オールバックを辞めない
1
「オールバックを辞めろと言っているんだ。何度言ったら分かるんだ」
国語の教師であり、生徒指導の担当でもある、通称〔鬼の渡辺〕の怒鳴り声が廊下から聞こえてきた。渡辺は、坊主頭で口と顎に髭を生やした、昔の極道映画のサブで出てきそうな風貌だ。
見た目と見た目通り厳しい指導で、生徒達から恐れられ、嫌われている。
「うわ。アイツまた見つかったんじゃねか。見てみようぜ」
「おう。行こうぜ行こうぜ」
「あいつ、本当にに粋がってるよな。かっこいいと思ってんのか」
クラスの面々を階級別に分けるとすれば中の上。イケてる組に入りたいが入れない、冴えなさを教本通りにカバーしようとしているのが見え見えの男子三人組が、わざとらしく、目立つように声を上げて、教室の窓から廊下を覗き込む。
サッカー部と野球部のイケてる組がいない今こそ、自分達の存在をクラスの生徒達に誇示しておきたいのだろう。
「美波。またあの子じゃない。見てみようよ」
そんな三人組の必死のアピールには気付いていないであろう、読者モデルでをやっていてスタイル抜群のお洒落れ番長夏帆と、成績トップで親は実業家のお嬢様結衣が私に声を掛けてきた。興味はなかったが、私も教室の窓から廊下を覗いた。
二人は、クラスの女子のヒエラルキーのトップに位置する、いわゆる私のいつメンだ。
昼休みのお弁当の時間。放課後。トイレまでも、多くの時間を三人で過ごしている。
窓から廊下を覗くと渡辺が廊下の真ん中で、一人の男子生徒に向かって何やら説教をしていた。男子生徒は、三日前にこのクラスに転校してきた伊勢谷君だ。
「あの子。髪の毛下ろして、マッシュヘアとかにしたら、けっこうイケてると思うのにね〜」
「確かに。顔の作りは綺麗だもんね。でもあの性格、直さなきゃでしょ」
「そう?無口な男ってよくない?ミステリアスな感じが惹かれるのよ」
「無口な男は良いけど、あれはただの陰キャでしょ」
夏帆と結衣の会話に冴えない三人組が平静を装いながらも必死で耳を傾けているのが分かる。「メモでもとれば」と私はノートの切れ端でも渡してあげたい気分になった。
「ねえねえ。美波はどう思う。あの転校生のこと?」
夏帆が人懐っこい笑顔を私に向けてくる。結衣も私がどんな回答を出すのかとワクワクしながら見つめてくる。
この回答は重要だ。
どちらかに偏った答えを出してしまうと、正三角形のようにバランスの取れたこの関係が崩れ去ってしまう。勿論、二人はそんなこと意識してもいないだろうが。
私達の関係は膨らみ続ける風船のような物だ。何処かから刺激が加わったり、少し空気を入れすぎるとすぐに割れてしまう。そして二度と元には戻らない。
だが、私は二人の意見どちらにも偏らない、完璧な答えを既に用意していた。
「う〜ん。確かにあの子も顔は良いかもしれないけど。やっぱり菅野君には誰も敵わないからな〜」
「あ、出たよ。本当に美波、菅野君好きだよね」
「ほんと。何かあれば菅野菅野って、もう付き合っちゃえよ。美波ならいけるでしょ」
「どうやって付き合うのよ。無理に決まってるじゃん」
私は結衣の肩を軽く叩きながら笑みを浮かべた。
菅野とは、最近中高生の中で流行りの若手俳優、菅野正樹のことだ。
本当は対して好きでもなかったが、今のようなタイミングでよく〔菅野君〕にはお世話になっている。菅野君の登場によって、風船は割れずに済んでいるのだ。
「あ。こっちにきたわよ」
夏帆と結衣、それから冴えない男子三人組も、慌てて自分の席に戻る。説教をくらい終えた伊勢谷君が、教室へ向かって来ていたのだ。
しばらくして扉がガラリと開き、伊勢谷君が教室に入ってきた。スタスタと自席に向かっていく。伊勢谷君の席は、一番廊下側の列の後ろから三番目。私の前の席だ。ちなみに、私の横は結衣で、後ろが夏帆。
「おはよう」
自席まで足を運んで、椅子を引いた伊勢谷君に私は挨拶をした。伊勢谷君は少し驚いたようにこちらに顔を向けたが、挨拶は返さず首をコクリと下げただけだった。
トントンと指で背中を叩かれた感覚がある。何を言われるか、何をしようとしているのか、だいたい察しの着いていた私は気付かないフリをしたかったが、ニヤニヤしたような、ワクワクしたような笑みを作ってから振り返った。
振り替えると、やはり同じような顔をした夏帆と結衣が身を寄せ合っていた。
「見た!?美波が挨拶してやったのに、なんなのあの態度」
「本当よね。一言挨拶を返すくらい、なんで出来ないんだよ」
女という生き物はなぜヒソヒソ話や内緒話が出来ないのだろう。
この距離ではいくら小声で話そうと伊勢谷君に聞こえている筈だ。「わざと聞こえるように言っているのよ」というがそれなら、はなからヒソヒソ話を装う必要がどこにあるのか。女としてこの世に生まれて、女として生きてきた私にとって、物心ついた時からの疑問だった。ヒソヒソ装い話はまだ続く。
「ねえねえ。夏帆。伊勢谷に聞いてみてよ」
「え!?なんで私が!!」
「だってあんたちょっと気になっているんでしょ?」
「いや。髪型変えたら…ってちょっと思っただけで、気になってなんかいないよ。ねえ、美波。ちょっと聞いてみてくれる?」
夏帆と結衣が子犬のような目で私を見つめる。
例えば、カラオケのドリンクバーや研究や観察が必要な課題など。面倒だけど行わなければいけない、行いたい物事を、二人は私に押し付けてくる傾向がある。今回もその分析は当たっていた。
「いいよ。聞いてくるね」
私は満面な笑みで答えると席を立った。「流石、美波」「ありがとう」とわざとらしく囃し立てる二人の声を後ろ手に聞きながら、まだ空いている伊勢谷君の前の席に腰を下ろした。伊勢谷君の机に両腕をつけ、顔を覗き込むような態勢になる。
何やら小説を読んでいた伊勢谷君は、露骨に怪訝そうな顔を私に向けた。私は「ごめんね」と言って顔の前で手を合わせる。そしてそのまま続けた。
「その髪型。かっこいいね。誰かの真似しているの?」
私の問いに伊勢谷君は答えず。小説に目線を戻す。
夏帆と結衣が「もっと聞いて」という意味を込めて、目の前の蚊を追い払うような動作で手を動かしている。
「転校してきたばかりで、この学校校則を知らないんだよね?」
「……」
「毎日渡辺に説教されているんでしょ?面倒くさくない?」
「……」
「もう転校して来て三日目なんだし、そろそろオールバック辞めた方がいいんじゃない?」
「……」
キンコーンカーンコーン。
「おはよう。美波。そこ俺の席だぞ。どいたどいた」
朝チャイムと同じタイミングで、朝練を終えたサッカー部の西田が教室に入って来た。「ごめんごめん」と言って私は席を立った。
「いや、全然いいんだけどな。ほら。チャイムなってるから」
満更嫌でもないといった西田の心が表情に出てしまっている。男は女に比べれば、何倍も簡単だ。
席を立った私は、自分の席へ向かって歩き出した。
「俺は…」
ちょうど、伊勢谷君の隣を通り過ぎようとした時だった。
