四
どうして、すぐ捕まらなかったのか分からない。もしや、霊たちが怒りに駆られて、知らずに霊の波動を送っていたのかもしれない。でなければ、車より速く走れたはずがない。
気がつくと追っ手を振り切り、どこかの街に入っていた。ビルが多く、人気は少ない。ビルの間の陰に入ったが、見つかるのも時間の問題だろう。疲れ切っていた。
(もう、どうでもいいや……)
ふと子供の声に見ると、小さい女の子を連れた母親が歩いている。たちまち脳内に、どす黒く猛烈な憎悪の嵐が吹き荒れた。
(この野郎、なに笑ってんだああ!)
(いってえ、なにが楽しいんだああ!)
ガーッと頭に血が昇り、次の瞬間、道に飛び出していた。悲鳴をあげる母親からガキをもぎ取り、ソーの刃でそいつの喉をズバッと掻き切った。動かなくてもナイフとしては使える。ガキは喉から血を滝のようにどばどばと吐き出し、白目むいて崩れた。
「ぎゃああああ!」
半狂乱になってわめきながら娘のむくろを抱く母親を、「うるせえ! 死ね!」と蹴飛ばし、腹に刃をぶち込んで黙らせた。たちまち人が寄ってきたので、ソーを振り回すと、どいつも虫けらのように散って逃げていく。俺はいつしか有頂天だった。
(けけけけ、いい気分だ!)
(あんだよ、その目?!)
(そんな化け物でも見るような目で見やがって!!)
もう理性はない。なにもない。ただ脳内がマグマのごとく煮えたぎる俺は、往来で力の限りわめきちらす。
「そうだよ、俺は化け物だ!! もう世のため人のためじゃねえ!! 人の幸せのためになんか、誰が殺すかああ!!」
そして、ついに本音が出た。いつも隠して生きていた本当の心の声が、口から全世界に向かって滅茶苦茶に吐き出された。
「俺はなぁ、ほんとはお前らが憎くて、憎くて、大っ嫌いだから殺すんだよ!! わかったか!! 俺は怪物なんだよ!!」
ただの人殺し。そうだ、俺はお前らが死ねば、ただうれしくて大口あけて笑う変態殺人鬼だ。お前ら全人類を滅ぼすのが俺の目的。
「こん畜生の人間ども!! この命ある限り、てめえら一人残らず、ぶっ殺してやる!!」
その決定的な決意は、鉄槌のごとく下された。それは俺が完全に人間でないものへと変貌した瞬間だった。俺は浜辺で霊たちの前でしたのとは、百八十度反対の宣言をした。それは俺にとって神託といってよかった。
むろん実際はその真逆。悪魔の声を聞いたのである。
(負の感情に溺れてはダメよ)
不意に、せつなの言葉が甦った。
(どんなにつらく、悲しいことがあっても、ね……)
「ひ、ひ、ひ、ひ……」
思わず卑屈な笑いが漏れた。
(せつな先生、ごめんなさい)
(ぼくはもう、手遅れです……)
暗がりから飛び出して、別の親子連れを襲う。親を殺してから、血まみれの腕で、泣き叫ぶ五歳くらいの少年をがっと抱きすくめると、俺は喉にチェーンソーの刃を当てた。
人質を取ったはいいが、周りが不意にがやがやし始めている。どうやら平和ボケの日本国民も、やっと前代未聞の大量殺人鬼がうろついていることを察知したらしい。パトと霊どもを振り切ってからも、十人以上殺しているので、そろそろおまわりどもが集まってきそうだ。
だが、いくら同情の余地の皆無な悪霊以下の妖怪モンスターだからって、人質がいるんだから、すぐには殺さないだろう。
私を見かけるたび、街の連中はびびって走り去る。愉快愉快。腕の中のガキの恐怖の震えがこっちの心臓まで伝わってきて、まるで性的変態のように興奮モノだ。
もう俺は完全にイカれた。おいガキ、お前を殺して自殺するから、あきらめろ。こんなところに通りがかったてめえを恨め。
気づけば行く手の道に警官隊がずらり立ち並び、スピーカーで投降しろと喚いている。いつも同じだ。それしか能がないのかね、飽きたぞ。
頭上にやかましくヘリの音。マスコミか。やっとこさ、日本中に知れ渡ったようだ。隠すほうも大変だよな、同情するよ。
注意がそれた隙に威嚇射撃。当たったらどうすんだ。そんなにこのガキを殺したいか。そんなにこいつが憎いか。気があうな、俺もだ。
そこで、ガキを引っ張って退き、近くのビル建築現場へ逃げ込んだ。ありがたいことに、中は無人だがぽつぽつと明かりがついていて、足場が見える。銀の仮設階段を上がるとエレベーターがあるので、とりあえず最上階へ行くことにした。
窓枠から見下ろすと、周囲は黒い頭の粒でひしめき、完全に包囲されているようだ。ビルの中はどこも赤い鉄骨が交差し、はるか上までオレンジの明かりにともされて、一大パノラマだった。何階あるのか知らないが、三十階はありそう。
ついに屋上、もうこれ以上は逃げ場のないどん詰まりに着いたとき、ガキを板張りの壁に放り、ソーを突きつけた。奴は座り込み、この世が終わるような怯えた顔でこっちを見つめる。
