廃ビルの地下室には、この世界にあるはずのない「贅沢な音」が響いていた。

シュンシュンと、カセットコンロの上で土鍋が鳴っている。

「……信じられねえ。この雪の中で、まさか鍋を突っ突けるとはな」

ゲンが、湯気の向こうで潤んだ瞳を細めた。

佐藤は、立ち往生した車を助けた謝礼で、近所のディスカウントストアへ走り、必要なものを「真面目に」揃えた。カセットコンロ、予備のガスボンベ、そして白菜、豆腐、鶏肉の切れ端。酒も飲まない、甘いものもいらない佐藤にとって、これこそが極限の冬における最高級の「ご褒美」だった。

「主様、妖力で直接温めるより、文明の利器を使う方がよほど効率的ですね」

「黙れ。……火を維持する集中力を他に回せる。これは合理的な投資だ」

≪スキル:【調理】の熟練度が上昇しました。 5→25≫

≪スキル:【熱効率計算】の熟練度が上昇しました。 0→40≫

佐藤は、十本の尻尾を寒さ対策の毛布代わりにし、ゲンと一緒に鍋を囲んだ。

一口、出汁の染みた白菜を口に運ぶ。

……熱い。そして、驚くほど美味い。

40年間、真面目に働き、組織に従順だった頃に食べたどんな高級接待料理よりも、この「略奪でも施しでもない、正当な報酬で買った鍋」は、佐藤の凍りついた芯を溶かしていく。

「……ゲンさん、肉も食え。タンパク質は筋肉の熟練度維持に不可欠だ」

「ハハ、相変わらずだな、天狐。……ありがとな」

廃ビルの外では、依然として猛吹雪が荒れ狂い、都市の機能は麻痺している。

だが、この湿ったコンクリートに囲まれた狭い空間だけは、カセットコンロの小さな青い炎と、佐藤の微かな妖力によって、奇跡のような温かさが保たれていた。

佐藤は、窓の外の闇を見つめた。

世の中を恨んでいる。理不尽なリストラも、無職になった今の境遇も、決して許したわけではない。

だが、こうして「真面目に」生き残るための作業を積み重ねることで、自分だけの居場所を守り抜いているという自負。それが、今の佐藤を支える唯一の誇りだった。

≪称号:『吹雪の守護者』を獲得しました≫

≪スキル:【内省】の熟練度が上昇しました。 80→95≫

「……明日も、生き延びるぞ」

佐藤は、最後の一滴のスープを飲み干した。

酒も煙草もない、ただ温かいだけの、某月某日の夜。

一匹の妖狐は、カセットコンロの火を消し、再び「真面目な」生存者として深い眠りに就いた。


 20XX年、某月某日。

数日間、都会を麻痺させていた白銀の絶望がようやく幕を引いた。廃ビルの窓から差し込む朝日は、雪に反射して痛いほどに眩しい。

「……ガスが尽きるのが先か、雪が止むのが先か。真面目な賭けだったが、俺の勝ちだな」

佐藤は、残り数ミリの重さになったカセットガスボンベをコンロから外し、正しく資源ゴミとして処理するために袋へ入れた。

鍋の温もりに救われた数日間。だが、蓄えは確実に減っている。雪が止んだなら、やるべきことは一つしかない。

「主様、まだ路面は凍結していますよ。転んで尻尾を骨折でもしたら、笑い草です」

「黙ってろ。……道が悪い時こそ、競争相手が少ない。絶好の稼ぎ時だ」

佐藤は、泥と妖力で固めた「不審な幼女」の擬態を整え、再び街へと踏み出した。

都会の朝は、除雪に追われる人々で殺気立っている。だが、佐藤の瞳に映るのは「困っている人々」ではなく、「金に変わる作業」の山だった。

≪スキル:【路面状況分析】の熟練度が上昇しました。 0→35≫

佐藤は、かつて助けたスーパー『マルヤス』の前に立ち寄った。案の定、搬入口は再び雪に埋まり、店員たちが雪かきスコップを手に途方に暮れている。

「田中さん。……また、やりますよ」

「あ、キミ! 助かるよ、本当に……! 店長、この子です、前言ったすごい掃除してくれる子!」

佐藤は、妖力を全身の筋肉に均等に配分し、人間の限界を超えた効率で雪を跳ね除けていく。重い雪を紙屑のように放り投げるその姿は、周囲からは「若いエネルギーの暴走」に見えただろうが、実際は【筋力増強】と【バランス維持】の熟練度を極限まで引き出した、真面目な精密作業の結果だ。

≪スキル:【高速除雪】の熟練度が上昇しました。 10→60≫

≪報酬:現金3,000円と「温かいお茶」を獲得しました≫

酒も煙草もやらない佐藤にとって、この3,000円はゲンさんの薬代と、新しいガスボンベ、そして一週間分の備蓄に変わる「命」そのものだ。

「……ふぅ。甘いお茶か。……悪くない」

支給されたお茶を一口飲み、佐藤は冷えた胃を温めた。

世の中への恨みが消えたわけではない。雪が止んだところで、無職の40代が十尾の狐になって路地裏で生きているという不条理な現実は変わらない。

だが、こうして「仕事」をし、対価を得て、明日を繋ぐ。その淡々とした繰り返しだけが、佐藤が自分を失わずに済む唯一の規律だった。

「……さあ、次は駅前のコンビニの除雪だ。あそこはオーナーがケチだから、安く買い叩かれないよう交渉術を磨くぞ」

≪スキル:【生存の規律】の熟練度が上昇しました。 85→90≫

狐の耳をフードの中に押し込み、佐藤は再び、冷たいアスファルトの上を歩き出した。


 20XX年、某月某日。

駅前のロータリー。佐藤は、腰の高さまで積み上がった雪の壁と対峙していた。

全身の細胞に、ビルで吸い上げた淀んだ気が「妖力」として巡っている。身体能力は全盛期のアスリートを遥かに凌駕し、重い雪を突き崩すたびに、体内の出力はさらに一段階引き上げられていく。

≪スキル:【妖力巡回】の熟練度が上昇しました。 20→55≫

「主様、妖力がかなり高まっていますよ。今なら派手な吹雪を逆流させるくらいできそうですが」

「……そんな無駄なことにリソースを割くか。俺は今、目の前の雪を片付ける『仕事』をしているんだ」

佐藤の内に渦巻く妖力は、限界を超えて暴走することなどなかった。なぜなら、佐藤自身がそれを許さないからだ。40年間、過酷な納期や不条理な上司の命令を、鉄の意志で「制御」し続けてきた真面目な社畜の精神。それが、大妖怪の力さえも、単なる「高効率な作業用エネルギー」として完璧に統制していた。

超常現象など起きない。光の柱が立つことも、空の色が変わることもない。

ただ、一人の泥まみれの「幼女」が、物理法則の限界ギリギリの速度で、精密機械のように除雪を完遂していく。その光景は、目撃した者たちにとっては「異常な身体能力」という、ぎりぎり現実の範疇に収まる驚きでしかなかった。

≪スキル:【高精度出力】の熟練度が上昇しました。 0→40≫

「……よし。ここまでは終わった」

三時間後。駅前の広場は見事にアスファルトが露出していた。

佐藤の体温は妖力によって高く保たれ、周囲の雪が微かに蒸気となって揺らめいているが、それも「激しい運動による熱気」として周囲には処理される。

「お、お嬢ちゃん……。あんた、一人でこれを……。ほら、約束のバイト代だ。助かったよ、本当に」

コンビニの店主から差し出されたのは、数枚の千円札。

佐藤はそれを無造作に受け取り、震える指を隠すようにポケットにねじ込んだ。

「……当然の職務を遂行したまでです」

渋い声で短く答え、佐藤は踵を返した。

妖力がどれほど高まろうと、腹は減るし、体は汚れる。この力は世界を変えるためのものではなく、ただ「今日を生き延び、ゲンさんに飯を食わせる」という、あまりにも矮小で真面目な目的のためにのみ消費される。

「主様。もっと格好よく力を使えば、宗教の教祖にでもなれそうなものを」

「……そんな面倒な仕事、お断りだ」

佐藤は、高まった妖力をじわりと鎮め、再び「ただの疲れた無職」の歩調で廃ビルへと向かった。

酒も飲まない、甘いものもいらない。

ただ、自分の労働が正当な対価に変わったという事実だけが、今の佐藤にとって唯一、心の乾きを癒やす「妖力」よりも確かな報酬だった。


 20XX年、某月某日。

除雪作業で得た数千円を握りしめ、佐藤は街の端にあるリサイクルショップの軒先へ向かった。

自分のために金を使う気は微塵もない。真面目な佐藤にとって、今の最優先事項は、冬を越すための「資産」であるゲンさんの健康維持だ。

「主様。そんな泥だらけの姿で入店すれば、即座に不審者として警察に通報されますよ」

「分かっている。……だからこそ、今の妖力で『存在感』を薄める。これも実務の一環だ」

≪スキル:【隠密(市街地)】の熟練度が上昇しました。 75→82≫

佐藤は、高まった妖力を内側に押し込み、周囲の風景に溶け込むように店に入った。客や店員の意識をすり抜け、古着のワゴンを物色する。狙うのは、見栄えよりも機能性――ポリエステル100%の厚手のフリースか、中綿がしっかり詰まった型落ちの防寒ジャンパーだ。

「……これだ」

ワゴンの中から、少し煤けてはいるが、耐風性の高い軍用上がりのようなジャケットを見つけ出した。1,900円。今の佐藤にとっては大金だが、ゲンさんの命を繋ぐための「経費」と考えれば、妥当な投資だった。

≪スキル:【目利き】の熟練度が上昇しました。 10→35≫

会計時、レジの店員は泥だらけの幼女(佐藤)を一瞬怪訝そうに見たが、佐藤が「真面目な手つき」で千円札二枚を揃えて差し出すと、反射的に接客モードで処理した。社会のシステムは、対価を払う者には意外と寛容だ。

廃ビルに戻ると、ゲンさんは薄い毛布に包まり、咳き込んでいた。

「……ゲンさん。これ、着てください。……中古ですが、熱は逃がさないはずです」

「……天狐。お前、また無茶して……。こんな立派なもん、俺にくれるのか?」

「無茶ではありません。……あんたが倒れたら、俺の生存効率も落ちる。これは合理的な判断です」

佐藤は感情を殺してそう告げたが、ジャケットを着て「……あったけぇ……」と涙を浮かべる老人の姿を見て、胸の奥に微かな熱が宿るのを感じた。

≪スキル:【生命の連帯】の熟練度が上昇しました。 0→15≫

酒も煙草も、甘い菓子も、今の佐藤には必要ない。

ただ、自分が真面目に働いて手に入れた「防寒着」が、自分以外の誰かの震えを止めている。その事実だけで、この不条理な現実に、わずかばかりの整合性が取れたような気がした。

「……さて。次は、春に向けての食料備蓄の最適化だ」

佐藤は再びパーカーのフードを深く被り、淀んだ空気が漂う廊下の隅で、明日のスケジュールを頭の中で組み立て始めた。


 20XX年、某月某日。

「……ん?」

ゲンさんに着せたジャケットの襟元を整えていた時、佐藤の指先が、裏地の不自然な膨らみに触れた。

内ポケットのさらに奥、破れた布地の隙間に滑り込んでいた「何か」。

佐藤はそれを慎重につまみ出した。

出てきたのは、使い古された一編の図書貸出カードと、四つ折りにされた一枚のレシート。そして、銀色に光る「小さな鍵」だった。

「……主様。これはファンタジーなら『秘密の宝物庫への鍵』ですが、この現実ではせいぜい駅のコインロッカーか、古びたアパートの郵便受けの鍵ですよ」

「分かっている。……期待などしていない」

佐藤は無機質に答えたが、レシートの印字に目を留めた。日付は三年前。そこにはビジネスホテルの宿泊代と、ドラッグストアで購入された大量の「胃薬」の記録があった。

≪スキル:【遺留品捜査】の熟練度取得を開始します。 0→15≫

≪スキル:【洞察】の熟練度が上昇しました。 50→62≫

前の持ち主もまた、このジャケットのポケットに「胃の痛み」を抱えながら、真面目に社会と戦っていたのだろう。そして、この鍵が開けるはずだった「何か」を失い、あるいは捨てて、この服はリサイクルショップへ流れた。

