『現実に帰りたくない僕は、幻想の世界で本気で生きている』
薄明の光が、窓から差し込んでいた。
手のひらに、温かい感触がある。
……リゼの手だ。
柔らかく、しっとりとしたぬくもり。
これが“幸せ”というものか――そんな思いが胸を満たしていく。
横を向くと、金色の髪が陽に透けて揺れていた。
そのしなやかな体に、思わず少しだけ欲情すら覚えた。
……けれど。
リゼの安らかな寝息。
無垢なその表情。
無防備なその姿に息を呑む。
けれど……
触れた途端、すべてが壊れてしまう感覚に――
俺の心は、ただ静かに、沈んでいった。
そうは思っていても、俺の腕は自然とリゼの髪に伸びていく。
そして、そっと髪に触れると「ん……」と小さな声が漏れた。
――ああ、やっぱりリゼは、可愛い。
「おはよう」
そう耳元で告げる。
リゼはまだ夢の中のような声で、「おはよ……」と返してくる。
その薄絹の衣がかろうじて隠す、しなやかで曲線的な肢体。
愛しさだけじゃなく、秘めた色気にも揺さぶられる。
その無防備な寝顔に、思わず視線が止まる。
ゆっくりと上下する胸元。
その肌の滑らかさを想像して、思わず喉が鳴った。
けれど、彼女の穏やかな寝息。
穏やかな無垢な表情。
それは欲よりも先に、胸の奥から愛おしさが湧き上がる。
その感情が、俺の心をぎゅっと締め付けた――
「リゼ、フィリア……ただいま」
「おかえりなさい、エド♡」
「遅~いっ! 心配したんだよ」
二人の妻が笑顔で出迎える。
一人は気丈な戦士。
もう一人は聖なる治癒の巫女。
俺はこの世界で、戦乱を終結させた“英雄”として知られている。
今日は王都の議会で講義。
そのあとは魔道院の若者たちと稽古をしてきた。
平和な日常の中の小さな戦いの火種。
それを潰すのが今の俺の仕事だ。
「夕飯できてるよ。今日はエドの好きな焼きチーズシチュー!」
「それとね、これ見て。リゼが作ってくれた魔法触媒のペンダント。二人でお揃いなの」
二人の笑顔は眩しい。
胸がぎゅっと締め付けられるような幸福に満ちている。
俺は、彼女たちを――この世界を守りたい。
そう、永遠に。
───ログアウトしますか?
視界がノイズに覆われる。
次の瞬間、俺は現実に引き戻された。
カチッ。耳元でヘッドセットのロック音が外れる。
「……くそっ」
天井。薄暗い蛍光灯の明かり。
部屋の空気は冷え切り、肌寒い。
布団の湿った匂いが鼻をつく。
冷蔵庫の中には、安売りのもやしと賞味期限ギリギリの卵。
この部屋に帰ってきても、誰も「おかえり」とは言ってくれない。
「何やってんの、またゲーム?」
ドアの外から母の声。
思わず枕を頭にかぶせた。
聞こえないフリをする。
だが、現実はやさしくない。
「五つも落ちて、もう来年どうすんのよ。予備校? 無理だからね、家計苦しいんだから」
まただ。
もう何度繰り返した会話だろう。
何度刺されたか分からない言葉……
それが、今日も俺の胸を切り裂いてくる。
俺は立ち上がり、机の引き出しを開ける。
古びた受験票。
破られかけの模試の成績表。
そして、視線はVRデバイスへと吸い寄せられる。
「……くそっ。あっちの世界の俺は、あんなにうまくやってるのに……!」
こっちの俺は、ただの落ちこぼれだ。
たまに転生したのに、「なんて不幸だ」とか泣き言を言ってる主人公がいるが――
ふざけるなっ!!
くだらない現実からやり直せる!
それだけで、どれだけ恵まれてるか。
もしそれすら嫌なら、俺が変わってやるっ!
