第1章
崩壊
火星暦千六百二十三年十八月十二日、人の頭ほどの大きさの磁気シールドが潰れた。それだけで人類の九十八%以上が死んだ。
かつて人類の大部分は自らを一時的にデータ化して地球を脱出していた。人口の過剰な増加による絶滅を回避するために。
それなのに火星の新世界は一瞬で壊滅してしまったんだ。
火星でいったい何が起こったのか。全てを語るのは難しい。現場にいた人たちは事態を認識する前に全員が死んでしまった。それはぼく自身が何度も確認したから間違いない。
分かっている範囲で言えるのは、磁気シールドの崩壊だけではこれほどの惨劇にならなかった可能性もあるということだ。火星市民にとっては不幸なことに、同日同時刻に異常な数値のコロナ質量放出が太陽から火星に到達していたんだ。誘導電流で火星の電子機器は次々に機能停止に陥った。真っ先に影響を受けたのがオリンポス山頂の貿易管理局地上管制センターだった。地上からのコントロールで離陸、または着陸途中だったカーゴシリンダーが制御不能に陥った。巨大な円筒形の輸送器は街の周辺部に次々に墜落した。
だけど人々に死をもたらしたのはカーゴシリンダーではなく、熱イオンドームの崩壊だ。火星では移住開始から千六百年以上経っても街は一つしかなかった。オリンポス山を含むタルシス高地。そこに広がる直径五千キロメートルの街を熱イオンドームが覆い、守っていたんだ。火星市民にとって空とは熱イオンドームのことだった。
その日、空が割れた。絶対に破れないはずの空が、コロナ質量放出によるシステム崩壊で消失した。巨大な街は二酸化炭素を主成分とする火星の大気に晒された。街に充填されていた空気が一瞬で凶器に変貌し、火星の人々は数分で全滅した。
たった数分で。百三十億人が死に絶えたんだ。
この太陽系に生き残ったのは地球市民二億人だけになった。
それから火星暦で七年後の今、ぼくはこれを書くよう大統領にやんわりと命じられた。いや、火星暦なんかもう意味もないか。とりあえず、地球暦で十三年後だ。
正直に言えば、こんなもの書きたくない。ぼくにとっての全てを失った今は、何もしたくない。
これに、ここには脳波モニタリング装置はもうない。だから文字にして書き残すしかない。世界の崩壊と創造の顛末を。
書くのは苦手だ。漁師、宇宙飛行士、その後は自分でも気恥ずかしいことに創造主とも呼ばれたけど、考えてみたらぼくは苦手なことばかりさせられている。一度くらい、投げ出したっていいんじゃないか。
だめだイミル、止まるんじゃない!
そう、これは使命だ。投げ出す権利なんかない。
どこから始めるべきだろう。
ぼく、イミルにとって意味のある人生は火星暦七歳プラス八十五日めに始まった。それは……ああちくしょう。ぼくにとって本当に大切なのは、彼女だけだったんだ。
だけどそれは使命とは無関係だ。だから、そうだな……ぼくの使命が始まったところから書くべきか?
それならこう言われた日だ。
「木星に移住しなければ、人類は絶滅する」
いや、それじゃ先走りすぎだ。まずはチナ爺さんの話から始めることにしよう。世界の創造に必要な力を与えてくれた爺さんだ。彼にはいつもこう言われていた。
「イミル、このグズ野郎!」
瀕死の波殺し
液体の海。それは同世代の人類のほとんどが一生かかっても見ることのない光景だ。
人類にとって海とはつまり白い氷平線のこと。青い波を目の当たりにするのは遺伝子置換措置を行なって高温に耐えられる漁師だけの特権なんだ。
それなのにぼくは海を半ば無意識に見ながら、またしても空想の世界に浸っていた。派手な赤い制服を着たチナ爺さんがクイーン・シャーロット海峡の激流に落ちる瞬間まで。
ああごめん。いきなり落ちたところからじゃ爺さんが無能だと思われそうだから、せめてもう少し前から書こう。
その日、つまり火星崩壊後も慣習的に使い続けていた火星暦の千六百二十三年二十月二十一日も、ぼくたちは未明から六角形のスタブボート三隻をクイーン・シャーロット海峡に並べていた。自慢じゃないがこれはとんでもない技術だ。なにしろ北米大陸とバンクーバー島に挟まれたクイーン・シャーロット海峡には、地球最速の海流ナクワクト・ラピッズがある。干満差の影響で発生する潮流は波高二メートル、時速三十キロメートルにも達する。ぼくたち漁師はその真っ只中で小さな三隻の船を一ミリのズレもなく並べなきゃならないんだ。
だけどこっちにはDNA人工頭脳と、船の外殻に張り巡らされた衝撃波スタビライザーがある。水の動きを千分の一秒単位で予測し、逆位相の波をぶつけて相殺する。だからスタブボートの周囲では波と水流が消え、荒れた海とは一切無関係に静止できるというわけだ。
「衝撃波スタビライザー同調! 誤差ゼロ確認!」ぼくは脳内計器を読ながら声に出した。
「イミル、このグズ野郎!」チナ爺さんがいつものように怒鳴った。「喋くってる暇があったらイメージプログラムに集中しろ! さっさと卵を盗らねえと、街の奴らが飢え死にしちまうだろうが!」
漁師の師匠であるチナ爺さんは衝撃波スタビライザー使いの達人だ。人呼んで〝波殺しのチナ〟。それはもう尊敬してもしきれないほどすごい技術なんだけど、困ったことに爺さんは機嫌が悪いと波じゃなくぼくを殺しそうになる。爺さんが怒鳴る度に、赤いつなぎの制服はぼくの返り血が目立たないためじゃないかと疑いたくなったほどだ。しかもぼくが漁師の職について三十日間、チナ爺さんはほとんど怒鳴りっぱなしだった。彼としては衝撃波スタビライザーのイメージプログラムについて懇切丁寧に教えているつもりらしかったけど。
イメージプログラムというのは頭の中で物体の動きをイメージして命令するシステムだ。もちろん脳波モニタリングシステムと連動している。幼い頃から一人でプログラムに没頭していたぼくはイメージプログラムには自信を持っていたけど、爺さんの求めるレベルは桁違いだった。漁師見習いとしてここに送り込まれた初日、ぼくの操船を見て彼は言った。
「馬鹿野郎! 予測システムなんぞに頼ってんじゃねえ。水の動きを読め! そんでイメージを動かし続けんだよ。分かるかド新人め!」
「いや、そんな。予測システムに頼らないなんて、冗談ですよね?」
思わず言い返したが、恐ろしいことに冗談ではなかった。チナ爺さんは予測システムより何倍も正確に、素早く、魔法のように波を殺した。その腕前がぼくの負けん気に火をつけた。ぼくは彼のレベルに追いつけるよう、懸命に努力した。ハーモにも言われた通り、ぼくは地道に繰り返すのだけは得意なんだ。人付き合いの技術を磨くよりずっといい。ぼくは「イミルてめえ、こんなこともできねえのか糞野郎!」と怒鳴られ続け、二十日ほどかかってようやく爺さんを満足させる技術を習得した。今はぼくが操船プログラムを任されている。
でも正直にいえば漁場で才能を発揮しても嬉しくはなかった。
荒れる海より空にいたい! 卵を盗むんじゃなく命を守りたい!
今日の波の機嫌を読めるようになると、ぼくは思考の一部で操船を続けながら、想像の世界に浸った。三十日前を思い出す。
「仕事まで人工知能に決められるなんてやっぱり間違ってるわよ!」ぼくの卒業審査の結果を見てハーモは憤慨していた。「ねえイミル、地球市民なんてやめちゃわない⁉︎」
ぼくの愛しいハーモはいつもこんな無茶を言う。全ての義務と権利を捨て、ハーモと荒野で自活していくのは魅力的な選択に思えたけど、ぼくにはできなかった。火星が崩壊して一ヶ月。ほとんどの食糧を火星からの輸入に頼っていた地球は、未曾有の食糧危機に直面していた。漁師は地球市民にとって最も重要な仕事のひとつだ。人工知能に決められた職業が気に入らないからといって、勝手な真似はできない。
それにハーモは優秀だから、ぼくより八十日遅い卒業の日にはきっと希望する心理学関係の職業に就ける。巻き込んで彼女のチャンスまで潰すわけにはいかなかった。
そんな記憶に浸りつつも頭の半分では潮流に集中し、また声に出して確認した。「磁場ネット準備完了! 衝撃波スタビライザー同調。誤差ゼロ!」
チナ爺さんが案の定「イミルてめえ!」と怒鳴っている。だけど声に出してしつこく確認するのは自分を冷静に保つための儀式みたいなものだ。地球自治政府から漁師の職を与えられて初めて、ぼくは海が苦手であることを知った。地に足がついていないのが耐え難いんだ。地球自治政府の職業選別プログラムは無能すぎる。人間関係の構築が苦手だと断じて生物保護パイロットの候補から外したくせに、海が苦手だとは見抜けなかったらしい。
うねうねと揺れる海に船を一列に並べたら、電磁チェーンで三隻を連結し、海底に向かって〝磁場ネット〟を放射する。物質の組成に合わせた磁場を発生させ、通過する生き物から狙った物体だけを掠め取るんだ。その機能から漁師仲間は「選択ネット」と呼んでいた。選択するものの組成を「キングサーモンの魚卵」の特性に合わせ、量を「保有量の五十%」に設定する。するとネットが魚卵の組成に合わせた磁場を自動的に放射してくれる。キングサーモンの群れが磁場ネットを通過すると、魚卵の半分だけが腹から放出されて引っかかるというわけだ。サーモンは「ちょっとお腹が軽くなったかしら」ぐらいは思うかもしれないが、そのまま旅を続けてどこかの川で残りを産卵することになる。研究によると魚卵を半分盗んでも一年後のサーモンの総数はほとんど変わらないらしい。だからこれは地球環境とサーモンに優しい漁として、かつての火星中央政府からも認可を受けていた。盗みは気持ちの良いものじゃないけど。
ぼくは相変わらず衝撃波スタビライザーのイメージプログラムを心ここに在らずの状態で行っていた。ハーモが教えてくれた〝ミーグ〟は、実際すごい技術だ。ぼくは意識の半分では空を飛びながら、同時に潮の流れを読み、また少しだけイメージプログラムを修正した。
これは人々を救う重要な仕事だ。ぼくは自分に言い聞かせた。だけど心は否定し続ける。地球に残った人類は千六百年以上、環境を復活させ、動植物を保護することを第一義としてきた。ぼくはそんな仕事をしたかった。命を守る仕事だ。今日もたくさんの野生生物を救ったと満足して一日を終え、ハーモが待つ我が家に帰りたかった。自分にもっと能力があれば、食糧難の今だって野生生物保護の仕事に就けたはずだ。そうすれば今頃は空を飛んで野生生物を救い、ハーモはぼくの妻になっていて……
「た、大変! 爺さんが海に落ちた! チナ爺さんが落ちたわ!」
ネット技師のリゼレが叫んだ。ぼくは慌ててプログラム室から飛び出した。船の周囲は激流が生み出す白波に囲まれている。
「リゼレ、爺さんが見えない! どこだ⁉︎」
「わ、わからないわイミル。どうしよう……」
隣の二号艇からベテラン漁師のパラゼクが叫んだ。「漁業管理局に連絡しろ! 漁獲停止の許可を得るんだ!」
漁業規定では選択ネットの途中停止は禁じられている。サーモンへの悪影響を最小限に抑えるため、一日の使用は一回のみと地球自治政府が決めたからだ。途中で止めたら今日の漁獲はゼロになる。
ぼくは楕円形の船の先端に立ち、激流の先を睨んだ。いた! チナ爺さんは早くも二十メートル近く流されていた。
「停止! 磁場ネット及び衝撃波スタビライザーを停止しろ!」
ぼくはパラゼクの言葉を無視して即座にイメージプログラムを送った。船が海流を打ち消して一点に静止したままでは、チナ爺さんだけが流れ去ってしまう。
「イミル、やめろ! 漁業管理局に処罰されるぞ!」今度は三号艇のマンレが叫んだ。
再び無視し、二号艇と三号艇に、自分の船と常に並走するようイメージプログラムを発した。この二隻の操船もぼくに任されている。激流の中に放置するわけにはいかない。ぼくは三隻の小型船を操り、爺さんを追った。だけど人が激流に落ちた場合にどう救助すれば良いのか、見当もつかない。そんなことは習っていなかった。今こそチナ爺さんに教えてもらいたいのに、当の爺さんは話せる状態じゃなさそうだ。それにパラゼクとマンレは規則を守れと言うだけだろう。爺さんが溺れ死ぬまでに二人を説得するのは無理だ。無視するしかない。
即興で爺さんを追うイメージプログラムを組んだ。センサーで彼の動きを注視して追跡。三隻の間隔を徐々に狭めていく。
「リゼレ、爺さんを追うようにプログラムした! もう見失うことはないはずだ」
「じ、爺さんが海底に沈んだら?」リゼレが叫んだ。「船も爺さんを追って潜水するんじゃないの?」
そんなことがあり得るのか? ないと言い切れるほどぼくはスタブボートに詳しくない。そこで今は考えないことにした。イメージを修正している時間はないし、もっと大きな問題がある。このままやみくもに追い続けたところで、激流の中から爺さんを助け上げることはできない。こんな荒れた海の中ではとても無理だ。
「そうだ!」
突然、爺さんを救う方法を思いついた。新たなイメージプログラムを十秒で組み上げる。試したことはないが、きっとうまくいくはずだ。プログラムを脳波通信で残り二隻の操舵装置にも送信する。
もう一度チナ爺さんを探した。五メートルほど前方を流されている。プログラム通りにいけば、あと三十秒ほどで追いつくはずだ。ところが爺さんの様子がおかしい。意識を失って今にも沈みそうだ。沈むのはもう少し待ってほしかった。船が一緒に心中するのも怖いし、海面にいてもらわなければ、とてもじゃないが助けられない。
船室に駆け込み、年代物のマイクロ炭素繊維ロープを掴んだ。一方の端を腰に結びつける。船首に向かって走りながら、ロープの残った輪をリゼレに向かって放り投げた。リゼレがロープを掴んだのを横目で確認する。
「やめろイミル!」マンレがまたぼくを止めようと叫んだ。「お前、泳げるのか⁉︎」
おっとそれは早く言って欲しかった。泳げるかどうか知らないことに気付いたときには、ぼくはすでに船首から跳んでいた。腹打ちしながら着水すると、ぼくは手足をばたつかせて爺さんを追った。
ナクワクト・ラピッズの海流は船上から見るより遥かに激しかった。複雑な流れが上下左右から襲いかかり、体が捻れる。爺さんは回転しながら深みへと流されていた。ぼくは必死に水を掻いた。自分のイメージ通りに進めない。今さらながら自分は泳げないことが分かった。なぜ飛び込んだ? それは他に誰もやろうとしなかったからだ。もうやり通すしかない。肺が酸素を要求し、本能が水面へ向かえと叫ぶが、さらにばたばたと潜った。ついに爺さんの襟に手が届いた。しっかりと掴んだが、自力で水面に戻るのが無理なことは明らかだった。リゼレが意図を察してくれることを願い、ロープを鋭く二度引いた。
何も起こらない。ロープを三度引く。リゼレ、頼む! ロープを引き上げるのに漁業管理局の許可を求めたりしないでくれ!