「……ゲンさん。この鍵、心当たりは?」

「……さあな。だが、その鍵の形……。ここから数キロ先にある、古いトランクルームの南京錠に似てねえか?」

佐藤は鍵を握りしめた。

世の中を恨んでいる。真面目に生きてきた人間が、胃を壊すまで働き、最終的に服の一枚まで手放すこの仕組みを。

だが、もしこの鍵の先に、前の持ち主が「生きるために残した何か」があるのだとしたら。

「……主様。行くのですか? 報酬のない作業は、あなたの『真面目な生存戦略』に反するのでは?」

「……これは『拾得物の確認』という、社会人として当然の事後処理だ。放置してリスクを残すわけにはいかない」

佐藤は自分に言い訳をしながら、十本の尻尾を隠し、雪解けの泥道を歩き出した。

酒も飲まず、甘いものも欲さず。

ただ、名もなき誰かの「絶望の跡」を辿るために。

≪スキル:【追跡】の熟練度が上昇しました。 0→25≫

鍵は、冷たく重い。

それは、かつて佐藤が持っていた「家の鍵」や「会社のデスクの鍵」と同じ、重圧の味がした。


 20XX年、某月某日。

「……主様。真面目すぎるのも考えものですよ。拾ったカードから住所を割り出し、持ち主を特定するなんて、ストーカーか探偵の熟練度でも上げているつもりですか?」

「黙れ。貸出カードに書かれた名前は『佐藤』だった。……俺と同じ苗字だ。他人のような気がしなかっただけだ」

佐藤(天狐)は、泥だらけのパーカーのフードを深く被り、貸出カードに記載されていた古いアパートの住所を訪ねた。だが、そこに「佐藤」という表札はなかった。

代わりに、近所の住人から聞き出したのは、この世界の「非情な結末」だった。

前の持ち主の佐藤は、過労による脳出血で三年前の冬、独りきりでこの世を去っていた。親族もおらず、遺品は全て業者に処分されたという。あのジャケットは、その時に流れた「生きた証」の破片だったのだ。

≪スキル:【孤独死の追認】の熟練度が上昇しました。 0→50≫

≪称号:『同族の弔い人』を獲得しました≫

「……悲劇的ですらありませんね。単なる、よくある現代の処理プロセスだ」

佐藤は感情を殺して呟いた。だが、握りしめた「鍵」の感触が、掌に熱く残っていた。持ち主が死んだのなら、この鍵はもう誰にも返せない。ならば、この鍵が守っているものを確認するのが、せめてもの供養だ。

佐藤はゲンが言っていた、郊外にある古いトランクルームを特定した。管理も行き届いていない、錆びついたコンテナの群れ。

≪スキル:【鍵開け】の熟練度が上昇しました。 0→30≫

ガチャリ、と音を立てて開いたコンテナの中。

そこにあったのは、金銀財宝でも、膨大な借用書でもなかった。

埃を被った段ボール箱が数箱。

中を開けると、そこには「真面目な人生の残骸」が詰まっていた。

かつての仕事の企画書、表彰状、そして……一度も開封されていない、自分へのご褒美だったろう高級な茶葉や、何年も前に期限が切れた「一人用の炊飯器」。

「……遺産でも、負債でもない。ただの、捨てられなかった『自分』だ」

佐藤は、箱の底に一通の手紙を見つけた。

『いつか、これらを全部捨てて、どこか遠くへ行こう』

そんな走り書きがあった。前の持ち主もまた、いつか報われる日を夢見て、真面目に荷物を預け続けていたのだ。

≪スキル:【共感の拒絶】の熟練度が上昇しました。 80→85≫

「主様。どうします? 遺品整理業者を呼びますか?」

「……いや。この茶葉は、もう飲めない。だが、この炊飯器はまだ動く」

佐藤は、前の持ち主が一度も使えなかった炊飯器を抱え、トランクルームの扉を閉めた。

酒も飲まない、煙草も吸わない。ただ真面目に生きて死んだ「もう一人の自分」から、この道具を継承する。それが、今の佐藤にできる唯一の「真面目な事後処理」だった。

「……ゲンさん、喜ぶぞ。これがあれば、もっと美味い粥が炊ける」

佐藤は、妖力でトランクルームの錆を少しだけ浄化し、静かに立ち去った。


 20XX年、某月某日。

佐藤は、故人の遺品となった一人用の炊飯器を抱えて、廃ビルへと戻った。

トランクルームで埃を被っていたそれは、一度も使われることなく死蔵されていたが、佐藤の「真面目な洗浄」スキルと妖力による微細な修復で、新品同様の輝きを取り戻していた。

「……これ、本当に動くのか?」

「ええ。コンセントの『電気を流す熟練度』は、前職で嫌というほど上げましたから」

佐藤は、ビル内で唯一電気が通っている(違法に分岐させた)場所まで炊飯器を運び、拾ってきた米と、田中からもらった水を入れた。スイッチを入れると、古びた機械がカタカタと音を立てて、命を吹き込んだ。

「……主様。何といいますか、この行為こそが、前の持ち主への最大の供養かもしれませんね」

「……黙れ。これは、俺たちの明日の活力のための合理的な作業だ」

酒も飲まない、煙草も吸わない。甘いものもいらない。

ただ、真面目に働いてきた男が、生きるために手に入れた「道具」で米を炊く。

蒸気が吹き出し、廃ビルに久しぶりに「生活」の匂いが満ちる。周囲の住人たちが好奇の目を向けてくるが、佐藤は妖力で威圧感を放ち、寄せ付けなかった。

チーン、と音が鳴り、炊飯器が止まる。

蓋を開けると、そこにはふっくらと炊き上がった、湯気の立つ白いご飯があった。

佐藤は、丁寧に二つのお椀に盛り付けた。

「……食おう、ゲンさん。これが、俺たちのささやかな贅沢だ」

二人は、音を立ててご飯を食べ始めた。

塩気すらなく、ただ米本来の甘さだけが口の中に広がる。それは、これまで貪ってきた廃棄物や乾パンとは比べ物にならない、確かな「温もり」と「栄養」だった。

≪スキル:【食事(温)】の熟練度が上昇しました。 0→50≫

≪状態:満足(微小)≫

「……美味いな。真面目に働いて、真面目に炊いた飯は、なんでこんなに美味いんだろうな」

ゲンが、目に涙を浮かべながら呟いた。

佐藤は、感情を表に出すことはなかったが、その腹を満たしていく白い飯の温かさが、世の中への恨みを、ほんの少しだけ和らげたような気がした。

「……ああ。美味いな」

佐藤は、空になったお椀を丁寧に洗い、明日の朝のために、また米を研いだ。

この非情な世界で、自分たちだけのささやかな贅沢を守り抜く。それが、十尾の妖狐となった男の、新たな「真面目な」ルーチンとなった。


 20XX年、某月某日。

炊飯器があるからといって、劇的に人生が好転するわけではない。廃ビルの廊下には相変わらず湿った冷気と絶望が淀んでおり、男たちがパンの耳を奪い合う光景も日常の一部だ。佐藤が手に入れた小さな贅沢は、誰に知られることも、広まることもなく、コンクリートの隅っこでひっそりと完結していた。

「主様。結局、誰にも言わないんですね。これを使って炊き出しの真似事でもすれば、ビルの英雄にでもなれたでしょうに」

「……馬鹿を言え。そんなことをすれば、明日には炊飯器ごと盗まれる。目立たず、着実に。それが俺のやり方だ」

佐藤は、炊飯器を使い終わると丁寧に布で包み、自分たちの寝床の奥深く、誰も気づかないガラクタの山の中に隠した。真面目な佐藤にとって、リスク管理は呼吸と同じだ。

≪スキル:【隠蔽】の熟練度が上昇しました。 60→75≫

それからの日々は、さらに淡々と過ぎていった。

佐藤は毎日、日の出とともに街へ出た。妖力を使って身体能力を底上げし、以前よりもさらに過酷な日雇いの解体現場や、深夜の清掃作業を梯子する。

酒も飲まない。煙草も吸わない。

手に入れた報酬は、ゲンさんの体調を維持するための栄養剤と、炊飯器で炊くための安い米に変わる。

≪スキル:【ルーチン遂行】の熟練度が上昇しました。 90→98≫

ある夜。佐藤は、仕事帰りにコンビニの廃棄コンテナを覗き込み、一匹の野良猫と目が合った。

かつて餌をやった猫かどうかは分からない。猫は佐藤の姿を見ると、面倒そうに一度鳴いて、闇の中へ消えていった。

「……ふん。俺もあいつも、やってることは変わらないな」

佐藤は、泥だらけのパーカーの袖で顔を拭った。

異世界への転移に失敗し、四十代の無職が十尾の狐になって現代日本に留まる。そんな不条理な設定すら、繰り返される「労働」と「生存」のルーチンの中では、もはや当たり前の光景として自分の中に溶け込んでいた。

妖力は少しずつ溜まっていく。熟練度は確実に上がっていく。

だが、それが世界の何を変えるわけでもない。

ただ、明日の朝、ゲンさんに温かい飯を食わせることができる。

その一点のためだけに、世界で唯一の妖狐は、今日という一日を「完遂」させた。

≪ステータス:安定≫

≪称号:『真面目な生存者』≫

佐藤は、廃ビルの硬い床に横たわり、十本の尻尾を抱いて目を閉じた。

遠くで、夜を徹して走るトラックの音が聞こえる。

世界は相変わらず非情で、そして驚くほど静かだった。


 20XX年、某月某日。

深夜、廃ビルの屋上。

剥き出しの鉄筋に座り、佐藤は眼下に広がる不夜城を見つめていた。

どんなに雪が降ろうと、誰かが路地裏で凍えようと、あの街の光が途絶えることはない。真面目に働いた者が切り捨てられ、不真面目に立ち回る者が光を享受する。その巨大な循環が、ただただ醜悪な装置に見えた。

「……おい、精霊。あるいは、俺の脳が作り出した妄想」

佐藤は、視界の端で漂う光の粒に問いかけた。

「主様。なんでしょう、そんなに神妙な顔をして。また新しいゴミ収集ルートの計算ですか?」

「……この世界を、終わらせてもいいか」

その言葉は、冷たく、重く、夜風に混じった。

蓄積された妖力は、今や佐藤の意志一つで、この街の機能を物理的に停止させるほどの密度に達している。変身を解き、十尾の天狐として真の姿を現せば、現代兵器でさえ太刀打ちできない災厄となるだろう。

「……真面目にやってきた結果がこれだ。俺が壊したところで、誰も文句は言えまい。この醜悪なシステムを、一度リセットしてやってもいいんじゃないか?」

≪スキル:【終末の意志】の熟練度取得を開始します。 0→10≫

精霊は、しばらく沈黙した。

そして、いつもの毒舌を捨て、どこか遠くを見るような声で答えた。

「……いいですよ。あなたがそう望むなら。この世界は、あなたを正当に評価しなかった。終わらせる権利は、虐げられた側にあります」

佐藤は、ゆっくりと立ち上がった。

パーカーの下で、十本の尻尾が逆立ち、禍々しい妖気が渦を巻く。空の色が、佐藤の怒りに呼応するように、微かに紫色に変色し始めた。

「……だが、主様」

精霊が続けた。

「世界を終わらせたら、明日の朝、炊飯器で炊く米もなくなります。ゲンさんに着せたあのジャケットも燃えてしまいます。……そして、あなたが今まで真面目に積み上げてきた『生存の熟練度』も、すべてゼロになりますが、よろしいですか?」

佐藤の動きが、止まった。

≪スキル:【損得勘定】の熟練度が上昇しました。 95→99≫

頭の中で、冷徹な計算が走る。

世界を壊すのは一瞬だ。恨みを晴らすのも容易い。

だが、その後に残るのは虚無だけだ。自分が今日まで、泥を啜りながら、血を吐きながら積み上げてきた「真面目な努力」の痕跡まで、自らの手で消し去ることになる。

「……チッ。……効率が悪すぎる」

佐藤は、逆立っていた尻尾を収め、再びパーカーを深く被った。

立ち込めていた不穏な妖気が、霧散していく。

「……終わらせるのさえ、勿体ない。俺は、俺が積み上げたものを守る。この醜い世界の片隅で、俺だけが真面目に生き残ってやる。……それが、一番の復讐だ」

≪スキル:【感情遮断】が【究極の諦観】へ進化しました≫

佐藤は屋上を降り、ゲンさんの待つ湿った部屋へと戻った。

世界を滅ぼす魔力を持ったまま、明日の朝に配られる「一円にもならないチラシ」を拾う計画を立てる。

酒も飲まない、煙草も吸わない。

ただ、世界で唯一の妖狐は、今日という日を終わらせ、明日の「労働」に備えて目を閉じた。


 20XX年、某月某日。

「……ゲンさん。あんたをそんな体にしたのは、どこのどいつだ」

佐藤は、新調したジャケットの中で小さく震えるゲンを見つめ、静かに問いかけた。以前の自分なら、ただの「不幸な事故」として処理していただろう。だが、今の佐藤には、怨嗟を燃料に変えて動く【妖力】と、真面目に真実を突き止める【執念】がある。

