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覚えられない顔

作者: 雉白書屋

 旅を趣味とする、とある女。山林の中の道路を、一人バイクで走っていた。

 仕事、都会、人間関係――煩わしいものすべてから離れ、ただ気ままに流す。日常の喧騒から解放されるこの瞬間が、何よりも好きだった。適当な場所で宿を探して一泊する。それがこの旅のスタイル。


 ――ん?


 順調に山道を登っていたそのとき、ふいに舗装されたアスファルトが途切れ、未舗装の道へと変わった。

 女はしぶしぶバイクを停めた。

 だが、道はまだ先へと続いているようだ。ここで引き返すのはつまらない。むしろ、誰も行かないような場所に分け入るのが、この旅の醍醐味だ。先ほど休憩中にナンパされたこともあり、人のいないところに行きたい気分だった。

 冒険心が静かに燃え上がり、女は再びエンジンをかけた。

 だが、数分ほど走ったところで――。


 ――あっ!


 前方に転がっていた岩にタイヤを取られ、バランスを崩した。彼女は地面が傾いたような錯覚の中で、そのまま転倒した。


「いたた……」


 女は体を起こし、自分の肩に触れた。痛むが、骨折はしていないようだ。他に目立った怪我は手首を擦りむいた程度だった。バイクも転倒しただけで、問題なさそうだ。怒ったようにエンジンが唸りを上げている。

 女はよろよろとバイクに歩み寄り、ひとまずエンジンを切った。

 ため息をつくと、木々がさざめいた。辺りは木々に囲まれた鬱蒼とした森。日差しも届かず、薄暗く湿った空気が肌にまとわりつく。まるで訪問者を拒むような不気味な静けさに、女は小さく身を震わせた。

 引き返そう――そう思い、女はバイクを起こそうとした。

 その瞬間だった。


「きゃっ!」


 近くでガサガサと草を掻き分けるような音がした。女は思わず悲鳴を上げ、その場にしゃがみ込んだ。


「大丈夫か?」


 静寂の中、低い声が届いた。ゆっくりと顔を上げると、斜面の上から一人の男が降りてくるのが見えた。

 男は状況を一目で察したようで、無言で転倒したバイクを起こすと、手慣れた様子で女の怪我の手当てをした。非常用にいつも救急セットを持ち歩いているらしい。

 男は大きな音を聞いて駆けつけてきたという。仕事や名前など、男にいくつか聞きたいことがあったが、女は事故のショックで、ただ呆然と手当てを受けていた。

 男は処置を終えると静かに背を向け、林の奥へと消えていった。


 ――お礼も言いそびれちゃった……。もしかして、この先に住んでいるのかな……。


 そう思った女はエンジンをかけ、再びバイクを走らせた。

 しばらく進むと、小さな村にたどり着いた。どこか時間の止まったような、古びた佇まい。バイクを停めると、物珍しそうに、あるいは警戒しながら数人の村人がこちらに近寄ってきた。