腰が千切れそうな勢いで引っ張られた。危うくチナ爺さんを離しそうになり慌てて掴み直す。二人分の体重を引くマイクロ炭素繊維が腰に食い込んだ。徐々に水面が近付くが、遅すぎる! ぼくは肺が勝手に空気を吸おうとしないよう意識を集中した。頭上で揺れる青い輝きだけを見つめ、ゆっくりと息を吐き出し続ける。
荒れ狂っていた水面が突然完全に静止した。
海に飛び込む前、ぼくは三隻の船で三角形を作り、その中心に爺さんを捉え続けるようプログラムしておいた。三隻の船は爺さんが沈んでも潜水艦の真似をせずに真上を移動し続け、ぼくと爺さんが浮上する直前に衝撃波スタビライザーを再起動した。三隻で連動し、逆位相の波で激流を打ち消すよう調整したんだ。ぼくの計算は完璧だったらしく、三角形の内側は平穏そのものになっていた。ここまで上手く水面をコントロールできるとは。想像以上の効果だった。やったぞ! 波を完璧に殺した!
喜んだのも束の間、ついに我慢の限界に達し、ぼくの体が意思に反して空気を吸おうとした。口から大量の海水が流れ込む。肺は酸素を求め、さらに水を吸い込んだ。
意識が途絶え、胸を焼く痛みも消えた。
次に気付いたとき、ぼくは薄い布切れ一枚を着て空中に浮いていた。擬ベッドだ。重病患者が床ずれを起こさないよう、電磁反発で空中に浮かせる。情けないことにぼくは救助され、漁業管理ドームの医務室で命を救われたのだった。
チナ爺さんは助かった。ぼくは溺れて半分死にながらも彼を離さなかったらしい。先輩漁師たちがぼくと爺さんを引き揚げ、すぐにリゼレが排出機を爺さんとぼくの胸に当てた。排出機は携帯型の選択ネットのようなものだ。物質を「海水」に指定して胸に当てれば、飲み込んだ海水だけを口から排出できる。爺さんは海水を吐き出してすぐに意識を回復したが、ぼくは昏睡状態のままだったという。
医務室で意識を取り戻した二時間後、両親から脳波通信が届いた。
「イミル、お前、何をやってるんだ」父のヴィヴァスだ。明らかに怒っている。脳波通信が声だけで良かった。脳内に激怒した父の顔が浮かぶのは耐えがたい。
「父さん、ぼくは、あの、チナ爺さんを助けようとして……」
「自分が溺れたんだ」父が苦々しい声で言った。「結果を考えない行動は愚かだと言ったのに」
母のサンニが通信に割り込んだ。
「お父さんはイミルが心配なのよ。あなた小さい頃から自分にできる以上のことをしようとして失敗してたわ。覚えてるでしょ」
当然、母ならこう言うだろうと思っていた。父が怒り、母が劣等感を植え付ける。絶妙なコンビだ。両親からはいつも、自分に相応しい生き方を見つけろ。身の程を見極めろと教えられた。無謀な望みは身を滅ぼすと。
両親は共に建築家だ。集合住宅の設計を手がけている。建築家の務めは決して不具合を起こさないこと。遊び心や自己満足のデザインなど必要ない。そんな意見が一致したから結婚したらしい。なんとロマンチックな。
誤解しないでほしい。両親は意地悪な人間じゃないし、ぼくも二人のことは好きだ。ぼくを心配してくれることも知っている。ただ火星年の十二歳は地球歴換算で二十二歳なんだ。ぼくはもう地球市民のために働いてもいる。いい加減もう少し大人として認めてほしかった。
「人助けを責めてるんじゃないぞ」父が続けた。「素晴らしい行いだ。だけどそれでイミルが死んだら、なんにもならないじゃないか」
「そうよ。荒れた海に飛び込むなんて。他の方法もあったはずよ。安全、堅実が賢いやり方。無謀は愚かよ」
「無謀は愚か」三人で声を揃えてから通信を終えた。我が家の家訓だ。家族の誰かが口にしたら全員で繰り返す。
「いい言葉ね」
脳内に聞こえた声に息を呑んだ。「ハ、ハーモ!」
「無謀は愚か……ね」
ハーモの声だ。二日に一度は脳波通信で話してるってのに、声を聞く度に一生分も離れていたような気がしてしまう。
「ハーモ……」
思わず泣きそうな声を出してしまったことに気付いて、ぼくは慌てて咳払いをした。彼女を好きだという気持ちはまだ知られたくない。
ぼくたちはずっと、唯一の親友だった。
人付き合いが苦手な者同士、孤立しがちな学生生活で互いを支え合ってきた。ハーモは親友としてぼくを信頼している。彼女の拠り所を奪っちゃいけない。そう言い聞かせながら、自分を偽っていることに気付いていた。理由は友情なんかじゃない。ぼくはハーモに相応しい男じゃないんだ。両親の言う通り、身の程を知るべきだ。ハーモは心理学の天才として将来を嘱望されている。見た目も悪くない。いや、ぼくに言わせれば信じられないくらい可愛い。パッとしない外見で生物保護パイロットの選抜に落ちたぼくが釣り合えるとはとても思えない。
「無謀は愚か」ハーモが繰り返した。笑っているような声だ。「ねえ、本気で言ってる?」
ハーモは無謀の権化だ。ぼくは恥ずかしくなった。
「父さんと母さんは、大真面目だよ」
「わお!」ハーモが大袈裟に叫び、すぐに優しい声になった。「でもね、あなたが無謀なことをしたから、一人の命が助かったのよ。それでこそイミルよ。偉かったわね」
ああ、家訓を無視して良かった。死にかけただけの価値はある。ハーモに褒めてもらえたんだから。でも次の瞬間、ハーモの声が厳しくなった。
「でもイミル、死んだら許さないわよ!」
小部屋
二日後、漁に戻ろうと準備をしていたぼくは、デナリシティに出頭せよという脳波通信を受けた。ぼくは苦々しく承認の返事をした。やはり来たかという
思いだった。
ぼくは完全に誤解していた。無許可で漁獲停止した責任を追求されるに違いないと思ったんだ。呼び出しの本当の理由を知っていたら、飛行中の気分は全く違ったものになっていただろう。いや、呼び出しなんか無視して逃亡したかもしれない。
発着場の小さな医務室でぼくはDNA注射を打たれた。極低緯度地域であるバンクーバー島の気温に対処するため三十日前に打ったDNA注射を無効化するものだ。数時間もすれば元通り、ぼくは人間らしく、氷点下を快適と感じるようになる。
医務室を出るとすぐ、地球自治政府のスカイキューブに乗せられた。スカイキューブはその名の通り、立方体の飛翔体だ。縦も横も高さも七メートル弱の黒灰色の箱のようなもので、旅客用にも運搬用にも使われている。数十器も連結した上で隔壁を収納し、巨大なスカイタンカーとして運用することもできる。
初めて見た誰もが、空を飛ぶのにキューブ型では空気抵抗が大きすぎると感じる。でも心配は無用。スカイキューブは前方の気体を電磁衝撃波で上下左右に掻き分けながら進む。空気を吹き飛ばした後の真空を飛行するから、空気抵抗は考慮しなくてもいい。
機体の外壁は米松の繊維をクローン培養したバイオ素材だ。これが使われる理由はただ一つ。腐敗しやすいからだ。スカイキューブは人類の居住地域である南極と北極圏を往復し、また低緯度地域で野生生物の保護活動に使われる。もし低緯度地域で墜落したら、そこは野生動物の領域だ。金属で環境を汚染するわけにはいかない。だから雨に当たると速やかに土に還るバイオ素材が採用されている。電磁衝撃波で雨も弾くから、よほどの大雨でなければ飛行中に腐ったりはしない。真上を通過しているときには誰もが疑ってしまうけど、平気なんだ。
ずいぶんスカイキューブに詳しいって? 当然だ。生物保護パイロットになれたら、スカイキューブで野生生物が住む低緯度地域を飛び回ることになってたんだから。でもぼくは操縦プログラム席じゃなく、客席に座っている。自分の無能さを思い知らされながら。
浮かび上がったスカイキューブの窓から下を覗くと、魚卵用の細いパイプが一直線に伸びているのが見えた。
ぼくたち漁師が灼熱のバンクーバー島付近で集めた魚卵は、パイプを通って北極圏の各都市まで飛んでいく。パイプはただの筒じゃない。強力な電磁波を使った加減速装置が付いていて、魚卵はパイプ内で浮かんだまま加速される。中間地点を過ぎた辺りではほとんど音速になるそうだ。その後、魚卵は減速を始める。バンクーバー島からデナリシティまでの場合、約二千キロメートルを四時間弱。技術者は減速による時間のロスを嫌っていて、「潰れてよけりゃあ半分の時間で飛ばすんだがなあ」と文句を言っているらしい。
もちろん潰れていいわけがない。集めた魚卵はデナリシティの水産ファームに集められ、質の良いものは養殖に利用される。質が少しだけ落ちる魚卵は市民の食料になる。これはけっこうおいしい。さらに質が悪いものは夜間にパイプを逆に飛んでくる。酷い話でこれが漁師の食料になった。
スカイキューブが加速を始めた。これから五時間かけてぼくの故郷、デナリシティに向かう。空路で人を運ぶスカイキューブがパイプの魚卵より遅いとは。でも遅いのは一向に構わなかった。急いで到着したいわけがない。ぼくはきっと漁師の任を解かれる。魚卵漁の停止は市民にとって多大な損失だ。なぜ救出前に指示を仰がなかったのだと散々責められてから放り出されるに違いない。
できる限り抗議をしてやろうと心に決めていた。海に落ちたのは爺さんの責任だ。爺さんの命を救うために指示を仰ぐ手間を省いたのは仕方ないだろう。彼が死んでしまうんだから。
溜息が出た。そんな言い訳は通用しない。操船プログラムを任されていたのに事故の対処法を学んでいなかったとは。完全にぼくの怠慢だ。漁が停止したため、魚卵不足で誰かが餓死するかもしれない。食糧計画は地球自治政府によってそれくらい厳密に管理されているはずだ。
ちくしょう、火星が崩壊なんかするからこんなことになったんだ! ぼくは心の中で悪態をついた。火星に押しつけられた制度も大嫌いだ。火星暦十二歳で人生が決まってしまうなんて、酷すぎる。
そもそも火星暦の強制が最低だ! 火星の一年は地球時間に換算して約六百八十七日。地球の約一.九年が火星の一年になる。しかも火星は一日が地球より四十分ほど長い。毎年季節がずれ、しかもほぼ一月毎に閏日を挿入しなければならないんだ。このふざけた暦が地球市民とってどれほど不便なことか! 地球自治政府はそれを何度も訴えてきた。それなのに火星中央政府はずっと地球暦の使用を法律で禁じてきた。二つの暦があるのは貿易上不便だからというのが理由だった。地球の六五倍、百三十億人が住む惑星の要求には従うしかなかった。その結果、スカンジナビア半島の頑固な少数民族を除いて、家庭用のカレンダーまでが火星暦に統一されていた。
ぼくはため息をついた。本当に、火星なんか大っ嫌いだった。だけど、百三十億人が命を落としたあの日からは、心の中で悪態をついて気分は晴れない。ただ悲しみを感じるだけだ。。
窓の外を見ながら、ぼくは慎重にミーグを始めた。今後役に立つとも思えないが、もしまたハーモに再会できるのなら、ばかにされないだけの能力を維持しておきたい。一昨日は死にかけたことをたっぷり怒られた。怒ったハーモが可愛くてつい笑ってしまったら、もっと怒られた。「イミルが卒業するときに友情は永遠だって言ったのは嘘だったの? 私を置いて勝手に死んじゃうつもり?」と。
彼女を置いていきたいと思ったことなど一度もない。でもそんなことを知られたら大変だ。本当の気持ちを告げる勇気があったら……だめだ。今は本気でミーグの鍛錬をしよう。ぼくは思考の半分で景色を観ながら、残りの半分を昔に遡らせた。
最初に思い出したのはルームばあさんだった。火星年の三歳、地球歴換算の五歳半で親元を離れたぼくたちは、八人一組で育児ルームに育てられる。部屋の壁から食事が現れ、部屋の壁が遊び相手になり、子どもが調子に乗ると部屋の壁が叱り飛ばす。ぼくたちは壁を〝ルームばあさん〟と名付けていた。人工知能の口調が年寄り臭かったから。でもそう呼ぶと壁はすぐに怒鳴った。
「もっと敬意を持ってちょうだい! ルーム先生とお呼びなさい!」
八人の子どもは三歳から六歳の終わりまでを共に暮らすことから三六クラブと呼ばれていた。組み合わせは誕生日が近い男子五人と女子三人、または女子五人と男子三人だ。成長に必要な経験を積むにはこれが最も良いという。共感と反発、個人主義と集団への献身、愛情と憎悪。それらへの心の折り合いの付け方。全てこの人数なら効率的に経験できるらしい。ぼくとハーモの意見は違う。大人が考える効率なんて、子どもにとっては檻にしかならないこともある。
この時期をあまり思い出したくない原因の一つ、意地悪なプターマもぼくの三六クラブ仲間だった。
ぼくたちは火星年の三歳で親元を離れるけど、その後もマインドリームで両親と繋がっていた。マインドリームは、昼間の記憶を通信で交換し、夢の中で相手の一日を追体験するシステムだ。これは一般的には幼い子ども用だとされている。夢の中で親の記憶に会うことで甘えん坊も寂しい思いをしないというわけだ。とはいえ誰もがいずれ反抗期を迎え、記憶を覗かれるのを嫌がるようになる。だから火星暦の五歳頃にはマインドリームを卒業することが多い。ぼくはそうじゃなかった。