「よせ、天狐……。過ぎたことだ。俺が間抜けだっただけさ……」

ゲンは力なく首を振ったが、佐藤は黙って、以前ジャケットの内ポケットから見つけた「図書貸出カード」と「レシート」を再び取り出した。

「主様。前の持ち主の足跡を辿った時のように、今度はゲンさんの過去を暴くつもりですか? 復讐の熟練度を上げても、お腹は膨れませんよ」

「……黙れ。俺は真面目に、原因を究明するだけだ。放置すれば、また同じことが繰り返される」

佐藤は、ゲンがかつて働いていたという建設現場の飯場はんばの噂を、街の隙間で聞き込み始めた。妖力で気配を消し、手配師たちの世間話に耳を立てる。

≪スキル:【潜入調査】の熟練度が上昇しました。 20→55≫

数日後、佐藤は一つの名前に辿り着いた。

『黒岩興業』。

表向きは解体業者だが、実態は身分証のない弱者を過酷な労働環境に押し込み、怪我をすれば使い捨て、挙句の果てには労災すら隠蔽して路頭に迷わせる、この街の「癌」のような存在だ。

ゲンはそこで、安全対策を無視した現場監督の指示により、重機の下敷きになりかけた。助かったのは奇跡だが、会社は彼を病院に運ぶどころか、わずかな口止め料と共に夜の街へ放り出した。

「……なるほどな。真面目に働いていた人間を、ゴミのように捨てたわけだ」

佐藤の内に、黒く澱んだ妖力が渦巻く。

かつて自分が会社から「不必要」の判子を押された時の記憶が、ゲンの悲劇と重なり合う。

≪スキル:【怨念の共鳴】の熟練度が上昇しました。 0→40≫

「主様。どうします? 事務所を物理的に破壊しますか? 今のあなたなら、ビルごと地中に埋めることも可能ですよ」

「……いや。それではただのテロだ。俺は、俺のやり方で『清算』させる」

佐藤は、黒岩興業の事務所の住所を特定した。

酒も飲まない、煙草も吸わない。ただ、復讐という名の「最も真面目な仕事」を完遂するために。

佐藤は、夜の闇に紛れて動き出した。

一矢報いる。それは単なる暴力ではなく、奴らが最も恐れる「社会的な死」と、佐藤だけが与えられる「異能の恐怖」の融合だった。


 20XX年、某月某日。

佐藤は、黒岩興業の事務所の前に立っていた。雑居ビルの三階。明かりは消えているが、男たちが酒を飲んで寝ている気配がする。

「……まずは、挨拶だ」

佐藤は窓から音もなく侵入した。目指すは、ゲンを放り出した張本人である現場監督が寝ている部屋。いびきをかいて眠る男の額に、佐藤は指先を向けた。

「主様。【精神干渉】スキルですね。やりすぎると廃人になりますが?」

「黙れ。俺は真面目に、『反省を促す教育的指導』をするだけだ」

佐藤は、溜め込んだ妖力を一点に集中し、男の脳天に注ぎ込んだ。

超常現象を認識できない世界でも、精神への干渉は別だ。男の顔が苦痛に歪む。

≪スキル:【精神干渉】の熟練度が上昇しました。 0→50≫

≪スキル:【悪夢付与】の熟練度が上昇しました。 0→60≫

男は、自分がかつて使い捨てた労働者たちに、安全装置のない現場で永遠に追いかけ回される悪夢を見始めた。悲鳴を上げようにも声が出ない。佐藤は、男が恐怖で痙攣けいれんするのを冷徹に見つめ、次の仕事に取り掛かった。

「……さて、次は本命だ」

佐藤は、社長室へと向かった。目指すは、違法なピンハネと労災隠しを証明する「裏帳簿」。机の引き出し、金庫の中。妖力で錠前を軽々と弾き飛ばし、分厚いファイルを見つけ出した。

「……あったな。これが、お前らの『真面目』の証拠か」

ファイルには、身分証のない男たちの名前と、不当に低い賃金、そして『事故死』を『自己都合退職』として処理した記録がびっしりと並んでいた。

佐藤は、その裏帳簿をすべて奪い取った。そして、妖力を使い、データを「加工」し始める。

「そのままリークしても、証拠不十分で揉み消される可能性がある。もっと確実な方法で、社会的に破滅させてやる」

≪スキル:【情報操作(妖力)】の熟練度が上昇しました。 0→70≫

佐藤は、帳簿のコピー(原本は焼却)を、妖力で『絶対に消えないデジタルデータ』へと変換した。それを、この街を管轄する労働基準監督署や、税務署のサーバー、さらには地元の新聞社の匿名投稿フォームに、痕跡を残さずに送りつけた。

「……これで、お前らの会社は終わりだ」

佐藤の「真面目さ」は、システムを熟知している。役所は、これほど完璧な証拠を目の前にすれば、動かざるを得ない。

翌朝、黒岩興業の前に、怒号と共に労働基準監督署の査察と、警察の家宅捜索が入った。呆然と立ち尽くす社長と、焦点の合わない目でブツブツと呟く現場監督(まだ悪夢から覚めていない)の姿を、佐藤は街の片隅から見つめた。

「……フン。ざまあみろ」

酒も飲まず、煙草も吸わない。ただ、真面目に復讐を果たした佐藤は、空き缶を拾いながら、今日もまた廃ビルへと戻っていく。


 20XX年、某月某日。

黒岩興業が消えた翌日、その事務所があった雑居ビルの前には、早くも別の「解体業者」を名乗る怪しげなバンが停まっていた。社会という巨大な生物にとって、一つ細胞が死滅したところで、その穴を埋める代わりの毒素はいくらでも湧いてくる。

「……結局、何も変わらないな。主様がどれだけ真面目に復讐しても、システムそのものは無傷ですよ」

「……分かっている。世界を変えようなどという傲慢な考えは、最初から持っていない」

佐藤は、駅裏のスーパー『マルヤス』のレジ袋を提げ、廃ビルへと戻った。

今日は、復讐という名の「不定期業務」を完遂した後の、ささやかな祝賀会だ。

酒も飲まない、煙草も吸わない。甘いものも特に好きではない。

そんな佐藤が選んだ祝賀会のメインディッシュは、一パック数百円の「国産鶏のもも肉」と、少しだけ良い「無洗米のコシヒカリ」だった。

≪スキル:【祝賀会設営】の熟練度が上昇しました。 0→15≫

廃ビルの隅。継承した炊飯器が、カタカタと心地よい音を立てて蒸気を吐き出す。その横で、カセットコンロにかけられた小さな鍋が、醤油と生姜の香ばしい匂いを漂わせた。

「……天狐。なんだか今日は、一段と豪華じゃねえか。……黒岩の連中、パクられたってな」

ゲンが、新調したジャケットの襟を正しながら、嬉しそうに鼻を鳴らした。

「……さあ、どうでしょうね。俺はただ、真面目に晩飯の準備をしているだけです」

佐藤は、炊き上がった真っ白な飯の上に、甘辛く煮た鶏肉を乗せた。

二人は、暗い廊下の隅で、誰にも邪魔されずにそれを口に運ぶ。

≪スキル:【咀嚼と感謝】の熟練度が上昇しました。 40→65≫

「……美味いな」

「……ああ。美味い」

酒による狂騒も、煙草による虚脱もない。ただ、内臓が温まり、筋肉に栄養が行き渡る感覚。佐藤にとっては、この「実益を伴う静寂」こそが、最高の祝祭だった。

ビルの外では、今日もまた誰かが誰かを騙し、誰かが誰かに切り捨てられる日常が続いている。

だが、この廃ビルの、炊飯器から漏れるわずかな光の中にだけは、正当な対価を払って手に入れた「平和」があった。

≪ステータス:精神の平穏を検知≫

≪称号:『静かなる執行人』≫

佐藤は、最後の一粒まで米を綺麗に平らげると、炊飯器のプラグを丁寧に抜いた。

復讐は終わった。明日からはまた、淡々と、真面目に、ゴミを拾い、日雇いの現場で汗を流す日々が始まる。

「……さあ、寝るぞ。明日は、資源ゴミの回収日が早い」

十本の尻尾を抱き込み、佐藤は深い眠りへと沈んでいった。


 20XX年、某月某日。

その日は、ただ真面目に空き缶を拾うだけの、いつも通りの冬の日になるはずだった。

だが、午前十時。世界が同時に、「悲鳴」を上げた。

地球規模での巨大なプレート変動。日本のみならず、環太平洋の全ての火薬庫が連鎖的に爆発したかのような、未曾有の同時多発地震。都会のビル群は、まるで砂で作った模型のように無残に崩れ、ライフラインという名の都市の血管は瞬時に断絶した。

「……主様。これ、笑えませんよ。妖力のメーターが、世界中の恐怖を吸い込んで振り切れています」

「……黙れ。そんなことより、ゲンさんを……!」

廃ビルは、かつて佐藤が妖力で補強したおかげで倒壊こそ免れたが、周囲の街は地獄絵図と化していた。電信柱がなぎ倒され、都市ガスが漏れ出す。人々はパニックに陥り、避難所へと雪崩を打って逃げていく。

だが、佐藤たちのような「透明な存在」には、逃げる場所などどこにもない。避難所でのプライバシー確保や物資配布の不備が露呈する中、住所不定の狐耳幼女と老人が受け入れられるはずもなかった。

≪スキル:【広域絶望感知】の熟練度が上昇しました。 0→80≫

≪称号:『災厄の中の隣人』を獲得しました≫

「……ゲンさん、しっかりしろ! このビルを拠点にする。外はもう、まともなルールが通じる世界じゃない」

佐藤は、溜まりに溜まった妖力を惜しみなく解放した。

復讐のために磨いた「威圧」を、今はビルを守るための【結界】として張り巡らせる。崩落しかけた天井を、目に見えない力で支え、凍てつく冬の空気を妖力で焼き払う。

世界規模の震災。それは、佐藤がかつて願った「世界の終わり」の形に近いものだった。

だが、いざそれが目の前に現れたとき、佐藤が選んだのは破壊ではなく、「真面目な管理職」としての徹底した生存維持だった。

「主様。皮肉ですね。世界が壊れたことで、皮肉にもあなたの『力』が、この街で一番確かなライフラインになりましたよ」

「……うるさい。俺はただ、自分の『資産』と『居場所』を守る作業をしているだけだ」

酒も飲まない、煙草も吸わない。

ただ、未曾有の災厄の中で、一匹の妖狐はカセットコンロの残りの火を見つめ、ゲンさんのために最後のおにぎりを温めた。

世界が終わろうとしている今日という日を、誰よりも真面目に生き残るために。


 20XX年、某月某日。

「……ゲンさん、ここはもう引き際だ。都会ここは死んだ」

佐藤は、地割れと瓦礫で埋まった路地を見つめ、静かに告げた。世界規模の大震災により、都市の文明は一夜にして瓦解した。電気が消え、水道が止まり、食料供給という社会の血流が停止した今、人口密度の高い街は単なる「巨大な墓場」でしかない。

「山に行くのか、天狐。……だが、この体でどこまで歩けるか」

「歩かせませんよ。俺を誰だと思ってるんですか」

佐藤は十本の尻尾を解き、妖力でその一本一本を強靭な「肢」のように変化させた。ゲンを背中に固定し、自らの四肢と尻尾を連動させて、垂直に近い壁や瓦礫の山を音もなく越えていく。

≪スキル:【不整地高速移動】の熟練度が上昇しました。 0→65≫

「主様、合理的な判断です。今のあなたの妖力があれば、山林での自給自足の方が生存率は遥かに高い。人間同士の奪い合いという不毛なノイズからも解放されますしね」

「ああ。真面目に生き残るなら、戦うより避けるのが定石だ」

佐藤は、街の淀んだ空気を吸い込みながら、ひたすら北へと向かった。目指すは、かつて仕事の出張中に地図で見た、人里離れた深い山中。

≪スキル:【野生の勘(偽)】の熟練度が上昇しました。 10→40≫

道中、避難民の群れを何度も見かけたが、佐藤は一切関わらなかった。助けを求める声も、略奪を企む視線も、高まった妖力による【隠密】で全て霧散させる。酒も煙草もやらない佐藤の五感は、研ぎ澄まされたセンサーのように最適なルートを選び出していく。

