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二の2

 一日自由行動なので、まあ気が楽で助かったが、この辺のどこに何があるのか、なんも調べてないので、時間つぶしに困った。ジャージ姿でホテルのただっ広いバルコニーに出て、白塗りの柵をつかんで囚人みたくなっていたら、背後で足音がした。矢崎君だった。

「ああ、ここにいたんだ」

(えっえっ、私を探してたの……?)

 どぎまぎして柵に背をつける。なんか壁どん的というか、追い詰められてるようで超興奮する。

「須貝さん、鳥居さんたちが探してたよ」

 とりいさんって誰だっけ。

 ああ、同じ班の。


 最後だからって、一緒に店回りしとこう、ってんだな。今さら気い使ってそういうことされるのが、私のような奴には一番辛いんだよ。無視したいが、矢崎君に言われたんなら、あいつらとなんでもする。結婚でもする。


 だが、彼はそれ以上押し付けるでもなく、うながすでもなく、自分の二の腕を抱えて眉をひそめ、周りを見た。

「ここ、けっこう寒いね。中に入ったほうがいいよ、風邪ひきそうだ。如月さんも風邪だって言ってたし」

「えっ、如月さん、休み……?」

 思わず言って、なんてつまらんこと言うんだ、と落ち込んだ。もちろん、彼は気にしない。

「うん、前日に熱が出たって。かわいそうだよ」

 そうか、あいつ、いないんだ……。


 彼はすぐ降りていった。中に入れと言いながら、見届けることなく行ってしまう、この優しさ。ウザい奴なら、きっといちいち自分の思い通りにするだろう、相手を気遣ってると思い込んで。残酷な奴は優しいふりを平気で出来る。自覚ないから。

 でも彼はちがう。ああ、なんて優しい……。いかん、胸が熱くなって、もう風邪どころじゃない。熱病だ。




 しかし、ホテルに入ってエスカレーターで下に降りるにつれ、恋心は急速になえ、代わりに、さっきのある一言が脳内を飛びかいだした。

(えっ、如月さん、休み……?)(えっ、如月さん、休み……?)

 とたんに脳内が、鉄板でいっぱいになったように、ガーッと重くなる。


(アホか。死ね。わたし、死ね。なんて恥ずかしい。超ブザマ。よくまあ、ここまで気が利かない、つまらんことが言えるな、おまえ)


 気がつくと駆け出していた。外は夕闇が迫り、暗黒の宇宙に向かって走っているようだ。




 琵琶湖が月明かりで、深い海のように黒々と不気味に光るほとりを、狂ったように走る。ぼろぼろ泣いていた。悔しさと悲しさとムカつきが、汗だくの全身を嵐のように渦巻いていた。砂浜にぶっ倒れ、しばらくうつぶせで砂を噛みながら嗚咽した。自分や誰かの一言で、たちまちこういう鬱状態になるのはよくあるが、これは今までにないほどに酷すぎた。泣きながら、声にならない叫びが頭をぐるぐるする。


(なんで私はこうなんだ。もういい。もうたくさん。終わりにしたい。もう、全てを終わりに……!)


 えっ、なにを。



 一瞬でもバカなことを考えたのを後悔し、ふらふらと立ち上がった。月光が足元を青白く照らし、見上げれば月が笑うようだ。

 そうだ、死のうなんて、バカなことを考えた。こんなことでいちいち死んでどうする。もう何十回もあったことじゃん、彼のせいで身を切られるなんてさ。いい加減、慣れろ。死んだら、あの幽霊姉ちゃんの思う壺じゃないか。

 考えたら、あの姉ちゃんと出会ったから、死の願望がよけいに強くなったのだ。あいつのせいだ。私は悪くない。そうだ、悪くない。

 しかし、そう思っても、ウザい鬱状態はしばらく続いた。何かに頭をがっしとつかまれているようで、まるで立ち直れない。




 ふらつく足で浜を行くと小さな小屋があって、窓から明かりが漏れている。何も考えずにふらふらと近づき、中をそっと覗く。中年の男が三人、ランプを囲み、いかつい顔を深刻そうに突き合わせて座っている。そのめいめいの手には、何か光るものを持っている。

「よし、やるぞ」

 一人が言って立ちあがり、その光るものを振りかざす。どう見ても刃物だ。

(な、なんだよ、おい。やめろよ、どうする気だよ……?!)