「オールバックを辞めない」
他の生徒の誰にも、西田にも聞こえていないだろうが、私の耳には小声だがハッキリと、伊勢谷君がそう言うのが聞こえた。席に着いてから、伊勢谷君にそのことについて尋ねよとしたが、担任が教室に姿を表し、ホームルームが始まったので、尋ねることは出来なかった。
2
私は中学生の頃、いじめられっ子だった。
私は幼い頃から一人でいることが好きだった。独りが好きなのではない。一人が好きだったのだ。人と関わることが嫌という訳でもない。勿論、友達が一人もいなければ寂しい。だが、自分が話したい、仲良くしたいと思った人間以外とは、関わりたくないというのが幼い頃からの私の考えだった。
幼稚園、小学生の頃は〔関わりたい〕と思う人間がそれなりにいたから、それなりに周囲に馴染んでやっていけていた。しかし、親の仕事の都合で福岡から東京の中学校へ入学してからは〔関わりたい〕と思う人間がいなかった。だから私はその思いのままに、学校生活を過ごしていた。
だが、学校という世界は独りぼっちな人間は生きていきづらい。周囲から憐みや奇怪な生き物でもあるかのような目を向けられる。周囲から見れば、好んで一人でいる人間も、独りぼっちな人間も、同じように見えるのだろう。
キッカケはクラスで人気者だった男子が、ある日私に告白してきたことだと思う。
私は何も話さなくても異性から恋愛対象で見られることが多かった。その男子に好意を寄せていたのであろうクラスメイトの女子が私に目を付けてきた。
何も話さないのは言語障害があるだとか、大人しく見えて裏では不純異性行為をしているだとか。私が福岡からきたことが何処かから漏れると、東京の人間のことを見下して口を聞かないだとか。根も葉もない噂を立てられあっという間にそれは広がった。
噂を立てられたり、裏で陰口を言われるくらいなら、小学生の頃でも多少なりともあって、私には気にならなかったし、関わろうとして来ないだけ有り難かった。
だが、中学では違った。嫉妬ややっかみから発生した噂は、うねりを上げるように私への精神的口撃や肉体的攻撃へと形を変えた。
トイレで水をかけられたり、机に心無い言葉を書かれたり。およそいじめと言われて想像できる行為は一通り受けたと思う。
私はただ、一人が好きだっただけなのに。
学校という世界では〔一人〕でいては生きていけない。そう悟った私は、自分を変える決断をした。
学校にはカーストという暗黙の階級がある。下の者は上の者から見下されているが、下の者は下の者同士で傷を舐め合って上手く生きていっている。学校という世界ではこのカーストの何処かに属する必要がある。
どうせ一人で生きていくことが許されない世界ならば、カーストのテッペンに登ってやろうと決めた私は、どうしたらその目標が達成できるか、観察し、実践した。
男は単純だ。親から授かった持って生まれた物が大きいだろうが、さりげないボディタッチと柔和な笑顔でこちらから積極的に話しかければ、大抵の男とは仲良くなれたし、好きにもさせることも出来た。
しかし、女はそう簡単にはいかない。まずは身なりを整えることから始まる。雑誌を読み漁って化粧を覚え、ポーチには流行りのコスメなどを常に入れておく。ファッションも勉強し、首元にはさりげなくブランドのネックレスをつけた。ドラマやSNSなどを見て人気の俳優をチェックし、さらにその俳優の色恋沙汰の最新情報なども、普段の会話に盛り込ませる。
本来の私は、一人で小説や漫画を読むことが大好きだったが、その時間も、本を買うためのバイト代やお小遣いも、全てカーストのテッペンに立つために消えていった。
その努力の甲斐あって、高校生になるとあっという間に今の地位を手に入れた。
だが、外見や言動などはいくらでも変えられるが、本心というものは簡単に変えられる物ではない。高校にも私が〔関わりたい〕と思う人間はいなかった。
いつも一緒にいる夏帆と結衣も同じだ。せっかく手に入れた今の地位を守るために親友を演じている。
そんな〔大親友〕の夏帆と結衣の二人から、委員会だか何だかで、放課後残ることになると言われたのは昼休みのことだった。
帰りのホームルームが終わり、久しぶりの一人での帰路に解放された気持ちで帰りの準備をして、のんびりと教室を出た。
いつもなら学校帰りには毎日のように飽きもせず、カラオケやショッピングモールへ寄って帰るが、今日はそれもない。時間を持て余しそうだと感じた私は、久しぶりに家で小説を読もうと決めて、帰る前に図書室へ寄ることにした。
校舎の一階に図書室はある。階段を一番下まで降りて、奥にある図書室へ向かう廊下を歩いていると、途中にある視聴覚室から声が聞こえて立ち止まった。
開きっぱなしの扉からコッソリ顔だけを出して中を覗き込むと、私達のクラスの担任で、気が弱くなよなよとした吉田と、伊勢谷君が二人で机を挟んで椅子に座っていた。伊勢谷君も帰ろうとしていたところを捕まったのだろうか。鞄を足元に置いていた。
私は気になって聞き耳を立ててみることにした。
「あの……。あのね、伊勢谷君。髪型を変えられないのには、何か深い事情があるのかな?」
吉田が恐る恐るといったようすで伊勢谷君に尋ねる。伊勢谷君は机に視線を向けたままなんの反応も示さない。
「いや。ご、ごめんね。深い事情があるなら、僕みたいな先生なんかに話せないよね。でも、その……。一応担任だから。何か事情があるなら、他の先生達に話してみようと思っているんだ」
「……」
「でもね、でももし、事情がないなら、その髪型を辞めてくれないかな……?」
「俺は……!」
さっきまでなんの反応も示さなかった伊勢谷君が立ち上がった。ガタンと音を立てて椅子が仰向けに倒れた。吉田は暴力でも振るわれると思ったのか、ヒイと声を上げて顔を手で隠した。
「オールバックを、辞めない」
足元に持っていた鞄を持って、伊勢谷君は扉の方へ向かって来た。
咄嗟の出来事に、どこかへ隠れないとと思ったが勿論間に合わず、視聴覚室から出て来た伊勢谷君とぶつかりそうになった。伊勢谷君は目を丸くしている。
「ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけど……」
私の弁解を聞こうとせず、私を避けて足早に校舎を出ていった。
「ああ。怖かった。あいつ見た目がいかついんだよな〜。なんでよりによって僕のクラスに変な奴が転校してくるんだよ」
さっきまでと違って饒舌に独り言をいう吉田が、視聴覚室から出てきたところで私に気が付いて、うわあと声を上げた。盗み食いが母親にバレた子供のようだ。
「い、いいいい、い、いつからいたの?こ、こんなところで何してるの!」
「あ、えーっと。先生にちょっと、用事があって」
私は頭を回転させて、あるはずのない〔用事〕を必死に作り出した。
図書室で好きな作家の小説を借りて、帰路の電車の中にいた。