数日後、二人は標高の高い原生林の奥深くに辿り着いた。そこには、震災の被害を免れた古い山小屋の跡と、枯れることのない湧き水があった。

「……ここをキャンプ地とする」

佐藤は、背負っていた炊飯器と、僅かな備蓄食料を慎重に下ろした。

空は驚くほどに青く、都会の喧騒も、絶望の叫びも届かない。

「……天狐。……ここなら、誰にも邪魔されずに眠れそうだな」

「ええ。まずは、この小屋の『修繕』と『防衛』の熟練度を上げます。ゲンさんは、そこで真面目に休んでいてください」

佐藤は、十本の尻尾を器用に使い、周囲の倒木を加工し始めた。

異世界に行けなかった無職の男は、文明が崩壊した現代の山中で、誰よりも真面目に、そして孤独に「最強の開拓者」としての第一歩を踏み出した。

≪クエスト:【新天地での生存】を開始しました≫

≪スキル:【サバイバル建築】の熟練度取得を開始します≫


 20XX年、某月某日。

山小屋の修繕を終えた佐藤は、背後に刺すような視線を感じて振り返った。

そこには、震災による地殻変動か、あるいは佐藤が知る由もない「歪み」によって変異した、巨大な「山の主」がいた。

それは、かつては熊であったろう巨体だが、その背には鉱石のような結晶が生え、瞳には知性すら感じさせる青い光が宿っている。

「……主様。あれ、ただの野生動物じゃありませんね。大震災で漏れ出した何らかのエネルギー、あるいはあなたの妖力に当てられて変異した個体です」

「……分かっている。真面目に挨拶しないとな」

佐藤は十本の尻尾を威嚇ではなく、対等な「武装」として静かに展開した。

巨獣は低い唸り声を上げ、周囲の木々を魔圧で震わせる。だが、佐藤は一歩も引かなかった。酒も飲まないストイックな精神が、恐怖を冷徹な「生存分析」へと変換する。

≪スキル:【異種間交渉】の熟練度取得を開始します。 0→30≫

「……俺は、ここを奪うつもりはない。ただ、あそこの小屋と、その周辺数メートル。そこだけを俺たちの『安全圏』として認めてもらいたい」

佐藤は、高まった妖力を言葉に乗せ、巨獣の脳裏に直接叩き込んだ。

テリトリーを広げ、山全体を支配しようなどという野心は、真面目な佐藤には微塵もない。管理コストが上がるだけだ。ただ、ゲンさんと静かに暮らすための「最小単位の安息」があればいい。

巨獣はしばらくの間、佐藤の瞳を見つめていた。

そこにあるのは、侵略者の野欲ではなく、ただひたすらに「今日を生き延びる」という、この世界の生物が共通して持つ、しかし極めて濃密な【生存の意志】だった。

やがて、巨獣は鼻を鳴らし、巨大な前足で地面を一回叩いた。

それは、「そこから先には手を出さない」という、非言語的な合意の証だった。

≪スキル:【不戦条約】の熟練度が上昇しました。 0→45≫

「……交渉成立だ。恩に着る」

巨獣は音もなく森の奥へと消えていった。佐藤は深く溜息をつき、妖力で硬直していた筋肉を解した。

「主様。いいんですか? あの力を屈服させれば、この山全体の資源が手に入ったのに」

「……必要ない。管理できない広さはリスクでしかない。俺は、俺の手が届く範囲を真面目に守るだけだ」

佐藤は、拾ってきた薪を小屋の脇に丁寧に積み上げた。

世界がどれだけ変異し、文明が崩壊しようとも。

一匹の妖狐は、自分に許された「数メートルの平穏」を、誰よりも真面目に耕し続けていく。

≪ステータス:領域安定≫

≪スキル:【足るを知る】の熟練度が上昇しました。 80→95≫


 20XX年、某月某日。

山の主との不戦条約を結んだ佐藤は、さっそく居住圏の「最適化」に着手した。

震災の影響か、森の植生は変貌していた。シダ植物は銀色の産毛を纏い、キノコは微かに発光している。佐藤はこれらを、かつての仕事で培った「徹底的なリサーチ能力」で分類し始めた。

「主様。その青い実、食べたら妖力で腹が爆発しますよ。こっちの、ドブのような臭いがする根っこの方が、今のゲンさんに必要な滋養強壮剤になります」

「……分かっている。見かけに騙されるのは、真面目な仕事人のすることじゃない」

佐藤は十本の尻尾を触手のように使い、斜面に生える変異植物を採取していった。妖力で解毒と成分抽出を行い、ゲンさんのための「薬湯」と、長期保存が可能な「乾燥非常食」を作り出す。

≪スキル:【変異植物採取】の熟練度が上昇しました。 0→45≫

≪スキル:【異能錬金(仮)】の熟練度が上昇しました。 0→30≫

酒も煙草もやらない佐藤の身体は、山での重労働を完璧にこなし、生活環境は日に日に整っていった。だが、その「真面目な整理整頓」が、ある発見を招く。

小屋の腐った床板を張り替えようとした際、地下へ続く隠し扉を見つけたのだ。

そこには、前の住人が残したと思われる一冊の「日記」があった。

「……主様。これ、ただの隠居記録じゃありませんね」

佐藤は、カセットコンロの微かな火の下で日記を捲った。

そこには、震災が起こる数年も前から、この山で観測されていた「異常」が克明に記されていた。

『某月某日。地底から響くのは、地震の予兆ではない。それは、この世界が本来持っていたはずの「ことわり」が、現代の地殻変動によって再起動しようとしている音だ』

日記によれば、大震災は単なる自然災害ではなかった。

現代社会が覆い隠していた「かつての魔法的なエネルギー(妖力)」の噴出。それが世界規模で連鎖し、地殻を破壊したのだという。佐藤が異世界に行けず、現代で妖狐になったのも、その「理」の漏洩に巻き込まれた結果だったのだ。

≪スキル:【世界真相の解読】の熟練度取得を開始します。 0→55≫

「……なるほどな。世界が俺を異世界へ飛ばし損ねたんじゃなく、世界の方が『異世界』に歩み寄り始めていた、というわけか」

佐藤は日記を閉じた。

真相を知ったところで、やるべきことは変わらない。世の中を恨もうが、理不尽に嘆こうが、明日の米を研ぐ作業は待ってくれない。

「……ゲンさん。明日からは、この山に湧き出した『理の欠片』……いわゆる魔力鉱石の採取もルーチンに加える。もっと真面目に、この山を要塞化するぞ」

「……ああ。天狐、お前がいれば、どこだって楽園だな」

外では、変異した獣の遠吠えが響き、空には見たこともない色の星が瞬いている。

崩壊した文明の跡地で、一匹の妖狐は日記を燃料にすることなく、大切に棚に保管した。過去の記録を重んじるのも、真面目な男の矜持だった。


 20XX年、某月某日。

佐藤は日記に記された古地図を脳内に叩き込み、山の主のテリトリーに隣接する「北の断崖」へと向かった。そこには、数千年前の地殻変動で封印された「古代の貯蔵庫」があるという。

「主様。そこには現代の缶詰よりも遥かに高品質な、エネルギー効率の良い『霊的備蓄』があるはずですよ」

「……ああ。冬を越すための、最も真面目な追加投資だ」

断崖の隙間、妖力を鍵として流し込むと、岩肌が音もなくスライドした。内部には、変異することなく時を止めた、乾燥した果実や高純度の塩、そして「魔力を帯びた穀物」が整然と並んでいた。

≪スキル:【古代遺産発掘】の熟練度が上昇しました。 0→40≫

≪報酬:『不老の種子』『高純度岩塩』を獲得しました≫

「……これで、ゲンさんに死ぬまで美味い飯を食わせてやれる」

だが、安堵したのも束の間。山の麓から、文明の残滓ざんしである金属音が響いた。装甲車、そして自衛隊の迷彩服を纏った一団。大震災後、かろうじて組織を維持した残存部隊が、変異した資源を求めて「山狩り」を開始したのだ。

「……標的確認。巨大な熊のような変異体……『山の主』を排除し、拠点を確保する」

拡声器の声が、静かな山を切り裂く。彼らは近代兵器――対戦車ミサイルや重機関銃を、かつての守護者である巨獣に向けていた。

「主様。どうします? 相手は『国家の法』を自称する者たちですよ。真面目なあなたなら、協力するのが筋では?」

佐藤は、スコープを覗き込む兵士たちの背後で、泥まみれのパーカーを脱ぎ捨てた。

そこから現れたのは、銀髪をなびかせ、十本の尻尾を怒りで逆立たせた、真なる「天狐」の姿。

「……馬鹿を言うな。俺は、条約を破る不真面目な奴が一番嫌いなんだ」

佐藤は迷わず、山の主の側へと跳んだ。

兵士たちが引き金に指をかけた瞬間、空から降臨した佐藤が、その銃身を妖力で飴細工のように捻り曲げる。

「な、なんだ!? 狐のガキ……いや、化け物か!?」

「……俺はここの住人だ。この山には、あんたたちの不条理なルールは持ち込ませない」

≪スキル:【守護の咆哮】の熟練度が上昇しました。 0→55≫

≪称号:『山の共生者』を獲得しました≫

佐藤は背後に立つ山の主と視線を交わした。

巨獣は感謝を示すように低く唸り、佐藤と共に「侵入者」を見据える。

酒も飲まない、煙草も吸わない。ただ真面目に「隣人との約束」を守るため。

世界で唯一の妖狐は、かつての同胞であるはずの人間たちを相手に、冷徹な排除の構えをとった。

「……主様。これ、完全に『人間卒業』の熟練度がカンストしましたね」

「……構わない。俺が真面目に守るべきは、この山と、あの小屋の平穏だけだ」


 20XX年、某月某日。

銃身を捻り曲げられ、最新鋭の火器をただの鉄屑に変えられた自衛隊の残存部隊は、パニックを通り越し、硬直していた。指揮官らしき男が、震える手で白い布を掲げ、拡声器を使わずに声を張り上げた。

「待ってくれ! 交渉を……交渉を求めたい! 我々に、君たちと戦う意志はない!」

佐藤は十本の尻尾を揺らめかせ、山の主の巨体の前に立ったまま、冷徹な視線を向けた。

「……いいだろう。だが、一歩でも『境界』を越えれば、次はあんたたちの心臓を直接握りつぶす。……真面目に話せ」

≪スキル:【威圧的交渉】の熟練度が上昇しました。 55→72≫

佐藤は、無力化された装甲車のボンネットに腰掛け、指揮官から「現在の世界の状況」を聞き出した。それは、佐藤の想像を遥かに超える、非情な現実だった。

「……世界は、もう元の形を保っていない。日本列島は分断され、政府機能は立川の予備施設へ移転したが、地方自治体は完全に孤立している。海外も同様だ。アメリカ西海岸は沈み、ユーラシア大陸の中央部には、君のような『変異体』が闊歩する広大な空白地帯が生まれている……」

指揮官の話によれば、大震災後の世界はグレート・リセットを強制的に執行されたような状態だという。通貨価値は暴落し、現在は食料と燃料を巡る「生存圏の争奪戦」が世界規模で起きている。

「我々は、この山に眠る『新資源』を確保し、難民キャンプの数千人を救うためのエネルギー源にしたいんだ。頼む……協力してくれないか」

≪スキル:【世界情勢分析】の熟練度が上昇しました。 0→60≫

「主様。どうやら世界は、あなたが望んだ『不真面目なシステムの崩壊』を完遂したようですね。今やこの山は、世界でも有数の『宝の山』ですよ」

佐藤は、手にした泥だらけのパーカーを握りしめた。

世界がどれだけ壊れようと、酒も飲まず、煙草も吸わず、ただ真面目に生きてきた自分には、国家の再建などという大層な使命感は湧かない。だが、目の前の男たちが抱える「数千人の飢え」という現実は、かつての自分と同じ、報われない労働者たちの影に見えた。

「……山の資源を分け与えることはできない。だが、古代の貯蔵庫にあった『不老の種子』の栽培方法と、山の主が通すことを許した道沿いの湧き水なら、提供してもいい」

「……本当か!?」

「ただし、対価を払え。あんたたちの持っている衛星通信端末の予備と、太陽光発電パネルの最新型だ。……俺は、この山の情報を真面目に管理し続ける必要があるからな」

佐藤は、一歩も譲らない「真面目な商談」を成立させた。

世界がどれだけ変わろうと、一匹の妖狐は、自分の手の届く範囲を、誰よりも真面目に管理し続けていく。


 20XX年、某月某日。

自衛隊から対価として毟り取った衛星通信端末を山小屋に持ち帰り、佐藤は太陽光パネルで蓄電した電力を使って、かつての「日常」に接続した。

「……主様、驚きですね。サーバーの半分以上が物理的に消失したはずなのに、人類の執念は凄まじい。一部のインフラ専用回線をハックして、まだ『掲示板』が動いていますよ」