「イミルは寂しくてマインドリームがないと眠れないんだってさ!」
意地悪なプターマはいつもそう言ってぼくをばかにした。
それは事実ではなかった。ぼくは心配性な親を安心させるために続けていたんだ。でもプターマは信じようとはしない。あるとき彼女があまりにしつこいのでこう言ってみた。
「プターマの母さんとマインドリームを交換してみたけど、君のことばっかり考えてたよ」
もちろん実際には他人の親と記憶を交換するような気味の悪いことはしない。
しばらくするとプターマはこっそり親とマインドリームを交換しているという噂が流れた。本人は必死に否定していたけど。
三歳で子どもが巣立つと、親にはその年の人口状況に応じて再度出産の機会が与えられる。夫婦の出産許可人数は毎年の地球環境から判断された。南極のオキアミが二%増加したから人口を一万人増やしても大丈夫とか、サトウカエデが森林火災で三十ヘクタール減少したから三千人制限しよう、といった具合だ。それを地球自治政府が毎年決定し、火星中央政府の承認を仰ぐ。近年は一夫婦につき二度の出産という制限でほぼ落ち着いていた。
当然、人口は減る。二割強のカップルは同性婚だし、子どもはいらないという親も一定数いたからだ。それでも火星中央政府はさらに制限を強めようとしていた。火星に移住せず地球に残った人類は徐々に消え去る。環境を守り、全生物種の絶滅を防ぐためにはそれが必然だと彼らは考え、地球自治政府も仕方なく受け入れていた。
火星市民のご先祖たちはかつて地球環境を守るために五十億人の身体を捨てるという究極の犠牲を払った。超大国というだけでなく倫理的にも正しい彼らには従うしかなかった。火星市民は傲慢だったが、今はいなくなってしまった。傲慢だからって死んでいいわけがない。
脳の半分が悲しみで潰れそうになったので、ぼくはもっと楽しい記憶を引き出した。ハーモと初めて会った日だ。ぼくが七歳と八十五日を迎えた日。つまり教育ドームに入学して八十五日目。地球年で言えばだいたい十三歳ということになる。
ぼくはいつものようにデナリシティの広大な教育ドームで脳に送られてくる授業を受けていた。周りには七歳から十一歳までの五万人ほどが思いおもいの場所に座っている。寝転んでいる者も多い。そうやって各自が脳に直接送信される〝脳波ティーチャー〟の授業を受けている。だから授業中の教育ドーム内は静かなものだ。
満七歳の誕生日に入学すると、一日目からカリキュラムは厳密に決まっている。そのときは八十五日目の一限目だったから、ぼくは「地球標準語八十五章」を受けていたはずだ。
静かなドームで、なぜか背後からガチャガチャという音が聞こえた。気になって振り返ると、クロスバーパズルをしている小柄な女の子がいる。それがハーモだった。五十本以上の棒を組み合わせて形を作るクロスバーパズルはかなり難しい。なんとそれを授業中に解いている。普段のぼくは人に話しかけたりしないけど、あまりに驚いて思わず声が出た。
「な、何やってんの⁉︎ 授業は?」
女の子はパズルを動かしたまま、ふわふわとした茶色い髪の間からぼくを見た。
「聞いてるわ。あなたこそ怒鳴られるわよ」
彼女の言葉通り、ぼくの脳波ティーチャーが吠えた。『イミル! 授業に集中しなさい!』
脳波ティーチャーは教育ドームのメインコンピュータから各自の脳に送信される。だけど一方通行じゃない。常に脳波モニタリングを行なっていて、学生の意識が授業から逸れるとすぐにバレてしまう。ぼくは目を閉じて授業に集中しようとした。『地球標準語は六つの母音を効果的に使い分けることで脳波通信時にも間違えにくい特徴があり、すなわち……』それにしても彼女はパズルなんかして、脳波ティーチャーの怒鳴り声を無視してるのか? そんなことできるわけ……『授業を聞きなさいイミル。このド阿呆!』
頭が割れそうな声のおかげでその後たっぷり五分間は頭痛が残った。脳波ティーチャーを怒らせてはいけない。集中が途切れたら必ず脳波ティーチャーは見破って、怒鳴りつける。なのにあの女の子は平気な顔だ。ぼくはその秘密をどうしても知りたくなった。
ぼくはこの文書を地球標準語で書いている。これを解読しようとしている学者たちは、ぼくとハーモの出会いには興味がないかもしれない。まあ学者先生にはお気の毒としか言いようがない。だけどこれは世界の創造だけでなく、あなたたちの人生にも関わる話なんだ。興味があろうとなかろうと、ぼくとハーモの物語につきあっておいた方がいい。
午前十一時になると五万人の生徒は集合住宅のそれぞれの自室に帰る。昼食を作って食べるためだ。二時間の昼休みの後、またドームに集まり、午後の授業を四時まで受ける。
これは一見、とても効率が悪い。なにしろ五万人の大移動だ。脳波ティーチャーの授業なんだから自室で受ければいいだろうと、誰もが一度は思った。でもこれは集団の中で素早く行動するための訓練を兼ねているらしかった。皆、ごったがえすドームから素早く帰宅して料理を作らなきゃならない。ぼくたちの食事は毎日三回、食材パイプ経由でキッチンに一食分の材料が届き、自分で調理する。遅れたら食材は自動的に回収され、昼食抜きだ。授業に遅刻するのも許されない。ドームに到着するまでずっと脳波ティーチャーに怒鳴りつけられることになる。
だけど数日も経つと、動き方のコツが見えてきた。座る場所は誰かが誕生日を迎えて入学や卒業をする度、つまり毎日、微妙に変わる。でもその都度、自分がどう動くべきかをすぐに判断できるようになっていった。
ハーモに初めて会った日の昼食休み、ドームをキビキビと出て行こうとする彼女の腕をぼくは咄嗟に掴んだ。彼女は茶色い目で一瞬ぼくを見ると、振り払おうともせず、逆にぼくを引っ張るように歩き続けた。見事に人の流れに乗って進む。その背中で揺れる柔らかそうな髪からぼくは目が離せなくなった。
ドームから出て大河のような学生たちの大移動から外れると、彼女はまたぼくを見た。華奢な体、培養パール繊維の黄色いノースリーブシャツと膝までのズボン。小さくて少し丸い顔を包むふわふわの長い髪。でもそれよりもずっと印象的なのはぼくをじっと見つめる大きな茶色い瞳だった。少し警戒しているのに、同時になぜか悪戯っぽく煌めいている。それ以来、彼女の瞳を見る度にぼくの頭にはいつも〝悪戯っぽい〟という言葉が浮かんだ。
「ずいぶん強引ね。何か用?」
ちょっと怒ったような表情。挑戦的に睨もうとしているけど、ぼくは彼女の声に気を取られていた。なんて可愛らしい声なんだ。
彼女の細い腕をまだ掴んでいたことに気付き、慌てて手を離した。
「ごめん。あ、あのさ、あれはどうやったの?」
「あれってパズルのこと? あんなの簡単よ」
口調には棘があった。普段の気弱なぼくならそそくさと退散しただろう。でもそのときは気後を忘れるほど興味を惹かれていた。
「脳波ティーチャーに怒鳴られるだろ。どうやって我慢したの?」
「怒鳴られないわよ。授業に集中してたから」
そんなはずはない。実際にパズルをしていたのをはっきり見たんだ。そう指摘すると、彼女はぼくをじっと見つめたまま答えた。
「だって私、ミーグができるから」
ミーグという言葉を聞いたのはそれが初めてだった。ぼくの顔に疑問が浮かんでいたんだろう。彼女が言い換えた。
「マルチ脳活動。略してミーグよ。頭の中を細かく分けて、同時に別のことをするの」
「同時に別の? 頭の中を分けて? そんなことできるの?」
女の子は茶色い瞳でぼくを観察するように見た。まるでぼくが嘘を言っていて、それを見破ろうとしているかのように。それからいきなり左手の空間スタイラスを起動させた。
「見せてあげる。私の気が散るように何か質問してみてよ」
ぼくをじっと見ながらさらさらと空中に絵を描き始めた。「それと、気味が悪いと思ったら気なんか遣わないで。黙ってどっかに行っちゃってね」
気味が悪い? ぼくはその意味がよく分からず曖昧に頷いた。
「う、うん。えっと、質問だよね……じゃあ、君の名前と年齢は?」
「そんな質問じゃミーグにならないわよ。まあいいわ。私はハーモ。七歳と五日よ」
ハーモの左手は一瞬も止まらず、人物画を描き続けている。
「ぼくはイミル。いや、ちょっと待ってよ! 入学五日目⁉︎ ほんとに? なんであんな上手にドームを出られるのさ!」
「イミルっていい名前ね。南極の発音ならヤマってとこね。ドームを出のなんか、社会心理学的に人の流れを観察すれば簡単よ」
何のことかさっぱりだ。ぼくがぼうっとしているとハーモは猛烈な勢いで絵を描き続けながら顔を顰めた。
「ねえ、質問が簡単すぎてミーグにならないわ。数学の問題でも出してみてよ」
簡単すぎると言われたぼくは、少し意地悪をしてみた。
「じゃあ、三千七百五十六かける六百二十八」
ハーモはいきなり走ってきた学生を避けながら即答した。
「やだ、危ない。二百三十五万八千七百六十八ね」
ぼくは思わず笑ってしまった。
「あはは。合ってるかどうか分かんないや」
「合ってるってば。ほら、これでどう?」
ハーモは空中に描いた立体画をぼくの前に飛ばした。それは驚いてあんぐりと口を開けているぼくの顔だった。短時間のうちにしっかり観察して緻密に描いてある。
「す、すごいや。数学を解きながらこれを?」
ぼくが感心するとハーモが初めて微笑んだ。
「ふーん、本当に興味があるのね」
可愛らしい笑みにつられてぼくも笑った。
「もちろん! これってどうやって……」
誰かがハーモの肩を掴んだ。
「おい魔女」同じ歳くらいの男子が精一杯低い声で凄んだ。「いい加減、気色悪い技で人を怖がらせるのはやめろよ!」
なんて言い方だ。ぼくが言葉を失っていると、ハーモが男子に向かって微笑んだ。
「ヤータったら、三六クラブを卒業したのに、まだ私が怖いの?」
三六クラブは本来とても仲が良いとされている。だがヤータの表情はそうではないと物語っていた。ぼくにもお馴染みの表情だ。ヤータは首を振り、何か文句を言いながら去っていった。
見ると、ハーモの笑顔が消えていた。彼女は空中の立体画を指で払って消した。
「じゃあね、イミル。怖がらせてごめんね」
「ねえ、ちょっと待ってよ! ミーグのこと教えてくれないの?」
ハーモはまたぼくの顔をじっと見た。
「あなた……ふうん、私が怖くないのね」
「なんで怖いのさ! かっこいいじゃない!」
ぼくはミーグという不思議な技に心から感心していたし、ハーモともっと話をしたいと思っていた。それが伝わったのだろう、彼女の顔にほんの少しだけ笑みが戻った。
「別に特別なことじゃないわ。あなただってイオンシャワー中に歌ったりするでしょ」
残念ながら歌は得意じゃないし、一人のときにも歌ったりしないが、ぼくは黙って頷いた。ハーモは頭を両手で覆った。
「普通は頭全体で一つのことを考える。でしょ。でもイオンシャワー中の鼻歌は……」右手の指で右の頭を指した。「脳の別の場所を使う。だから同時にできるの。それをはっきりと意識してやれば、ミーグになるのよ」
ぼくにはイオンシャワー中の鼻歌と、人物画を描きながら百万単位の計算をすることが同じだとは思えなかった。ましてや脳波ティーチャーにバレないなんて絶対に違う。あんな性悪な脳波ティーチャーを誤魔化せるなんて、凄すぎる技だ。
ぼくがそう言うと彼女は初めて声を上げて笑った。アイスベルの音色を思わせる軽やかな笑い声だった。それも最高純度の氷河から削り出したアイスベルだ。ついうっとりしてしまったぼくは、気を取り直して訊いた。
「ねえ、そのミーグって、君の三六クラブにもできる人はいるの?」
「まさか」ハーモが無表情になった。「見てたでしょ。だから私はみんなから魔女って呼ばれるのよ」
やはりハーモと不仲なのはヤータだけじゃないらしい。きっと仲間外れだ。
ぼくには彼女の気持ちがよく分かった。三六クラブで仲間外れは滅多に起こらないとされていたが、そんなのは統計の嘘に違いない。仲間外れはここにもいる。プログラムが好きでつい没頭してしまうぼくは、他人のペースに合わせることが得意じゃなかった。そう、ほんの少し人付き合いが苦手なだけだったんだ。別にずっと一人でいたかったわけでも、それで寂しくなかったわけでもない。小さな集団ですら馴染めない辛さと自己嫌悪はいつまでも消えてくれない。
「じゃあ、ミーグができるのは君だけか。かっこいいな!」
ぼくが少しだけ大袈裟に言うと、彼女はまたぼくを驚かせた。
「ねえイミル。興味があるのは本当みたいだけど、ちょっと気を使ってるでしょ?」