私の頭の中は、借りたばかりの好きな作家の小説より、何故かあのオールバックの伊勢谷君のことでいっぱいだった。
この感覚は小学生以来。久しぶりだ。
久しぶり過ぎてまだ確実には言えなかったが、私は伊勢谷君と〔関わりたい〕と思っているのかもしれない。
3
「オールバックを、辞めないいいいいいい!!!!」
「テメエ。待ちなさいよ。コラアアアアアアアア」
廊下から断末魔のような声が聞こえた。
教室の窓から覗くと、鬼のような形相をした渡辺と、渡辺から逃げる伊勢谷君の姿があった。二人は物凄い速さで教室の方へ近付いてきたかと思うと、あっという間に通り過ぎていった。
「ちょっと、何あれ。行ってみようよ」
夏帆が気になる映画でも見つけたかのように言うと、結衣と私の三人は教室を飛び出した。普段の私なら、めんどくさいという感情を隠して、いかにも興味津々といった表情を作ってから二人と行動しているだろうが、今回ばかりは私も乗り気だった。
二人はドタバタと音を立てながら、廊下を曲がって階段を駆け上がっていた。
私達は追い掛けた。後ろからあの冴えない三人組もついて来ていた。
廊下の突き当たりに来ると、右に曲がって階段を登る。二階と三階の踊り場で、下級生と思しき学生とぶつかりそうになる。「ごめんね〜」と結衣が言う。下級生達の舌打ちを聞きながら私達は止まらずに走る。
三階から四階へ上がる踊り場で、屋上に入っていく、二人の姿が見えた。
「屋上へ行ったよ。あの二人、どんだけ早いの」
夏帆が息を切らしながら声を振り絞っている。「いこう」と私が言って、三人はまた走り出した。
走ってきた勢いのままに扉を開けて、屋上に出た。
屋上の隅に追い詰められ、万事休すといった表情の伊勢谷君と、ゴールキーパーのように腕を広げて伊勢谷君を逃さんとする渡辺といった構図だ。攻め手は渡辺のほうだが。
「さあ。もう観念しろ。じっくり話をするだけだ。とって食いやしない」
ハアハアと息を切らしながら絞り出すように渡辺は言葉を発した。汗をかいた坊頭を雲一つない青空が照らしている。
渡辺がジリジリと距離を詰めていく。伊勢谷君はとうとう柵の隅にまで追いやられた。逃げ場はない。すると何を思ったのか、伊勢谷君が柵に足をかけた。
「おおおおおい。辞めなさいよ」
渡辺が慌てて声を出す。結衣と夏帆も「きゃあ」と声を上げた。いつの間にか私達の後ろにいた冴えない三人組も「うおおお」と声を上げる。
ここは四階建ての校舎の屋上。落ちたらひとたまりもない。
「おい、早まるな伊勢谷。落ち着け。一先ず、足を下ろすんだ」
渡辺に言われ伊勢谷君は足を下ろした。その場にいた皆が安堵の溜息を吐く。
渡辺が安堵のあまり、腰を曲げて膝で体を支える姿勢になる。それを見た伊勢谷君は、また柵に足をかける。渡辺が体を起こして「おい」と焦る。伊勢谷君は足を下ろす。渡辺が安堵すると、また足に柵をかける。渡辺が焦る。伊勢谷君の表情は大して変わらないが、渡辺の反応を見て薄く笑っているのが分かる。どうやらおちょくっているようだ。何度かそのやりとりを繰り返して、自分がおちょくられているという事実に渡辺も気が付いたのだろう。「いい加減にしろよ」痺れを切らした渡辺が伊勢谷君に飛びかかった。
渡辺の渾身のタックルを、伊勢谷君はマントも使わず、闘牛士のようにひらりとかわした。お寺で叩く鐘のような、渡辺の頭と柵のぶつかる音が屋上に響いた。
チャンスとばかりに伊勢谷君はこちらへ向かって走り出した。私達はさっと体を避ける。伊勢谷君は屋内への出入り口の扉を勢いよく開けて振り返った。
「俺は!オールバックを辞めない」
バタリ音を立てて扉が閉まると、扉の奥から階段をドタドタと駆け下りる音が聞こえた。
「なんだったんだろうね、あれ」
「なんだか分からないけど、凄かったよな」
夏帆と結衣と私。それから冴えない三人組はさっき見た、渡辺と伊勢谷君との一騎討ちについて話しながら、教室に戻るため、階段を降りていた。冴えない三人組は私達と話をしていることが余程嬉しいのだろう。終始声がうわっずっている。
伊勢谷君が屋上を出た後。頭を打って天を仰いでいる渡辺に「大丈夫ですか」と声をかけたが「もうすぐ授業が始まるのに何をしているんだ」と怒られたので手を貸さずに放置してやることにした。
教室に戻ると、伊勢谷君は自席に座り、何事もなかったかのように小説を読んでいた。
4
「ごめん。私、財布忘れちゃった。先に行ってて」
「もう何してるのよ美波。分かった。いつもの席とっておくね」
四限目終了のチャイムがなり、食堂へ向かう途中だった。
私達、というよりはこの学校の生徒はほとんど、食堂へ行く人は勿論、弁当を持ってきている人達も大半が教室を出て昼食をとる。この学校の学校の暗黙のルールのようなものがあった。
私が財布を忘れたというのはもちろん、嘘だ。暗黙のルールがあるにも関わらず、伊勢谷君は一人教室で食事をしていることを知っていた私は、話がしたいと思って、教室に戻る口実のために財布を忘れたフリをしたのだ。
幼ない頃の遠足の前日のようにワクワクしているのを感じた。足早に教室への道のりを戻る。階段を登って廊下を曲がり、教室の前へ辿り着いた時だった。
「俺はオールバックを辞めないい〜」
教室の中から、語尾にビブラートを聞かせた伊勢谷君の決まり文句が聞こえてきた。しかし、声が伊勢谷君のものとは違っていた。
黒板側の扉からバレないように教室の中を覗き込む。冴えない三人組が、自席で小説を読む伊勢谷君を取り囲んでいた。一人は私の席に座りもう一人は結衣の席に。もう一人は西田の席に座っている。
「ははは。似てるじゃん伊藤」
「そうだろ。モノマネグランプリにでも出ようかな」
素人のモノマネを見て誰にウケるのか分からないが、西田の席に座る伊藤と呼ばれた冴えない君は、結衣の席に座る冴えない君の言葉に、満足気に笑った。
「てかさ。お前、その髪型がカッコいいと思ってんの?」
伊藤と呼ばれた冴えない君が、小説を読む伊勢谷君を覗き込むようにして睨み付ける。伊勢谷君は小説の位置をズラして構わず読み続ける。
「おい。聞けよお前。あんまり調子に乗ってると痛い目に合わすぞ」
その態度に腹を立てたのか、結衣の席に座っていた冴えない君が、立ち上がって凄んだ。私の席に座っている冴えない君が、伊勢谷君の椅子を引っ張る。伊勢谷君は大勢を崩したが、椅子を直して再び小説を読み始める。
「いい加減にしろよ!」
結衣の席に座る冴えない君が、怒鳴り声を上げて伊勢谷君の読んでいた小説を奪い取って、教室の反対側へ放り投げた。
流石にやりすぎだと私は止めに入ろうとしたが、伊勢谷君は何食わぬ顔で、机の中に手を入れると別の小説を取り出し、途中からページを開いて読み始めた。あまりに素っ頓狂な行動に思わず私は吹き出しそうになる。だが、冴えない三人組の怒りを更に買うだろう。
「お前。俺たちのこと馬鹿にしてるだろ」
私の思った通り、結衣の席に座っていた冴えない君は、さらに怒りを露わにして、新しく読み始めた小説も投げ飛ばし、伊勢谷君の髪の毛を鷲掴みにした。