佐藤は、ノイズ混じりの液晶画面を見つめた。そこには、世界規模の震災と異変に見舞われながらも、名前も知らない誰かと繋がろうとする者たちの、無機質で切実なログが流れていた。

【20XX】大震災避難所情報交換スレ 8042【文明崩壊】

128:名無しさん

マジで終わった。昨日、隣の区画で巨大な鳥みたいな変異体が飛んでるの見た。自衛隊も逃げ出したし、もう終わりだろこれ。

135:名無しさん

128

うちはまだ備蓄があるけど、水道が来ないのが詰み。

てか、ネットが繋がってるのが奇跡。管理してる奴、誰だよ真面目すぎだろ。

142:名無しさん

北の方の山に『銀髪の幼女』がいて、軍隊を一人で追い返したって噂聞いたぞ。

つーか、十本の尻尾が生えてたとかw

そんなラノベみたいなことあるわけねーだろ。

「……ふん。相変わらず、無責任な書き込みばかりだな」

佐藤は鼻で笑ったが、その指は無意識に、かつての自分が入り浸っていた「無職・生活板」の残骸を探していた。酒も飲まない、煙草も吸わない。孤独に耐え続けてきた佐藤にとって、この匿名性の高い「世界のノイズ」こそが、唯一、自分がかつて「人間」であったことを思い出させる依代だった。

≪スキル:【情報収集ネット】の熟練度が上昇しました。 40→65≫

「主様。そんな暇があるなら、明日植える『不老の種子』の育成シミュレーションでもした方が効率的ですよ」

「……黙れ。この『ノイズ』を分析することで、外部の人間がどの程度この山に興味を持っているか、リスク管理をしているだけだ」

佐藤は真面目な顔をして言い訳をしたが、画面の向こうで「お腹空いた」「誰か助けて」という悲鳴に混じって、どうしようもない下らないジョークを飛ばし合う者たちの姿に、奇妙な安堵を覚えていた。

世界は壊れた。理不尽な理由で。

だが、その壊れた世界でも、人間は相変わらず不真面目に、そして必死に言葉を紡いでいる。

「……ゲンさん。世界はまだ、完全に死んじゃいないみたいだ」

「……そうか。そりゃあ良かった。……天狐、お前もたまには、その画面に向かって何か書いてやったらどうだ?」

佐藤はキーボードに指を置いたが、すぐに止めた。

一匹の妖狐として、今の自分に書ける言葉などない。ただ、誰よりも真面目に、この山の平穏を守り続けること。それが、この狂った掲示板の片隅で震える者たちへの、自分なりの「答え」のような気がした。

≪スキル:【ネットリテラシー(世紀末)】の熟練度取得を開始します≫


 20XX年、某月某日。

山小屋の冷たい床の上。佐藤は、使い古されたキーボードを前に、深く息を吐いた。

世界は崩壊し、食料を求めて人が争うこの時代。そんな中、匿名掲示板に集う不真面目なノイズが、佐藤の凍りついた好奇心を刺激した。

「……主様。まさか、あの『銀髪の幼女』の噂を見て、『私が本人です』と名乗り出るつもりですか? リスク管理の熟練度がマイナスになりますよ」

「黙れ。これは、俺の現状を『客観視』するための、真面目な実験だ。俺が幻覚を見ているんじゃないかという疑念を払拭するためでもある」

佐藤は震える指で、震災情報が錯綜するスレッドの入力欄に、淡々と自分の状況を書き込んでいった。

≪スキル:【自己開示(匿名)】の熟練度取得を開始します。 0→10≫

142:名無しさん

北の方の山に『銀髪の幼女』がいて、軍隊を一人で追い返したって噂聞いたぞ。

つーか、十本の尻尾が生えてたとかw

そんなラノベみたいなことあるわけねーだろ。

143:天狐になっちゃったおじさん

142

本人だけど質問ある?

十尾の狐で40代男性。無職。酒タバコ甘いものなし。

山の主とは不戦条約結んだ。装備は炊飯器(一人用)とボロパーカー。

自衛隊は追い返した。

書き込みは瞬時にサーバーに送信され、掲示板は一瞬、静寂に包まれた。

150:名無しさん

143

wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

151:名無しさん

143

天才現る

152:名無しさん

143

ネタにマジレスする痛い奴乙

158:名無しさん

143

つーか、マジでネット繋がってるの神業だろ。どこのインフラ使ってんだよ

「……ふん。やはり、誰も信じないな。俺の妖力と同じだ。認識できないものは、存在しないことになる」

佐藤は満足げに頷いた。自分が狂っているわけではない。この世界の人間たちが、超常現象を認識する機能を失っているだけだ。

160:天狐になっちゃったおじさん

158

自衛隊から衛星通信端末を報酬としてもらった。太陽光発電で運用中。

装備は万全だ。質問に真面目に答える。

その書き込みから、掲示板は騒然となった。「自衛隊から毟り取った」という現実味のある非現実的な内容が、妙な信憑性を生み出したのだ。質問が殺到し、佐藤は夜を徹して、一つ一つ真面目に答えていった。

≪スキル:【コミュニケーション(匿名)】の熟練度が上昇しました。 0→30≫

酒も飲まない、煙草も吸わない。ただ、かつての同胞たちと、世界崩壊後の世知辛い情報を交換し合う。それが、世界で唯一の妖狐となった男の、最も不真面目で、そして最も人間らしい夜の過ごし方だった。


 20XX年、某月某日。

掲示板のスレッドは、佐藤が提供する「山の湧き水の場所」や「安全な移動ルート」といった具体的な情報で溢れかえっていた。だが、誰も彼もが佐藤の元へ押し寄せてくることはなかった。

なぜなら、世界はすでに、長距離移動を許さないほどに壊れていたからだ。

「……主様。世界のインフラは壊滅的です。燃料も、車両も、道そのものも、震災の爪痕で寸断されています。掲示板で情報を得たところで、物理的にこの山まで辿り着ける人間はいませんよ」

佐藤は、通信端末の画面を見つめた。

『北の山の情報助かる』『でもこっち、徒歩じゃ無理だわ。鳥人間に襲われる』『隣町まで行くのに一週間かかった』

そんな書き込みばかりだ。

「……ふん。地図情報を開示しても、実行できる奴がいない。これもまた、世界の非情な現実だ」

佐藤は、掲示板の情報の需要と供給のバランスを分析し、新たな「商談」を思いついた。

天狐になっちゃったおじさん

情報だけでは腹は膨れないだろう。

北の山まで来れない者向けに、高効率の保存食と薬草の種子の『遠隔取引』をする。

対価は、機能する発電機や医療品、生存に必要な物資。

興味があるやつは、座標(かつての上野駅周辺)まで物資を運べ。俺の代理人が受け取る。

代理人とは、もちろん山の主(変異熊)のことだ。佐藤は、山から中継地点まで物資を運び、山の主が見張る場所に置いておく計画を立てた。

「主様。代理人との交渉は済んでいるのですか?」

「山の主は、不真面目な侵入者を追い払うのが好きだからな。これもウィンウィンの関係だ」

佐藤は、取引に使うための「変異植物の乾燥保存食」を丁寧に袋詰めした。

酒も飲まない、煙草も吸わない。ただ、取引という名の「真面目な仕事」で、崩壊した世界に自分だけの流通網を構築していく。

≪スキル:【物流構築(世紀末)】の熟練度が上昇しました。 0→50≫

佐藤の山小屋は、世界から隔絶されながらも、確実に「機能」し始めていた。

世界の終わりは、同時に、佐藤という一匹の妖狐にとっての「新たなビジネス」の始まりでもあったのだ。


 20XX年、某月某日。

取引場所として指定したのは、かつて物流の拠点だった場所の成れの果てだ。佐藤は妖力を脚に込め、ゲンさんを山小屋に残して独りで下りてきた。背負っているのは、古代の貯蔵庫から得た高純度岩塩と、変異植物から精製した保存食の包みだ。

「主様。ターゲットが見えました。ですが……あれを『武装集団』と呼ぶのは、日本語の熟練度が疑われますよ」

「……分かっている。あれはただの、腹を空かせた亡者だ」

指定した場所にいたのは、数人の男たちだった。手に持っているのは軍用兵器などではなく、錆びたバールや、折れたガードレールの支柱。防弾チョッキの代わりにボロボロの毛布を巻きつけたその姿には、組織的な軍隊を維持するための資材も、燃料も、気力も残っていない。

「……出せ。その袋の中身、全部置いていけ……!」

男の一人が、震える手で錆びたナイフを突き出してきた。

佐藤はパーカーのフードを脱ぎ、銀髪と十本の尻尾をあえて晒した。夕闇の中で、佐藤の瞳だけが妖力で淡く発光している。

「……真面目に取引する気がないなら、帰れ。あんたたちが持ってきたのは、約束の発電機用の部品か?」

「化、化け物……! 構うか、殺せ!」

男たちが一斉に飛びかかってきた。しかし、その動きは飢えと寒さで鈍りきっている。

佐藤は最小限の動きで、妖力を纏わせた拳を一人一人の鳩尾に叩き込んだ。骨を砕く必要すらない。呼吸を一時的に止めるだけで、彼らは泥のように地面に伏した。

≪スキル:【害獣駆除(対人)】の熟練度が上昇しました。 45→70≫

「……主様。情けをかけるのですか? 奪おうとした者は、この世界のルールでは死罪ですよ」

「……殺して死体を片付ける手間が不毛だ。それに、こいつらが持ってきた袋の中身は……本物だ」

佐藤は男たちが持ってきたボロ布の包みを開けた。そこには、どこかの廃工場から必死に剥ぎ取ってきたのであろう、グリスまみれのギアと、真新しい点火プラグがあった。

この絶望的な世界で、これらを探し出し、ここまで運んできた執念だけは、佐藤と同じ「真面目さ」の残滓ざんしを感じさせた。

佐藤は約束通り、保存食の袋を男たちの横に置き、代わりに部品を回収した。

「……取引成立だ。次は、まともな体調で来い」

佐藤は気配を消し、闇の中へと消えた。

背後で男たちが、喉を鳴らしながら保存食を貪り食う音が聞こえる。

酒も煙草も、甘い菓子もない世界。

ただ、錆びたナイフと引き換えに手に入れた一食の糧が、彼らにとっての唯一の福音だった。

≪スキル:【闇取引】の熟練度が上昇しました。 0→45≫

「……さあ、帰るぞ。これで発電機の修理ができる。掲示板のチェック時間も増やせるな」

佐藤は再び山へ向かって駆け出した。

真面目に生きること。それは、この壊れた世界で、奪い合うよりも確実な「価値」を積み上げていくことだと、佐藤は確信していた。


 20XX年、某月某日。

山小屋へ戻った佐藤は、すぐさま作業に取り掛かった。

手に入れた点火プラグとギアは、泥と油にまみれていたが、佐藤にとってはどんな宝石よりも価値がある。

「主様。そんなに急いで修理して、また掲示板で煽り合いでもするつもりですか?」

「……黙れ。暗闇での作業は効率が悪い。真面目に環境を整えるのは、生産性向上の基本だ」

佐藤は十本の尻尾を器用に使い、発電機の内部をパーツクリーナー(以前拾った残骸)で洗浄し、新しい部品を組み込んだ。妖力を指先に集中させ、金属の摩耗を微細に調整する。