ぼくの唖然とした顔を見て付け加える。「私ね、表情を読む練習をしてるの。心理学よ」
「うわっ! なにそれ、すごいな!」
これは完全に本音だった。ハーモが微笑み、その表情にぼくまで嬉しくなった。だけどハーモはいきなり話題を変えた。
「あーあ。今日はもうお昼抜きね」
ぼくは慌てて脳内時計を見た。時間はたっぷりある。
「なんで? まだ間に合うよ」
「まあいっか」ハーモは教育ドームの方へ引き返し始めた。「私は間に合いそうにないからドームに帰る。じゃあね」
彼女を行かせたら二度と会えないぞ。そんな心の声が聞こえ、ぼくは珍しく従った。拒絶される恐怖を咄嗟に抑え込んだ自分を今でも誇りに思う。
「ね、ねえハーモ! 良かったら、ぼくが料理しようか?」
ハーモが振り返った。「それって、本気で言ってる……みたいね」
「もちろん。急いで材料を持っておいでよ」
ハーモはぼくの真意を探るように見つめていたが、突然駆け戻ってぼくの腕を掴んだ。
「うん、いいわ! 部屋はどこ?」
部屋番号を教えるとハーモは駆け出した。
「すぐに行くから、ほら、イミルも急いで! ほんとにお昼抜きになるわよ」
ハーモが走っていったのは、ぼくの集合住宅の隣の棟だった。ぼくは彼女が気の毒になった。彼女の棟は設備が最新で部屋も広い。その代わり、信じられないことに景色が全く見えない。火星中央政府が決めた環境保護政策のため、街のビルの半数は地下空間に造る必要があった。だからハーモの棟は全館が岩盤の下だったんだ。立体映像ウインドウが設置されてるから世界のどんな景色でもそこに居るように感じられるというけど、絶対に実物には敵わない。ぼくたち学生はその集合住宅を〝暗黒の棟〟と呼んでいた。
十分後、ぼくが垂直パイプで百七十五階の自室前に射出されると、数秒後にハーモが飛び出してきた。
垂直パイプは高層建築には欠かせない装置だ。一階でパイプの中に入り、思考スイッチで行きたい階を思い浮かべると、電磁カタパルトで目指す階まで弾き飛ばされる。目的階が上になるほど磁力も上がり勢いが増すから、どの階でも到着まで数秒だ。百七十五階ともなるとかなり速い。ちなみに下りは重力で自由落下した体を電磁ブレーキで受け止めることになるので、上層階では上りより下りの方が時間がかかってしまう。
パイプから飛び出したハーモは少し紅潮していた。
「何これ、楽しい!」
「えっ⁉︎ ハーモ、ちょっと早すぎない?」
ハーモはぼくの肩に掴まり、荒い息を吐くとまた笑った。
「料理しなくていいと思ったら嬉しくて、思いっきり走っちゃった。ほら急いで!」
彼女はぼくの腕を引っ張ってドアの前にかざした。DNAロックがぼくの遺伝子を認証し、ドアが開く。ぼくはいつものように部屋に入る前に脳波スイッチで窓をビューモードにした。部屋の照明とBGM、ハーブの香りも脳波コントロールで調節する。ハーモはぼくの腕を離し、先に部屋に飛び込んだ。
「うわっ! どういうこと⁉︎」
ハーモの叫び声が廊下まで響いてきた。
何かまずいものが置いてあっただろうかと慌てて部屋に入ると、ハーモは窓からの眺めに釘付けになっていた。ぼくはハーモの横に並んで氷河を見下ろした。
デナリはアラスカ山脈の主峰で、この大陸最大の都市デナリシティはその山腹に階段上に広がっていた。学生向け集合住宅はこの街を見下ろす外周部上端にある。デナリ山から南西方向に流れるカヒルトナ氷河も眺められる絶好の位置だ。しかもぼくが割り当てられた棟は輝く氷河を見下ろす山腹に建ち、一万ほどの部屋は全てグレイシャービュー。さらにぼくの部屋は地上百七十五階で、二百十階の建物のかなり上の方にあるから、朝日に輝く氷河はなおさら美しく見えた。
こんな絶景が目の前にあるのに隣の暗黒の棟みたいな地下住宅を作るなんて、正気とは思えない。
ぼくは唖然として窓の外を眺めているハーモの横に立った。
「朝焼けの時間はもっとすごいよ」
「ずるい!」ハーモはぼくの腕を叩いた。「何よこの景色!」
ぼくの表情を見て怒った顔になる。
「あ、私のこと可哀想って思ってるでしょ!」
ハーモは他人との距離の詰め方が独特だった。最初はよそよそしいのに、心を許した途端、初対面とは思えないほどずかずかと踏み込んでくる。だけど消極的なぼくはそんな彼女の態度が嬉しかった。
しばらくして分かった。これが本来のハーモなんだ。長い間の仲間外れで臆病になっていただけで、ぼくと出会って数ヶ月も経つ頃には彼女は自分を取り戻していた。正直すぎる心理学の天才。そのことで彼女を嫌う人は何人もいた。いや、多くの人がそうだった。ハーモに見抜かれ、不安になるんだ。脳波モニタリングがあるから思考を隠すことなどできないのに、相手が人工知能じゃなく人間だと嫌悪感があるらしい。
ぼくはというと、単純にハーモの特技や態度をかっこいいと思った。人の顔色ばかり伺っていたぼくとは真逆だったから。
「可哀想なんて……まあ、ちょっとだけ思ってるかな」
「あはは。そうよね」
まさに絶妙なタイミングで、目の前をドールシープの親子が横切った。集合住宅の外壁は偽装ガラスで、内側からは透明に見えるが、外側は険しい岩場そっくりに建設されている。だからよく目の前をヤギやドールシープが歩いていく。ハーモが窓に駆け寄り、頂に向かって登っていく羊たちを触れそうな距離から眺めた。羊たちが通り過ぎると、彼女は完全に忘れていた呼吸を再開した。
「うわあ! すごかった。羊じゃないの!」
「うん、ちょうどこの部屋の前が獣道らしいんだ」
「いいなあ! うん、そうね。私って可哀想かも。あはは」
彼女の笑い声に心が浮き立つのを感じた。
「じゃあ君は景色を見ながら泣いててよ。ぼくは料理してくるから」
「分かった。ここで自分を憐れんでる」
ハーモは笑いながら食材ボックスをぼくに向かって放り投げた。
昼食のメニューは火星産培養ナスと火星産培養挽肉の挟み焼きだ。この挽肉が何の肉を模したものか誰も答えられなかったけど、不味くはなかった。いつものようにレシピを順守して手早く作る。五分で完成してハーモを呼ぶと、彼女はキッチンに走ってきて料理を窓の近くまで運んでくれた。電磁反発の擬台に皿を乗せると、空中に浮かんだ料理を口いっぱいに頬張る。
「わっ、美味しい! イミル、料理の天才ね!」
ぼくの腕をバシバシと叩くと、挟み焼きをさらに口に詰め込む。
ぼくは困惑した。そりゃ褒められて嫌な気はしないけど、料理の天才なんてことはありえない。送られてくる食材は誰でも同じだし、脳に送られてくるレシピ通りにカッティングボードに入力すれば、ボードがその通りに切ってくれる。水や調味料、火の加減も鍋に入力するだけ。レシピを書き写すのと同じだ。
「どうやったらこれを不味くできるのさ」
「あー……私、ついアレンジしちゃうのよ。自己流でね。それで今日まで十三回連続で失敗ってわけ」
つまり一人暮らしを始めてから一度も成功していないってことだ。
「じゃあアレンジしなきゃいいんじゃない?」
ぼくが当然のことを言ったのに、ハーモは目を見開いた。
「そんなのつまんないじゃない! それに機械に負けるのは悔しいわよ」
十三戦全敗は棚に上げるつもりらしい。
「つまるかつまんないかじゃなくて、美味いか不味いかの方が大事だと思うけどな」
ハーモはまた景色を眺め始めた。「まあねー」と生返事する。従う気はなさそうだ。
昼食は量も少ないので、すぐに食べ終わった。ハーモがぼくの分の皿も運んで真空洗浄機に入れた。もうすぐ昼休みが終わってしまい、明日には会う理由もない。でもぼくは彼女ともっと話したいと思っていた。遠慮のない態度なのに何故か一緒にいて心地いい。こんなことは初めてだった。
「そうだ! いいこと考えた」
ハーモが疑わしそうに目を細めた。
「うーん。なんか違法なニオイがするわね」
「えっ! 違法って何さ。そうじゃなくて、料理を教えてあげるよ」
「ほらね。悪い予感が当たった。それはうれしくないなー」また景色を眺め、ニヤリと笑う。「もっといいこと考えた!」
今度はぼくが目を細めた。
「もしかして……違法なこと?」
「ばかね。違法じゃないわよ。お昼は毎日イミルが作ってくれるってのはどう?」
厳密には違法ではない。でも火星暦七歳からの教育課程では毎日料理をして技術を身につけよと学生の心得に書いてある。
「だめだよ! 心得に載ってるんだから、法律と同じだろ」
「うわあ、イミルって頭が固いのね」
ハーモが笑った。そのアイスベルの声にぼくは負けた。
「分かったよ。朝と晩はちゃんと自分で料理してよ。それでさ、お昼を作る代わりに、ぼくにミーグのやり方を教えてくれない?」
「うーん。毎回作ってくれるんなら、まあいいかな。うん、契約成立!」
ハーモは契約の印にぼくの唇に小指で軽く触れた。このとき彼女はあまり気にしなかったようだけど、脳波モニタリングを欺くミーグは違法すれすれな技だった。当時それを知っていたら、教えてくれと頼んだりしなかっただろう。一方で、違法性を知っていてもあまり気にしないのがハーモだった。
「じゃあさっそく、今日の午後から教えてあげるね。イミルに課題を出すから、授業をしっかり聞きながら解くのよ」
ぼくは不安になった。「でもいきなり授業でやったら、怒鳴られないかな」
「もちろん怒鳴られるわよ。あはは! 楽しくなってきた!」
脳波ティーチャーに怒鳴りつけられるのは、全く楽しくなんかない。だけどハーモがあまりにも愉快そうなので、ぼくまで嬉しくなった。ハーモが何かを決意したように頷いた。
「イミルだけ大変なのは不公平よね。私も試してみたいことがあったの。二層目のミーグに挑戦するわ」
二層目のミーグが何のことか初心者のぼくにはさっぱりだった。
その日からぼくの部屋での二人の昼食が日課になった。周りの皆は三六クラブの仲間と過ごすことが多かったが、ぼくたちはそうじゃなかった。授業ではいつも同じ場所で待ち合わせをした。いつの間にか夕飯までぼくが作るようになり、夜も就寝推奨時刻までたいてい一緒にいた。互いにとって初めての親友だった。しばらくするとぼくやハーモにも新しい友人がほんの少しはできたが、それでも二人は多くの時間を共に過ごした。
ハーモは親友だったけど、同時に初日から厳しい先生にもなった。約束通り彼女はミーグのコツをみっちりと教えてくれた。
ミーグ=マルチ脳活動は脳内を二つに分離して行う。まさにそんな様子をイメージするのが肝心だ。具体的には、まず〝思考する部屋〟を想像する。なるべく本物そっくりに。何かを考えるときはその部屋の中で行う。そのイメージが十分に安定したら、部屋を壁で区切り、もう一つの〝思考の小部屋〟を作る。大部屋での思考に集中したまま、別のことを考えるときには小部屋を使う。
壁が充分に強固なら小部屋で考えていることは外に漏れない。
さらに効果を上げるためハーモが教えてくれたのは歌だった。小部屋で考えるときには、そこで歌うところをイメージする。思考は歌に紛れ、小部屋から漏れ出しにくくなる。歌は何でもいい。ぼくたちは『楓の小道』という歌に決めていた。ハーモが好きな曲で、昔からミーグのときに歌っていたらしい。だからぼくも真似させてもらった。ぼくが声に出して歌う度にハーモは「イミルが下手だからこの歌が嫌いになっちゃう」と笑っていた。
最初のうちぼくはハーモの予想通り、脳波ティーチャーにかなり怒鳴られた。
『集中せんか、このくそ坊主め!』
『また気が散っているぞ、この穀潰しが!』
合成された音声と知っていても、暴言を吐かれるのは辛かった。でもざまあみろこのコンピュータ野郎。一年近く経つ頃にはぼくは思考の小部屋をしっかりと作り、脳波ティーチャーを完璧に騙せるようになっていた。
ハーモがいう二層目のミーグとは、小部屋の中にさらに小部屋を作ることだった。それによって三分割の思考ができるし、脳波モニタリングにはさらに見つかりにくくなるらしい。ぼくのミーグはそんな彼女のレベルには程遠かったけど、それでも授業中に他のことをするのには立派に役立った。
嬉しくなったぼくは表情を読む技術も教えてくれとハーモに頼んでみた。ハーモは授業に集中しながら同時に心理学の難しい論文を聞き漁り、表情を読む技に磨きをかけていた。彼女が他人の心理状態を読む能力は脳波モニタリングより上なんじゃないかと思ったほどだ。ぼくもぜひその技を習得したかった。脳波モニタリングは一般人には非公開だし、そんなシステムに頼らずに心が読めるなんてすごく便利じゃないか。でもなぜかハーモは頑なに拒否した。こっちは違法すれすれでもなんでもないのに。
ここまでの記述を皆が読んだらどう思うだろう? 創造主と女傑が仲間外れだったことに驚くだろうか?