「おい。伊藤。こいつの髪切ってやろうぜ」
予めこうする算段だったのだろう。伊藤と呼ばれた冴えない君はポケットからハサミを取り出し、伊勢谷君の髪にハサミを入れようとした。
すると、伊勢谷君は机を力一杯押し、結衣の席に座っていた冴えない君を突き飛ばした。一瞬の出来事だった。ハサミを持った伊藤と呼ばれた冴えない君は足を強打し、突き飛ばされた冴えない君は、ガタンと音を立てて床に尻餅を着いた。
「俺はオールバックを辞めない!!!」
「いてえなあ」
突き飛ばされた結衣の席に座る冴えない君が伊勢谷君に掴みかかる。伊勢谷君が応戦する。伊藤と呼ばれた冴えない君は打った足を押さえて悶絶している。私の席に座る冴えない君は二人の勢いに圧倒されて、あわあわとしている。
そろそろ止めに入ろうと決めた私は扉を開けて教室へと入った。
「ちょっと。何してるのあんたたち。先生呼ぶよ!」
伊勢谷君と取っ組み合いをしていた冴えない君は咄嗟に手を離す。冴えない三人組は悪事がバレた幼児のように急にしおらしくなる。
「い、いや、違うんだ。美波さん。これはこいつが……」
「気安く下の名前で呼ぶな。それと何勝手に私の席に座ってんのよ。汚い。痔が写る」
私の席に座っていた冴えない君は私の暴言に泣きそうな表情になった。私は自分の席まで移動し、鞄から財布を取り出す仕草をしてから、教室の反対側の扉へと向かった。
「あんたたちさ。西田とか岡本がいない時に限ってそうやって調子乗って弱いもの苛めして。プライドとかないの?ほんっと気持ち悪い」
そう言って私はわざと大きな音を立てて扉を閉めた。冴えない三人組がビクリと肩を震わせたのを確認した。岡本とは、西田の親友であり、クラスのヒエラルキーのトップに位置する野球部のエースのことだ。
岡本と西田の名前を出した上に、あれだけ自尊心を傷付けるような辛辣な言葉を吐いたら、あれ以上伊勢谷君に絡むようなことはしないだろう。冴えない三人組のようなヒエラルキーに位置する者達は、上の者に取り入りたいと考えている。自分達の悪事が、上の者に漏れないかと今頃不安で一杯だろう。もちろん私はそんなことをするつもりはないが。
私は冴えない三人組がずっと嫌いだった。
三人組がよってたかって、下の者に悪事を働いていた姿を見たのは、これが初めてではなかったのだ。
大した努力もしようともせず、上のには媚び諂って、自分達の地位を更に落とさないために、下の者には伊勢谷君にしていたように、徒党を組んで嫌がらせや攻撃をする。そんな態度が以前から気に食わなかったのだ。
いまだに名前を覚えていないのもそのためだ。
ヒエラルキーのトップに行きたいなら私のように努力をすればいいのだ。それが出来ないなら他の者ように、立場を甘んじて生きていくべきだ。
せっかくの伊勢谷君と話すチャンスも冴えない三人組のせいで逃してしまった。
私は腹立たしい感情を必死に押さえて、遅れてしまった理由を考えながら、結衣と夏帆の待つ、食堂へと向かった。
5
次の日の昼休み。いつもならチャイムと同時に机にお昼ご飯を広げる伊勢谷君が、お昼を持って、任務の最中の忍びのように、教室から出て行っていた。
昨日のことで教室にいづらくなったのだろうか。どこへ行くのか私は気になっていた。
「美波。食堂行くよ〜」
「ごめん。夏帆、結衣。ちょっと調子悪くて。保健室行ってくる」
私は咄嗟に嘘をついた。
ついて行こうか?と心配してくれる二人に、大丈夫だからと言って教室を出た。
伊勢谷君の思考が読める訳ではなかったが、どこにいくのか、なんとなく目星はついていた。
今まで一人で食事をしていたのだから、わざわざ食堂や中庭は選ばないだろう。昔の私なら学校という場所で一人になりたい時はトイレを選んでいた。もしトイレなら私が入れる訳もなく、諦めるしかないが、食事をするのだからトイレではない別の場所ではないかと推測する。
転校して間もない伊勢谷君は、校舎全てにまだ足を運んではいないだろうから、伊勢谷君がこれまで足を運んだ中で、一番一人になれそうな場所。昔の私なら、屋上を選ぶ。
その推測はおおかた当たっていた。正確には屋上ではなく、屋上に向かうための扉がある踊り場だったが。扉の前の段差に腰掛けて、小説を片手にパンを食べていた。突然現れた私の姿に、伊勢谷君は咥えていたパンを喉の詰まらせそうになったのか、咳き込んでいた。
屋上にいると思い込んでいた私も、扉の前で一呼吸置いて、頭の整理をしてから伊勢谷君と対面するつもりでいたから、軽くパニックになって言葉がなかなか出ずにいた。ランニングをしている時のように鼓動が早くなっているのを感じる。
伊勢谷君は持っていたカフェオレで、食道に停滞していたパンを胃へ押し込むと、右手に小説を開きながら、続きのパンをは食べ始めた。私は言葉を見つけた。
「その小説。いつも読んでいるよね。誰の何て作品?」
伊勢谷君は小説に目を落としたままで反応しない。
「昨日はあの後、大丈夫だった?お昼休み。冴え…三人組に囲まれてたよね?それでここで食べてるの?」
「……」
「というか、小説二冊同時に読んでるの?昨日ちょっと見ちゃってたんだよね」
「……」
何も反応しない伊勢谷君に私は次の行動に出た。
伊勢谷君の隣に腰を掛けて近付く。何か特別なことをしようとしたわけではない。物理的に距離を縮めて話をしようとしただけだ。しかし、伊勢谷君は不快に思ったのか、距離を空けて壁際まで移動してしまった。
プライドが高いと自分で思ったことはない。ただ、実績を積み上げてきたことによる自信があっただけだ。まるでバイ菌のように扱われたと感じた私は酷く自尊心を傷付けられた気持ちになった。今まで私が近付いて、距離をとった人間などいなかった。
だが、そんな伊勢谷君の行動を見て私は悟った。やはり伊勢谷君は昔の私なのだ。
一人でいたいと考える人間にとっては、どちらも同じなのだ。
差し伸べられた手も、殴りかかろうとする手も。好意も、悪意も。私も、冴えない三人組も。一人でいたいと考えている人間にとってはどちらも〔邪魔者〕でしかないのだ。誰とも関わりたくないと考えているのだから。昔の私もそうだった。伊勢谷君もそうなのだろう。
でも、だったら尚更。早く教えてあげないとという気持ちに私は駆られた。コーナーに追い込んだボクサーさながら、壁際に移動した伊勢谷君に私は詰め寄った。
「聞いて、伊勢谷君。貴方は一人で生きていきたいのかもしれないけど、この学校という世界で、それは無理なのよ。一人でいるといつか迫害を受けるの。私も昔はそうだったの。貴方みたいに、一人で生きて生きたいと思ってた。一人が好きだったの。でもそれをこの世界は許さなかったわ。私は酷いいじめを受けた。貴方もこのままだとそうなる」
伊勢谷君は小説に目を落としたままだが、耳はこちらに傾けている気がした。私は続ける。