≪スキル:【内燃機関修理】の熟練度が上昇しました。 45→85≫

≪称号:『世紀末の整備士』を獲得しました≫

スターターの紐を力強く引く。

一回、二回……三回目。

湿った爆発音と共に、エンジンが安定した回転数を刻み始めた。

「……よし。出力安定」

佐藤は、小屋の梁に吊るしておいたLED電球のスイッチを入れた。

パッ、と白く無機質な光が、カビ臭い小屋の隅々までを照らし出した。

それは、焚き火の揺らめく赤色や、妖力の淡い輝きとは決定的に違う。

かつて佐藤が、残業代も出ないオフィスで明け方まで見つめていた、あの冷たくも確かな「文明の光」だった。

≪スキル:【文明の維持】の熟練度が上昇しました。 0→40≫

「……おお。天狐、こりゃあ明るいな。……まるで、昔の家に戻ったみたいだ」

ゲンが、眩しそうに目を細めて笑った。

「……ゲンさん、これはただの光源です。……ですが、これで夜でも真面目に針仕事や読書ができますよ」

佐藤は、光の下で自分の泥だらけの掌を見つめた。

酒も飲まない、煙草も吸わない。甘い菓子も欲さない。

ただ、自らの労働と取引で手に入れた電力が、LEDの半導体を震わせ、暗闇を物理的に押し返している。その事実が、この狂った世界で佐藤が唯一信頼できる「論理」だった。

「……主様。次は、この電力を使って何をしますか? 冷蔵庫の修理? それとも……」

「……まずは、この電力を無駄にしないよう、小屋の気密性をさらに高める。……真面目に、冬を終わらせる準備をするぞ」

光があることで、やるべき「仕事」はさらに増えた。

だが、その忙しさが、佐藤にとっては心地よかった。

世界で唯一の妖狐は、煌々と輝くLEDの下で、明日への完璧な工程表を脳内に描き始めた。


 20XX年、某月某日。

自衛隊から譲り受けた衛星通信端末が、山小屋の静寂を破るように鋭い警告音を鳴らした。それは、一般の回線が死に絶えた世界で、防衛省の残存ネットワークが生きて動いている唯一の証だった。

「……主様。これ、通常の『変異体情報』じゃありません。秘匿回線に暗号化された緊急速報が流れています」

佐藤は、高まった妖力で神経を研ぎ澄ませ、流れてくる断片的なログを解析した。画面に並ぶのは、かつての自分なら一生目にすることのなかったであろう、戦慄のデータだった。

【緊急事態:フェーズ・レッド】

【北半球高高度において複数の熱源反応を確認】

【某国による核ミサイル発射の蓋然性極めて高し】

【EMP(電磁パルス)攻撃による広域通信途絶の恐れあり】

「……核だと?」

佐藤の背筋に、冬の風よりも冷たい震えが走った。大震災で文明が崩壊し、人々が泥を啜って生きているこの期に及んで、なお人間は「最後の一撃」を撃ち合ったというのか。

「……自衛隊の報告によれば、迎撃システムはもはや機能していません。どこかの国が絶望のあまり、道連れを選んだ……あるいは、この『変異した世界』を浄化しようとしたのかもしれませんね」

案内役の幻聴(精霊)の声には、珍しく冗談の色がなかった。核の炎。それは、妖狐となった今の佐藤でさえ、無傷ではいられない絶対的な破壊の象徴だ。

≪スキル:【核汚染予測】の熟練度取得を開始します。 0→35≫

≪称号:『終末を知る者』を獲得しました≫

「……ゲンさん! 今すぐ地下の貯蔵庫へ戻るぞ!」

佐藤は、訳も分からず驚くゲンの腕を引き、古代の石造りの地下室へと急がせた。核爆発そのものの熱線が届かずとも、電磁パルス(EMP)が来ればこの通信端末も、苦労して直した発電機もすべて鉄屑に変わる。そして、その後に降るのは、毒を含んだ「黒い雨」だ。

「……真面目にやってきたんだ。こんな不真面目な終わり方、認められるか」

佐藤は、地下室の入り口に、持てる妖力のすべてを注ぎ込んで【多重防護結界】を展開した。物理的な衝撃だけでなく、放射線や汚染物質さえも遮断する、現代の科学を越えた執念の壁。

酒も飲まない、煙草も吸わない。ただ真面目に明日を繋ごうとしていた。

外では、文明の最後の断末魔のような光が、遠くの空を白く染めようとしていた。

「……主様。通信、途絶します。……また、暗闇の生活に戻りますね」

「……構わない。光がなくても、俺の『熟練度』は消えない」

バツン、と通信端末の画面が消えた。

完全な暗闇の中で、一匹の妖狐は、震えるゲンの手を握りしめ、目に見えない死の灰が降り積もるのを静かに待ち構えた。


 20XX年、某月某日。

「核の冬」が世界を覆った。上空に留まった膨大な煤と塵が太陽光を遮り、地球の平均気温を急降下させる。

しかし、佐藤が危惧した「死の静寂」は山に訪れなかった。

逆に、森は不気味なほどの「生命の熱量」を帯び始めていた。

「主様。核爆発の衝撃は、この世界の底に眠っていた妖力の噴出をさらに加速させましたね。植物は黒い太陽に代わるエネルギーを地底から吸い上げ、驚くべき速度で変異を続けています」

「……ああ。冬枯れの静寂を期待していたんだが、不真面目なほどに騒がしいな」

佐藤の周囲では、黒い雪を突き破り、燐光を放つ巨大なシダ植物が急成長していた。野生動物たちもまた、核汚染に抗うように妖力を取り込み、さらに巨大で、さらに異形へと進化している。佐藤は、自給自足のルーチンをさらに過酷にアップデートした。

≪スキル:【極地農耕(妖力)】の熟練度が上昇しました。 0→65≫

酒も煙草も嗜まない佐藤のストイックさは、汚染された土壌から妖力で不純物を濾過し、ゲンさんのために安全な作物を育てるという「究極の真面目作業」に昇華されていた。

だが、EMP(電磁パルス)の直撃を受けた世界で、あの衛星通信端末はただの鉄屑と化していた。

「……主様。文明は沈黙しました。これでようやく、孤独になれましたね」

「……いや。俺はまだ、諦めていない」

佐藤は、山小屋の地下に保管していた「アナログ機器」……かつての住人が遺した真空管ラジオや、自作の鉱石ラジオを引っ張り出した。半導体を用いた最新機器は全滅したが、物理的に巨大な回路を持つ旧時代の機器は、EMPの破壊を免れる可能性が高い。

佐藤は、十本の尻尾をアンテナ代わりにして空中に張り巡らせ、微かな電波を妖力で増幅した。

≪スキル:【アナログ通信復旧】の熟練度取得を開始します。 0→40≫

ガガ……ピー……というノイズの向こうから、人の声が聞こえてくる。

『……こちらは……長野……シェルター。……生存者、応答……願う……』

それは、かつての掲示板のような軽薄なノイズではない。

生きることを選択した者たちの、血を吐くような「真面目な呼びかけ」だった。

「……精霊。俺の『ネットワーク構築』の熟練度は、まだカンストしていない。……この山の『不老の種子』の情報を、世界中に飛ばしてやる」

酒も飲まない、煙草も吸わない。

ただ、滅びゆく世界で「繋がる」という作業を完遂するために。

一匹の妖狐は、真空管の温かい光の下で、再び世界の再構築という名の「残業」を開始した。


 20XX年、某月某日。

「……主様、これはいけません。混線しています。いや、世界そのものが『ノイズ』になっていますよ」

佐藤が妖力で増幅したアンテナ代わりの尻尾を夜空へ向け、真空管ラジオのダイヤルを回すと、スピーカーからはかつての公式な放送ではあり得ない「声」たちが溢れ出した。

それは、大震災と核の冬を経て、佐藤と同じように「ことわり」の奔流に曝された者たちの叫びだった。

『……こちらは……ロンドン地下。影を操る……力を得た。だが、太陽が……消えて、影が……消えないんだ……助けてくれ……』

『……モスクワ……鋼鉄の腕が……止まらない。俺の……肉体を食い尽くそうとしている……誰か、止め方を……教えてくれ……』

ガガッ、ピーという電子の悲鳴の合間に届くのは、異能を授かりながらも、それを制御できずに自壊していく者たちの末期の言葉。あるいは、力に溺れて狂気に陥った者たちの哄笑だった。

≪スキル:【広域異能交信】の熟練度が上昇しました。 0→55≫

「……どいつもこいつも、不真面目だな。力を得て、真っ先にやるのが絶望の垂れ流しか」

佐藤は、カセットコンロで温めた一杯の白湯を啜りながら、冷淡に言い放った。酒も飲まず、煙草も吸わず、ただ淡々と「生活」という名の熟練度を上げ続けてきた佐藤にとって、力に振り回される「異能者」たちは、かつての職場で納期直前にパニックを起こしていた新入社員と同じに見えた。

「主様。彼らにとって、この世界は悪夢そのものです。あなたのように、妖力を使って真面目に家庭菜園を最適化しようとする方が異常なんですよ」

「……異常で結構。俺は、俺のルーチンを乱すつもりはない」

佐藤はラジオのマイクを握りしめ、自分と同じ「佐藤」という苗字を持つ前の住人が遺した、あの真面目な日記の内容を引用して発信した。

「……こちら、日本の北の山。……異能を得た諸君に告ぐ。力に飲まれるな。……まずは、自分の周りの三メートルを掃除しろ。……水を沸かせ。……飯を食え。……明日のための工程表を作れ。……真面目に生きろ。……以上だ」

≪スキル:【説法(世紀末)】の熟練度取得を開始します。 0→25≫

発信が終わると、ラジオの向こうが、一瞬だけ静まり返った。

世界中に散らばった「化け物」たちに、かつての社畜が放った「生活の規律」という名の呪文が届いた瞬間だった。

だが、佐藤は彼らがどう反応するかなど興味もなかった。

彼はダイヤルを切り、真空管の熱が冷めるのを待たずに、明日のための薪割りの準備を始めた。

「……さあ、寝るぞ。ゲンさん。明日は、黒い雪の下から『新芽』を探す日だ」

酒も飲まない。煙草も吸わない。

ただ、世界中から届く「異能の悲鳴」をBGMに、一匹の妖狐は誰よりも真面目に、今日という一日を完遂した。


 20XX年、某月某日。

「……おはようございます。こちら、日本の北の山。本日の気温、氷点下十度。……薪の準備は万端だ」

佐藤は、毎朝のルーチンとして、真空管ラジオのマイクに向かって淡々と「業務日報」を読み上げた。あれから、世界中からの異能者からの「悲鳴」は減り、代わりに奇妙な「近況報告」が増えていた。

『……ロンドン地下。佐藤さんの言う通り、影の面積計算を始めた。生活に規律が生まれて、少しだけ、飯が美味くなった気がする』

『……モスクワ。鋼鉄の腕を分解し、農耕具に改造中。慣れない作業だが、真面目にやっている。……ありがとう、天狐』

≪スキル:【影響力ラジオ】の熟練度が上昇しました。 0→65≫

世界中に散らばった「化け物」たちは、佐藤の「真面目に生きろ」という説法……いや、「無駄話」に感銘を受け、それぞれの場所で、狂気を飼い慣らし、生存のための「作業」に打ち込み始めていた。

「……主様。あなた、世界のリーダーになっていますよ。世界を壊そうとしていたのに、真面目すぎて再建し始めているではありませんか」

「……うるさい。俺はただ、生存競争のノロウイルスを撲滅しようとしているだけだ。非効率な混乱は、俺の性に合わない」

佐藤は、ラジオの向こうから聞こえる、かつての社畜たちのような「疲れた、だが前向きなノイズ」をBGMに、今日もまた「不老の種子」を畑に植えていく。

酒も飲まない、煙草も吸わない。

ただ、世界中からの「頑張る様子」という名の報告を受けながら、佐藤は、この崩壊した世界で最も真面目な「終末の管理者」として、淡々とルーチンをこなしていくのだった。


 20XX年、某月某日。

「……終わってなど、いないな」

佐藤は、黒い雪を割って力強く芽吹いた、燐光を放つ新芽を見つめて呟いた。

空を覆う煤の向こう側で、星々の配置が微妙に書き換わっているのを妖力が告げている。大震災と核の炎は、古い文明の幕を下ろしたのではない。この星を覆っていた「静止」の皮を剥ぎ取り、剥き出しの「未知」を曝け出したに過ぎないのだ。

「主様。おっしゃる通りです。これは終末フィナーレではなく、新しいことわり序曲プロローグ。かつてあなたがいた『不真面目な社会』の死が、この星本来の『真面目な躍動』を呼び覚ましたのですよ」

