動かない君が、動いた日 #8
朝。いつもなら、薄く差し込む光の中で、カーテンがふわりと揺れている。
そして、どこか優しい声と、ほんのりとした朝食の香りがするはずだった。
だが今日の朝は違った。
ハシビロコウのハチは、ゆっくりと片目を開けると、部屋の空気に違和感を覚えた。
カーテンは閉じたまま。光はぼんやりと遮られ、静けさが支配していた。
ユキの「おはよう、ハチ〜」といういつもの挨拶もなければ、トレイの上の冷たい麦茶も、パンの香りもない。
ハチはゆっくりと首を回し、部屋を見回した。
……いない。
数秒じっとしてから、のそのそと立ち上がる。太く、どっしりとした足音を響かせながら、廊下を渡ってユキの寝室へと向かう。
そっと扉の隙間から覗くと、ユキはまだ布団の中にいた。
寝坊……?
いや、それにしては様子がおかしい。
布団の中で顔を半分だけ出したユキの頬は、ほんのりと赤い。額にはうっすらと汗も浮かんでいる。
ハチはじっと見つめたまま、考える。
そして、静かに部屋へと入っていった。
ズズ……と音もなく近づくと、そっとくちばしでユキの肩をつついた。
「……ん……」
ユキがわずかに目を開けたその瞬間、ハチはくるりと向きを変えて廊下へと消えた。
数分後、ハチは戻ってきた。
そのくちばしには、銀色に光る体温計がぶら下がっていた。
「……え? ハチ……」
ユキは、ぼんやりした頭のまま体温計を受け取る。
その手に触れたハチのくちばしは、ひんやりとしていて心地よかった。
「はち、おはよう。……体温計、持ってきてくれたの? ……ありがとう」
弱々しく微笑むと、ユキは体温計を脇にはさんだ。
数分後、ピピピと電子音が鳴る。
「……38度、かぁ……。そりゃ、だるいわけだ」
ユキは冷蔵庫からポカリスエットを取りに行こうとしたが、体がついてこない。
それを見たハチは、また静かに部屋を出て行き、今度はスポーツドリンクのペットボトルをくわえて戻ってきた。
「……え、これも……? すごい、ハチ、今日めっちゃ頼れる……」
薬を飲み、ユキは再び布団に身を沈めた。
部屋は静かだったが、隣にはどっしりと座るハチがいる。
ハチは動かない。けれど、じっとユキの顔を見つめていた。
そのままユキは、うとうとと眠りについた。
夕方。風鈴がチリンと鳴った。
ユキがふと目を覚ますと、窓が少し開けられていた。
涼しい風が部屋に入ってきて、額の汗をやさしくなでる。
横を見ると、ハチはまだそこにいた。
動かず、ただ静かに、じっと寄り添っている。
「……あれ、ちょっと楽になったかも」
ユキがそう呟くと、ハチのまばたきがひとつ。
それだけで、どこか安心できた。
「ハチ……今日は、ありがとうね」
ハチは何も言わず、ただそこにいる。
だけど、それが何よりも心強かった。
夜、ユキが台所に立ち、冷蔵庫からアイスを取り出すと、背後にぬるりとした気配。
振り返ると、そこには無表情のままアイスを見つめるハチの姿。
「……ハチも食べたいの?」
返事はない。
けれど、ユキはにこっと笑って、もう1本冷凍庫から取り出した。
「今日だけは特別ね。一緒に食べよう、夏風邪対応のご褒美。」
チリン……とまた風鈴が鳴った。
その音が、夏の終わりの予感のように、静かに揺れていた。