「そうならないためには、カーストのどこかに属する必要があるの。貴方の前の学校にもあったでしょ?階級によって待遇は違うだろうけど。どこかに居場所を確立すれば、迫害は受けなくて済むし、仲間がきっと出来るから。属する方法は……。まあ、いろいろあると思う」
全てを話してしまうと伊勢谷君のためにならないのではないかと思った私はそこで話を辞めることにした。「だから、頑張ってね」それだけ言って、教室へ戻ろうと立ち上がって階段へ向かった。そしてひとつだけ重要なことを思い出して振り返った。
「そうそう、その髪型。かっこいいし、気に入っているのかもしれないけど、辞めた方がいいと思うよ。目立つし、目を付けられるから」
私は皮肉の意味でかっこいいという言葉を使った。前を向いて階段を降りる。言えることは言った。伊勢谷君が私のような目に遭わなければいいという思いは本心だが、もうこれ以上干渉するのは辞めておこうと思った。
「俺は……!」
階段の中腹まで降りたところで、声がして振り返る。
「オールバックは、辞めない!」
小説に視線を落としたまま、伊勢谷君が細い声でそう言った
私はなんだか、腹の底から黒い感情が湧いてくるのを感じた。
6
「先生はなんで、伊勢谷君のこの髪型を認めているんですか?」
授業後のホームルームの時間。私は席を立って、担任に向かって発言した。「ちょっとどうしたの?」と夏帆と結衣が見つめてくるが、私は構わず続ける。
「伊勢谷君のこの髪型、校則違反ですよね?最初は校則が分からなかったとしても、もうすぐ転校してきてから一週間経ちます。なんで学校側は本気で辞めさせようとしないんですか?」
伊勢谷君のことをホームルームで話題にしたのは、せっかくの私の言葉が何も響かない伊勢谷君に対して腹が立っていたのもそうだが、結局は、一度痛い目を見た方がいいと思ったからだ。
私の立場の人間が、大ぴらに話題に出すとどうなるかは目に見えている。
「い、いや。僕たちも…。それなりに色々声を掛けてはいるんだけど…」
担任の吉田がおどおどと答える。突然意見を言い始めた私をめんどくさく思っているのは、吉田の態度から他のクラスメイトにも分かっただろう。
私は導火線に火を付けた。
「伊勢谷君のこの髪型を認めているんだったら、私達もどんな格好をしてきても良いってことですよね?」
私がそう言うと「そうだそうだ」「おかしいだろ」とクラスの面々が口々に抗議の声を上げ始めた。
一度火をつければ、後は勝手に燃える。私は椅子に腰を下ろしたが、クラスの抗議の声は次第にヒートアップする。吉田は目眩でも起こしたのか、フラフラしながら耳を塞いでいる。
やがて耐えきれなくなった吉田が、まるで他人事のように小説を読んでいた伊勢谷君の席に近付き、読んでいた小説を取り上げた。机の中から取り出した小説も取り上げる。
「小説なんか読んでないで周りを見てみろよ。お前のせいで、こうなるんだよ。なんで俺がこんな目に合わなきゃいけないんだよ。オーーールバックを辞めろーーー」
吉田から今まで聞いたことのない大声にクラスは一瞬鎮まった。すると今度は、吉田に向けていた抗議の声が伊勢谷君へと向けられる。「調子に乗るなよ」「かっこ悪いんだよ」「さっさと辞めろ」「この学校から出て行け」もはや誰の声かも分からないほどの声が飛んでいる。
「俺は!!!!!」
伊勢谷君は黙っていたがやがて全てのヤジを掻き消すような大声を上げた。そして立ち上がる。クラスの面々に視線を送る。何を考えているのか読めない表情だが、眼光はいやに鋭い。燃え盛っていた炎が一瞬にして完全に鎮火されていた。
そして、伊勢谷君の視線は、私のところで止まった。
「オールバックを辞めない!」
伊勢谷君は吉田の手から小説を奪い返して鞄にしまうと、教室を飛び出していった。
7
次の日からクラスメイト達の伊勢谷君への当たりが強くなった。
先生達の対応も強化され、毎日反省文を書かされている。しかし、それでも、伊勢谷君はオールバックを辞めない。
私は周りの待遇に納得がいっていなかった。
もっと過激で凄惨な思いを、私がしたような思いを、早くさせてあげるべきだと考えていた。無論、伊勢谷君に早く気付かせて上げるために他ならない。
伊勢谷君に対して皆が行っていたのは、グループ討議などの場面で仲間外れにするだとか、教師の都合で教室が変わったことを伝えないだとか、いじめとも言えないような幼稚な行いだった。
そんなものでは堪える訳がない。仲間外れにする行為などは、むしろ有り難く思われる可能性すらある。私は焦っていた。
あの冴えない三人組に伊勢谷君をまたけしかけるよう話をしたこともあったが、生意気にも断られた。とはいえ自ら率先してけしかける行為をする気はない。
思惑通りにいかない日々がダラダラと過ぎていく中で、ある日の昼休み。クラスメイトの穂花に声をかけられた。話があるから放課後中庭に来て欲しいとのことだった。
私は帰りのホームルームが終わると夏帆と結衣にその旨を伝え、中庭へと向かった。
穂花とは今までまともに会話したことがない。クラスでの穂花の様子を記憶を探って呼び起こしてみる。私とは反対側の窓際の席でいつも一人でいた。確か、食堂では別のクラスの生徒と食事をしているねと、夏帆と結衣と話した記憶がボンヤリとある。あまり興味がなくて印象には残っていなかったが、思い返してみればそうだ。
そういう意味では私や伊勢谷君と同じタイプなのかもしれないと思ったが、穂花が私に対して何の用があるのかについては検討もつかず、あれこれ考えている内に中庭に到着した。
穂花は中庭の中央。農業部の野菜などが植えられている菜園の前にある、古びた木の椅子に小さく腰掛けていく。
私は頬に両人差し指を当てて口角を上げる。よく分からない相手と話すときは笑顔が一番だ。
穂花の方に近付いていく。私に気が付いた穂花も、立ち上がってこちらに近付いて来た。
穂花は女性の平均身長と同じくらいある私よりも頭一つ分ほど小柄で、前髪が長く、目がほとんど隠れている。私は穂花の佇まいに何だか異様な雰囲気を感じていた。
「ごめんなさい。急に呼び出してしまって」
ごめんという割には悪びれている様子を感じられないが、私は笑顔を崩さない。
「大丈夫だよ。どうかしたの?」
「実は、いきなりなんだけど、美波さんに少しお願いがあって」
「お願い?何?」
「実は……」
穂花は体の前で指を小さく組んでモジモジしている。私はじれったくて、無理やり口を開かせたい気分になった。
「伊勢谷君に対するクラスのみんなの嫌がらせを辞めさせて欲しいの」
え……。
全く想像だにしなかった名前が出たので私はフリーズしてしまう。
「それと、先生達に、伊勢谷君のオールバックを認めさせてあげて欲しいの。美波さんなら、それが出来ると思って」
そんな私を他所に穂花は更に続けた。頭の中はクイズ番組さながらハテナマークでいっぱいだ。
「どういうこと?伊勢谷君と仲が良いの?」
「喋ったことなんてないよ」
尚更、訳が分からない。