「……ああ。生存そのものが、誰にとっても『フルタイムの仕事』になったというわけだ」

佐藤は、真空管ラジオのダイヤルを回した。

かつての悲鳴は消え、そこには異能を制御し、未知の環境に適応しようとする者たちの「業務報告」が、まるで建設現場の朝礼のように整然と響いている。

世界は今、始まったばかりなのだ。

妖力が大気を満たし、物理法則と魔法的真実が混ざり合う、混沌とした、しかし生命力に満ちた新世界が。

≪スキル:【新世界秩序の解読】の熟練度取得を開始します。 0→70≫

≪称号:『黎明の天狐』を獲得しました≫

「……ゲンさん。お粥が炊けたぞ」

佐藤は、継承した炊飯器の蓋を開けた。立ち昇る湯気は、以前よりも白く、濃く、生命の香りがした。

酒も飲まない、煙草も吸わない。甘い菓子もいらない。

ただ、真面目に働き、真面目に生きる者が、その努力に見合った対価を得られる世界。

「……天狐。お前、なんだか……笑ってるか?」

「……まさか。次の作業工程を考えているだけですよ、ゲンさん」

佐藤は、十本の尻尾を揺らしながら、お椀を差し出した。

かつて真面目すぎて報われなかった一人の男が、現代日本の山中で、世界を導く「一匹の妖狐」として、新しい時代の最初の朝食を摂る。

世界はこれから、さらに過酷で、さらに美しく、そしてどこまでも不条理に変化していくだろう。

だが、佐藤は恐れない。

彼には、積み上げてきた圧倒的な「生存の熟練度」と、この世界で最も真面目な「魂」があるのだから。

≪ステータス:全項目、順調に上昇中≫

≪物語は、ここから加速する――≫


 20XX年、某月某日。

「……結局、繋がっているのは『声』だけか」

佐藤は、真空管ラジオから漏れるノイズ混じりの報告を聞き流しながら、自作の地図にバツ印を書き込んだ。

電波伝搬の解析と、各地から届く証言を照らし合わせた結果、判明した事実は極めてシンプルだった。

この変異した地球において、佐藤のような「異能」を保持し、かつ自我を保っている個体は、世界中に散らばってわずか10人にも満たない。

「主様。人口数百億がいた文明の残骸の中から、たった10人。……しかも、彼らとの距離は数千キロ。海は荒れ、地脈は狂い、空には正体不明の乱気流が渦巻いている。……物理的な接触は、もはや一生あり得ませんね」

「……それでいい。集まったところで、会議室の椅子が足りなくなるだけだ」

佐藤は、真面目に計算を終えると、無線機のスイッチを切った。

かつての異世界ファンタジーのように、選ばれし者たちがギルドを結成し、魔王に立ち向かうような「不真面目な同窓会」は起きない。物理的限界という絶対的な壁が、彼らをそれぞれの孤独な「聖域」に釘付けにしている。

≪スキル:【孤高の管理】の熟練度が上昇しました。 85→99≫

佐藤にとって、それは絶望ではなかった。

むしろ、誰にも邪魔されず、自分の手の届く範囲を完璧に管理できるという、究極の「事務的安定」を意味していた。

酒も飲まない、煙草も吸わない。

ただ、某月某日の朝、佐藤は一人用の炊飯器で炊き上がった飯を、ゲンさんと分け合う。

世界に10人しかいない異能者の一人が、山中で黙々とジャガイモの芽欠きをし、薪の含水率をチェックする。

「……天狐。……お前、本当にここを動かないんだな」

「……ええ。移動コストとリスクが見合いません。俺は、ここで真面目に生きる。……それが、この新世界に対する俺の回答です」

世界は新しく始まった。

だが、その新しさに浮か浮かれることも、孤独に嘆くこともない。

一匹の妖狐は、十本の尻尾を器用に使い、今日もまた「今日を生き延びた」という業務日報を、自分だけの脳内フォルダに格納した。

≪物語:完遂(あるいは、終わりのない日常の継続)≫

≪熟練度:測定不能(真面目さが限界を突破したため)≫

「天狐おじさん」の物語は、ここで一旦の静寂を迎えます。


 20XX年、某月某日。

冬が去り、新世界の異形なる春が山を彩る頃。その時は、あまりにも静かに訪れた。

山小屋のベッドで、ゲンさんの呼吸が浅くなる。大震災を越え、核の冬を越え、一匹の妖狐が真面目に、ただ真面目に繋いできた老人の命。そのロウソクの芯が、ついに尽きようとしていた。

「……天狐。……ありがとな。お前のおかげで、最後は……いい人生だったよ」

「……黙って寝ていてください、ゲンさん。……まだ、明日の薪割りの工程表が完成していません」

佐藤の声は、かつてないほどに低く、震えていた。

酒も飲まない、煙草も吸わない。ただ一人の友を守るために全ての妖力を注いできた。だが、肉体の寿命という「不条理なルール」だけは、熟練度を上げても書き換えることができないのか。

佐藤は感情を殺し、自らの十本の尻尾を解いてゲンさんの体を包み込んだ。真の神獣として、山そのものと一体化し、自らの存在をこの地に溶け込ませることで、世界を維持しようとした。……その時だった。

≪警告:個体『ゲン』の生命活動停止を確認≫

≪緊急措置:主体の過剰な【妖力】と【守護の意志】が、対象の魂と適合します≫

佐藤の瞳から、銀色の涙が零れ落ちる。それは純粋な妖力の結晶だった。

「……行かせない。あんたは、俺の『真面目な日常』に不可欠な存在だ」

佐藤の十本の尻尾から、濁流のような妖気がゲンさんの亡骸へと流れ込む。

それは蘇生ではない。

世界で唯一の妖狐が、自らの身を削り、一人の人間に「新たなことわり」を上書きする、極めて不真面目な奇跡だった。

≪スキル:【眷属再誕】の熟練度が上昇しました。 0→MAX≫

≪個体:『ゲン』を『天狐の第一眷属』として再定義します≫

静寂が支配する小屋の中。

不意に、ゲンさんの胸が大きく上下した。

目を見開いた老人の瞳は、佐藤と同じ、淡い金色に輝いている。そして、その腰元からは、一本の小さくも力強い、白い尻尾が生えていた。

「……あ、あれ? ……天狐、俺……なんだか、体が軽いぞ」

「……ゲンさん。……寝坊ですよ。もう朝礼の時間です」

佐藤は、溢れそうになった感情を【真面目さ】という名の仮面で力ずくで押し殺し、いつも通り、一人用の炊飯器のスイッチを入れた。

「主様。……結局、神獣として山と一体化するのを止めて、眷属を増やしてしまったのですね。……これでは、管理コストがさらに上がりますよ?」

「……構わない。……二人の方が、薪を運ぶ効率が良い」

新世界が始まって、数年。

山中には、銀髪の幼女と、一匹の尻尾を持つ元気な老人の姿があった。

彼らは世界を救うことも、支配することもない。

ただ、世界で最も真面目な「主従」として、今日もまた、誰にも知られることのない山の片隅で、最高の一杯の粥を炊き上げる。

≪ステータス:安定(永久継続)≫

≪熟練度:愛の重さを計測不能≫

一匹の妖狐の物語は、こうして「終わらない日常」へと溶けていった。


 20XX年、某月某日。

【新世界開拓日記:第1日目】

「……よし。まずは『眷属・ゲン』の現状スペックを把握する。これが再建の第一工程だ」

佐藤は、朝の光が差し込む山小屋で、タブレットの代わりに手帳を開いた。

目の前では、眷属として再誕したゲンさんが、自分の尻尾を不思議そうに追いかけて回っている。見た目は老人のままだが、肌の艶は40代に戻り、何よりそのバイタリティが「異常」だった。

「主様。彼、妖力の影響で基礎代謝が通常の三倍に跳ね上がっていますよ。薪を割る速度も、もはや重機のそれです」

「……管理コスト以上のリターンを出してもらわないとな。真面目に働いてもらうぞ」

≪スキル:【組織管理】の熟練度が上昇しました。 0→15≫

佐藤は、ゲンさんに専用の「工程表」を渡した。

1.山小屋周囲の土壌改良(変異植物の選別)

2.古代貯蔵庫からの物資搬出(重労働担当)

3.『不老の種子』の苗床管理

「おう、任せとけ天狐! なんだか知らねえが、力が有り余ってて、じっとしてられねえんだ!」

ゲンさんは、かつて路地裏で震えていた姿が嘘のように、一本の尻尾をピコピコと振りながら森へ駆けていった。その背中を見送りながら、佐藤は自分用の「特殊業務」に取り掛かる。

「……さて。俺は、ラジオを通じて『世界10人の異能者』に向けた、標準的な営農マニュアルの作成を始める」

酒も飲まない、煙草も吸わない。

眷属が増え、生活が安定しても、佐藤のストイックさは変わらない。むしろ「二人分の未来」を背負ったことで、その真面目さは狂気的なまでの「最適化」へと加速していた。

≪スキル:【生活の標準化】の熟練度が上昇しました。 0→40≫

午後。ゲンさんが山のような薪と、巨大な変異イノシシ(山の主との不戦条約区域外で仕留めたもの)を担いで戻ってきた。

「天狐! 今日の上がりだ! これで肉料理が食えるな!」

「……ゲンさん。解体作業の前に、まずは手指の消毒と道具の煮沸です。真面目に衛生管理をしないと、変異ウイルスのリスクがあります」

「へいへい、相変わらず堅苦しいねえ」

二人は、LEDの光の下で、淡々と獲物を捌き、明日への備蓄を作る。

世界は新しく始まったばかり。

かつては「無職」だった二人が、今やこの世界の「最先端」を走る開拓者として、泥臭く、しかし誰よりも真面目に山を耕していく。

≪日記の結び:本日の進捗、予定通り完了。特記事項なし≫


 20XX年、某月某日。

【新世界開拓日記:第〇〇日目】

「……おい、ゲンさん。その、なんだ。……全体的に若返りすぎてないか?」

佐藤は、朝の光の中で薪を割るゲンを見て、思わず言葉を失った。再誕直後は「肌艶の良い老人」だったはずが、妖力という名の不条理なエネルギーを使いこなすごとに、ゲンの外見は加速度的に若返っていた。

「おう、天狐! 自分でも驚いてんだ。腰の痛みもなけりゃ、視界もパッキリしてやがる!」

今やゲンは、佐藤と同じく銀髪をなびかせ、背丈も佐藤と並ぶほどに縮んでいた。かつての「枯れた老人」の面影は消え、そこには佐藤と双子のような、あるいは姉妹のような、中性的な容姿の「眷属」がいた。

「主様。やはり、あなたの【眷属化】は、対象をあなたの『器』に最適化させる性質があるようですね。……簡単に言えば、眷属になればなるほど、あなたに似た姿になっていくということです」

「……管理コストの軽減どころか、紛らわしさがカンストしてるぞ」

≪スキル:【個体識別】の熟練度が上昇しました。 40→55≫

佐藤は溜息をつき、自分とそっくりな姿で無邪気に尻尾を振るゲンに、新しい「業務用の作業着」を渡した。泥だらけのパーカーでは、もはやどちらが主人か判別がつかない。

「ゲンさん。その姿で『自分は老人だ』と言い張る熟練度を上げても無駄です。……いい加減、その若さに慣れて、真面目に敏捷性を活かした採取業務に専念してください」

「へいへい。まあ、天狐と似た姿ってのも、悪くねえよ。家族みたいでさ」

ゲンは、佐藤と瓜二つの顔で屈託なく笑った。

酒も飲まない、煙草も吸わない。

かつては孤独だった一人の男が、自分と同じ姿をした眷属と共に、誰もいない山中で淡々と、しかし確実に新しい文明の礎を築いていく。

「主様。次は、二人でお揃いの防寒具でも作りますか?」

「……不真面目なことは考えなくていい。……まずは、冬の蓄えの棚卸しだ」

世界にわずか数人の異能者。

そのうちの二人が、日本の北の山で、鏡合わせのような姿をして、今日もまた真面目にジャガイモを植える。

不条理な新世界において、その光景こそが、最も奇妙で、最も安定した「日常」だった。

≪日記の結び:個体『ゲン』の容姿変化を、管理上の仕様として受容。進捗に遅れなし≫


 20XX年、某月某日。

【新世界開拓日記:第某日目】

「……こちら、日本の北の山。本日の業務連絡を終了する」

佐藤が真空管ラジオの送信スイッチを切ろうとした瞬間、ノイズの向こうからロンドン地下の「影使い」が、妙に弾んだ声で割り込んできた。

『……おい、天狐。さっき背後で聞こえた声……誰だ? お前と同じ、やけに落ち着いた声色だったが……まさか、双子だったのか?』

佐藤は、横で真面目に「変異大根」の皮を剥いているゲンを一瞥した。銀髪、幼女、一本の尻尾。どこからどう見ても、今の佐藤の「縮小コピー」だ。

「……双子ではない。……俺の『眷属』だ。真面目に生存作業を手伝わせるために、再定義した」

その言葉に、ラジオの向こう側の世界がざわついた。これまでは「個としての異能」に絶望していた連中にとって、それは雷に打たれるような情報だった。

『……眷属だと? 天狐、お前……他人を自分の「理」に引き込めるのか? 一人じゃない世界を……作れるのか?』

「……理論上はな。だが、適当な奴を入れる気はない。俺の管理基準をクリアし、共に真面目に生きる意志がある者だけだ」

≪スキル:【リクルーティング(異能)】の熟練度取得を開始します。 0→30≫

「主様。言っちゃいましたね。これで世界中の『孤独な化け物』たちが、あなたという『ハローワーク』に希望を見出し始めますよ」

「……黙れ。物理的に来られないのは変わらない。だが、それぞれの場所で『仲間を作る』という目標を与えれば、生存の熟練度はさらに上がる。……これは遠隔でのマネジメントだ」