まあそれはどうでもいい。厳密には彼らの目に触れることはないんだし。
それに読んでほしい人はただ一人だ。
遥かに高度
スカイキューブの窓の外にデナリ山が見えてきた。ハーモは今頃、午後の授業を受けているはずだ。彼女との思い出で気分が良くなるどころか、ぼくは果てしなく落ち込んだ。
あのときぼくはチナ爺さんを救うことばかり考えて、漁を停止する影響を考えなかった。魚卵が採れなければ人々が餓死する可能性があり、その中にはハーモが含まれたかもしれない。料理が下手なハーモはそうでなくても食糧不足には弱いだろう。
ハーモを危険に晒すなんて。ぼくなんかにスカイキューブを用意しなくても、魚卵と一緒にパイプで送ってくれればよかったんだ。ついでに減速過程なしで潰してくれたって文句は言わない。
デナリシティに到着したぼくはすっかり自分で自分を放り出す気分になっていた。とにかく関係者全員に謝りたかった。
「あの、すみません」さっそく空港の職員に謝った。「お忙しいのに、余計なことを訊いてすみません。合同官舎ドームへはどうやって行けばいいですか?」
懐の深い職員は無能なぼくににっこりと微笑み、西の方角を指さした。
「ほら、あの丘が見えるだろ。歩いて二十分ほどだよ」
ぼくは口の前に拳を上げて感謝を伝えると、全体に雪を被った丘に向かって歩き出した。丘のように見えるのは外観だけで、内部はその名の通りドーム状のビルになっている。
正面入り口の受付係にまた謝った。
「あの、すみません。クイーン・シャーロット海峡の漁師、イミルです。すみません。出頭命令を受けまして……」
場違いなほど綺麗に日焼けした受付の男性はぼくの顔をチラッと見た。脳内でリストを確認できたのだろう。軽く頷く。
「イミルさんですね。こちらのオフィスに出頭してください」
受付係はデスクの棚からスタンプを取り出すとぼくの手の甲に押した。スタンプから小さな手の立体映像が飛び出し、指で目的地までナビゲートしてくれる。目的地が乗り物の場合は親指、人物の場合は中指、部屋の場合は小指だ。脳内ナビがあるのにずいぶん旧い装置を使うものだ。ぼくはスタンプからナビ指を呼び出した。出頭先は合同官舎ドームのほぼ中心にあった。手は中指で方向を示している。そこにいる人物に会えということだ。
ぼくは漁師の制服を着ていた。電磁防水機能がついたファイバー製の青い上下つなぎだ。合同官舎ドームで職業資格を剥奪されると、その瞬間に制服を取り上げられるらしい。つまりドームからは下着姿で帰るということだ。反省の意を示すために最初から下着姿で出頭しようかと思案しながら、ナビの中指に従って歩いていった。
指定されたオフィスの前に到着すると瞬時にドアが開いた。脳波モニタリングでぼくの位置は偉い人にも伝わっているから、到着することは事前に分かる。
偉い人は開いたドアのすぐ前に立っていた。
「わざわざ来てもらってすまない」
妙に気取った中年男性だ。上質だけど破れやすそうな培養ミツマタ布の服。茶色い髪は綺麗に整えているのにわざと少しだけ伸ばした髭が目立つ。ぼくは手の甲のスタンプを左右に動かしてみた。ナビの中指は執拗にこの人物を指し続けている。
髭面が顔を顰めた。「私で合っているよ」
「し、失礼しました。クイーン・シャーロット海峡の漁師、イミルです」
「名乗らなくても知っているよ、イミル君。さあこちらへ来たまえ」
髭面が簡素な部屋の奥へと歩きながら頭の横で手招きした。動作まで気取っている。
「私はパンマだ。この段階ではそれ以上は名乗れない。とりあえずはある研究部門のトップと思ってほしい」
パンマ・ある部門のトップ氏が身振りでぼくに椅子を勧めた。磁気で尻を支えて浮かせる擬椅子だ。空中に座っているようで間抜けな格好になるのでぼくはあまり好きではないが、仕方なく腰掛けた。相手の立場が不明なので、ぼくは用心深く返事をした。
「パンマさん、ですか」
「今日来てもらったのは、一昨日の出来事についてなのだよ」
パンマ・どこぞのトップ氏は向かいの椅子に座った。電磁浮遊ダンパー付きの椅子をわざわざ高めに設定しているため、来客を見下ろした格好になる。これを狙ってぼくをソファに座らせたのかもしれないが、心理的駆け引きのつもりなら安直な手だ。ぼくは〝心の魔女〟ハーモの弟子なんだぞ。それにぼくはとっくに自分を有罪だと認めている。
「君は海に落ちた漁師を救助したそうだね。そのときの状況を教えてもらいたいのだが」
ぼくはできる限り詳しく話した。ここでの会話は全て記録に残るはずだ。自白証拠となってしまうが、自己弁護をするつもりは全くなかった。
パンマ・トップ氏はときどき頷きながら聞いていた。でもぼくが溺れたところまで話すと、手を挙げてぼくを制止した。
「もういいだろう。悪いが、君の脳波をモニタリングさせてもらった」
「はあ……」
何を今さらと言いたくなった。脳波モニタリングは誰もが常時受けている。でなければ殺意を抱いた人間をどう止める。窃盗や強盗をどう防ぐんだ。脳波モニタリングは社会を維持するシステム、この世界の根幹だ。わざわざ知らせることじゃない。
「いや、君の考えているようなものとは違うのだよ」パンマ氏がニヤリと笑った。「そう、一般的な脳波モニタリングとは全く違う。遥かに高度なものだ」
ぼくはこの合同官舎ドームに入って以来、ミーグの壁を一段と厚くしていた。以前からハーモに警告を受けていたんだ。普段からミーグで脳波モニタリングを欺いているぼくたちは、より高度なシステムが登場したときにそれを暴かれる恐れがあると。だから新しい場所に入るときにはミーグを完全に解くか、むしろ精神の小部屋の壁をできるだけ分厚くする癖をつけていた。もちろんスカイキューブでも。だけど本当に十分だったのだろうか。
ぼくは慎重に訊いた。「ええと、その、高度というのは、どういう意味なんですか?」
パンマ氏がニヤリと笑った。「そうだな。君が一度は自己擁護をしようと考えていたことが分かった。どうやら海に落ちた……」脳内にデータを呼び出したのか、少し間が開いた。「そう、君が心の中で〝チナ爺さん〟と呼んでいる漁師が悪いと言いたかったようだな。でもここに来る前に反省した。君は反省のあまり、自らクビになる気でいたようだね」
驚くほどの緻密さにゾッとした。「そこまで……」
「そう。手に取るように分かるのだよ。君が一時間ほど漁を放棄したことで、餓死する人間が出ると思ったようだな」
まずいぞ。従来の脳波モニタリングとはまるで次元が違う!
パンマ氏が椅子にもたれて自慢げに言った。「今までのように集中度や殺意、怒り、喜び、反社会的な欲望といった曖昧なものではなく、考えた言葉まで読み取れる。精神に残っている古い記憶の痕跡までもな。ちなみに、誰も餓死などしないから安心したまえ。食料は十分に供給されているそうだよ」
「そ、そう……ですか……」虚を突かれてしまった。漁の停止で餓死はないと知らされた喜びは想像以上に大きかった。安堵のあまりミーグを解きそうになり、慌てて心を引き締める。
「君の履歴も確認した。学生終了時に生物保護パイロットの職を希望したが基準に到達せず落選。火星の崩壊に伴って地球が食糧難に陥っていたこともあり、漁師に選抜された。その理由は、衝撃波スタビライザーのイメージプログラム能力が優秀だったため。そうだね」
「ええ。その通りです」
「さて、今回ルールを破って漁業管理局に指示を仰がなかったことは、厳密には違法で、糾弾されるべき行為だ。それでも君は救助を優先したんだな」
嘘を言っても仕方がない。「目の前のことに気を取られて、誰かが餓死する可能性を考えませんでした」
パンマ氏はニヤリと笑った。「君は正直者だな。脳波モニタリングがあると知っていても自己弁護しようとする者は驚くほど多いのだよ。君は言い訳をしなかったし、嘘を吐こうと考えもしなかった。それは貴重な資質だ。それに責任感が強いようだな」
「責任感が強い人間なら、事故への対処法をもっと前に学んでいたはずです。ぼくは漁師失格です」
「ふむ」パンマ氏が頷いた。「いいだろう。君には漁師を辞めてもらう」
言われなくても覚悟はできている。ぼくは立ち上がると制服を脱ぎ始めた。どうせ下着姿を晒して帰るなら、躊躇せずにさっさと終わらせてしまいたい。両足の電磁シールを解いてつなぎをめくり上げるとパンマ氏が慌てて立ち上がった。
「おいおい、尻を出すのは待ちたまえ! まだ制服は脱がなくていい。着替えの用意ができたら部屋に届けるから」
「着替え? 部屋?」
クビになったら即刻、下着姿で出て行くはずじゃないのか。
「漁師はやめて、君にはもっと高度な仕事をしてもらう」
高度な仕事! 急に希望が膨らんだ。
「もしかして、生物保護パイロットですか!」
パンマ氏がニヤリと笑って首を振った。
「遥かに高度だ。木星だよ」
「へっ?」思わず間抜けな声が出てしまった。
パンマ氏が脳波で何かに指示を送ったのだろう、また遠い目になった。十秒後、部屋の扉が開く。廊下に背の高い女性が立っていた。
研究職に支給される銅色の制服を完璧に着こなしている。背筋を伸ばすと、肩の上で切りそろえた赤毛が揺れた。
「地磁気研究のエキスパート、ヴェルだ」パンマ氏が紹介した。
ヴェルと呼ばれた女性はぼくに向かって右手の親指を突き出した。
「ヴェルよ。よろしく」
ぼくは反射的に右手の親指を上げ、彼女の親指に当てた。古典的な北半球の挨拶だ。武器を持っていないことの証明に右手の親指を見せあったことが由来らしい。
そうしながらも、心の中は挨拶どころじゃなかった。
「も、木星って、どういうことですか?」
「驚いたかね。なにぶん機密事項なのでね。了承するなら、君らは今日から正式に北米宇宙科学研究所の所員になるのだ。ああ、もう明かしてもいいかな。私は所長のパンマだ」
ヴェルがもともとまっすぐだった背筋をさらに伸ばした。
「詳しい話をする前に……」パンマ所長は気取った仕草で指を上げた。「木星に行くのなんかまっぴらだ、自分は元の職業に戻りたいと思うなら、そう言ってほしい。今なら該当部分の記憶だけを消去して帰すこともできる」
ヴェルが笑い声を上げた。生真面目な顔のまま笑える人を初めて見た。
「ご冗談ですよね! もちろんあたしは行きます」
ぼくはというと、自分でも驚いたことに尻込みしていた。木星開発の噂は聞いたことがある。確か木星の大気の中を降る液体のダイヤモンドを採取するとかなんとか……。
木星開発員は地球市民の憧れ、ぼくたちの世代全員の夢の職業だ。ぼくだって生物保護パイロットより木星開発員の方がかっこいいと思ったこともある。でもそれは歪んだ動機によるものだ。ハーモに認められたい。それだけだ。実際に行けと言われたら、怖いとしか考えられなくなった。宇宙は怖い。地に足がつかないのは怖い。木星なんて地に足がつかない場所の代表じゃないか。それになにより、ハーモを置いて遠くへ行くことが怖かった。
ぼくはなんと言って断ろうか思案した。「あの……」
そのとき再びドアが空き、所長の視線が逸れた。
「ああ、来たね。ちょうど始めたところだ」
遅刻してきたらしい人物がぼくたちの後ろに擬椅子を展開して座った。ぼくは自分の弱さにショックを受けていた。せっかくのチャンスなのに情けない。ぼくは膝の間に頭を埋めた。ヴェルの視線を感じる。
パンマ所長はここまでの時間が全く存在しなかったように繰り返した。
「君らには木星に行ってもらう。ただし木星に行くのなんかまっぴらだというなら、該当部分の記憶だけを消去して帰すこともできる。君の場合は……」と後ろの席を指さす。「学生に戻ることもできる」
「木星? いいわ。行くわよ。地球は退屈になっちゃったから」
聞き覚えのある声と遠慮のない話し方。ぼくは顔を上げて振り向いた。ハーモだった。ふわふわの茶色い髪。大きな瞳。ハーモがここにいる! ぼくは思わず立ち上がった。
「ぼ、ぼくも行く! ハーモ、一緒に行くよ!」
「よろしい。メンバーが揃った」
パンマ所長が満足そうに頷いた。ヴェルが自分の顎に触れ、質問があるという意思を示した。
「木星のダイヤモンド採取にあたしの地磁気研究がどう関わるのか、理解できません」
ぼくとハーモも顎に触れた。衝撃波スタビライザー使いの漁師がどう木星に関わるのか、想像もつかない。それは心理学の専門家、ハーモだって同じだろう。
パンマ所長が手を振った。
「その噂は忘れてくれ。ダイヤモンドなど採取しない。目的は移住なのだ」
ヴェルが立ち上がった。「移住? 木星にですか?」
「その通り。木星に移住しなければ、人類は絶滅する」
「ぜ……」
全員が一瞬、言葉を失った。最も早く立ち直ったのはハーモだっら「絶滅って、どうして?」
「それは答えられない」パンマ所長がピシャリと言った。
そんな答えで納得なんかできないが、有無を言わせぬ口調だった。ぼくは仕方なく別の方向から攻めてみた。
「で、でも、木星に移住なんか不可能です」
「なぜ不可能だと思うのかね」
まさか質問で返されるとは思いもしなかった。
「だって、木星に立ったら沈んじゃうから……」
幼児のような答えだが事実だ。木星の表面は水素とヘリウムのガスで、その下は液体水素。立つなんてもちろん不可能に決まっている。しかも重力は地球の二倍以上で、気温は摂氏マイナス百四十度だ。さらにそのまま木星の中心まで沈んでいったら気温は上昇し、最終的には摂氏三万度、気圧は地球の四千四百八十万倍になる。とてもじゃないけど生きていられない。移住なんてあり得ないんだ。
「詳しくはこの段階では話せない。なにしろ現時点で最も重要な機密事項なのだ。君たちもそのうち全貌を知ることになるだろう。実績を上げていけばな」
「実績って?」ヴェルが勢い込んで訊いた。「何をすればいいんですか?」
「ヴェル君は、木星の地磁気からエネルギーを取り出す。それも永続的に」
「そんなこと……」不可能だと言いかけたことはぼくにも分かった。でもヴェルは言い直した。「やります」