「じゃあ何で?それに先生に認めさせるって。私にそんなこと出来ないよ」
「出来るよ。だって、美波さんはすごい人だもん」
凄い人?話せば話すほどはてなマークが頭の中に増えていった。さっきから穂花の心理が計り知れない。
「私、聞いちゃったんだ。屋上の前の踊り場で、伊勢谷君と美波さんが話しているところ」
私の頭の中のはてなマークが一つ取れた気がした。
「それに、気が付いていないと思うけど。私もその話を聞くまで全く気がつかなかったから……」
穂花の右口角が持ち上がった。今度は何を言い出すのかと私は身構える。
「私と美波さん。同じ中学だったんだよ。私は二年の時に転校したけど。美波さんは私のことに興味なかっただろうし、私も美波さんが変わり過ぎていて気がつかなかったの」
私の頭の中のはてなマークが全てびっくりマークに変わった。
声を失ったかのように言葉が出なかった。唖然とした。愕然とした。今すぐに逃げ出したいような衝動に駆られた。聞かなかったことにしたかった。
カーストのトップに立つためには、虐められていたという過去は邪魔になる。そう考えた私は親に頼み込み、必死に勉強し、都外の高校を受験して合格し、今の学校に通い始めた。
その判断は正しくて、上手くいっていた。上手くいっている筈だった。この女の登場によってこれまで積み上げて来た私の全てが壊される可能性が出てきた。
流石に私は、笑顔を作り続けることが出来なかった。
「で、何?私の過去をバラすぞって、脅したいの?」
自分でも驚く程低い声が出た。そんなこと出来はしないが、心情的には、今すぐ穂花の首を絞めたいような気持ちだった。少なくとも、何か弱みを握れないか。必死に頭を巡らせていた。
「そんなつもりじゃないよ。ただ、本当に心から凄いと思っただけなんだよ。実は中学の頃、私もいじめられてた。だから私は逃げた。親に頼んで、転校させて貰ったの。でも何も変わらなかった。転校した先でもいじめられたの。高校に入学して、初めて友達が出来て、そしたら何故か、いじめられなくなったんだけど」
それはカーストに属したからだと私には分かったが、声には出さなかった。
「だから私は、別人みたいに変わった美波さんを見て、心から凄いと思ったの。尊敬したんだよ。そして、美波さんなら伊勢谷君を助けられると思った。だからお願いしたの」
穂花の最後の言葉が引っ掛かった。
「助けたい…?貴方は伊勢谷君のことを助けたいと思っているの?」
「うん。そうだよ。だって、このままだと伊勢谷君に対する嫌がらせは、きっと酷くなるよ。誰かが助けてあげなきゃ」
「ちょっと待って。私も伊勢谷君を助けるために行動しているんだよ?」
穂花は、え。と小さく声を上げて虚を突かれたような顔になった。私は想いが口から溢れ出した。
「誰かに助けて貰おうなんて、そもそもそれが間違ってる。大間違いなんだよ。現状を変えたいなら自ら行動して、自ら周りの目を変えないといけないんだよ。それが出来なきゃ何も変わらない。貴方だって同じよ。だから私は敢えて、伊勢谷君に変わって欲しくて、敢えてクラスのみんなを焚きつけるように行動したの。貴方の言っていることはお門違いなんだよ」
「クラスのみんなが、伊勢谷君に嫌がらせをするように、わざと行動したってこと……」
「そう言ってるじゃん」
表情の見えない筈の穂花の顔が歪んでいくように感じた。そして、小刻みに肩を震わせ始めた。
「そんなのおかしいよ。絶対におかしい。美波さんは変わったせいで、大事なものが欠けてしまってるよ。思い出してよ。あの時の感情を。屈辱を。美波さんなら分かる筈だよ」
目は見えないけど、穂花の頬が濡れていた。声も震えている。
私は何も言葉を発することが出来なくなった。
しばしの沈黙が中庭を包む。燕だか雀だかのチュンと鳴く声と一緒に、穂花の小さく、強い声が、沈黙を壊した。
「私、知ってるんだよ。美波さんが、伊藤君と小林君と松村君に伊勢谷君のことをいじめるように言ってたことも。たまたま見ちゃったの」
伊藤、小林、松村。あの冴えない三人組の名前を私は初めて知った。
「明日の吉田先生が休みでしょ。終わりのホームルームは代わりに渡辺先生が来ると思うの。その時に、クラスのみんなと、渡辺先生のことを説得して。出来ないと、美波さんが中学の頃いじめられていたことも、伊藤君達に伊勢谷君をいじめるようにお願いしてたことも、全部バラすから。私に失うものなんてないから」
穂花は中庭から走り去っていった。
「オールバックを辞めない!!!」
校舎の何処かから伊勢谷君の叫ぶ声が聞こえた気がした。
学校から駅までの道のり。電車の中。電車から家までの道のり。家でお風呂に入っている時。ご飯を食べている時。布団に入った今でも、私の頭からは穂花に言われた言葉が離れなかった。「大事なものが欠けてしまっている」確かにその通りだ。
私は、私がした軽はずみで考え無しな行動を後悔し、恥じた。
私がいじめられていたことも、伊藤達に伊勢谷君をいじめるようにお願いしていたことも、もうバラされてもいい。
穂花に言われた言葉がきっかけではあるが、私は私の意思で、私がした愚かな行動の、ケジメを付けることに決めた。
8
「せっかくだから、お前達には特別に、今度のテストについて良いことを教えてやろうかな」
「先生。そんなことより、聞いて欲しい大事な話があります」
「国語教師が話すテストのについての話よりも大事な話があるのか」
帰りのホームルーム。私は立ち上がって渡辺の話を遮った。渡辺は普段から鬼と言われている顔を更に捻じ曲げ、不服そうだったが、私は構わず続けた。
「大事な話です。今、伊勢谷君にオールバックの件で、毎日反省文を書かせていると思います。それを辞めさせて上げてくれませんか?そして、伊勢谷君のオールバックを、学校として認めてあげてくれませんか」
渡辺もクラスの穂花以外のみんなも、驚いた顔で私を見つめてくるのが分かる。
「何言ってるんだ。この間吉田先生に、伊勢谷に対する学校側の態度を非難してきたのはお前だろ。反省文を書かせるようにしたのは、お前の意見も取り入れてのことだぞ。分かっているだろ?」
「はい。だからこそ、責任を感じています。私は間違っていました」
「間違っていた?」
「はい。そもそもオールバックがなぜダメなんですか。説明してもらえませんか?」
ある意味賭けだった。私は一度引火させて、火の消えた松明を、もう一度燃やそうとしている。上手く燃えてくれるかは分からない。火の粉は私に飛び掛かる恐れも大いにあった。
だけど、それでもいい。私はとっくに腹を括っている。
「何故って…」鬼は呆れたような表情に変わる。
「学校には校則というルールがある。そのルールに反しているからだ。学校とは、勉学を学ぶと同時に、社会に出る前に、社会のことを学ぶ場でもある。学校の単純なルールも守れないやつが、大人になって社会のルールを守れる訳がない。それが理由だ」