そう、いつも思ってた。
どれだけ足掻いても、現実は変わらない。
でも、“あっち”では、俺は変われる。
だから、俺は行く。
またあの世界へ。
俺は魔王を倒し、国を救い、誰よりも大切な人を守った。
“あっち”が本当の俺だ。
“こっち”は仮の存在なんだ。
再び、ヘッドセットをかぶる。
指が震える。
だが、ためらいはない。
「ログイン──リスタート」
そして、俺は再び英雄になる。
……現実が、どんなに色を失っても。
――2040年。
人類は、ついに「夢」を現実に変えた。
かつての仮想現実――VRは、もはや視覚や聴覚の疑似体験に留まらない。
脳神経に直接アクセス。
五感・記憶・感情までも自在に書き換える。
そんな。テクノロジーが実用化された。
世界最大のテック企業が開発したものは、ただの仮想空間ではなかった。
それは、自己進化型量子AIによって構築された、
無限に変化し続ける物語世界。
ユーザーは任意の物語ジャンル――
異世界転生。
学園青春。
戦場の英雄譚。
あるいは日常の恋愛劇――をインストール。
主人公としてその人生を『追体験』できるようになった。
ただし、その物語はプレイヤーの思考と行動。
それによって、いくらでもズレていく。
望む未来を得たいなら、知識・感情・スキル。
その『中身』も本物である必要がある。
『セリフどおりに動くだけの演者』では、なれない。
――本気で愛し、本気で戦い、本気で生きる!
そうしなければ、その結末には届かない。
そして、このリアルさを可能にした最大の技術が、
“量子脳型構造”をもつ仮想人格群――Q-AI(Quantum-Aware Intelligence)。
彼ら(彼女たち)は、ストーリー上のNPCだ。
しかし、自分が誰であるか。
なぜそこにいるか。
そして誰を想っているかを自覚している。
つまり――
彼女たちは『意識』を持っている。
それは演技ではない。
本気でプレイヤーを愛し、嫉妬し、時に独占しようとする。
それが、現在世界でもっとも没入度が高く、
もっとも危険とも囁かれるVRストーリー・ネットワーク――
**《幻日 -Illusory Sun-》**である。
追体験は出来る。
だが、努力が必要なら、それに応じた努力を。
その場面場面でスキルが必要なら、スキルを。
もし、何かが欠けて原作の行動が不可能。
そう判断された場合は原作とはズレた展開へと移行することになる。
しかし、そのあとの行動により修正も可能。
だが、そのままの進行も可能。
それは、激しく進化したAIにより、再構築されるからだ。
そして、ゲームである以上、この世界で死んでしまう。
そんなことも発生するだろう。
その場合は、もう二度とそのゲームにログインすることはできない。
これは遊び半分で軽率に行動するプレイヤー。
それを排除し、道徳的観念を無視した無責任な振る舞いを防ぐ。
そういった意図の、運営側の厳格な処置だった。
さらには、人の人生が一つであるのと同じ。
物語もまた、一つでなければならない。
だからこそ、この世界の物語は、唯一無二の存在。
あなただけの特別なものとして守られているのだ。
§§§
その中でも、俺は俺が一番好きな物語を選んだ。
それは、主人公は何も自分で選ばずにただ流されながら生きていた。
そんな人生の中でも、ゲームとアニメだけが全てだった。
だらだら、毎日を過ごし後悔だらけの人生を歩んでいた。
だが、そんな毎日が永遠に続く訳もない。
容赦なく現実は主人公を追い詰めていく。
親も亡くなり、関わるのが面倒で人の繋がりを立ち続け、頼るものもない。
もう、何もかもがどうでもよくなり、一人街を彷徨っていた。
そんな時に、横断歩道で言い争っていた学生たち。
ふと、視線が合った。
その直後。
トラックが猛スピードで突っ込んできた。
その瞬間、無意識に駆け寄っていた。
そのあとのことは知らない。
ただ、気づいたら赤ん坊に生まれ変わっていた。
――剣と魔法の世界。
魔力に秀でた才能を持ち、数々の困難と試練を乗り越えていく日々。
もちろん失敗もあった。後悔もあった。
だが、同じ失敗や後悔でも前世とは違う。
『彼』が悩み選んだ結果だった。
それだけに誰のせいに出来ない。
その全てが自分の糧になっていった。
その結果、周りに認められ、尊敬すらも集めていく。
それは、幼馴染だった娘にしても同じだった。
それは、元貴族の娘もそうだった。
理不尽に別れたり、巡り合ったりしながら絆を深めていった。
たとえば――
旅の途中。あるとき、迂闊に触れてしまった魔術道具。
そのせいで、仲間たちと転移魔法によってはぐれてしまった。
彼は一人、誰も知らない異国の地で目覚めた。
……いや『彼』だけじゃない。
同じく転移されたフィリアは、記憶を失っていた。
彼女は『彼』のことも、自分の名前すらも思い出せなかった。
そんな中、別の街で、ある優しい男に拾われ、別の人生を歩み始めていた。