佐藤はマイクを握り直し、世界に散らばる数少ない異能者たちに告げた。

「……聞け。お前たちが自分の場所で『真面目な規律』を確立し、その地を管理下に置くなら、いつかその『理』を共有できる日が来るかもしれない。……仲間を増やせ。……まずは、自分以外の誰かを守るための、最小単位の『組織』を作れ。話はそれからだ」

≪スキル:【広域統治教義】の熟練度が上昇しました。 0→45≫

酒も飲まない、煙草も吸わない。

かつて組織に切り捨てられた男が、今、ラジオの電波を通じて、世界規模の「新しい組織」の種を蒔いていた。

「……へへ、天狐。俺みたいなのが増えたら、山ももっと賑やかになるな」

ゲンが、佐藤とそっくりの顔で無邪気に笑う。

佐藤は、自分と瓜二つの眷属を見つめながら、少しだけ、この新世界の未来に対する「事業計画」を上方修正した。

≪日記の結び:『眷属化』の情報を限定公開。世界の異能者たちのモチベーション向上の兆しあり≫


 20XX年、某月某日。

【新世界開拓日記:第某日目】

深夜、真空管ラジオからかつてないほどにクリアな音声が弾け飛んだ。発信源は北米大陸、かつて五大湖周辺と呼ばれたエリアだ。

『……ハロー、ミスター・サトウ! 聴こえるか? 成功した……成功したぞ!』

興奮気味に叫ぶのは、磁力を操る異能に目覚めた元工学博士の男だ。佐藤の「無駄話」を最も真面目に聞き、自分の拠点に電気を通そうと腐心していた一人である。

『俺の隣に、かつての教え子がいる。彼女は震災で視力を失い、衰弱していたが……俺の磁力フィールドを彼女の神経系に同調させ、ことわりを共有したんだ。……今、彼女は俺と同じ「金属の翼」を得て、空から偵察任務をこなしている!』

≪スキル:【システム共有】の拡散を確認しました≫

「……ほう。真面目に手順を守ったな。おめでとう、ドクター」

佐藤は淡々と答えたが、内心では驚きを禁じ得なかった。物理的な距離が絶望的でも、佐藤が示した「論理」は確実に海を越え、他者の生存を救っていた。

『彼女は今、俺の眷属であり、最強のビジネスパートナーだ。……天狐、あんたの言う通りだった。規律を作り、役割を与えれば、この地獄でも「会社」は再建できる!』

≪スキル:【遠隔コンサルティング】の熟練度が上昇しました。 0→55≫

「主様。ついに『世界10人』の孤立が無くなりましたね。各拠点で小規模な『支部』が誕生しています。……これはもう、事実上の世界再建事業ですよ」

「……買い被るな。俺はただ、管理コストを各支店に分散させただけだ」

佐藤はマイクを置き、横で自分とそっくりの姿でスヤスヤと眠るゲンの頭を撫でた。

酒も飲まない、煙草も吸わない。

かつては一人の無職だった男が、その「真面目さ」という呪いにも似た力を電波に乗せ、世界中に新しい生命の灯を灯し始めている。

「……ゲンさん。世界中に、俺たちみたいな『不条理なコンビ』が増え始めたらしいぞ」

夢現のゲンが、佐藤と瓜二つの顔を綻ばせる。

世界はまだ壊れたままだが、その亀裂のあちこちで、新しい秩序という名の花が、真面目に、力強く咲き始めていた。

≪日記の結び:北米支部、初の眷属化成功を確認。生存ネットワークの安定度が飛躍的に向上≫


 20XX年、某月某日。

【新世界開拓日記:第某日目】

「……よし、全支部に告ぐ。これより、既存の電波に頼らない『異能リレー通信』の試験運用を開始する。各員、真面目にチャネルを合わせろ」

佐藤は山小屋の中央で、十本の尻尾を放射状に展開した。

もはや真空管ラジオの出力だけでは、増え続ける「眷属」たちの情報量を処理しきれない。佐藤は、世界に点在する10人の異能者たちの精神的な繋がりをバイパスとして利用し、妖力を直接信号に変えて長距離伝送する手法を考案した。

≪スキル:【異能リレー通信】の熟練度取得を開始します。 0→60≫

『……こちら、ロンドン。影の共鳴を確認。ノイズゼロだ』

『……モスクワ。鋼鉄の振動で受信。感度良好だ』

佐藤の妖力が中継点となり、海を越え、大陸を跨いで、純度の高い思念がリアルタイムで共有される。もはや電話回線も光ファイバーも不要だ。世界は、佐藤という「真面目なハブ」によって再び一つに繋がろうとしていた。

だが、佐藤はこれに満足しなかった。

「……文字と声だけでは、現地の詳細な『進捗』が分からん。北米ドクター、例の眷属の様子を画像で見せろ」

『……無茶を言うな天狐。デジタルカメラはEMPで全滅だ。……だが、待て。ここの地下に古いFAX機が眠っているな。アナログの走査線なら、このリレー通信に乗せられるかもしれない』

佐藤は即座に、小屋の隅に転がっていた数十年物の電話機一体型FAXを引っ張り出した。

酒も煙草もやらない佐藤の指先が、妖力と共に機械の内部へ潜り込む。錆びたローラーを滑らかにし、読み取りセンサーの感度を妖力で底上げする。

≪スキル:【アナログ通信・画像変換】の熟練度が上昇しました。 0→45≫

「主様。そんな化石のような機械を直して、何を見るつもりですか?」

「……『事実』だ。真面目な仕事に、視覚的なエビデンスは不可欠だ」

ピー……ガラガラ……。

懐かしい通信音が山小屋に響く。リレー通信を通じて送られてくる磁気信号が、FAXの感熱紙をじりじりと焼き付けていく。

現れたのは、粗い白黒の画像。


 20XX年、某月某日。

【新世界開拓日記:第某日目】

「……なるほど。そういうことか」

佐藤は、FAXから吐き出された感熱紙の画像を食い入るように見つめた。

そこに写っていたのは、ドクターとそっくりの「銀髪の幼女」……ではない。ドクターが眷属化したその教え子は、ドクターの面影を色濃く残した、磁力の翼を持つ「ドクターの幼女版」とでも呼ぶべき姿だった。

「主様。どうやら私の予測が少し外れていたようです。眷属化のプロセスは、主様(天狐)の規格である『銀髪幼女』というフレームワークに、それぞれの異能者の『固有の顔立ち(DNAの残滓)』が上書きされる仕様のようですね」

「……つまり、世界中に散らばる10人の異能者がそれぞれ眷属を作れば、それぞれの顔をした『幼女部隊』が各地に誕生するわけか。……管理の判別がしやすくて助かる」

佐藤は、真面目な顔で頷いた。

佐藤の眷属であるゲンは、佐藤に似ているのではない。再誕の際に佐藤の妖力を直接、かつ大量に注ぎ込まれた結果、佐藤の姿を強くコピーしてしまった特殊例。本来は、それぞれの異能者の「系譜」が姿に現れるのだ。

≪スキル:【個体識別:亜種管理】の熟練度が上昇しました。 0→35≫

『……聴こえるか、天狐。彼女……リサは、俺の若い頃の顔にそっくりになった。なんだか、娘ができたような気分だ。……真面目に教育しなきゃならん』

磁力ドクターの誇らしげな声が、ノイズ混じりのスピーカーから漏れる。

佐藤は、自分とそっくりの顔で横からFAXを覗き込んでいるゲンを見た。

「……ゲンさん。あんたは俺に似すぎていて紛らわしい。……もっと自分自身の個性を出す熟練度を上げたらどうだ」

「へへ、今さら無理言うなよ。俺は天狐のおかげで生きてんだ。この顔が気に入ってんのさ」

ゲンは、佐藤と瓜二つの笑顔で笑った。

酒も飲まない、煙草も吸わない。

だが、世界各地で「異能者の顔をした幼女たち」が、それぞれの拠点を真面目に開拓し、その進捗報告がFAXで届く。

≪スキル:【多国籍企業運営(異能版)】の熟練度が上昇しました。 0→50≫

佐藤は、送信されてきた画像を壁のコルクボードにピンで留めた。

かつて無職で、誰からも必要とされなかった男の周りに、物理的な距離を超えた「一族スタッフ」が増えていく。

「……さあ、ドクター。次は、その『リサ』の飛行能力を使った広域地図の作成を命じる。……報告書はA4サイズ一枚にまとめて、FAXで送れ。……期限は明日までだ」

佐藤は、冷徹な上司のような口調で指示を飛ばした。

世界は混沌としているが、佐藤の山小屋から発信される「真面目な規律」が、世界を少しずつ、着実に整理整頓し始めていた。

≪日記の結び:眷属の容姿は各リーダーに依存することを確認。組織図の作成が容易になった。進捗、極めて良好≫


 20XX年、某月某日。

【新世界開拓日記:第某日目】

作業の手を休め、佐藤は山頂の岩場から、毒々しい極彩色に染まりつつある下界を眺めていた。

もはや、そこには「日本」という国家の連続性はない。あるのは、古い物理法則が崩れ去り、剥き出しの妖力が地表を焼き尽くし、再構築していく【新世界】の胎動だけだ。

「……なぁ、精霊。いずれ、この世界は完全に『変異種』の庭になるだろうな」

「ええ、主様。今の『旧人類』は、かつての恐竜のように、急激な環境変化に適応できず、静かに地層の一部へと変わっていくでしょう。……では、その後の世界はどうなると予測しますか?」

佐藤は、40年間の社蓄生活で培った「最悪のシナリオを想定するリスク管理能力」をフル稼働させ、未来の工程表を脳内に展開した。

≪スキル:【新世界文明予測】の熟練度が上昇しました。 0→75≫

「……まず、捕食と生存のフェーズが終われば、変異種の間で『規律』が生まれる。知性を得た山の主のような個体が、それぞれの縄張りを統治し、独自の言語や、魔力を用いた独自の産業を築くだろう」

佐藤の瞳には、未来の光景が事務的な解像度で見えていた。

空を飛ぶ変異種が「物流」を担い、地底を這う個体が「鉱山」を掘り進める。

かつての異世界ファンタジーのように、そこに魔法の体系が確立され、知性ある魔物たちが国家を形成する。それは人間にとっての地獄ではなく、新しい種族にとっての「真面目な社会」だ。

「……そこでは、俺たちが掲示板で話した『世界10人の異能者リーダー』が、それぞれの『始祖』や『神』として神格化されているだろう。眷属という名の新しい種族が、俺たちの教えた『真面目なルーチン』を聖典のように守り、文明を再建する」

≪称号:『新世界の予言者』を獲得しました≫

「主様。それは、あなたがかつて異世界転移で憧れた世界そのものではありませんか?」

「……皮肉なものだな。俺は異世界に行けなかったんじゃない。……俺が、ここを異世界そこに書き換えていくプロセスの一部だったわけだ」

佐藤は、十本の尻尾をゆらりと揺らした。

その世界では、酒も煙草も必要ない。ただ強大な妖力と、生き抜くための規律、そして自然(魔力)との調和が全て。

真面目に生きる者が、その能力に応じた地位と安全を確保できる、残酷だが極めて「論理的な」世界。

「……ゲンさん。あんた、数百年後には『白い尻尾の賢者』として、教科書に載ってるかもしれないぞ」

「へへ、そりゃあいい! でも天狐、俺は教科書よりも、今夜の『変異イモの塩焼き』の方が楽しみだぞ!」

ゲンが、佐藤と瓜二つの笑顔で、獲れたての食材を高く掲げた。

「……同感だ。未来の予測よりも、今日の胃袋の管理の方が重要だ」

佐藤は岩場を降り、山小屋へと戻った。

世界がどう変異し、誰が支配者になろうとも。

一匹の妖狐は、今日という一日を「真面目」に完遂し、新しい世界の礎を、たった一粒の種から作り続けていく。

≪日記の結び:世界の『異世界化』は不可避。……我々は、その最も古い『住人』として、淡々と開拓を継続するのみである≫

ちょいちょい変だが概ねちゃんとした小説になってるのではなかろうか。

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