「じゃあ聞きます。渡辺先生はいつも車で通勤していますよね?車道を走る時には法定速度というものがあると思います。法定速度をどの道でも絶対に守っていると胸を張って言えますか?先生の車が、学校の正門側の道路を、猛スピードで校門に入っていくという話は、何度も聞いたことがあります」
「そ、それとこれとは…」
「まだあります。先生はタバコを吸いますよね。この学校には中庭に喫煙所があります。タバコは喫煙所で吸わなければいけません。だけど私は先生が体育館の裏でタバコを吸っているのを見かけたことがあります。そしてその吸殻は捨てに行くわけでもなく、いつも置きっぱなしにしていますよね?」
何か言葉を発しようとした渡辺を遮って続ける。
「まだあります。あと一つ。誰か、生徒手帳の十三ページを開いて見て」
この学校の生徒は、ブレザーの右胸ポケットに生徒手帳を入れる決まりになっている。クラスの皆は言われるがままに、一斉に生徒手帳を開いた。パラパラとページのめくる音が聞こえる。
「ごめん。結衣。そのページ、ちょっと読んでみてくれる?」
隣の席の結衣が、ページを開き終えたのを横目で確認した私は、結衣にお願いした。
急に話しかけられた結衣は当惑した様子だったが、読み見始めてくれた。
「(生徒心得、十三箇条。生徒の髪型について。男子生徒。本校の男子生徒は以下の三つの条件に沿った髪型であること。一。前髪は眉にかからない長さとする。ニ。襟足はブレザーの襟元にかからない長さとする。三。毛染めやパーマメントなど学生に相応しくない髪型をしない。)です」
「ありがとう結衣」私は席を移動し伊勢谷君の隣へ来た。そして伊勢谷君の方へ手を向けた。
「見てください。伊勢谷君の髪型のどこが校則違反なんですか?前髪は全くない。襟足もギリギリかかっていません。パーマでも染めてもいないし。この髪型のどこが校則違反なんですか。先生。教えてください」
鬼は壕を煮やしきった顔でこちらを睨み付けてくる。
「屁理屈を…。うるさいね。三つ目の(学生に相応しくない髪型)に入っているだろ」
「屁理屈じゃありません。三つ目は、パーマと毛染め以外の定義が曖昧です」
渡辺は言葉が出ない。私は更にたたみかける。
「法定速度違反や喫煙所外での喫煙。ルールを散々破っているいい歳をした大人が、なんのルールも破っていない、大人しい転校生に対して、罰を与えている現状です。おかしいですよね?自分でもおかしいと思わないの?伊勢谷君に謝るべきだよ。伊勢谷君の反省文を辞めさせて、伊勢谷君のオールバックを認めなさいよ」
渡辺が教卓を手で思い切り叩いた。バンッ。と大きな音が響く。
「教師に向かってなんだその口の聞き方は。そんなに教師のやることが気に入らないんだったらな。出て行きなさいよ。この教室からも学校からも」
会話になっていない。私の言葉を何も聞かず、言い返せず、熱くなって崩れた私の語尾の揚げ足をとる渡辺に、私は呆れた。
「わかりました。出ていきます」
私は席に戻り、机の中の教科書を鞄に詰め込み始めた。
「帰らなくていいと思う」
火の消えていた松明に、着火剤が塗られた。
その着火剤は意外にも、伊藤だった。伊藤は席から立ち上がっていた。
「さっきから聞いていると、美波さんは何も間違ったことを言っていないじゃないか。だから帰る必要はないよ。帰るとしたら先生の方だよ。何も言い返すことも出来ないんだから」
「そうだよな。美波は帰る必要ない。先生は伊勢谷に謝ってオールバックを認めるべきだ」
西田も立ち上がる。西田に続いて岡本も。結衣と夏帆も。小林と松村、穂花も立ち上がった。
松明にもう一度火がついた。
釣られるようにして、クラスの皆が立ち上がる。それぞれが渡辺に抗議の言葉を浴びせた。渡辺も応戦するように言葉を返していたが、数が違いすぎる。渡辺の声はあっという間に掻き消される。次第に、鬼の目にも涙が浮かんで来ていた。
「もういいわ。やってられないわよ」
渡辺がそう叫んで教壇をひっくり返して、扉から教室を出ていこうとした時だった。
「待って!」雨のような声が教室に轟いた。
その声の主は伊勢谷君だった。
あのセリフ以外で伊勢谷君の声を初めて聞いた私達は、渡辺も、動きを止めた。
伊勢谷君は立ち上がると教卓の方へ歩き出した。半分体が扉から出ていた渡辺を教室の中に入れ、扉を閉める。続いて倒れた教壇を起こすと、教壇の前に立った。
私達は偶然立ち寄った銀行で銀行強盗に襲われた客のように、ただ伊勢谷君の動きを見ているしかなかった。
「みんな、俺のためにありがとう。ちょっと話したいことがあるんだ。とりあえず座ってよ」
銀行強盗に銃で脅された客のように皆が席に座った。渡辺も床に体育座りしていた。
「何から話せばいいのかなんだけど…」
伊勢谷君は気恥ずかしそうなようすで頭を掻く。私は全身を耳にしたつもりで、耳を傾ける。
「オールバックを続ける理由について。色んな人に聞かれたよ。誰かに憧れているの?とか、こだわりがあるの?とか。でもそんなんじゃないんだ。俺はただ、俺という存在を認めて欲しかったんだ。自分を偽らずに生きる大切さをみんなに気が付いて欲しかったんだ」
伊勢谷君は教室全体を見渡し、一人一人に目を向けた。
「世の中には色んな人がいる。目が見えなかったり、耳が聞こえなかっいたり。このクラスでも一緒だ。明るい子がいれば暗い子もいる。運動できる子もいれば、勉強が出来る子もいる。人気者がいれば、人気がない子も。色んな人がいるんだ。でも本当は、そうやって感じている感覚って、自分だけの物なんだよ。誰かにとっては、山あり谷ありに見える道でも、誰かにとっては平らな道に見えたりもする。今のこの世界は、多種多様な価値観に溢れていて、人の数だけ正解や不正解があり、人の数だけ正義や悪も存在する。なのにこの世界の人達はよく大衆に騙される。多くの人が言っていること、行っていることこそが、正しいと判断してしまう。みんながそうだったように。だからこそ、みんなには、〔確固たる優しい自分〕という物を持っていて欲しいんだ。そして、もう一つ言いたいと。こんなにも価値観が溢れている世の中なんだ。誰かに合わせるというのはしんどいことだし、ある組織の中で自分を合わせたとしても、次の組織へ移ればまた外れてしまうことだって、往々にしてある。だから、人からどう思われたいかじゃなくて、自分がどうしたいいかで、自分の在り方を決めて欲しい。本当の自分を、大事にして欲しい。自分を貫き続けると、きっといつかは周りが認めてくれるから。みんなが俺を認めてくれたように。言いたかったのはそれだけ」
私は何故だか涙が溢れていた。涙が溢れて止まらなかった。
「あと最後に、何も悪いことをしていない俺に、反省文を書かせた渡辺先生にお願いがあるんだけど」
伊勢谷君は渡辺の方を向いて、ニッコリと笑う。渡辺は体育座りをしたままぼうっと伊勢谷君に視線を送っていた。
「明日は、このクラスのみんなが、本当の自分でいれられる空間にしてほしいんだ」
9