パンマ所長はぼくに向き直った。
「イミル君は木星のサイクロンを制御するのだ」
「サイクロンを? 制御?」そんな話、聞いたこともなかった。「消すってことですか?」
パンマ所長は手を振った。「違う。維持するのだ。サイクロン中心の凪を」
移住のためにサイクロンの凪を維持する? 木星には陸地もないのにどんな意味があるんだ? ぼくは可能かどうかを想像することもできなかった。あまりに突拍子もない話だ。
ハーモがぼくに頷いた。「イミルならできるわ」パンマ所長に向き直る。「それで私は?」
「ハーモ君の役割は、それ自体が機密事項だ。ただし、重要な任務であることは約束する」
隠し事が多すぎる。第一、木星に立つことは絶対に不可能なのに移住なんて……。
ぼくの内心を高度な精神モニタリング装置が読み取ったのだろう。パンマ所長が宥めるように言った。
「信じたまえ。木星に立つことを君が気にする必要はない。イミル君はサイクロンの制御だけに集中すれば良いのだ」
木星に立つことは後にぼくにとって大問題になった。そうなると知っていたら間違いなくぼくは任務を辞退していただろう。
パンマが退出を命じ、ぼくたちが廊下に出た途端、ハーモがぼくに抱きついた。さんざん振り回してからようやく解放する。
「イミル、海に沈んで死ななくて正解だったじゃない!」
ああ、この悪戯っぽい話し方! まさかここでハーモに会えるなんて! 嬉しさのあまり泣きそうになった。でもぼくは頑張ってなんとか堪えた。ハーモに表情を読まれるわけにはいかない。
ヴェルが興味津々という顔で見ていた。ぼくが紹介すると、ハーモはヴェルをじっと観察した。いつもの癖だ。
「ヴェル、あなたどうしてそんなに気を張ってるの?」
「えっ?」ヴェルの表情が険しくなった。
「もしかして、親に関係があるのかな」ハーモの目が鋭くなる。「そう……自分は一人前だって親に認めさせたいのね、ヴェル。そんなに頑張らなくていいのよ」
ヴェルがハーモを睨んだ。「あんた。ハーモだっけ?」
ハーモの視線は揺るがない。「そうよ」
ハーモはこうやっていきなり初対面の相手を分析し、一刀両断にする。それでどれだけ相手の反感を買ったことか。ぼくは呼吸が止まった。これから一緒に木星を目指す仲間だ。いきなり喧嘩はまずい。
ヴェルが笑顔になった。
「あんた、すごい! なんで分かるのよ⁉︎ まさか脳波モニタリングにアクセスできるの?」
ぼくは止めていた息をやっと吐き出した。
「脳波モニタリングじゃないよ。ハーモは表情を読む名人なんだ」
ハーモがニヤリと笑った。「機械なんかに負けないわよ」
「へえ。おもしろいじゃない!」
名人じゃなくてもヴェルの表情からはハーモを気に入ったことが見てとれた。
「ねえハーモ。あなた学生でしょ。なんで呼ばれたの?」
「私が暴動を防いだから、だと思うわ」
「ぼ、暴動⁉︎」ぼくは思わず叫んだ。「ハーモ。け、怪我は?」
「あはは!もう、イミルったら!」ハーモが僕の腕を叩いた。「起こる前に防いだんだってば」
ヴェルが訊いた。「起こる前にって、どういうこと?」
「あのね、学生評議委員から相談されたのよ。食糧難で生徒の間に不満が溜まってるって。食料集めに貢献したいのに学生を辞めさせてくれないから」
「そうよね」ヴェルが頷いた。「勉強なんかしてる場合じゃない、市民の役に立ちたいって思うわよね」
ぼくはその意見には反対だった。
「法律で十二歳までの学生期間は不可侵領域だと決まってる。食糧難でも学生は学ぶことが義務なんだ。不満を持つのが間違ってるよ」
ハーモが微笑んだ。「やっぱりイミルは真面目よね。でもほんとに不満を持つ人は多かったの。暴動が起こりそうなくらい。そこで私の出番ってなったのよ」
ハーモは彼女が考案したプログラムについて説明してくれた。
例えばそこそこ不満が溜まっている女子生徒がいたとする。彼女は学生なんかより今すぐ社会に役立つ仕事をすべきだと考えている。そんな彼女の脳にメッセージが届く。
『おはようございます、デナリ校学生評議委員会です。〝マジカルデイマップ〟をお送りします。楽しい一日が待ってますよ!』
同時にこの日の教育ドームへの推奨ルートやドームでのお勧め着座位置が示される。女子生徒が試しにマップのルートに従って歩いてみると、しばらく顔を見なかった友人とばったり出会う。二人は思い出話をしながら教育ドームに向かう。ドームでお勧め着座位置に行くと、そこにはまた別の友人がいる。
実は推奨ルート上で会う友人は、個人の「不満レベル」に応じて決められている。不満度が高い学生に対して危機感を持っていない友人をマッチングさせるという仕組みだ。ハーモ曰く、同じ不満レベルの人間が集まらなければ、暴動に繋がる火種は案外簡単に鎮火してしまうという。
ヴェルが感心したように頷いた。「やるわね。すごいじゃない」
皮肉な展開になったものだ。ハーモは学生を辞めたい人たちの不満を逸らすプログラムを考案し、その結果、本人が学生を辞めることになった。もちろんぼくはその皮肉に感謝した。とはいえこれは特例中の特例に違いない。つまり地球自治政府はこのプロジェクトを公にするつもりはないんだ。ぼくは自分たちが秘密の存在になったことにゾッとした。
ぼくがそう指摘すると、ハーモは別に気にしないとばかりに笑顔でぼくに体当たりした。
「そんなことより友情の復活よ! 一緒に木星に行けるなんて最高じゃない?」
ぼくは作り笑顔で答えた。
「うん。友情の復活だね」
その言葉にぼくは悲しくなったが、本心は微塵も表には出さなかった。彼女を好きだと気付いてからの二年間で、ぼくは表情の制御に熟達していた。
凪の制御
「駄目だな、イミルくん。制御が甘い」
パンマ所長は軽蔑したように言い捨てると部屋を出て行った。ぼくがイメージプログラムしたサイクロン制御シミュレーションを、ほんの一目見ただけで。ナノサイズの衝撃波スタビライザーによるシミュレーションは失敗ばかりだが、それにしてもパンマ所長の口調は嫌味っぽい。しかも毎日全く同じ口調、全く同じ内容だ。
北米宇宙科学研究所は合同官舎ドームの地下に間借りしていた。宇宙科学研究所っていうくらいだからもっと宇宙っぽい施設なのかと思っていたのに、これじゃあ夜の星空すら見えない。しかもドーームから一歩も出ることを許されていなかった。結構なストレス要因だ。機密を守るためとはいえ、想像していたのと違いすぎる。
ぼくとハーモたちは別々の研究室に毎日通い、各人に与えられた課題に取り組んでいた。ぼくはサイクロン制御のイメージプログラミングだ。衝撃波スタビライザーを操り、ナクワクト・ラピッズの激流を消した要領で木星のサイクロンを操る。ぼくの技術は日に日に向上した。なのに毎回、鼻から抜けるような嫌味な声で「制御が甘い」と言われて一日が終わる。
そんなことを続けてもう四十日。ぼくは自分の能力不足を痛感していた。
夕飯時になると、ようやくハーモやヴェルと過ごせる。ぼくたちは初日から、可能な限りぼくの部屋に集まって一緒に夕飯を作っていた。これはパンマからも推奨されていたことだ。木星移住を実現する仲間として互いをよく知れというんだ。一方で外部に情報を漏らしたら即刻クビだと脅されてもいた。しかもただ辞めさせられるだけじゃない。パンマ所長はこう言ったんだ。
「これは肝に銘じてほしい。君たちがこのドームの敷地から出ると自動的に脳から記憶が消される。能力不足で脱落する場合は、当該の記憶のみを消去する。ルール違反で退場の場合は全ての記憶を消す。脳波モニタリングの脳波解析技術を逆転させるアムネジア・ターンで、それくらいは簡単にできるのだよ」
もちろん機密を漏らすつもりなどなかったが、記憶を消されるという恐怖はかなりのものだった。
「なるほど。イミルはいつもと同じ、無意味な一日だったわけね」
ぼくの部屋の扉を開けて顔を見るなり、ハーモは言い当てた。
そりゃあ実際に無意味な一日だったわけだが、ハーモにはいいところを見せたかった。
「そんなことない。ずいぶん進展してるよ」
薄っぺらい嘘だ。脳波モニタリングにもしっかり〝低レベルな自己顕示欲〟と記録されたことだろう。
先に来て料理を始めていたヴェルに手を振り、ハーモはいろんな調味料を引っ張り出してはラベルを確認し始めた。彼女は相変わらず料理にアレンジを加えようとするので、初日にヴェルから味付け担当はクビだと言い渡されていた。ヴェルはハーモが余計なことをしないか常に横目で監視している。
「それで、ヴェルはまだ身の上話をしないつもり? 仲良くなれって言われてるのに」
ヴェルはちらりとハーモを見た。「あたしの人生なんて、聞いてもつまらないってば。二人より二歳年上。研究者になって、磁場の研究の業績を認められてここにきただけ」
「すごいお金持ちだって部分を聞きたいんだけどなあ」
ぼくはアンノウン芋をカッティングボードに乗せ、切り方を入力した。ヴェルが金持ちだと知ったのは、彼女が一言「双子の兄がいる」と言ったからだ。出産制限によって双子などあり得ない。地球自治政府に莫大な寄付をしない限り。
「いいから話してよ。いくら寄付したんだい?」
「それはあたしの身の上話とは違う。親の話をする気はないわ」
「そう? ぼくならいくらでも親の話をしてあげるけどな」
「イミル、あんたいい加減に親離れしなさいよ。赤ん坊かっての」ヴェルがぼくを肘で突いた。
「ああそっか!」ぼくはやっと気づいた。「どっかで聞いたことがあると思ったら、ヴェルの喋り方は脳波ティーチャーにそっくりなんだ」
「やめてよイミル、このド阿呆!」
ヴェルは話し方だけでなく、態度も教師みたいだった。知らないと言えば丁寧に教えてくれる。初日にはぼくは磁場のことをほとんど知らなかった。地球には磁場があるからコンパスが使えるということくらいだ。そこで素直にさっぱり分からないと告白すると、嬉々として教えてくれた。
「地球に磁場があるから何がいいかっていうと、リョコウバトが方角を知ることができるだけじゃないのよ。簡単にいうと磁場がなきゃ、地球には空気がなくなってたはずなの」
「本当に? だってただの磁力なんだよね」
ヴェルが笑った。「馬鹿にしたもんじゃないわよ」
彼女は火星を例に説明してくれた。
そもそも火星では地殻変動が十億年前に終っている。だから火星には地球のような磁場が発生しない。惑星に磁場がないとどうなるか。太陽風がまともに地表に到達することになる。四十億年前の火星には豊富な大気があったらしい。でも磁場がなくなって太陽風が火星表面に届くようになると、大気は吹き飛ばされた。太陽風といってもいわゆる風ではなく磁気の流れだが、磁気が地表に降り注ぐとイオンの玉突き現象で大気の成分が宇宙に弾き飛ばされてしまう。その結果、入植前の火星に大気はほとんどなかった。
影響はそれだけではない。エックス線やガンマ線といった有害な光線も、磁場がなければ地表を直撃する。
火星は地球からの距離が近く、気温は低め安定ながら、この〝磁場がない〟という大問題を解決しない限り、移住は絶対に実現しないと言われていた。ところが火星移住を決意した当時の人類の情熱は凄まじかった。地球に人類が残っていては絶滅は免れない。その予言を回避するために科学者たちは研究開始からわずか五年で火星の磁場問題を解決してしまった。その方法は実にシンプルだ。火星のラグランジュ点に直径四十センチほどの磁気シールド発生装置を設置する。それがあれば、ほんのわずかの磁束密度で地球の磁場と同じ効果を生み出すことができたらしい。太陽風を遮る磁気シールドが完成すると、火星表面の気温は上昇した。凍っていた二酸化炭素が気化し、新たに大気が生成された。磁気シールドは大気を安定させ、同時に電子機器や人体を有害な光線から守ることになった。
つまり磁気シールドは火星開発の要……だった。
ヴェルの声が小さくなった。要を失い、火星市民は絶滅したんだ。
「私たちのバックアップチームは、三つあるらしいわね」ハーモが話を変えた。
別チームの存在には気付いていた。ぼくたちが失敗したら別のチームが木星に行くことになるんだろう。
「そもそもぼくたちがトップチームじゃないのかもね」
「この馬鹿!」ヴェルがぼくを怒鳴りつけた。「そんな弱気でどうするのよ!」
「失礼しました、ヴェル先生!」
謝りはしたが、自分たちがトップじゃない可能性は高い。ぼくは心配だった。チームは仮のもので、誰かが脱落したら入れ替えだってあるんじゃないか? ぼくかハーモか、一人だけが置き去りになるかも。
「絶対に勝つわよ」ヴェルが宣言した。「木星に最初に立つのはあたしたちよ」
その表現に思わず笑ってしまった。「あはは。誰も木星に立ったりしないよ。立ったら沈んじゃうんだから」
ヴェルがぼくを睨んだ。「馬鹿ね。知ってるわよそんなこと。あたしは負けない。イミルも負けるんじゃないわよ」
「了解しました! ヴェル先生!」
「ハーモも……あなたの役割はまだ何も言えないの?」
ハーモが頷いた。
四十日間も一緒にいて任務について話をしているのに、ハーモの役割は一向に要領を得なかった。何を聞いても、機密だから話せないと言う。それにときおり彼女らしくない沈んだ表情を見せることもあった。
ぼくは心配だった。木星移住に彼女の心理学が関わるとは思えない。ひょっとしてぼくたちの任務はあまりにも過酷だから彼女の心理的ケアが欠かせないだけとか? 実際、ヴェルは常にパンクしそうなほど気を張っている。ハーモやぼくと息抜きをしていなければ、ここまでも保たなかったかもしれない。
そんなことを考えながらも、ぼくの目はいつもの癖でハーモの動きを追っていた。謎の香辛料を握った手がそっと鍋の方に伸びている。
「ハーモ、動くな!」
ぼくが叫ぶと同時に、ヴェルがハーモの腕を掴んだ。
「アレンジは禁止って言ってるでしょ!」
「だって、冒険しなきゃつまんないじゃない」