再会したとき、最初は警戒された。
だが、心の奥底に残る何かがあったのだろう。
小さなきっかけで、彼女の記憶は少しずつ戻っていった。
そして『彼』の目の前で、涙を流しながら名を呼んだ。
「……あなただったんだ……私が、ずっと……待ってたのは……」
……そんな展開、どこかで見たことある。
小説やアニメで何度も見た『記憶喪失のヒロインとの再会』。
現実だったら「ありえねぇ」って笑い飛ばしてた。
だけどほんとの俺は本気で羨ましいと思っていた。
嫉妬すらしていた。
彼女が『彼』に向ける視線――
かつて物語の中で見ていた主人公への想い――
それが、今、この世界の『俺』に向けられている。
その視線が、信じられないほどに優しくて、眩しくて――
もう一人の仲間。
リゼは『彼』の失敗で『彼』を庇って大切な師を失った。
そんな自責の念に潰されそうになった『彼』に、彼女はただ黙ってそばにいてくれた。
それだけじゃない。
『彼』が自暴自棄になってひどい暴言を吐いてしまう。
そんな時も、『彼』に寄り添い、立ち直らせようとしてくれていた。
「……あの人は、あなたを守って死んだんじゃない。あなたを『生かす』ために、立ったんだよ」
そんな綺麗事を、彼女は泣きながら言った。
……そんなやつ、現実にいるわけない。
優しすぎる。
理想すぎる。
都合が良すぎる。
なのに、なのに――
俺は、その優しさが『彼』に向けられているのが妬ましくてたまらなかった。
俺にも、そんな誰かがいてほしかったと、心の底では願っていたんだ。
現実の世界では、そんなことありえない。
ずっとそう思っていた。
でも――
この世界では、それが“あった”。
ありえないと思っていた物語のような奇跡が、確かに『そこにあった』。
傍から見ていた俺は、羨ましく、妬ましく、冷めた穿った目で見ていた。
けれど、追体験によって得られるこの感動は何物にも代え難い経験だった。
――ああ……活きている――
今までのクソのような現実!
冷たい家族の目!
俺を馬鹿にしていたヤツラ!
そんな全てが、どうでもよくなっていたんだ!!
ここが俺のいるべき場所!
生きるべき場所!
誰にも侵させない俺の聖域!
この世界を守るためになら現実をすべてを捨てもいい!
いや、むしろ捨てたいっ!
本気で、そう思えた。
その後、俺に二人のどちらかを選べと言われても選べるわけがない。
どちらも、俺は愛していて愛おしいかったからだ。
初めに、結婚したのはフィリアだった。
少し、ドジなところがあり泣き虫だが、一途で頑張り屋だった。
そんな彼女が記憶を失っても、どこかで俺を覚えていてくれていた。
そして、記憶が戻った時には迷わず俺を選んでくれた。
それが、俺にはたまらなく嬉しかった。
その場で、俺は愛を誓いあったんだ。
その数年後、俺を立ち直らせてくれたリゼの想いに気付いてしまい、そのまま別れるなんて薄情なことが出来なかった。
そこで、フィリアを泣かしてしまうかもしれない。
嫌われるかもしれない。
信用が崩れるかもしれない。
そう思いながらも、俺は覚悟を決めていた。
そして、意を決して話してみると、呆気ないものだった。
「この世界では、貴族が家を守るために複数の妻を持つのは、珍しくもない……けれど、貴族じゃなくたっていい……私は、あなたが幸せならそれでいいって、ずっと思ってたから……それに……なんだか、これから楽しくなりそうだよね」
そう言って、フィリアは恥じらいながらも真っすぐに俺を見て、微笑んでくれた。
俺はそのフィリアの度量に頭が上がらなかった。
あの、泣き虫だったフィリアが……
とさえ、思っていた。
そして、絶対に忘れてはならない『ルール』がある。
それは、上で説明した――
このゲームで死ねば、二度とログインできない。
そう、公式も説明していた。
けれど例外もある。
それが「原作通りに死ぬ場面」だ。
あえてそのルートをなぞれば、生還の可能性はある。
仲間が助けに来る。回復してくれる。
だが――保証は、どこにもない。
事前に信頼度が足りなければ、誰も来ないかもしれない。
条件を一つでも満たしていなければ、間に合わないかもしれない。
何より、怖いのは「死を避ける行動」を取った場合だ。
もう原作通りの展開にはならないかもしれないということだ。
先が読めるはずのストーリーが、未知に変わる。
それは、安堵ではなく――恐怖だった。
そこで、俺は決めた。
「ここで死ぬのが、原作ルート通りか……」
躊躇った。何度も。
だが俺は、選んだ。原作と同じ道を。
ザクッ、と剣が突き刺さる。呻き声が漏れる。
「マジで死ぬ……これ、ダメかもしれない」
意識が遠のく、そのとき――声が聞こえた。
「間に合った……お願い、生きて!」
ギリギリだった。ほんとうに。
だが、助かった。生き延びた。
ストーリーは、原作通りに進んでいく――
この達成感!