だがそのとき、報道ヘリが頭上をかすめ、金網の向こうから、無数の霊体が山のようにわいて出た。先頭に怒りの形相の矢崎。俺が殺した人たちが、ついにここまで来たのだ。
あわてて逃げようとする俺の中に、矢崎がするっと入った。憑依だ。手が勝手にソーを拾い、俺は自分の足をざっくり切りつけた。
「ぎゃああああー!!」
血が吹き出し、激痛に絶叫して、突き出た鉄骨の上にふらふらと上がった。すぐ下は空。路面まで、ざっと百メートルはある。俺は鉄骨の先から落ちた。
しかし奇跡が起きた。どこかに垂れ下がっていた紐が右足首に絡まり、宙吊りになったのだ。報道ヘリが近くを飛び交い、ソーを握ったまま暴れる俺の姿を全国に中継する。これ以上ないほどの、面白すぎるさらし者。まさにエンタメの極致だ。
下から、見上げる群集の凄まじい怒号が響く。
「早く死ね、人殺し!!」
「この化け物!!」
「そんなやつ、とっとと殺しちまえ!!」
「クソ女、死ね死ね死ね!!」
黒い憎悪の渦が猛り狂い、俺を飲み込もうと巨大な口をあけている。矢崎の恨みの念に脳内を侵食されながら、俺はどこかで、これは当然の報いだと思った。あんなことしといて、このくらい当たり前だ。また膝を切られ、鋭い痛みに気が遠くなりかける。
このまま死ぬのだ。やっと死ぬのだ。ずいぶん長かった。でも矢崎君と同じになれる。こんな史上最低の、バカでアホで人間のクズ以下でも、そんな救いが得られるなんて、神様は本当は優しいんだろうか。
死ぬのは初めてなんで、もちろん怖い。でも、少しずつ眠くなる。楽になるのだ。今すぐ終わるんだ。今すぐ……。
そこへ、下から女が飛んできて、祈るように訴えた。
せつなだ。
涙は出ないのに、悲愴でくしゃくしゃの顔。
「もうやめて! その子は悪くないわ! 私が巻き込んだの! お願い! どうか、許してあげ……」
叫びは途切れた。あの白い光が彼女を下から打ち抜いた。
如月だ。
消え去る直前、せつなは何か安らかな顔になった。
それを見て、俺は悟った。
(はははは、なあんだ!「俺と同じ」じゃないか!)
なんのことはない、ただの選手交代だ。解放者が、俺から如月に代わっただけなのだ。
どんな終わりを迎えるかは、薄々分かっていた。紐はついに重みでちぎれ、俺は頭から落ちていった。地面にソーが立っている。こっちに向いた刃が、周囲の明かりでぎらりときらめくのが見えた。なんでそうなったかは知らんが、まるで待っているかのようだ。忠犬か?
思わず吹きだした。
「あはははは、なにやってんだあ、おまええ! そんなとこで!」
笑いながら、頬を冷たいものが流れた。涙だ。でも微塵も悲しくない。泣き笑いなのだ。俺はいま、号泣しながら哄笑している。全身が破裂するほど大笑いしている。なぜなら、こうも笑える茶番は、ほかにないからだ。
下を向き、顔から刃に突っ込んでいく。
ついに死だ! 今度こそ、完全なる死だ!
死だ! 死だ! 死だ!
でも本当に……
これで私は、自由になれるのか?
(週刊金星 十一月七日号の記事より)
この切迫した「実況」で、突如として須貝曜の霊の証言は終わった。星野小百合先生は気を失い、その後、二度と霊が戻ることはなかった。
先生は「満足して成仏した可能性がある」とおっしゃったが、そうならば、須貝曜の求めていた「自由」は手に入らなかったことになる。また凶悪犯が天国へ行ったとなると世間が激怒すること必至だろうから、皮肉なことだが、むしろ犯人の思惑通りに、悪霊として現世をさまよってもらったほうが、国民感情的にはマシかもしれない。
この一連の奇怪な供述が、なんら科学的証拠にはならないのは言うまでもない。霊などはおらず、すべてが一人の殺人鬼女子高生の妄想だった可能性もある。しかし現実に一人の女子高生が、チェーンソーひとつで百人以上も殺害するのはほぼ不可能と言わざるを得ないのに、残された膨大な証拠と証言から見て、それを実行した事実はゆるぎないのである。
そして、何がそれを可能にしたのかを、いまだ明確に説明できた者はいない。直後わきまくったアホな陰謀論の数々や、独力の犯行の可能性を科学的に立証せんと躍起になった痛い学者連中は論外として、目下この事件においては、真相を究明できる可能性を持っているのが、皮肉にも我々オカルト肯定論者のみであることは確かである。
果たして須貝曜の、これら一連の証言は事実なのだろうか? それとも、ただの一介のイカれた殺人鬼が抱いた壮大な妄想なのか? そして彼女が言ったように、本当に人は死ぬと自由になるのか?
真実は誰にもわからない。
(「東京チェーンソー大虐殺」完)