 嫌な予感でいっぱいになり、それでも体が固まって動けない。なんで、こんなのばっか見ることになるんだ。他人の自殺に縁でもあるのか。

 そのうち男は刃物を、自分の胸に一気に突き立てた。「げええ」とうめきがし、海老のように丸くなって横に倒れた。床に黒いものがだぼだぼ出ているのが見える。血だ。

 彼が動かなくなると、次の一人が立って、また同じようにナイフを胸に。げはああ、とあえいで、彼も倒れた。もう分かった。これは集団自殺の現場だ。


 むせるような鉄の匂いがここまで漂い、もう勘弁してくれ、と思ったとき、二人の死体から、あの女と同じように魂がすーっと抜け出た。そしてやはり、あの女と同じく、「体が軽くなった」だの、「楽になった」だのと喜んでいる。

 見ていて今さら恐怖感に襲われた。

(そうか、やっぱり人は死ぬと自由になれるんだ……)


「すごいぞ、今までの嫌な気分が嘘のようだ!」

「娑婆じゃ、いいことなんて何もなかったが、まさか死んで、こんなに楽しいなんてな!」

 ガキのようにはしゃぐ二人に、改めてぞっとした。



 ところが、三人目が続いてナイフで腹をざっくりやったが、転げまわって痛がるばかりで、なかなか死ねない。腹はまずかったようだ。おっさんのくせに切腹も知らないのか。あれは、誰かに首をはねてもらわなきゃダメなんだ。そんなとこ刺したって、簡単には死ねない。

 他の二人もやきもきして、宙に浮いたまま応援した。

「頑張れ、あともうちょいで楽になれるぞ!」

「そうだ、早くこっち来い!」

「素晴らしい生活が待ってるんだ!」

「とっとと死ね!」

 いまだかつて、これほどまでに、相手のことを気遣って死ね死ね言う人がいただろうか。

 しかし、腹切りはのたうつばかりで、なかなか事切れない。血は膨大に出ているが、出血多量までは遠いらしい。その間、彼はずっと苦しみ続けなければならないのだ。

 見ていて不意に、私の体に何かとてつもなく暗く熱いものがこみ上げてきた。


 この人は今、死のうとしている。生き続けることをやめ、死を選んだ。死の方がマシだと思った。

 それほどまでに悲惨な人生だったのだ。肉体が強固な牢獄に思えるほど、そこから逃げ出したいと必死に願うほどの、生き地獄を生きたのだ。


 すると突如、彼の人生のビジョンが私の頭の中に雪崩れ込んできた。この世に生を受けたあとの、幼児期の親からの虐待から、学校でのいじめの果ての、重度の精神疾患。そしてろくでもない閉鎖病棟に入れられて看護人の暴力を受け、出所後、犯罪に手を染めた。犯罪組織の人たちは、世間の連中よりもずっと優しかったから。

 もちろん、そう見えただけで、実際はいいように使い捨てられた。刑務所の往復、またそこでの虐待。彼の人生は虐待ばかりだ。それも受けてばかりで、他人に手を出したことはほとんどない。いや、あっても覚えていないのだろう。だいたい犯罪やってんだから、誰かに危害を加えなかったはずはない。

 傷つけ、傷つけられるたびに心は荒み、苦痛を逃れるために薬物に手を出し、麻痺させた。感情がなくなった。夢も希望もなく、ただ食うために生きる動物だった。

 何十回目かの出所で、もういいだろうと思った。ネットで自殺志願者と知り合い、こうして誰もいない琵琶湖のほとりで、命を断とうと決めた……。


 彼の地獄の人生をひととおり見た私は、気がつくとぼろぼろ泣いていた。声をあげた。誰も気づかなかった。ただ、私の嗚咽と、彼の苦悶のうめきが、琵琶湖のさざなみの音にかき消されていった。


 神に毒づいた。

(あんた、まだ生きろというのか?! こんなになってる人に、まだ鞭をくれるのか?! わずかな安堵すらも許さないのか?!)(安心などしたことない人だ。これから、初めてするんだ。死ねば、生まれて初めて安心できるんだ)(なのに、まだ生かすのか、鬼畜生め!!)(そうだ、災害で何万人死のうが、ただ見てるだけ)(それが神だ!!)