電車の車窓には、アニメに登場する男物の制服を着て、茶色のウィッグを被った美少年が写っていた。私だ。私が男装を始めたのはいつからだったか。私はBL作品が好きだ。小説も漫画も私の本棚には溢れんばかりのBLグッズが並べられている。今は好きな漫画の主人公のコスプレをしている。
これが本当の私だ。
小学生の低学年の頃からだっただろうか。BL世界に興味を持ち始めた頃から、リアルな世界に〔関わりたい〕と思う人間が極端に減ったのは。
ポケットに入れたスマホが震えたので取り出す。画面を見ると、母からだった。何度も着信が入っている。男装がバレないよう家を出るつもりだったが、玄関に腰掛けて、慣れない革靴を履くのに手間取っている時に見つかってしまった。
要らぬ心配はかけたくなかったが、説明するのも面倒だったので私スマホの電源を切った。家に帰ったらちゃんと全部話そう。
今は学校へ向かう電車に乗っている。周囲の人達からの視線を、有名人になったのではないかと思えるくらいに気分は高揚していた。
正門をくぐって教室へ向かう。電車の中では呑気に有名人になった気分でいたが、学校の敷地内に入ると急に緊張してきた。全身にうっすら汗を掻き始めているのが分かる。けど、ここまで来て引き返すという選択肢はない。私は力強く歩みを進めた。
「いやあ。やっぱこれ楽チンだわ」
教室の前に着いて、胸に手を当て呼吸を整え、いざ入ろうと扉に手をかけた時、いつもはチャイムギリギリに教室に来るはずの西田の声がして、思わず手を止めた。
「今日、西田やけに早いじゃん」
結衣の声がする。
「おう。いつも朝練の後、着替えるのに手間取っちゃうんだよ。でも今日はそのまま来たんだ。こんなにも時間が変わるなんて、自分でもビビったよ」
扉を開けず、そっと窓から中を覗く。
西田はサッカー部の練習着を着ている。夏帆は雑誌に出てきそうな上下にピンクを取り入れた派手な私服姿。いかにもモデルといった感じだ。結衣は見るからにお金持ちそうな上品なワンピース姿をしている。いつもよりお淑やかに見える。
教室の奥に目をやる。伊藤と松村と小林の三人組は渋谷系や原宿系といったチャラついた格好をしている。伊藤に関しては、俳優の菅野君を意識しているのが丸わかりだ。キャラと違いすぎていたが、いつもの制服姿よりはかっこよく見えた。
さらに後ろに目をやると、ゴスロリ姿の穂花がいた。これに関しては……。私と同じで覚悟を決めてきたのだろうと思った。
他のクラスメイトもみんなが、思い思いの格好をしている。
昨日、伊勢谷君の申し入れを受け入れた渡辺先生が、校長先生に頭を下げに行ったのだ。その結果、私達のクラスは今日一日だけ、それぞれが思い思いの格好で登校しても良いことになった。
私はそこで、本当の自分をさらけ出すことに決めた。伊勢谷君の言葉を信じて見ようという気になったのだ。
改めて扉に手をかけて思い切って勢い良く開いた。
視線が全て私に集まる。私は足早に席まで移動した。視線が私を追いかけてくる。
「美波…。その格好…」
「これが本当の私なの」
口に手を当てて目をまん丸にした結衣と夏帆にそう言った。
「美波…」
私の心臓は今にも破裂しそうなくらい、大きな音を立てている。
「めっちゃかっこいいよ…。え、私と付き合って!」
「これ(ランイズボウイ)の主人公と同じ格好でしょ。クオリティ高すぎ!」
私の心配をよそに、二人は好感を持ってくれた。西田も「男に惚れそうになるぜ」など軽口を叩いている。
私はこの時初めて、二人のことを親友だと思えた。そして気が付いた。私は最初から、この二人と親友になりたかったのだと。私はなんだか嬉しくて涙が出そうになりながら笑った。
ガラガラと扉が開く音がした。
「えええええええええええええええ」
扉から入って来た人物を見て西田は驚いていた。何事かと思って扉の方を見ると、私達も、クラスの他のみんなも、西田と同じような声を上げた。
教室に入って来たのは伊勢谷君だ。
しかし、あれだけこだわっていたオールバックの髪型が、今流行のマッシュスタイルになっていた。伊勢谷君は照れ臭そうに笑いながら席へと歩き出す。私は思わず尋ねる。
「どうしたの、その髪型?」
「これが、本当の俺だよ。毎朝セットするの面倒だったんだ」
はにかみながら言う伊勢谷君を見て、後ろの席の夏帆が「かっこいい」と呟くのが聞こえて、私は思わず笑ってしまった。
ガラガラと扉が開く音がした。
「おええええええええええええええ」
扉から入って来た人物を見て、西田が先ほどよりも大きな声を上げた。何事かと思って扉の方を見ると、クラスメイト全員が西田と同じような声を上げた。
教室に入って来たのは渡辺先生だ。
しかし、いつものジャージ姿ではない。豹柄のズボンに大きな虎の顔がプリントされたシャツ。あの鬼のような顔には厚いメイクが施されていた。
「先生どうしちゃったの?」
鬼虎に、勇猛果敢にも、質問したのは西田だ。
「うるさいわね。これが本当の私よ。貴方達だけ好きな格好するなんて、ずるいじゃないの」
別人と思われるかもしれないのでもう一度書こう。国語教師で生徒指導の、通称、鬼の渡辺先生だ。渡辺先生の感情が昂ると、口調が変わることに気が付いてはいたが、そういうことだったのか。私達は言葉を失った。笑ってていいのか、ダメなのか。どういうリアクションが正解なのかが分からない。
「でも、先生。全然似合ってないね」
伊勢谷君の言葉に、堪えきれなくなった数人が吹き出した。私はまだ堪えていた。
「もう。ひど〜い。先生、怒っちゃうわよ。背負い投げ〜」
生徒指導の鬼の渡辺先生のオネエ芸能人のモノマネに、私は笑いを堪えられなかった。堪えられる者はいなかった。モノマネをしたことで、これが鬼の渡辺先生の渾身のボケだと分かった。どこまでがそうなのかは分からないが。
私が笑っている。教室にいるみんなが笑っている。
いじめられている時も、カーストのトップに立ってからも、私は学校が楽しいなんて、一度も思ったことはなかった。だけど今は楽しいと感じている。
私が笑って、みんなも笑っている空間が、楽しいと感じている。
笑顔の花が咲く教室には、私がずっと躍起になっていた、カーストなんて、存在しない物のように思えてきた。伊勢谷君が昨日言っていたみたいに、私には見えていて、他の人には見えてすらいなくて、自分だけが感じる感覚だったのかもしれない。
これからはありのままに生きていくよ。そう言う意味を込めて、前の席に座る伊勢谷君にだけ聞こえるようにお礼の言葉を言った。
そんな私に、伊勢谷君は小さく右手を上げた。
ちなみに、身内の法事だか何かで学校を休んでいた、事情を知らない吉田先生は、この日の昼から学校へ来た。終わりのホームルームで教室に入った時。私達の姿を見て、慌てふためいて渡辺先生の元へ話をしにいくと、渡辺先生の姿を見て倒れてしまったらしい。笑
今の世の中だからこそ「優しい、確固たる自分」を強く持ちたいと、この作品を書いていて想いました。