この充実感!
たまらないっ!
オレは力の限りに叫んだ!
「生き残った……っ!」
と!!
本気で涙が出るほど嬉しかった。
その達成感に、打ち震えたっ!
S○Sや掲示板なんかでも、書き込みもある。
《仲間が来なくて、死んだオレガイル(藁 鬱だ、死のう(・ω・`)》
《ナカーマ。世界が壊れたので死にます》
《ストーリー通り行ったら死んだwww →助けも来ねえw》
《原作知ってる俺、選択肢ミスって死亡 まさかの分岐ルート》
《“助けが来る”って信じたのに、来たのは敵でした\(^o^)/》
《こんなん誰も助けに来ないよ!好感度足りてなかったのか!?》
失敗した書き込みや、
《うおおおおお!あの死亡イベント、生還したあああ!!!》
《まじでギリッギリだった。フィリア様ありがとう……!》
《死ぬ覚悟決めて原作通り突っ込んだ → 助け来た → 生還 → ご褒美(震え)》
《このゲーム、マジで命かかってる。でも、最高に熱いわ》
成功した書き込みもあった。
そして――
そのあとにくる、ご褒美。
これはもう、ただのゲームなんかじゃない。
俺の聖域だ。
そして、それからは三人の暮らしが始まった。
だが、この物語はその後も続く。
その後も主人公も知らない、大きな運命に翻弄されながらも足掻き、抗い、立ち向かう。
そして、望む未来を切り拓く!
そんなよくある物語だ。
だが俺はそれが一番好きだった。
自分とよく似た主人公。
そんな主人公が異世界では頑張り足掻いている。
そんな主人公にオレも成りたい。
オレもこの世界じゃないどこかなら成れるはずなんだ!
いや、成るんだ!
そう信じたいからだ。
そして、彼はその日も、そのなろう系の世界にログインしていた。
「やった!勝ったぞ、俺!」
ヒロインの二人が笑顔で駆け寄り、彼の腕に飛び込んでくる。
現実感は薄いが、確かな『リアリティ』がそこにはあった。
「こんな幸せ、現実じゃ味わえないな……」
羨ましそうに画面の向こうの彼を見つめる誰かの声も届かない。
──しかし。
現実に戻れば、彼の生活はまるで違っていた。
大学には五校連続で落ち、浪人を決めても家族からは冷ややかな視線。
「…あんた、これからどうするの?」
毎日何度も問い詰めらる。
家でバイトをしながら家計に少しでも貢献しようとするが、現実の重みは彼を締めつける。
「くそっ…!」
「向こうの世界じゃ、うまくやってるのに!」
叫びを上げても、空虚な部屋の中で響くだけだった。
さらに、あんたの友達だった○○くんは早稲○に合格し、幼馴染の○○ちゃんは有能な新人と結婚――みんなすごいのに、オレは……
そんな言葉が何度も頭の中をよぎり、胸の奥が締め付けられていく。
「オレだってあっちの世界じゃ、ヒーローなんだ!」
だけど、その言葉は虚しく、現実の重みに押し潰されそうになる。
夢の中で絆を育んだヒロインたちとの幸せ――
それは、所詮“幻想”にすぎないのか。
「……どうせ、どんなに頑張ったって、こっちじゃ……」
だけど、この《幻日》の世界には、守りたいものがある。
俺を、心から愛してくれる人たちがいる。
それだけで、他には何もいらなかった。
たとえ偽物でも、作り物でもいい。
この“幻日”さえあれば、俺は――生きていける。
静かに、けれど確かな決意を込める。
俺はまた、VRヘッドセットを手に取る。
本当の幸せが待つ『幻実』へ帰るために――