「んなもん、糞くらえだ!」


 激怒に震える私の目が、壁に掛かった、あるものをとらえた。

 そうだ、あれなら。あれなら、この人を救える……! 私はこの人を、人生の殉教者を救う! ただ生きることに殉じた聖人に、楽園への突破口をひらくのだ!


 ただちに窓から小屋に飛び込み、壁のチェーンソーを下ろして、紐を何度も引いてエンジンをかけた。使い方は知らないが、動かし方はホラー映画とかで見ていた。

 たちまち、ぶるるるるる、と低い唸りをあげて長いベルトが回転し、鋭い銀色の牙の群れが獲物を求め、生ぬるい虚空を鋭く切り裂いて光る。

 私はソーを振り上げ、苦しむ彼の背に一気に叩きこんだ。

 びるるるるー!!


 気持ち悪い音を立てて肉が裂け、噴水のようにまっかな血がぶしゃぶしゃとあたりに飛んだ。返り血を浴びて目がくらんだが、私の手は、目の前の肉塊の息の根を完全に止めようと、ひるまなかった。ソーはかなりでかいのに、ぜんぜん重くない。

 彼はもう、うめいてはおらず、おそらく息も心臓も止まったろう。刃が背中を貫通し、胸から、こうしてざっくりと出てきたのだから。

 ついに相手はうつぶせに倒れ、私はソーを放った。


 血の池に浸かる人間を見るのは恐ろしかったが、興奮もしていた。


 自分がやった。

 これは、私がやったんだ。

 いいや、いいことをしたんだ……!

 そうだ、はあはあ。


 全身が火のように熱い。いまや私は焼ける鉄だった。生きた鉄のつるぎだ。これで、この人も救われた……。

(本当に、そうだろうか……?)


 急に心臓がばくばくしだした。この人、本当にこれで満足なの。そんなわけない、嫌に決まってる。殺されたんだぞ。

(なんてことしたんだ、お前……!)


 体温が一気に滝の落下のように下がり、頭のてっぺんまで凍りついた。足ががくがくする。

(生まれて初めて人を殺した。殺しちゃった)(どうしよう。お母さん、わたし、殺しちゃった)(人間を、かけがえのない命を。この手で……)



 ところが、くずれ落ちかけた私に、声をかけるものがある。見上げれば、今この手にかけた、まさにその人だった。無残に殺されたのに嫌がるどころか、なんと満面の笑みで、空中から私を見下ろしているではないか!


「いやあ、本当にありがとう! 君のおかげで、私は自由になれた。なんて気持ちいいんだろう! あれだけ重かった体が空気のように軽い! 踊りたいくらいだよ!」

 そして、大喜びする二人の友達と、空中で本当にタップダンスを踊った。


 私は呆然としたが、そのうち、これが夢ではないと悟り、恐る恐る聞いた。

「本当にいいんですか?……そうですか。でも、あなたの命を勝手に奪ってしまって……えっ、ぜんぜん気にしてない、すごく嬉しいって?……そんな、お礼なんて。あんなに痛い目にあわせてごめんなさい。……そんな、感謝なんて。こんな私に。やめてください。いや、そんな」


 恥ずかしい、照れる。また体が火照ってきた。そんな場合じゃないのに、全身血でぐっちょりなのに、照れ隠しに笑って、体がくねくねした。

 他のお二人も、友達を助けてくれてありがとう、と何度も頭を下げた。人に感謝されたのなんて、生まれて初めての気がする。


 そうだ、私はさっき人を殺す直前まで、誰にも喜ばれない、生きている価値のまるでないゴミカスだった。それがたった今、ゴミでなくなったのだ。ここに、この意地悪で非情でしみったれな世界に、少しでもいていいような、甘ったれた希望が芽生えた。むろん、すぐに摘み取られてしまうだろうが……。


「す、須貝、なにやってるんだ、おまえ?!」

 声に振り向けば、顔面蒼白で驚がくする矢崎君が立っていた。

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