追放ざまぁもチート転移転生も蓋を開ければ同じ物だという話
つい先日SNSのXにて、とある作家から一件の投稿が行われた。
「追放モノ」というジャンルに関する小説のビルドの仕方についてだ。
まぁその作家というのは他でもない我が師なのであるが、そこは割愛しておくとしよう。
で、その作家いわく――
・「追放」と「ざまぁ」、「追放ざまぁ」はそれぞれが個別のジャンルである。
・いずれも所詮はフレーバーに過ぎず、物語中でそれらを「目的」にしてはならない。
・その点を踏まえた上で「楽しい」物語を作り上げよう!
という内容を長文にて語っていたものだ。
かの作家はさらにこうも指摘していた。
〝たとえば「追放」を描く上で「ざまぁ」を成立させる必要はない。ここに抵抗を感じる者の大概が勘違いしている〟と。
追放ざまぁとはいわばミックスコンテンツであり、相性のいい二つのジャンルを組み合わせることでより良い「娯楽」を生み出しているに過ぎないのだ、とも加えて。
……至極当然の話である。
ただし物事を論理的に見られる人、または上記ジャンルに理解のある作家に限り、の話だが。
だがイタズラ心に溢れる我が師のことだ、きっと何かしらの隠れた意図があるに違いない!
そう悟った私はこの話を自分なりに読み解いてみることにした。
そうして至った結論はこうだった。
_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 追放ざまぁも異世界転移転生も根本的には同じ物! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
もちろん暴論と受け取ってもらっても構わない。
我が師の言いたいこととはまるで違うかもしれない。
しかし私は「師匠の意見だから」と手放しに迎合するほど出来た弟子でもない。
なにせ教えを受けておきながら未だに高PVなど叩き出したこともない弱輩者であるがゆえに。
これから続くのはそんな木っ端の分析という駄文ではあるが、興味があれば少々お時間を頂きたく思う。
まず「追放」と「ざまぁ」、「追放ざまぁ」が別ジャンルである、ということについて。
実はこの「追放」と「ざまぁ」というジャンルは個別でも充分に完結している。
前者は主人公が物語としてスタートダッシュを切るための手法。
後者は勧善懲悪を描くための手法。
だからかの作家いわく「この二つを無理に合流させる必要はない」という。
そこに関して私は一つの過程を立てた。
もしかして「追放もざまぁもただの記号名でしかないのでは?」と。
記号名……つまり化学の元素みたいなものだ。
学校で受けた化学の授業を覚えていればどんなものかはパッと思い付くだろう。
だから小説もまた元素と同じく、ジャンルという記号名で成り立たせているのではないか、と。
たとえばこう。
・パーティから追放された(追放)。しかし追放者は間違っていたので罰を受けた。(ざまぁ)
・現実世界から追放された(転移転生)。しかし前世では不幸だったので罰を与える力をもらった。(チート)
わかりやすくするために一般的な転移転生で語呂を合わせて並べてみたがどうだろうか?
……違いは罰を受けるか与えるか、という所だけだ。
しかし結局のところは悪者が罰を受けるということに違いはない。勧善懲悪である。
話の作り方ではそう感じない物語も多いだろうが、本質を紐解けば大概はここに辿り着く。
そしてどちらも話の流れ的にみて実に自然。
これが古来より引用される黄金の手法なのか、と唸らせるほどだ。
実は本質が同じだからこそ人気が出続けている、そうも思えば俄然納得がいく。
次に各々のジャンルがフレーバーに過ぎない、ということについて。
ここまで紐解けば「追放」と「ざまぁ」が別々でも成り立つのはきっと誰でもわかるだろう。
パーティから追放されたから完全にそのことを忘れてスッパリ切るのもよし。
チートなしで転移転生してもいいだろう。
でもそう狙って流行りを書いたのに人気作にはならないんだが?
こう思った、悩んだ作者も多いかもしれない。
しかし勘違いしないで頂きたい。
そこをどう面白くするかどうかは作家の腕次第で、ジャンルとはまったくの別問題。
流行りとは「時代で最も求められている比率の高い趣向」であり、Web小説沼という穴に落ちる読者の意識を引っかけるためのフックに過ぎないのだ。
だからこそ物語を描く第一歩として、フックである追放やざまぁなどのジャンルを旗として立てればいい。
例えば追放はスタート地点の旗、ざまぁは枝分かれの部分の旗とするなどで。すなわちプロット作り。
あとはそこからどう枝を伸ばすか、そこは作者の腕次第になるという訳だ。
そしてその枝が趣向に沿って伸びていればおのずと読者は惹かれることだろう。
これは持論だが、そもそも創作物語に面白くないものなど存在しない。
どう語るか、伝えるか、それが重要なのである。
……と、ここまでいけば最後の項はもはや蛇足でしかないだろう。
ジャンルは目的ではなくただの旗で、枝をどう伸ばすかはやはり作者次第。
考えずに上手く行った人はきっとその枝先の育て方が器用なのだと思う。
だからと下手に考え過ぎて地の文が増えても、それも敬遠されがちだ。
だったら考え過ぎないで気楽に書いたらいいではないか。
枝を伸ばす場所さえ間違えなければいいのだから。
結局のところは記号の名前を変えただけで、追放ざまぁも異世界転生も同じ。
読者を喜ばせ、楽しませるための枝分かれロードマップの集大成こそが物語。
だからこそジャンルという記号に惑わされないでほしい。
それがかの作家の言いたかったことなのではないだろうか。
――いや、違うかもしれない。
きっとこれは怒られる。そうに違いない。
だがこれが私の出した結論なのだと押し通すことにしようと思う。
なお余談ではあるが、たびたび議論に挙がる〝本格ファンタジーの凋落論〟。
こちらも結局は記号遊びの延長に過ぎないのだと結論付けておく。
「本格ファンタジー」とそれっぽく銘打ってはいるが、これは決してジャンルではない。
これは「追放」「ざまぁ」などといったジャンルを一つにして出来た混ぜ物の総称なのだ。
実は中を開けばそれらのジャンルはしっかりと内包していて、当時にはなかった「ステータスオープン」などといった要素が入っていない、ただそれだけに過ぎない話なのである。
だから本格ファンタジーは決して凋落してはいない。
今だからこそある「要素」を取り入れて今の時代に「適応」して形を変えている。つまり進化しているのだ。
ゆえに件の話題で争いを持ち込む古の本格派の方も、そのことを理解してこの話を受け取って頂ければ幸いである。