 女は軽く挨拶を交わし、適当な会話しながら村人たちの警戒心が緩むのを待つと、先ほどの男について尋ねた。


「ほー。男なら村にいるが、どんなやつだ?」


「それは……ええっと……」


 女は男の服装や背丈、髪の長さなど、思い出せる限りの情報を並べた。だが、話しているうちにふと違和感が芽生えた。


 ――顔……。


 真っ先に伝えようとしたその特徴が、まったく覚えていないのだ。

 確かに間近で見たはず。手当を受けていた間、ずっと……。


「うーん、それだけじゃわからんなあ。顔は?」


「えっと、その……見たはずなのに覚えていないんです。薄暗かったせいかも……」


 女はか細い声でそう言い、少しうつむいた。自分でもおかしなことを言っている自覚はある。変に思われたに違いない。もしかして、さっき頭を打ったのかも……。

 女はそう思い、村人たちの顔を見た。しかし、村人たちは互いに顔を見合わせると、「あー」と口を揃えて言った。


「それなら、あいつだな。なあ……?」

「お、おお……。村はずれに住んでる男だよ」

「でもまあ、わざわざ行かなくていいんじゃないか?」


「いえ、ちゃんとお礼を言いたいんです! 教えてください!」


 女が熱心に頼むと、村人たちはしぶしぶ男の家の場所を教えてくれた。

 そこには、蔦に覆われた古びた平屋がひっそりと建っていた。木の外壁には年季が入り、ひどく色あせている。まるで静かに朽ちていくのを待っているかのようなその佇まいが、どこかあの男の印象と重なり、女はかすかに頬を緩めた。


「すみませーん……」 


 戸を叩いても、応答はなかった。どうやら、まだ帰っていないらしい。

 女は玄関先で腰を下ろして待つことにした。膝に顔を乗せ、ふっと息をつく。時折、楽しげな鳥の声や、森の匂いが風に乗って流れてくる。事故のショックはすっかり抜けたが、心臓の鼓動は落ち着かず、胸をくすぐり続けていた。

 やがて日が傾き、山の稜線が朱に染まり始めた頃、男は帰ってきた。


「あんたか……。何か用か?」


「あ、あの、私、お礼を言いそびれて……」


「なんだ、そんなことか。いい。気にするな」


 そっけない口ぶり。しかし、その無愛想さが、逆に女の心を引き寄せた。


「よくないです! 助けてもらったんですから、せめて……お礼に、ご飯を作らせてください!」


 男は断ったが、女は一歩も引かず、半ば強引に家の中へ上がり込んだ。


「あ、すごーい! 囲炉裏があるんですねっ。キッチンはそこ?」


 女が無邪気を装って微笑みかけると、男は観念したように、無言で台所から食材や調味料を差し出した。


 ――きっと、本当は嬉しいんだ。


 調理中、手伝おうとする男のぎこちない仕草に、女はまた微笑んだ。


「どうした?」


「ふふっ、なんでも。もうすぐできますよっ」


 日が完全に落ちた頃、二人は夕食を囲んだ。囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜ、その音が静かな家の中で小さく響く。

 女は男の横顔をじっと見つめた。温かい食事と火の灯り。何も邪魔するものはないはずなのに、彼の顔だけがどうしても記憶に残らない。


 ――不思議。こんなに近くで見ているのに……。


 まるで知らない国の言葉を、意味も分からず丸暗記させられているような感覚。どれだけ目を凝らしても記憶に留まらず、輪郭がするりと抜け落ちていく。

 それに、『顔が覚えられない』ことが特徴であるかのように、村人たちが捉えていたことも気になっていた。


「ねえ……なぜか、あなたの顔が覚えられないの。どうして?」


 気を悪くさせないように、女は優しく囁くような声で尋ねた。男はしばらく沈黙したのち、ぼそりと答えた。


「気にするな。みんな、そうなんだ」


「でも……そんなの、嫌」


「顔がないから仕方がない」


「顔がない? そんなはずない。あなたにはちゃんとあるじゃない。素敵な顔が……」


 女は頬を染め、うつむきながら呟いた。その言葉は男に届いたはずだが、彼はそれには触れず、ただ火を見つめたまま淡々と続けた。


「俺の顔を直接見た者は、みんな覚えられないと言うんだ」


「直接……」


 女はそう呟くと、ふいに思いついた。荷物の中から小さな鏡を取り出す。そして、男に背を向け、そっと鏡に男の顔を映してみた。

 すると今度ははっきりと見えた。


「い、いやあああ!」


 女は叫び声を上げ、鏡を床に落とした。男が驚いて立ち上がり、女の顔を覗き込む。


「どうしたんだ?」


 女は何も答えなかった。荷物を掴み、一目散に家を飛び出した。

 男の顔には虫がいた。

 唇の部分にはただれたような赤。目の部分には黒と白。視線を感じると警戒し、ほんのわずかに蠕動する小さな虫がびっしりと……

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