ヴェルが謎の香辛料を取り上げた。
「こんなの冒険じゃなくて自殺行為って言うのよ。アンノウン芋は美味しいんだから素材の味を楽しみなさい」
「うええ!」ぼくは思わず唸った。「アンノウン芋は不味いよ」
アンノウン芋は火星産の芋だ。ちゃんとした名産地があるが誰も覚えられないほどややこしい名前なので、皆「よく知らない芋」という意味で〝アンノウン芋〟と呼ぶ。その芋ももはや収穫されることはない。
「いくら不味くたってハーモの味付けよりはマシでしょ」
ヴェルの言葉にぼくは頷いた。「確かにそうだ。ハーモ、素材の味を楽しめよ」
「うわ、裏切り者!」ハーモが笑いながらぼくを叩いた。
食事が終わると、ヴェルは皿を洗って自室に帰っていった。これから就寝推奨時刻まで研究に没頭するのだろう。ハーモは立ち上がったものの帰ろうとはせずに、脳波スイッチで壁スクリーンに景色を呼び出し始めた。
氷河……フィヨルド……流氷……世界中の集合住宅の窓から見える絶景で、地下であることを忘れるための映像集だ。ところがハーモはせっかくの景色を見ていなかった。
楓の小道を ひとり歩けば
舞い散る紅に 包まれる
ハーモは小声で歌っていた。
楓の小道で ひとり踊れば
心の痛みは 消えていく
ハーモは右手を頭の右側に当てた。この歌と仕草はミーグ開始の合図だ。ぼくも右側頭部を触ってミーグができていると返した。
さあ行こう 楓の小道に
さあ行こう 思い出の旅路に
ぼくも一緒に歌い、思考の小部屋を強化する。ハーモが歌を止め、ぼくも小部屋を維持したまま黙った。
ハーモは壁スクリーンの景色を次々に変えていった。氷壁。オーロラ。氷瀑。脳波スイッチで景色を変えながら、右手の指で合図をしている。指を振る。針葉樹林。指を振る。樹氷……指を振る。景色は変わらない。指を振る。やはり変わらない。指を振る。
ハーモが小さく笑ってぼくを見た。右手を顔の右側に立てて、左手を振る。景色は変わらない。右手を顔の左側に移動させた。左手の指を振る。景色が雪原に変わった。
ハーモは思考の小部屋をどの程度強化すれば探知されないかぼくに示している。なるほど、ぼくはずっと不安だったが、こうすれば必要な壁の厚さを確かめられたんだ。ぼくはハーモを見ながら自分を指差した。
脳波スイッチで部屋の照明を消す。点けて、また消す。オープンな領域で命じているから、もちろんぼくの脳波は部屋に認識された。次に思考の小部屋でやってみる。反応しない。ぼくはハーモに頷いた。やはり小部屋の壁は十分だったようだ。思考の小部屋の壁を薄くしてみた。古臭い方法だけど、液状炭素の壁を削っていく様子をイメージする。厚みが八十パーセントになったところで再び脳波スイッチを使う。照明は消えなかった。まだ厚い。さらに薄くしていくと、六十パーセントで反応した。ぼくはハーモを見て微笑むと、液状炭素を塗り重ねて壁の厚みを元に戻した。
どうやら高度な脳波モニタリングも十分に欺けていたらしい。
ハーモが照明を消した。壁スクリーンの映像をカヒルトナ氷河に合わせる。カメラの設定高度を上げていって停止させる。それはちょうど百七十五階から見下ろしたような角度で、ぼくはまるであの部屋に帰ったように感じた。ハーモはぼくに触れられるほど近付くと、左手の空間スタイラスで胸の前の空中に小さく文字を書いた。
『イミル、小部屋だけで読んで』
ぼくも右手の空間スタイラスで空中に文字を書いた。
『いいよ』
ハーモがさらに小さな文字で書いた。
『イミルの思考の小部屋は見つかっていないのね』
ミーグの存在を知られたらまずいことになる。ハーモはそれを心配しているのか。ぼくはハーモに頷いた。
『しっかり隠してる。どうして訊くの?』
次にハーモが書いた言葉に、ぼくの心臓が止まりそうになった。
『恋愛感情がミッションの妨げになる。どちらかがチームから外されるかも』
ミーグ状態を解きそうになり、慌てて『楓の小道』を歌う。必死に壁を補強していると、ハーモが笑った。
「歌がいつもよりもっとヘタになってるわよ」
ぼくは落ち着いた様子を装って空中に書いた。
『恋愛感情って、誰が誰に?』
『イミルが私に』ハーモは躊躇なく書いた。
ぼくはなんとか誤魔化して乗り切ろうと思ったが、結局は知りたい気持ちに負けた。
『いつからそう思ってた?』
『四年前』
なんてこった! 好きだと意識し始めた直後じゃないか。ぼくの感情はそんなに漏れ出しているのか?
『君は』思わず書き出してから慌てて文字を消去した。何をしている。ハーモの気持ちを知りたいのか。ぼくのことを親友とは違うものだと思っているか? ハーモにはぼくを好きだという気持ちが少しでもあるか? ぼくなんかにそんな気持ち、あるはずない。それに、もし……もし万が一、ぼくを好きだとしても、今さら知ってどうなる。ハーモが書いた通り、恋愛感情はミッションの妨げにしかならない。ハーモの気持ちなど知らない方がいい。真実が怖いだけだと感じつつも、ぼくは書き直した。
『間違いだよ。ぼくは何とも思ってない。一番の親友だよ』
ハーモが小声で言った。「そう。良かった」
良かった? その言葉の意味を知りたい! 親友って書いたことか? じゃなくて何とも思ってないって方か? それなら今すぐ否定したい。ああだけど、それはできない!
『イミルは、本当に木星に行きたい?』
いきなりの質問に面食らった。しばらくそのことについて考えてはいなかった。最初はハーモが行きたそうだったから行くと決めた。あとはいつもの自分だ。やらなきゃならないなら、疑問なんか持たずにただ取り組むだけだ。
でも考えてみたらそれだけじゃなかった。宇宙は怖い。固い地面がない木星も怖い。だけど自分がどこまでできるのか試してみたい気持ちも芽生えていた。
気付くとハーモがぼくの表情をじっと見ている。
『行きたいのね』
ぼくは頷いた。ハーモがしばらく躊躇ってからまた書いた。
『今なら脱落することもできる。どちらかが任務を外されるより、仕事なんか捨てて二人で地球に残ってもいい』
それはとても素晴らしい未来に思えた。ハーモにとっては唯一の親友と一緒にいたいだけかもしれない。それでも文句はない……だけど……ハーモがぼくの顔を見ていることに気づき、慌てて表情をコントロールした。
『ハーモは行きたくない?』
彼女は首を振ったが、空中にはこう書いた。
『私の任務は、つらすぎる』
今にも泣きそうな表情を見て、思わず息が詰まった。
『だったら』ぼくが書き始めると、ハーモはぼくの手をそっと握って止めた。
『イミルが行きたいなら私も行く。友情は永遠だから、私は近くにいる』
そう、友情だ。気持ちを隠せ。一緒にいたいなら、彼女を無法者にしたくないなら、彼女の有望な未来を奪いたくないなら、友情を貫け。ハーモがぼくの顔を覗き込んで笑った。
「ねえ、すっごく顔に出てるんだけど。本当に大丈夫?」
「な、何がさ。ぜんぜん普通だよ。ハーモ」
ぼくは決意した。もっと本腰を入れて気持ちを隠さなければならない。表情も、心の中も。もし脳波モニタリングに読み取られたりしたら、ハーモと一緒にいることすらできなくなってしまう。
その夜、ベッドに横になって考えた。ぼくの気持ちに四年前から気づいていたとは。
ぼくはハーモに一目惚れしたわけじゃない。笑い声と悪戯っぽい瞳には最初から惹かれていたけど、火星年の満七歳は地球年の十三歳。まだ子どもだ。親友である彼女をどうやら好きらしいと気付いたのは一年半以上経ってからだった。
きっかけはまたも三六クラブだ。何があったかは忘れたけど、ぼくとハーモは普段は避けている三六クラブの話をしていた。ぼくが「自分のことを嫌ってる人を好きになるのは難しいよ」と言うと、ハーモは空中にメモを呼び出した。それは彼女の三六クラブメンバーの〝良いところリスト〟だった。
「私はこうやってみんなを好きになったのよ。こっちは最後まで嫌われてたけど」
そのときからぼくはハーモを好きになったんだと思う。人を愛そうと努力するその姿に。ふわっと浮かび上がった気持ちをそのとき素直に言っておけば良かった。「ぼくは三六クラブの奴らとは違う。君が好きだよ」と。
だけどぼくは自分の気持ちに怖気付いて、代わりにこう言った。
「ぼくはハーモを嫌ったりしない。友情は永遠だよ」
「そう思う?」ハーモがぼくの目を覗き込んだ。「友情は永遠?」
ぼくは何度も頷き、話を逸らすために訊いた。
「ねえ、ぼくの良いところリストもある?」
ハーモはアイスベルの声で笑った。
「イミルの悪いところリストならあるわよ。見たい?」
眠れないまま天井を見つめた。外が明るくなってきた頃、眠るのを諦めた。部屋の中をうろうろする。ハーモの辛そうな顔が浮かぶ。任務を投げ出すべきだろうか。そんなことを考えていると、いきなり扉が開いた。ぼくは驚いて駆け寄った。そこにハーモが立っていたからだ。
「ハーモ、どうしたの?」
ハーモは右手で側頭部を触った。ミーグの合図だ。ぼくは空間スタイラスを起動して書いた。
『ぼくはずっとミーグを続けてる。このミッションが終わるまで、もう解くことはない』
ハーモが頷き、空間スタイラスを起動した。
『景色を見に行かない?』
驚いてさっそくミーグを解きそうになってしまった。
『無理だ。ドームを出たら記憶を消される』
『消されるのは敷地から出た時。出るんじゃなくてドームの上に行くのよ』
ハーモに手を引かれてドームの屋上に向かった。通路には誰もいなかったが、屋上のハッチを開けるときには心臓が早鐘を打った。ここを出た瞬間、ぼくの脳は空っぽになってしまうかもしれない。
『ミーグをもう一段強化して』
ハーモは空中に書くと、ぼくが止める間もなく、ハッチを開けて外に出ていった。ぼくは慌てて後を追った。
丘を模した合同官舎ドームの屋上は万年雪に覆われていた。眺めは抜群で、カヒルトナ氷河の左右に貼り付いたようなデナリシティと周囲の山々が見渡せた。遠くには学生向け集合住宅も見える。
ハーモはぼくの手を引くと、疑岩の先端に迫り出した雪庇まで躊躇なく歩いていった。ぼくは脆い雪がハーモごと落下しないか心配で、手をしっかり握り続けた。
ハーモが急に無表情になった。
「あなた、誰?」
背筋が凍りついた。「ハ、ハーモ……まさか……そんな!」
「嘘よ。ミーグを忘れないで」
ぼくを軽く叩いて、ハーモは雪庇から街を見下ろした。
「思った通りね。誰もいないわ」
ぼくはハーモの隣に立った。未明の街にはさすがに人の姿はなかった。動くものといえば、低緯度地域に向かうイルゴン社のスカイタンカーだけだ。地球最大の環境保護企業はこの時間でも活動を止めない。スカンジナビアで培養した動物を野生に返しにいくのだろうか。生物保護パイロットになっていたら、ぼくはあのスカイタンカーを操縦していたかもしれない。
ぼくは彼女の手を少し引いた。
「ハーモ、こんなところにいたら危ない……」
ハーモはぼくの怯えた声を遮った。「昔のこの辺りは、こんな風に誰もいない土地だったのよね」
ぼくは頷いた。
火星暦換算で千七百年ほど昔、人類はここや南極のような極地にはほとんど住んでいなかった。逆に極地を除くほぼ地球全土に人が溢れるほどいたらしい。人口は今では信じられないことに百億人以上。教育ドームで習った歴史によると、当時の環境破壊はあまりに酷いものだったそうだ。過剰な経済活動が温暖化を招き、環境の変化で地球上の生物種の半数近くが静かに絶滅したという。
それでも人類は自分たちの過ちに気づかなかったが、ある日、でかい鉄槌が下された。南極氷床の崩壊だ。温暖化によって溶けて滑り落ちた厚さ千メートルの氷床が地球規模の津波を引き起こした。その高さは五百メートル。津波の後にも海面は七十メートルも上昇し、平地のほとんどは洗い流されて水没した。海に沈んだ居住地は人口比で九割にも及び、人口はほぼ半減した。
当時最新型の量子コンピュータが今後の地球環境について予測した。史上最も有名なシミュレーションとも言われる〝絶滅予言〟だ。
『地球の生物は百年以内にさらに九十七%の種が絶滅。そこには人類も含まれる。回避するには地球上の人類を九十%以上減らすしかない』
少し前まで、地球市民の半数近くが〝絶滅予言〟は史上最大の詐欺だったんじゃないかと疑っていた。火星が崩壊して予言が妙な形で的中するまでは、とても信じ難いと思っていたんだ。だけど南極崩壊当時の人々はそうじゃなかった。未曾有の大災害の直後だけに、地球上のほぼ全員がこの予言を素直に信じた。環境保護主義者が激増し、「地球を守るため、人類はこの星を去る」というスローガンが広まった。最終的に賛同者が成人の八割に達したところで、当時の地球政府は宣言した。
「人類は早急に地球を捨て、他の惑星に移住すべし。不服な者は、南極または北極圏に移住し、地球環境の保護を第一義とすべし」
こうして火星移住計画がスタートした。
当初は不可能と思われた計画だったが、人類の情熱は凄まじかった。膨大な予算を注ぎ込んで研究が行われた。磁気シールド発生装置もその一つだ。
それ以上の問題は、五十億もの人間を火星に送ることだった。当時、宇宙に出る手段はロケットと呼ばれる燃焼装置しかなかった。だから環境を破壊せずに宇宙に出ることは不可能だったんだ。この難問を人々は自己犠牲によって解決した。脳内の精神と記憶をデータ化してメモリに移す〝無機化〟を実行したんだ。完璧にコピーを行い、コンピュータの中で生きられることが確実になった時点で五十億人が身体を捨て、ただの情報となった。今では失われたこの技術を使い、人類はたった一つの小型ロケットで宇宙へと旅立った。余った身体は全て有機肥料として適切な方法で自然に返された。ただの抜け殻とはいえ、地球に残って人体を肥料に変える仕事をした我が先祖たちはさぞ気分が悪かっただろう。
当時、地球から火星までの飛行には三年もかけられたという。その間、火星のラグランジュ点に設置された磁気シールド発生装置はヴェルに教えてもらった通り、絶大な効果を発揮していた。
火星暦の紀元前十五年、つまり今から千六百三十八年前に、データのみとなった人類は火星に到達した。だが人類はデータのまま火星上空に止まった。代わりに人類は、人工知能搭載型クローンを上陸させた。火星の過酷な環境でも生きられるよう遺伝子操作されたクローン人間だ。彼らがタルシス高原を開拓していった。十五年後、小さな熱イオンドームが展開。人々は培養した人工知能非搭載型のクローン体に精神と記憶のデータを移す〝再有機化〟を経て、ついに火星移住を開始した。千六百二十三年前、最初の人類が火星に降り立った日が、火星暦元年とされている。
その後三年で五十億人全員が再有機化し、火星入植が完了した。
一方、無機化と火星移住を拒絶したぼくたち地球市民の先祖の人数は、当時もおよそ二億人だったと伝えられている。彼らは地球に残る代わりに、遺伝改良して極低温の環境のみに適応した身体となり、北極圏と南極だけに居住するという条件を飲まされた。これ以降、局地以外は野生生物の領域となり、同時に地球市民には厳しい環境保護義務が課せられることになった。
ハーモは街を指差した。「地球市民が木星に移住したら、こんなふうに人はいなくなるのかもね」
いったいどうやったらそんなことができるのか、想像もできなかった。また無機化を行うのか? だったら木星なんかに行く意味はないはずだ。サイクロンの制御も。
ぼくが握ったままでいたハーモの手に力がこもった。
「ね、イミル……もし……私が……」
『ハーモ君とイミル君、君たちが屋上にいることは分かっている』
突然の脳波通信にぼくは飛び上がった。バランスを崩して雪庇から落ちそうになる。
『返事をしたまえ!』パンマ所長の声だ。
ミーグが弱すぎたのか。ぼくは慎重に小部屋の壁を厚くした。
「はい! イミルです。屋上にいます!」
「ハーモもいます!」
『分かっていると言っただろう。規則違反だと認識しているかね?』
ハーモが答えた。「屋上は厳密にはドームの外じゃなくて上よ!」
『屋上は厳密にドームの外だ!』パンマ所長が怒鳴った。脳波通信で怒鳴れるとはすごい技術だ。『直ちに自室に戻りたまえ!』
記憶を消される! ぼくは青くなった。
ところがハーモは「了解!」と嬉しそうに答えると、もう一度ぼくの手を握った。
「賭けてみたくなったの。どうしてももう一度イミルと一緒にこの街を見たかったよ」
ハーモが最近あまり見せなかった悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
その顔を見た途端、今こそ告白してしまえと心が喚いた。
好きだと言ってしまうんだ。ぼくたちが恋人同士になっても、ミーグなら隠し通せるかもしれない。
いつも何かを企んでるような悪戯っぽい君の瞳が好きだ。壁を見つけては壊そうとする君の強さが好きだ。人を愛そうと努力する君の優しさが好きだ。君の心の底からの笑い声が好きだ。ぼくは面白みのない男かもしれないけど、なんとかして君をもっと笑わせたい。君と過ごした毎日がぼくの宝物だ。二人でもっとたくさんの思い出を作っていきたい。頭の中で言葉は果てしなく生まれた。
でもどうしても彼女に伝える勇気だけが持てなかった。無謀な告白で全てをぶち壊すつもりか? その声が今回も勝った。
「記憶を消されなきゃ、またいつでも一緒に見られるよ。友情は永遠なんだからさ」
翌日も、その翌日もぼくはサイクロンの制御シミュレーションに失敗した。
そもそも木星のサイクロンを消さずに維持しろというのが無理難題すぎるんだ。木星はあんなに大きいのにわずか九時間五十五分という周期で自転している。自転の遠心力で赤道方向に七%も膨らんでしまうほど強烈な回転だ。そんな自転によって木星では風速四百メートルというジェット気流が発生している。これは地球最大の竜巻の三倍の風速で、木星サイクロンの最大風速の二倍だ。つまりジェット気流の方がサイクロンより強いという異常な状態になる。当然、ジェット気流はサイクロンを翻弄し、大きく歪める。衝撃波スタビライザー程度で安定化なんかできるわけがないんだ。
ぼくは支給された白くてふわふわの部屋着を着て、ベッドモードにした技椅子に横になっていた。白は〝忠誠〟を表す色だ。いったい何に忠誠を誓わされているのか理解できなかったが、この部屋着はとにかく着心地だけは抜群だった。技椅子で空中に浮いているとすぐに眠くなる。
地球の場合、ハリケーンやサイクロン、台風のような熱帯低気圧は強い日差しが生み出す。太陽の熱で海水が蒸発することで上昇気流が発生し、海面付近は気圧が低くなる。すると周囲から風が吹き込んで、渦ができる。それが成長したのが熱帯低気圧だ。熱帯低気圧はもしいつまでも熱帯に止まっていれば消滅しないのに、地球の自転によって高緯度に引き寄せられてしまう。緯度が高くなれば日差しが弱まって海からの蒸発が減るから、熱帯低気圧は上昇気流のエネルギーを失う。で、そのうちに消滅する。つまりもし地球でサイクロンを維持するのなら、高緯度に移動させないことが必要だ。
木星では話が全く違う。あの惑星では海水ではなく、水蒸気とアンモニア蒸気が大量に上昇することで低気圧が発生している。でももっと重要な違いは、太陽の影響だ。地球の水蒸気は太陽の熱で発生する。木星の場合は距離が遠いから太陽熱はほとんど届かない。その代わりに上昇気流は木星内部の熱で発生する。赤道付近が暑く、北極や南極は寒いという地球の常識は全く通用しない。
いつの間にかうとうとしたらしい。半ば覚醒した状態で夢を見た。ぼくは木星の遥か上空に浮かんでいた。その光景には見覚えがある。木星の赤道上空を周回する調査衛星からの映像だ。太陽系で発見されている十八の惑星・準惑星には全て調査衛星が送られ、いつでも映像を見ることができる。夢の中なのに「なんでこんな夢を見るんだろう」とぼんやり思った。ハーモと一緒に木星に行けると思ったのに延々と地下で研究をさせられて鬱憤が溜まっているのかも。
木星表面のサイクロンを見つめた。無数に存在する渦。大きなものは地球がすっぽり入るサイズだ。あんなものは制御のしようがない。ジェット気流にさらされ、常に不規則に形を変えているのに。形を変えて……強烈な自転で……見るべきなのはそこじゃない……イミル、気付いているはず……正しい場所に……ぼくはいきなり跳ね起きた。全身を覆う間抜けな部屋着のまま、靴も履かずに部屋を飛び出す。廊下を駆け抜け、研究室のDNAロックを解除した。
脳波スイッチで研究室の壁モニターを起動し、夢に見たものと同じ木星の映像を呼び出す。
木星は地軸の傾きがほぼゼロだ。低緯度地域ははっきり見えるが、北極と南極は常に太陽光線がごく薄くしか当たらず、映像では暗く写っている。その代わり極地には巨大なオーロラが輝いていた。
ぼくは映像全体の明度を上げていった。次に邪魔なオーロラを消去する。すると……はっきりと見えた。木星の北極と南極に渦がある。真横からの映像で判別しにくいが、間違いなくサイクロンだ。地球の常識に囚われて見落としていたが、木星では極地にもサイクロンが存在するんだ。それを見落としていたなんて。しかも極地は自転の影響を受けにくく、ジェット気流に翻弄されない。
もしかしたら、サイクロンは消滅しにくいんじゃないか?
人工衛星による木星の観測は火星暦換算で約二千百年前に始まった。ぼくは映像を記録開始の時点まで戻した。やはり極地のサイクロンは存在した。南極を拡大し、映像を早送りする。中心にサイクロンがある。その中心に、求める凪もあった……ある……ある……まだある……消えた。また現れた……ある……ある……消えた。
観察を続けた。一つのサイクロンが現れてから消えるまで、なんと平均三百年だ。形を変えないこいつが心の片隅に引っかかっていたのかもしれない。
ぼくは衝撃波スタビライザーのナノマシンを使った簡易シミュレーションを開始した。
三時間後、結果に満足したぼくは、喜び勇んでパンマ所長の脳に直接メッセージを送った。
「木星南極のサイクロンを制御。中心の凪を二千年も維持できました」
メッセージといっても、実際には頭の中で呼びかけるだけだ。高度な脳波モニタリングとやらが勝手に読み取ってパンマ所長に転送してくれる。ただしあまりにレベルの低い内容で呼びかけると所長は不機嫌になる。一週間ほど前にはヴェルが何か無意味な報告をしたらしく、二日連続で発芽しかけのアンノウン芋を届けられるという仕打ちを受けている。発芽したアンノウイン芋はさらにまずい。巻き込まれたぼくとハーモもいい迷惑だった。
芋の味を思い出して今さらながら不安になってきた。極地のサイクロンなんて求められていなかったらどうしよう。
パンマ所長からの脳波メッセージが届いた。
『二千年じゃ甘い。最低でも二万年は安定させるのだ』
ぼくは自分の脳を疑った。「二……万年ですか?」
『聞こえただろう? 二万年だ。もっと多くても一向に構わないがね。あとたったの十倍だ。かなり近づいているのじゃないかね?』
通信が切れた。
近づいてなんかいない! この十倍の前には大きな壁が立ち塞がっていた。ナノマシンの耐用年数は最高で二千年。だからシミュレーション上のサイクロンは二千年で崩壊した。どう考えてもマシンはその十倍も保たない。次々に故障するナノマシンを補充できれば解決できるかもしれないが、機械を使い続けることに対する疑念がどうしても消えなかった。火星の磁気シールド発生装置はきっと何重もの安全策を施していたはずだ。でもどういうわけか故障し、まさに致命的な事態を招いた。機械はいつかは壊れる。最悪のタイミングで。衝撃波スタビライザーが一斉に壊れたら、サイクロンも終わり、凪は失われる。
二万年という期間を機械に任せてはだめだ。
衝撃波スタビライザーの専門家なのに、機械に頼らないだって? ばかばかしくなってぼくは目を閉じた。
何かアイデアが浮かびそうなのに、うまく浮上してこない。答えに手が届かないことがもどかしい。もう眠ってしまおうと思ったが、彷徨い始めた思考はゆっくりと回り続けた。
機械に頼らないなら、自然の力だけで安定させるのか? そんなことができたらすばらしいが……安定……なぜかチナ爺さんを助けたときの漁船の記憶が蘇った。荒れた海域を三隻で囲むことで、激流が静止した……囲んで……あれは機械だったけど……もしも……
突然、奇妙なアイデアが浮かび、ぼくは再びシミュレーションを呼び出した。
早く、早く! アイデアが消えてしまわないうちに! ぼくは猛烈な勢いでイメージプログラミングを始めた。
一時間後に完成した最初のシミュレーションは失敗した。立体映像の木星南極サイクロンは、すぐに潰れて消えた。修正を加えた二度目と三度目も結果は変わらなかった。さらに修正を加える。午前六時。さすがにもう限界だ。四度目のシミュレーションをスタートさせると、ぼくは擬椅子に深く座って目を閉じた。
数分後、ぼくは擬椅子のアラートに文字通り跳ね飛ばされた。しょぼしょぼする目を擦って見ると、空中に文字が浮かんでいた。
『シミュレーション成功』
擬椅子から転がり落ちて映像に這い寄った。成功だけじゃ意味がない。持続期間だ。もう一度目を擦ってデータを確認する。
驚くべき結果に眠気が一気に吹き飛んだ。
わずか二分後、パンマ所長がいきなりやってきた。呼び出さなくても高度な脳波モニタリングでぼくの成功を知ったに違いない。
彼の姿を見るなり、ぼくは叫んだ。
「やりました、パンマ所長! やりましたよ!」
部屋の真ん中に浮かんだ木星の立体映像を指差した。
「サイクロンの寿命をどうやって伸ばしたか、今から見せます!」
ぼくがシミュレーションを進めると、南極サイクロンの周囲に五つの高性能爆弾が投下された。
「爆弾です!」言わずもがなのことをぼくは言った。「上昇気流!
爆弾で南極点のサイクロンの周りに五つの上昇気流を発生させるんです!」
しばらくするとサイクロンの周囲に五つの小さな渦が出現した。渦は次第に大きくなり、五つの小型サイクロンになった。中心にあるサイクロンの雲を巻き込みながらさらに成長する。ついに隣り合う五つがぴったりとくっつくまでになると、そこで安定した。
「ほら! 安定しました! 安定するまでに百時間以上、かなり微妙な気流のコントロールが必要です。それにはこれまで通り、大量のナノマシン型衝撃波スタビライザーを使います。もし成功して、五連のサイクロンが安定したら……」
ぼくはシミュレーションをコントロールし、時間の流れを早めた。
「百年……千年……いや、じれったいな。一気に飛ばしますよ。一万年……ほら、二万年を超えました! もっと加速して、十万年……百万年。ね、安定してますよね! 二百万年……三百万年!」渦が少し揺らいだ。「三、百、万年です! ここで少し安定が崩れますが、シミュレーション能力の限界が来たからです。きっと三百万年よりもっと維持できる。もしかしたら一千万年かそれ以上かも!」
パンマ所長は表情ひとつ変えず、サイクロンを見つめている。一気に捲し立てたぼくは興奮が急速に冷めるのを感じた。高性能爆弾で五連サイクロンを発生させるには、まだ未知数な部分が多すぎる。想定と夢想を混同するなと言われるかもしれない。
パンマ所長が唐突に口を開いた。
「君がこれについて誰かに話していないのは分かっている」
「はあ。思いついてからずっと、ここに籠ってましたから」
「それも知っている。しっかりしたまえ。脳波モニタリングだよ」
言われてみれば、説明なんかするまでもなかったんだ。
「いいだろう。イミル君、次の段階に進もうじゃないか」
一瞬、パンマ所長の言葉が理解できなかった。次の段階?
しばらくして重要な課題をクリアしたらしいことに気づいた。
すぐにハーモの顔が浮かんだ。ハーモ、やったよ! 彼女はきっとぼくを褒めてくれる。ぼくはミーグを強化して、思考の小部屋の中でだけ有頂天になった。